『サツキ・ダブルスタンダード』


1.『ウルフガープソリッド・スティ』

『もしも、自分が負けた時、弱い自分の姿は誰にも見せない。同情するような奴がいたら地の果てまで追って倒す! 死んでも倒す!! ――殺姫初生 ・卒業文集より』

 藤原大連の手がかり探し死村と戦闘をした翌日。
 いつも通りに部活が終わった休日の正午、初生は一人プールに残り水面をゆらゆら漂っていた。
いつも通りというのは何となく落ち着くから好きだ。どこにでもあるようなこと、当たり前の日々や当たり前のことを殺姫初生は愛している。だから学校も好きだ。数学は苦手だがそれはそれ。そういう苦手なものがあることが普通っぽくてなんとなく好きだ。他にも部活終わりに水面を漂うのも好きだったりする。何も考えずただぼんやりと空を見上げながら水を体中で感じるのが気持ちいい。
 褐色の肌も、短い髪も、水着に包まれた薄い胸も、水の中になんて溶け込めない初生も分かっている。そこは自分の居場所じゃないことも。それでも初生はそこから見える景色が好きだった。
 身体を水の底にゆっくり沈めると水面の揺らめきがキラキラと輝いていた。それをぼんやりと眺めていると、頭の中に一三のことが浮かび上がって小さな胸がキュンとする。わけもないのに切なくなって手を伸ばせば、そのゆらめく影もすぐに消えてしまう。つかめるはずもない、そこは自分の居場所ではないのだから。
 漂いながら初生は一三が初音に頼んだ伝言を思い出していた。
『伝言、ああ、いや、何か言ってたんだけどさ、私の耳ってさ、あいつの言葉を自然と遮断するように出来てるんだよね、不思議なことに。何ていうか、最初から聞くつもりがないというか何と言うか、あれ、なんで姉貴、拳を鳴らして――』。
 初音が散々自分の身体を洗い回した後だったので拳が良い音色を奏でてくれた。
 そして正直に白状した。
 ――『hideout』と短い伝言を。
 それは家族に内緒で一緒にチームに組んでいた初生と一三の合言葉だった。
 嬉しかった。涙が出そうなほど。興奮して中々眠ることができないほどに。
 ――『hideout』。
 簡単に言えばそれは『お前に会いたい』という意味だ――そう考えた瞬間、初生は胸の奥が熱くなるのを感じた。言葉にはできないほど嬉しいしドキドキする。自分だって会いたい。心の底から思う。
 それなのに、それなのに、会いたいはずなのに初生は迷う。
 自分でも分かっている、会う勇気がないからだと。一三のことは信じている。
 だが一三に会ったとしても望んだような言葉ではなく、ただ仕事を降りろと言われたら――きっと一三と戦うことになってしまうだろう。死村と殺姫一族は和解しているとはいえ、元々は敵同士であり裏社会でしのぎを削るもの同士だ。死村一族の第六位に位置する実力でありプロの裏事師である一三が折れてくれることはきっとないだろう。
 初生はどうしたらいいのかを考えながら、水面に沈んでいく葉のように魚のように水の中で揺られてたゆたう。やはり輝きに向かって伸ばした手は届かず、ゆっくりと水面に顔を上げて新鮮な空気を吸い込む。酸素が肺を満たしてくれた直後――。
「初生」
 凛とした綺麗な声が初生を呼んだ。
「おおーい。そろそろ帰らないかね、初生。ど根性ガエルの再放送始まっちゃうよ?ぴょこん、ぴたん、ピスターチオってなもんよ」
 オールド世代から殴られそうな発言だった。ピスタチオではなくピッタンコだった気がしたが初生は突っ込むのやめた。
「アニメ再放送枠なんか見てないくせに。どうせ、またデートなんでしょ?」
 プールサイドから上がった初生が子犬のように身体を震わせる水を弾く。
「甘い。光源氏計画の一環としてアニメは既にチェックしているのだよ、初生君。ま、二人でべたべたしながらアニメ見るのもいいもんよ」
 なんで得意げに胸を張るのだろうか。無駄に大きいのもなんだか腹が立った。腹が立ったと言えば、昨夜、風呂に入った時にやたらと姉の身体を洗いたがった変態がいない。
「あれ?部長、初音は?一緒に帰るって言ってなかったけ?」
「ああ。軽音楽部のライブ練習で忙しいみたいよ、あいつ。マキシマム・ザ・モルモンだっけ?なんかやたらうるさい曲を演奏してたけど」
「なに、その無駄に宗教色が強そうなバンドは」
 それを言うならマキシマム・ザ・ホルモンだ。初生も良く聴いている骨太なロックバンドだ。四弦、六弦の音がとてつもなく格好よくて好きだ。初音のことだからまたギターに夢中になっているのだろう。
「なんか後輩の子も一緒だったからギターとか教えてるんじゃない?」
 双子の妹が後輩の女の子にちょっかいをだしてないと信じたい、殺姫初生、十五歳。
「じゃあ、二人で帰ろっか」
「おうよ、ちゃっちゃと帰ろうよ、初生。ピュアな愛が私を待っているのさ」
「愛ねぇ……」
 初生は『んー』と唸りながら、飛び込み台に置いておいたタオルで華奢な身体を拭いた。
「ねぇ、部長」
「ン?」
「もしさ、もしだけどさ、部長に好きな人がいてさ、争わないといけないことになったらどうする?」
「なんだい、その質問は。状況が全く分からないんですが」
 確かにと初生も思いながら更衣室へ歩き出すと、部長は頭の後ろで腕を組んで初生の後をトコトコ歩いてくる。どうにも詳しく説明することはできないのが問題だった。
「なんと言うか、家同士が仲悪いと言うのかな。会うのが怖いと言うか」
「ほっほうー」
 ニヤニヤとしながら部長が笑う。
「べ、別に私のことなんかじゃないからね!!」
 その言葉に部長は『はいはい』と答えて笑った。
「お父さんは許さんぞ、初生、お前は俺の用意した男と結婚するのだー、みたいな? あ、でもそれだと親との戦いに発展してしまうな」
 更衣室の簡素なドアを開けながら初生は苦笑いを浮かべる。
 初樹と一三の争い――多分、店は粉々になるだろうし、それだけで済まずどちらかの一族が滅ぶ。あんまり二人が話しているところを見たことはないが仲が悪いのかもしれない。
「話し合って解決とかできない状況なわけ?」
「話し合うか……」
「そ、話合う。好きならお互いに争うこともないんじゃね?」
「そ、そっか。そうだよね」
 うんうんと初生は何度も頷く。
「初生はさ、なんとなく話をしたいって思ってたんしょ?」
 カァーと初生の顔や、胸が熱くなった。自分でも内心思ってることをズバリと言われてしまうと恥ずかしい。
「う、うん……」
 初生が上目遣いに部長を見ながら頷くと、部長はその頭を『よしよし』となでる。部長に頭をなでられた時になんとなく一三もこうやってくれたことを思い出した。もちろん父親の初樹はそういうことをしたことなど一度もないが。
「てかさ、だったらアンタに必要なのは私の後押しなんかじゃないって。自信と勇気だよ」
「じ、自信……?」
 真っ赤な顔で初生が呟くと部長は『うむうむ』と頷いた。
「そうそう。アンタは強気と勝気がもっとうって奴じゃん?勇気出せって。もし困ったら私がアドバイスしてあげるから」
 確かに強気と勝気がもっとうだ。だが、しかし、恋愛や男性、特に一三に関することに至ってはそうも言えない自分がいたりする。
 初生はどうにも煮えきらず曖昧な返事を返すことしかできずため息を漏らす。
 その時だった――。
 ふと、初生は着替える動きを止めた――更衣室の外で足音がしたからだ。
 普段なら気にもかけないことだが、それが足音や衣擦れをほとんど消して歩いているならば別だ。なんでこのタイミングでと思いつつも、初生は耳を澄ませる。
 僅かな足音と歩幅から考えると成人男性、隠行法を習得しているか、どこかの組織で鍛えられた『こちら側』の人間だろう。
 校内に侵入してきた目的は分からないが初生や初音を狙っている可能性が極めて高い。
「ん?どったの」
「ううん、何でもない」
 そう答えながらも初生はできる限り気配を消し平静を装う。
 既に思考のスイッチは仕事モードに切り替わっていたが、校内に残っている文化部の生徒や部長のことが気になった。
 巻き込みたくはないが、もし、戦闘になることがあれば例えどんなことがあろうと、自分の身に何が起ころうと、部長や皆を護ってみせる――裏事師、殺姫初生は大切なものを傷つける者に容赦しない。
「でさ、初生はその人と会って何をどうしたいわけ?」
答えられるはずもなく。


2.

  その日もいつもと変わらない毎日が来て、いつもと同じように終っていくはずだった。特別なことも特になく、生徒達は必死で黒板の文字を追って、塾講師である自分は神経をすり減らし無事に一日を終えるはずだったのに――瀬田は眼前に聳えるそれを眺めながらそんなことを考えた。
 犬杉山町で唯一の古ぼけた無人駅から徒歩で十五分、町内のゴミゴミとした小家がちの町並みの中に突如として出現する静謐な別天地が現れる。静かにさざ波立つアールデコ風の噴水や、圧倒的な存在感を持ったレンガ建築、犬杉山という田舎町では時々そういった建築物が見受けられる。アメリカのブレインハイブリッドタワーを模した犬杉山ランドマークタワーやアップルトン水道塔を模した犬杉山水道塔など、犬杉山という町には様々な哲学や文化だけでなく建築物も混在している。
 犬杉山中学校もそういった哲学を持った建築物の一つだった。
 町中に突如現れた校舎は、まるでイギリスのランドマークトラスト財団が古くなった文化財を修復し手を入れたかのようでもあり、古びた外装は忘れられた物でなく生きた建築物の持った独特の生活感と空気を帯びている。
「ここか――」
 校門の前でそんなことを呟きながら、眼鏡のブリッジに人差し指を当てずれを直した。それは知的な印象よりも高圧的なイメージを人に与える仕草であり、もしかしたら教え子達の中には怖がっていた者もいたかもしれない。
 それは今に始まったことでもなく、瀬田連次郎が予備校講師という職業に就いてから数年経つ。長く濃い数年間だった。
 この犬杉山中学校に来る前、誰も居ない教室の教壇に立ち、生徒一人一人のことを思い浮かべてきた。
 連次郎は自分の仕事に誇りと価値を見出し、毎日、毎日、チョークを握り、英文を黒板に書きつづけてきた。教壇に立っただけで今まで出会ってきた生徒達の顔が思い出された。誰一人として忘れてなどいない。それが例え、どんなおちこぼれだろうとだ。信念と誇りを持って生徒と関わってきたこの数年間は瀬田に取って何物にも換えがたい宝物だった。
 だが、その日々も今、終わろうとしている――。
 王李が死んだ――その連絡はすぐに同じ組織の構成員である瀬田の元に届いた。
 瀬田連次郎、本名は李小狼(リー・シャオラン)、日本で昔流行ったアニメキャラクターと同じ名前だと聞いたことがありこちらの名前を名乗った方が生徒受けは良かったかもしれない。当然、聞いた者は殺さねばならない為、名乗ることはなかった。
 表では教師、中国黒社会では暗殺を専門に扱っている裏事師、小狼に裏と表があるように世界には表と裏がある。
 安穏と淡々と過ぎる平和な世界、その反対に位置する異形、異能と血、殺戮の世界。表の世界で覇権争いがあれば、その裏では依頼を受けたものが裏仕事を行うように、その二つの世界が複雑に絡み合い癒着し今の世界は成り立っている。それは珈琲とミルクが交じり合った状態と同じだ。混ざり合った世界は最早切り離すことも分けることも困難になってしまっている。瀬田連次郎としてこちらの世界で日本人塾講師に成り済ますのが実に簡単なことだったように、表の人間は裏の人間には気づかない。簡単に溶け込み日常生活を送ることができ、連次郎こと小狼の数年間は問題もなく過ぎていった。
 しかし名残惜しいと思うほどにこちら側に馴染んでしまったのは小狼にとって計算外だった。もし、この仕事で生き残ることが出来れば――と、そこまで考えた自分に対し嘲笑を笑みを浮かべ校門をくぐる。敵はあの李から報告にあった裏事師、無事ではすまないだろう。生き残ったところで教師には戻ることもできず次の任務に就く。結局、闇の中で生まれた自分は闇の中に帰るしかない、表で生きることなど望んではならないことだろう。
 だが、それをこの学校で生活しているはずの子供達には強要できない。子供達を暗い反吐のようなこちら側に巻き込むことだけは絶対にしたくはなかった。
 小狼は校庭内を見回し、生徒の姿がなかったことにホッと胸をなでおろす。
 この数年間で小狼は表の世界で生きる子供を殺すことに躊躇いを覚えてしまった――。出来るならば目撃者を消したくない。標的は尾行担当者からの報告があった名で良い。狙うのは、何の目的かこの学校内に潜入した標的だけだ。
 校内をうろつき、グラウンドにも生徒の姿がないことを確認した小狼は、標的のことを探しながら校舎裏へと向かう。それは何の裏づけもない直感的な行動だった。なんとなく校舎外には身を潜めていないような気がするだけで、全くの勘も良いとこだが、昔から不思議とそれが当たる。
 振り返れ――ふと、そんな直感が脳裏をかすめた。校舎裏に踏み込んだ小狼は咄嗟に振り返る。
 刹那、背筋に冷たいものが走った。
 咄嗟だった。身を護る、それだけの為に身体が反応した。全身の筋肉がばねのように弾ける。最小最速の動作から繰り出された拳。それが飛来した刃をなんとかギリギリで弾き落とす。
 銀刃だった。鋭い刃が自分に向かって放たれていた。もし反応がコンマ遅れていたら背中に突き刺さっていただろう。
 赤土の上に転がった銀のナイフは西洋製、その装飾は有名なシェフィールド産のナイフ。退魔効果がエンチャントされているものであり、アンデッドや亜人種、小狼にも効果十分だ。
 どうやら相手も感覚に優れ、小狼の本当の姿を見抜いたらしい。プロのプレイヤー、しかも小狼のような者達を狩り慣れている。
「死角を突いた躊躇いのない攻撃、軌道を読ませない投擲。実に――マーベラスだ」
 校舎を見上げ呟くと同時に、その右脚が校舎の古びたコンクリート壁面を蹴った。
「だが暗殺は失敗し私に自分の位置を教えてしまったのは−40点だ」
 コンクリートの欠片がボロボロと地に崩れ落ちるよりも早く、次に左足、すぐさま右足、小狼はそれを繰り返し重力に逆らい校舎を駆け上っていく。しかし、敵もそれを許すはずはない。
 三階の窓辺で何かがキラリと輝いた。ナイフだ。
「重力も軌道も無視するナイフの攻撃がお前の異能力か。それとも別の何かか……」
 移動している標的を既に捉えている小狼にとってナイフは最早脅威ではない。
 校舎を駆け上る小狼の右脚に飛来した三本ナイフが突き刺さった。左大腿筋辺りに三本。だが小狼は止まらない。右手、左手、右脚、左脚と獣のように四肢を使い壁を駆け上がる。ナイフ、おそるるに足らず。標的を捉えているならば後は急所をガードして突き進めばいい、敵は小狼の最大の売りであるタフネス、ダメージ再生速度を知らない。
「二十点ほど加点と言ったところか」
 ナイフを放った敵が走り去ろうとしたその先に、小狼は飛び込んだ。
 それに気づいたナイフ使いも身を強張らせ急停止した。そのまま走りこんでいれば小狼の突入に巻き込まれていただろう。
 小狼の長身がガラスをぶち破り、フレームをへしゃげ、敵の逃走を妨害するように廊下に着地してみせる。
「だが私は貴様以上にマーベラスだぞ」
 小狼は眼鏡のブリッジに人差し指を当てずれを直した。
 ガラス片を浴びないようにガードしていた敵――まだ十四、十五ぐらいであろう黒コートを纏った金髪の少女は驚いた様子はない。それどころか不適な笑みを浮かべている。
「その冷静な対応力。+五点だ。もしや、私の尾行に気づいていたのかな、死村」
「ああ、分かっていたさ、殺姫を尾行していた私が他の者に尾行されていることはな」
 殺姫――李の最終報告にあった名前だ。もしかしたら殺姫もここにいるかもしれないと小狼は考えた。最悪、結託している可能性もある。それらを踏まえ、小狼は冷静に対応する。
「死村の少女よ、これは提案だ。私は子供を殺したくはない。もし君が探しているのもアレならば――我々に協力しないか?それともそれはその殺姫が既に持っているのか?」
『アレ』という言葉にピクリと死村と呼ばれた少女は反応した。
「一つ――覚えておけ」
 少女はスッと右掌を小狼に向ける。そして、ゆっくりと指を一本立てた。
「私に指図していい男は我が兄、一三だけだ。アレを手に入れるのは一三と私だ」
 金色の長く美しい髪を靡かせ、九六三は微笑を浮かべる。美しい表情だった。小狼は思わず『マーベラス』と呟いた。
「倒すべき敵に颯爽と名を名乗るのが死村の嗜み――!!」
 小狼が眩しいと思うほどの強さと意思を瞳に秘め少女は高らかに宣言する。
「孤独に抗う強さを持って私の名を名乗ろう。『制裁の朱線(デッドロード・エンド)』の二つ名と……死村九六三の名を。お前の居場所、散る前に決めておけ」
「なるほど、そういうことか」
 小狼の口元がゆっくりとつり上がる。
 今から殺すのは子供ではない。戦士だ。戦う価値のある相手、狩るべき獲物だ。出来る限り犠牲者を出さないようになど甘い考えだった。闇の中に生きるものが光に焦がれたところでその願いなど叶うはずもない。ならば全てを犠牲にして任務を全うし闇に帰るまでだ。
「マーベラスだ!!その味を、その色を、その匂いを、その触感を、その温度を、この舌に、この眼に、この鼻に、この肌に、幾度となく刻み付けよう、この私を!!」
 小狼の身体が徐々に節くれだち強張っていく。骨と筋肉が軋み変態しているからだ。さらに体中が白に近い銀色の体毛に覆われていく。
 戦う喜びか殺す喜びか、大きく開いた獣の顎から伸びた犬歯が輝き、爛々と輝く真紅の瞳が黒九三を見据えていた。
「ワーウルフ種の戦士、李小狼、二つ名は刃狼(ウルフガープ・ソリッド)。覚悟はいいか、君が今から戦う男は実にマーベラスだぞ」
 本来の姿に戻ったのは何年ぶりのことだろうか。
 最早、なりふり構わない。殺姫がここに気づくまでに抹殺する。戦う意思と本能が心を黒く染め突き動かす。
「ウォウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!」
 獣は空間を一閃するような獣の咆哮を轟かせ全身を奮わせた。獣声による衝撃が校舎中を突き抜けた刹那だった。一瞬で間合いを詰めた小狼の拳が九六三の水月にめり込んでいた。
 苦痛の叫びも上げさせるつもりもない。小狼は容赦もなくそのまま小さな身体を壁に叩きつける。
 九六三の瞳には飛び散る血反吐が妙にゆっくりと見えたはずだ。
 消えた意識が戻った瞬間、何が起こったか理解するだろう、自分の身体が壁をぶち壊し剥がれ落ち転がったことを。破砕された木材の山と教室中に充満し立ち込める埃の中、九六三は激しくむせ返る。呼吸もできないほどに苦しいことは小狼にも分かる。だが容赦はしない。小狼が拳を振りかざすと全身の筋肉が隆起し力が拳に集まっていく。そして、それが至極単純に振り下ろそうとした。
 それを防ぐために九六三は素早くナイフをガードに回すと同時に攻撃を行っていた。
「キャンキャン吠えるな、犬っころ。貴様のせいで殺姫の犬娘を思い出す」
 言ってくれる――そう思いつつも小狼は九六三を見直した。いい戦闘センスをしている。
「マーベラス」
 思わず小狼は呟く。さきほどの攻撃により、床に小狼の血が溢れ流れ落ち水溜りを作り出していく。それは死角からの一撃だった。
「驚いたな、+30点だ」
 小狼は腕を背に回し、突き刺さっていた木片を抜き取り床に捨てる。
「死角からの攻撃、見事だ」
 背に刺さったナイフ、木片、コンクリート――それらも、その痛みも、そんなことは小狼にはどうでも良かった。
 拳の軌道を変えることも、止めることもなくただ水月に向かって振り下ろす。
 ガードの上から叩き潰す、それだけだ。死村九六三は小狼のタフネスを見誤り、普通なら倒れるダメージでここまで動くとは想定しなかったのだろう、そして構わず攻撃してくるなどとは。
 拳を振り下ろした衝撃が周囲の机や木片を吹き飛ばした。
 ナイフによるガードすら意味はない。
 銀刃すらへし折り砕き、叩き付けた拳が九六三の水月を打ち抜く。
 その威力は九六三の華奢な身体ごと床にめり込ませる。噴水のように飛び散る九六三の血反吐を浴びながら小狼は咆哮を響かせた。この爪牙を震わせる感覚は久しく忘れていたものだった。


3.

「アオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 再び響く獣の声。
 狂ったように叫び、涎を撒き散らし、雄叫びに全身を震わせれば、感覚が徐々に研ぎ澄まされ蘇っていく。わななく獣の指の一本一本が狩人としての喜びに震えているかのようだった。
 小狼は己が闇の中で生きていけないことを長い平穏と安息の中で忘れていた。自身が人でもなければ、表の世界で生きているわけでもないことを思い出しふいに心がざわついた。分かっていたことだというのに自分が感じている気持ち、ふつふつと湧き上がるこの隙間風が吹くような気持ちがなんなのか分からなかった。
 今はそれよりも目の前の死村九六三を仕留めることを考えなければならない――気持ちを切り替えた小狼は獣の双眸を倒れている死村九六三に向ける。
 小狼の鈍器のように硬く重い拳は九六三の急所を確実に捉え、胸骨を粉砕し、その衝撃は内臓をシェイクさせグチュグチュのシチューのようにしている――はずだった。華奢で可憐な死村九六三は無残にもこの場で息絶える――はずだった。
「なんだ――この違和感は」
 血反吐を吐いて倒れた九六三を見つめたまま小狼は白い体毛に覆われた指先を数回ほど開いては閉じ感覚を確認した後、ゆっくりと口の端を吊り上げる。
「+50点だ。あの状態でよく防いだ」
 ゆっくりと九六三の瞳が開き、
「ギリギリだったがな」
 その唇が言の葉を紡いだ瞬間、小狼は身体を前のめりに仰け反らせた。
 背後からの衝撃――それを確認するために長く太い腕を背に回す。指先が触れた瞬間にそれが何か分かった。死村九六三の折れたナイフだ。
 小狼は攻撃の瞬間、直感的に威力を抑えてまで身体の重心をずらしていた。その結果、ナイフは急所を外し厚い筋肉に遮られ、小狼の攻撃も九六三の急所を打ち抜く威力を発揮できなかった。
 ナイフを抜き取る間に死村九六三は既に起き上がり、間合いを取っていた。
 素早い対応力と冷静さを併せ持っていることに小狼は感心した。対応力と冷静さは社会生活の中でも求められるもの、自分がこの娘の担任であるならばそこに重点を置き、能力を伸ばしてあげたことだろう。
 そんなことを一瞬だけ考えていると目の前の死村九六三はコートを脱ぎ捨てる。ゴトンという異様な音と共に壊れた床の上にコートが転がった。
「一三が買ってくれたコートを着てこなくて正解だったな」
 そんなことを呟いた死村九六三のコートから覗いているのは幾つかの薄いコンクリート片だった。
「能力を使って自分のコートの中に仕込んだのか。私の背後を取れるということは自分の背後からコートの中に仕込むことも可能――というところか」
『マーベラスだ』、小狼は心の中で囁く。
 小狼が驚いたのはコンクリート片を服の中に仕込んで咄嗟に防護服代わりにしたことではなく、この十四、十三歳ぐらいのあどけなさを残した少女が抱えたセンスだ。
 死村、その名を聞くと全身の毛が逆立ち、ゾクリとさせられる。
「死村一三の妹か――君たちにはいつも驚かされる」
 死村一三の名前が出て幼い顔が一瞬キョトンとした。
「知っているのか?」
「知らないものの方が少ないだろう、あの男のことは。と言っても出会ったのは私が中国にいた頃だが」
 それだけで十分だった。相棒は半死半生の怪我を負い、組織も痛手負った。
 二度と会いたくはない、あの妙に飄々としとてそれでいて触れるもの全てを切り裂く剃刀のような男に。関わった自分が生きていることさえ奇跡ではないかとさえ思える。
「まさか、その血縁者と戦うことになるとは」
 その言葉の後、小狼の全身の筋肉が隆起した。筋肉の萎縮が出血さえ止めてしまう。
「他の生徒達が来る前に決着をつけよう、本気で」
 小狼は眼光を死村九六三に向けたまま四肢を床につけクラウチングスタートの構えを取る。低く低く構える。手足に血液がドクンドクンと流れ力が集まっていく。
「ビーストランス」
 矢が放たれるように、鎖を解かれた獣ように、発射されたロケットのように、小狼は一気にためた力を爆発させる。後ろ足が床を蹴り上げ、2メートル50センチ、体重150キロの肉体が弾丸と化した。机、椅子、床、遮る全てを破壊し、風を貫き加速した重戦車が目指したのは死村九六三だった。
「くっ!!」
 死村九六三は掌を小狼に向ける。
 小狼に向かって次々と放たれるコンクリートや木片。
 だが小狼はそれをものともせずにただ突き進む。
 この世界で生きていく苦痛に比べれば耐えられないものではない。ウルフガープソリッドは止まらない。


4. 

 それは本能や今までのキャリア、あるいはもって生まれたセンスによるものだったかもしれない。死村九六三はレールを突き進む列車のように全てを凪いで突進してくる小狼に向かってコートを投げつけた。それは小狼にも予測できないことだった。小狼の視界がさえぎられ僅かにスピード落ちる。
 ギリギリだった。
 衝突する寸前で死村九六三が突撃をかわす。
 小狼の筋骨隆々とした巨躯は弾丸と同じだ。そのまま机や椅子を派手に粉々にしようやく止まった。もしこれが死村九六三のようなか細い身体ならミンチに出来ただろう。
「よく避けることができたな」
 再び小狼は全身の重心を落とし構える。
「容赦はしない」
 容赦はしない――小狼がその言葉を子供に使ったのは何年ぶりだったろうか。確か、妹を中国裏町の少年グループにレイプされた時だ。可愛い妹だった。綺麗な目をして真っ直ぐに生きていた。それを壊されたあの時から、ずっと――この世界に絶望してきた。なんでそれを今、思い出したのか、小狼には分からなかった。
「行くぞ、死村の少女。これが最後の授業だ」
 後ろ足の筋肉が震えるほどに、血管がはちきれんばかりに、溜め込んだ力を一気に爆発させようとした――その刹那、小狼は素早く壊れた机を拾い上げる。
 それもまた本能であり、直感的な行動だった。
 半身ほど振り返りベランダ窓から飛び込んできた少女に机を振り回す。褐色の愛らしい少女のわき腹を机がかすめる。小狼の計算ではそのまま腸を引きずり出すつもりだったが、思ったよりも反応が良かった。机をかわした少女がニッと笑うと同時に小狼の眼前に白い粉が飛び掛る。
 狙いは小狼の奇襲、それも視界を奪うことだ。
「なに――」
 襲ってきたのは歪む視界と凄まじい激痛だった。
「アオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 叫び声を押さえることができなかった。
 眼球が焼けるような痛みに包まれ目を開けることすらままならない。
 前が見えないまま小狼が闇雲に腕を振り回し、机や椅子が木の葉のように舞い散る。
「プールの塩素剤だよ、かなり効くでしょ?」
 それは死村九六三とは別の幼さを残した声だった。
 『殺姫初生……』と死村九六三が荒い呼吸でその名を呟く。
 小狼の予想通り死村と殺姫が結託しているようだ。二対一、死村九六三は遠距離射撃タイプの能力を持ち、殺姫初生は未知数――絶対絶命の状況だった。それなのに小狼はこの状況に興奮している自分に気づく。結託しようが何だろうが力でねじ伏せるのみだ。
「オオオオオオオオオオオオオオ……」
 痛みの中、瞼を開けると視界が酷くぼやけて見える。このぼやけた世界こそ、この世界の本来在るべき姿なのかもしれない。見えないならば見えないで構わない。所詮、どこにいても闇の中と変わりはしない。
 視力は回復しないまま小狼は素早く重心を落とし構え直した。
「逃げろ、死村!!」
 殺姫初生の傍らで死村九六三が叫ぶのが分かった。
「嫌だ」
「いいから逃げろ!!私の味方なんてしてる場合か!!」
「嫌だってば」
「バカか!一度しか会ってないのに私を庇おうとするな……!!」
「それで十分だよ」
 殺姫初生は小狼から目をそらし九六三に微笑んだ。
「一三さんの妹を見捨てられないし、戦う理由がないなら敵じゃない。強い女ってのはどんな結果になっても信じたことに後悔しないンだ」
 小狼は笑みを浮かべた殺姫初生の姿に、一瞬だけ、一瞬だけ、飛び出すのを躊躇った。視界がおぼつかないせいでも殺姫を警戒したわけでもない。ただ眩しかった。視力が回復していないのに眩しくて仕方なかった。
 獣の瞳を細め二人のやり取りを振り払うように小狼は矢のように駆け出す。
 舞い上がる木屑やコンクリートの粉塵を突き破り巨躯が疾駆する。
 殺姫初生までの直線状に位置する机、椅子とあらゆるものを踏み砕かれ破壊され宙を舞った。さながら重機関車の如く、標的に向かって全てをなぎ倒し突き進む。
 弾丸と化した小狼の身体が直撃する寸前、殺姫初生はその華奢な身体をギリギリでひねる。動きを読まれることは小狼も計算していた。動きを読んだところでビーストランスは止めることも攻撃することもできないはずだ、と。だが、殺姫初生の行動は小狼の予想を裏切った。身体をひねりギリギリでかわし、それと同時に右手をギリギリと鳴らすのがぼやけて見えた。背筋が理由もなくゾッとした。
「殺戮惨式――」
 勘が告げる、その攻撃は絶対に食らうな、と。夢中でその太い腕をぼやけた殺姫初生に向ける。
「ふん!」
 振り回した腕に感じる手ごたえ――殺姫の身体が紙切れのように吹き飛ぶのがぼんやりと見える。ボーリング玉がピンを倒すように、吹き飛ばされた殺姫が机をひっくり返しながら転がったのが派手な音で分かった。
「奇襲はもっと上手くやるべきだったな」
 さらに死村九六三の方に向かって手近な机を全力で投げつける。死村九六三の華奢な身体ではそれに耐えることができなかったのか、能力を使うのが間に合わなかったのか派手に吹き飛ばされうめき声をあげた。
「どうする……殺姫君。君の友達が苦しんでいるが素直に『アレ』を差し出す気にはならないか?そうすれば君たちのことは悪いようにはしないと約束するし組織にも善処するように申し出てあげよう」
「……『アレ』って?」
 苦しそうに答える殺姫初生の反応が小狼の思ったよりも鈍かった。
「なんだ、知らないのか。ならば――ここで君たちを始末させてもらう」
 その言葉の後、小狼の身体が宙に舞った。
「しまった――!」
 九六三が叫んだが遅い。小狼の狙いは天井のスプリンクラーだ。
「まずい、塩素を洗い流すつもりだ!!」
 天井に跳躍した小狼の身体が感知器を掴みそのまま引きずり出しぶち壊す。瞬間、警報と共に天井からの水が降り注いだ。額から流れ落ちる水が目を漱げば、視界に映ったのは荒涼とした教室と青ざめる二人だった。小狼は眼鏡のブリッジに人差し指を当てずれを直す仕草の真似をして、フッと笑う。
「では、マーベラスに行くぞ――ビーストブレイク」
 ブツリと――自分の脚の筋肉が裂ける。
 筋繊維の限界を超えた攻撃はさっきの比ではなかった。
 全てが木っ端微塵に、遮るものも、踏み出す度に踏み潰される床も、何もかもが破壊されていく。
「殺姫!!」
 九六三が悲鳴に近い叫びをあげる。最早、突進する小狼を遮るものも避けることができるものない――はずだった。
 「リズムは読めたよ――」
 初生の長い褐色の脚が足元の机の木片を蹴り飛ばす。無論、小狼はそんなことでは止まらない。だが、初生の蹴った木片は、小狼が脚を前に蹴り出して突撃している最中、右足が地面を支え、全身の体重を支える刹那、その奇跡に近いタイミングで小狼の右脚にぶつかった。止まることはなくても小狼のバランスは僅かに崩れ、殺姫初生の身体にぶち当たる。咄嗟に胸の前で腕をクロスして受けたが、初生の身体は木の葉のように軽々と吹き飛ばされた。
 かわすことが出来ず、咄嗟に両腕でガードしたのは素晴らしいが小狼の前では意味などない。吹き飛ばされた殺姫初生が血反吐を吐きながら黒板に叩き付けれた。まるで壁に叩きつけられた蛙だ。
「器用でクレバーな娘だ。直撃する寸前、私の脚に机の残骸を蹴ってバランスを崩すとは。本来なら在りえない、そんなことが今日だけで何度も起きていることには驚かされるよ」
 小狼の言葉に答える余裕がないのか、『カハ……』という、かすれた音が喉から漏れ血を吐き出す。雨のように降り注ぐスプリンクラーからの水に流れた血液が混じっていく。
「だから言っただろう……」
 小狼は黒板にめり込んだ初生を眺め呟く。
「奇襲はもっと上手くやるものだと」
 小狼の放った後ろ回し蹴りが天井をぶち破り飛び出してきた人影に直撃した。
 その影は吐瀉物を撒き散らし床に転がる。殺姫と同じ顔をした少女――双子の姉もしくは妹だろう。
「−50点だ」
 獣の腕が殺姫初生の喉をつかむ。
 その牙が、その爪が肉を裂き食らいつこうとした。
 ふと、背中に鋭い痛みが走った。思わず苦悶の声が漏れる。
「なんだ――」
 振り返ればそこに立っていたのは死村九六三だった。ボロボロでグショグショになった姿で瞳を尖らせていた。
「今、私に何をしたんだ」
「もう一度食らってみれば分かるさ」
 煌きが奔った。
 光の死線。
 煌く何かが。
「がっ!!!」
 迸る赤黒い鮮血の中、胸を袈裟斬りに裂かれた小狼の苦悶の声が響く。
「スプリンクラーからの水で作った水圧のカッターか!!だが物質を操作する能力のはず――」
「流れ出た血液中のヘモグロビンは既に物質と同じ――操作するのは容易い」
 限界を迎えていた九六三が木材の上で片膝を着いたとき、ふと、小狼の腕に痛みが走った。慌てて視線を九六三から殺姫初生に移す。刹那、小狼の背筋はゾッと逆立った。先ほどまで息も絶え絶えでで視線が定まっていなかった殺姫初生の目に強い輝きが戻っていたからだ。限りなく鋭い圧倒的なまでのプレッシャーに言葉を失くしてしまう。殺姫初生に自分の腕をつかまれた痛みすら忘れてしまうほどに。
「同じ薄汚い闇の世界で生きる住人が何故、何故――そんな目をすることができる。私達は闇の中でしか生きていくことはできないというのに」
「そんなのまだ分からないよ――どっちで生きるかなんて決まってない」
 初生の言葉に、一瞬だけ、小狼にほんの僅か隙が生まれた。
「君は――まだ生きる世界すら選んでいないというのか。嗚呼、そうか、だからこそ、君の眩しさは――」
 隙をつく殺姫初生の動きは予想以上に早かった。鋭い貫き手が小狼の胸に突き刺さる。
 しかも突き刺さったのは死村九六三が刻んだ胸の傷だった。
 どんなにタフだろうと傷口をさらに無理矢理広げられて叫ばない者も苦しまない者はいない。
 痛みの中、小狼は初生の首をへし折ろうと力を込めようとした。その腕にグサリと金属パイプが突き刺さった。投げたのは――初音だ。
 驚嘆する小狼を見つめ初音がシシシと笑う。
「ストライク――やれ、姉貴!!」
「殺戮惨式――」
 貫き手を刺した状態からその手が小狼の胸を切り裂く。
 思い出した――殺戮式、それは初代創始者である沙羅双樹(さらふたき)が生み出した壱から百壱までの殺し方であり、勁孔と呼ばれる気門や骨を、勁を込めた掌により内部破壊する殺人方式。
 その姿は僅かに歴史文献などにも見ることができ、『その威力は武二非ズ、技二非ズ、術二非ズ、是タダ殺戮式也』と記されている。
 殺戮式は勁孔と呼ばれる気門や骨を、勁を込めた掌により内部破壊する。殺戮式の五つある型の一つである惨式は手の平に込めた勁を持って、気門、骨、肉、万物の根源たる勁を断つ。
 ビクンと巨躯が震えた。命がその身体から抜けていくように筋骨隆々とした肉体が萎縮し人間の姿に戻っていく。
「本当に私達はこちら側の世界で生きていくしかないの……?自分で生き方を選ぶ資格もないの?」
 殺姫初生は潤んだ瞳で崩れ落ちる小狼に語りかける。
 震える指先で小狼は眼鏡のブリッジに人差し指を当てずれを直す仕草の真似をして、フッと笑う。
 答えが分かった――。
 本当はずっとこの世界を憎みながらも許していた。
 汚く醜いこの世界はただあるだけ、それで十分、マーベラスだ。その眩しさから目を逸らしていた。それは自分が諦めたもの――どこで生きるか選ぼうとさえしていなかった自分がこの少女達に勝てるはずがない。
「マーベラスだ。いつか君たちがどちらの世界を選ぶのか楽しみにさせてもらおう」
小狼はよろよろと力なく後ずさりながら廊下に出る。そして、そのままその身体は壊れたフレームを越えこちら側と向こう側の境界線に辿り着いた。


5. 

 よろけながら廊下に出て――。
 ゆっくりと目の前から――。
 その身体が窓の向こうに吸い込まれていく――。
 初生と小狼の瞳が重なった。
 それは自分の生き方を諦めた悲しい瞳だった。
 その瞬間、初生の中に熱い血が流れ、瞬時に全身を駆け巡る。
「このおおおおおおお!」
 初生の脚はひび割れた床を蹴っていた。
 それは甘さだと分かっている――それでも初生は消えていく小狼の姿に向かって手を伸ばす。
「姉貴!!」
 心配無用。殺姫初生、強気と格好いい女がもっとう。無茶、無鉄砲はお手の物。
「おおおおおおおおおお!!」
 飛び込まんばかりの勢いで窓枠に身を乗り出す。
 ギリギリだった。
 初生の細い指先が消えていく小狼のスーツの裾をつかんだ。
 瞬間、腹部と腕に激痛が走り、鮮血が吹き出す。割れた窓ガラスが食い込んだのと小狼に殴られたダメージだ。僅かに緩みそうになった指先に力を入れると血が流れ出した。
「姉貴、手を離せ!」
 飛び出してきて初音に向かって、初生はキュッと口の端を結び笑顔を作って振り返る。
「だ、大丈夫!」
「バカ姉貴、大丈夫なわけあるか!」
 初音に続き、九六三も初生の身体を慌てて支える。
「なんでこんな奴を助けるんだ!!」
 ほとんど叫び声に近い九六三の言葉に、初生は小狼を見つめたまま答える。
「例え闇から生まれたとしても――。人を殺すためだけに生まれてきたとしても――。それだけじゃさ、この人も私も悲しすぎるよ」
 初生には自分がどちらで生きて行きたいか、どうやって生きて行きたいかは分からない。暗殺一家の一人として生まれ、物心つく前から戦い方を徹底的に習ってきた。プロの殺し屋となるべく育てられてきた。それでも、それ以外の何かが何もなかったわけではない。初生はそれを信じている。
「早く腕つかんでよ!!スーツが破ける!!」
 初生の瞳を見つめ小狼はゆっくりと口を開いた。
「君は誰かの為に泣いて悲しむと言うのか?」
「それが悪いこと?」
「ああ、偽善だな。人間というのはそんな風に出来てなどいない。自分が苦しければ誰かを犠牲にし自分だけを生かそうとし、他者の痛みなど感傷でしかなく――」
「知るか」
 やや乱暴に初生は小狼の言葉を遮る。
「偽善?良い子ぶりっこ?おせっかい?私はそんなん知ったことかって舌出して笑い飛ばしてやる!男のくせにいつまでも諦めてウジウジしてるな!」
 一瞬の間の後、小狼はさもおかしそうに声を立てて笑う。とても愉快そうに。こんな面白いことがあるのかと言わんばかりに。
「マーベラスだな、君は」
 ビリッという絹を裂く音。
「感謝する。君は曲がらず、乾かず、そこで生きていけ」
 小狼の身体は地面に向かい消えていく――それは満足げな顔だった。
 もしかしたら小狼は知っていたのかもしれない。小狼自身が諦めてきたたくさんの自分自身を。それはどこにも行かず思いとなり、小狼自身の中でいつか気づいてくれるのを待っていてくれたことを。
 ドン――という胃に来る音の後、人間型に戻った李小狼が転がった。動く気配はない。初生はそれを見つめたままうなだれながらグッと唇を結ぶ。
『闇の中で生まれた者は闇の中でしか生きられない』
「姉貴……」
「ん。大丈夫」
 自分の痛みなど気にすることもなく初生は頷く。すると初音は一瞬だけ瞳を閉じて言葉を飲み込んだようだった。こんなこと今までいくらでもあった。そしてこれからもあるはずだ。
「どうする、姉貴。死んでるか確認しとく?」
 本来ならちゃんと死んでいるか確認しなければならないがその余裕はなかった。
「ううん。ちょっと騒ぎになりすぎ。ここは引いとこう」
「ん。余韻に浸る暇もねぇか――。んじゃま、逃げようぜ、騒ぎになりかけてるしさ。こっちのチビちゃんにも色々聞かないといけないし」
 初音が九六三を見ると可愛いことに少しだけムッとしていた。
「チビというな。歳だって身長だってお前達とさほど変わらない」
「はいはい、そうカリカリするなよ」
 軽口を叩きながら初音が初生の身体を起こす。そして、九六三に向かって『ん』と、ぶっきらぼうに手を差し出す。
「何の真似だ」
「いいから来いよ。手当てしてやるから」
「誰がお前などに……」
「はい、ポーション。家帰るまで応急処置」
 初音は透明な液体の入った小瓶を九六三に差し出す。
「殺姫の施しなど……」
「うるさいっての。乳もんで押し倒すぞ」
「なっ……」
 九六三が真っ赤な顔でビクリとすると、初音は意地悪く笑った。
「アンタねぇ、会ったばっかの人に」
 姉、殺姫初生、思わずため息。
「ほれ、さっさと行くぞ。足腰立たないんだろ?」
「うぐ……」
 仕方なく九六三は小瓶を受け取った後、初音の手を借りて立ち上がり、歩きながらそっとわき腹に薬を塗る。細く綺麗な身体に黒い痛々しい痣が出来上がっていた。
 案の定、初音は鼻の下を伸ばしていたが、初生にジロリと睨まれ慌てて目をそらす。
「ねぇ、初音」
「ん、どった、姉貴」
 少し慌てながら初音が答えた。
「軽音楽部の生徒たちは?」
「ああ、全員後ろからぶん殴って気絶させた」
 言う言葉はなかった。
 この後、目覚めたら、きっとこの悲惨な教室について根掘り葉掘り聞かれることだろう。教室中水浸し、机椅子は片っ端から粉々、床は穴だらけ、黒板にはクレーター。あまりにも酷い光景だった。
 しかし、そんなことはどうでもいいのか、肩を寄せ合い廊下を歩いている初音と九六三は悪びれた様子もなく飄々としていた。あまりにもクールでドライだ。
「そもそも、なんでお前がここに来たんだ?」
 ふいに尋ねた初音に続いて初生も疑問をなげかける。
「ねぇ、『アレ』ってなんなの?」
 問いかけられた九六三は黙ってしまったが、
「私ももしかしたらお前達が『アレ』を入手していると思って尾行したがどうやら本当に知らないようだな」
 ゆっくりと重い口を開いた。もしかしたらダメージが大きくて喋るのが億劫なのかもしれない。
「そう、私がここに来たのはもしかしたら『アレ』を手に入れているかもしれないと思ったから――それと一三の命令だ」
「え、一三さんの?」
 初生の声色が僅かに変わり、初音がムッと眉をひそめた。
「一三は片付けなければならない仕事があり、合流するのに一日かかるらしく、不本意だが、お前達と行動を共にし合流地点に向かえと言われている。お前達の子守、ボディガードみたいなものだな」
 合流地点――『hideout』だ。
わざわざ一緒に行動させたのは九六三に初生たちのことを自分の目で見定めさせようとしたのだろう。
「おいおいおいおいおいおいおいおい、おいっての」
 初音が呆れたようにバカにするように笑う。そして、少しだけ怒っていることに初生は気づいた。
「バカも休み休み言えよ?私達が敵対関係のお前らになんで協力しねぇといけないんだよ?分かってるだろ、死村と殺姫の因縁って奴を」
「それは昔の話だろう。いつまで昔にこだわっている。既に殺姫初樹とは連絡が取れて許可を得ている」
 確かに――死村と殺姫が争ったのは過去の話。既に和解も成立している。
「どういうつもりだ、親父め、まぁた勝手に話を進めやがって。『アレ』ってのももしかして分かってるんじゃねぇか?」
 初生は答えないが、多分、そうだろうと思う。
「行方不明の呪術師を探す仕事がなんでそんなことになってるの?」
「『アレ』が何なのかはいずれ分かる。事態は既にお前達が思ってるよりも大きくなっている。中国組織、魔術師協会、黄塵会連合、死村、殺姫――大きな一つの流れに乗ってしまったのは私達も同じか」
 その言葉に慌てたのは初生だった。それに対して初音がいたずらっ子のようにシシシと笑う。話が大きくなってきたのが嬉しいのだろう。とてもではないが初生は喜ぶ気にはならなかった。負ける気は全くないが今回のように自分の周囲を巻き込むのは嫌だ。案の定、廊下を歩いていると壊れた教室の方から叫び声やざわつきが初生の耳に届いた。こんなことが何度も続いてしまうと自分の日常が無茶苦茶になってしまうのではないだろうか。
「……悪いことをした」
「え?」
 九六三がポツリと初生に呟く。照れたようなすねたような困ったという感じの顔をしている。
「教室を無茶苦茶にしてしまった。悪い」
 どうやら九六三は初生と同じように教室を壊してしまったことに罪悪感を感じているらしい。
「お前のことを少し誤解していた――少し」
「――九六三ちゃんっていい子だね」
「バ、バカ!ちゃん付けで呼ぶな。それにそういう恥ずかしいことを言うな!お、お前のことなんかちっとも認めてなどいないからな!!」
 思ったことをストレートに口にした初生に向かって、九六三は真っ赤な顔で怒り出す。なんだかそれが可愛らしくて初生も笑ってしまった。どうやら初生が思っていた以上に良い子らしい。
「こっち側の世界でも九六三ちゃんみたいな子っているもんなんだね」
「だから、恥ずかしいこと言うな。こら、頭なでるな!子ども扱いするな!妹の方も尻を触るな!!服の中に手を入れるな!!ええい、もう、別にどっちにいようが私は私だ!前言撤回だ、お前ら!」
 自分は自分――。
 それは初生にとってとても羨ましいことだった。
 さきほどの狼男にしても自分の生きる場所をはっきりと決めている。
 それは初生にはできないことだった。
 自分はどこに向かうのだろうか。ニュースでは毎日、どこかの誰かが誰かを殺し、戦争が怒って、誰かが泣いて、笑って――そんな大きい世界をどうこうするつもりはないが自分はこの小さい世界を護ることができるだろうか――昇降口に注ぐ眩しい光に大きな瞳を輝かせながら初生はそんなことを考えていると、校門の手前で九六三は初音の手から離れる。
「ここまででいい」
「手当てぐらいならしてやるぜ?」
「お前達と一緒に目的地に向かうが群れるつもりはない。だが誤解しないで欲しい。両家の因縁にこだわってるわけでもない」
「じゃあ、なんで――」
 初音の言葉をさえぎり、九六三の一指し指が初生を指す。
「一三がやたらと貴様のことを気にしていたが……負けるつもりはないとだけ宣言しておく」
『なるほど』と初音が意地悪く笑って、キョトンとしている初生を見た。
 九六三はゆっくりと二人から離れてよろけながら歩いていこうとした――無理だった。
「にゃ、にゃあ……」
 それは綺麗な凛とした先ほどまでの声ではなく、ふにゃっとした丸くて女の子らしい声だった。呂律も怪しく少しだけ瞳もトロンとしている。
「ふわ、な、なんだ、脚に力がはいらにゃい……」
 疲弊だ。異能力はその代償に精神と体力を削る。それを使い続け、どうやら足腰に力が入らないようだった。
「自分の限界ぐらい知っとけよな」
 ため息と共に初音が九六三の肩をつかみ、そして抱きかかえる。
「んじゃ、文句はないよな、お姫様」
 九六三は小さく『う〜』とうなるだけで文句は言わなかった。
 ゆっくりと三人は人気の少ない道を選びながら歩いた。
「とんだ休日だぜ」
 初音がため息を吐くと初生も苦笑いを浮かべた。
「あの人――闇の中で生まれた者は闇の中でしか生きられないって言ってたね」
「気になるの?」
「うん。少しね」
 初生が小さく答えると初音はそれを笑い飛ばす。
「闇の中で生まれた者は闇の中でしか生きられない――ああ、そうかもな。少なくとも私はこの先の人生もこんなことばっかの気がしてるね」
 初生は確かめたかった――その答えを。
「初音……」
「ん?」
「私、一三さんに会うよ」
 少しの間の後、初音は『うん』と呟いた。
 この世界で生きること――。
 表と裏の自分――。
 最後に向かう場所――。
 一三はなんと答えるだろうか?
 部長と話した時には何をしたいのか分からなかったことも今は分かる気がした。
「ホント、とんだ休日になっちゃったね、初音」
「全くだ。この仕事に就いてる以上は仕方ないことかもよ」
「初音……」
 一瞬の間の後、互いに見つめ合う。
「ん?何?どうしちゃったよ?」
「ううん、何でもない」
「何だよ、キスしちゃうぞ」
「ばか」
 そんなくだらないことを話しながら二人は国道沿いの道を歩き続ける。
 本当は聞きたいことがあった。
『私達は闇の中でしか生きていくことはできないというのに』とあの男は言っていた。本当にそうだろうか。闇の中で生まれたとしても光を求めることはいけないことなのだろうか?戦い続けて生きることしか自分達にはないのだろうか。
「あ――」
 ふいに初音が呟く。
「どうしたの?」
「チビ介がいつの間にか眠ってる」
 初音に言われて見てみる。
 九六三は初音の腕の中で子猫のように心地良さそうに眠っていた。
 それが可愛くてついつい初生は笑ってしまった。
 例え世界が全てでたらめで嘘だとしてもこの先に絶望しかないとしても、今、この瞬間に感じているぬくもりは嘘でもなければ偽者でもない――初生はそう信じている。一三は何と言うだろうか?


 

6.


「十分なのかもしれないな……」
 小狼は口元に僅かな笑みを浮かべる。
 捨てられた子犬のようなボロボロの姿で電柱に持たれかかったが、力なく地面に倒れこむ。
 まさか、自分が生きているとは小狼自身も思わなかった。だが、生きていてもこれからどうすればいいか分からないし組織に戻る気にもならず、目の前の開けた道を見つめていた。
「全く持ってマーベラスだな」
 この犬杉山というありふれた小さな町から道はどこまで続いているだろうか――そんなことを考えながら降り注ぐ陽光に瞳を細める。踏み出したいと思った。
 この小さな町の果てまで続く道を、どこまで歩いていけるのだろうか。
 もしかしたらこんな優しい光の中を歩く道をきっと最初から選ぶことができたのかもしれないと思ったが脚がもう動きそうになかった。子供の頃に味わった冷たいアスファルトの感覚が身体を地面と結び付けてしまっている。
 かすれだした意識さえも重力に引かれようとしていたその時、
「先生!!」
 ふいに悲鳴の混じった甲高い声が聞こえた。
「アンタ、そんな姿になって何してるんですか!?」
 それは聞き覚えのある声だった。自分が生徒の声を間違えるはずもないという自信を持って顔をあげれば、案の定自分の想像通りだった。
 教え子の女子生徒の一人である手神綴流(てがみつづる)だ。将来の夢は漫画家、好きなものは桜餅、冷静さとユニークさを併せ持ち、関わってきた生徒の中では最も覚えやすい名前をしている。
「ふむ、手神君か……」
 手神綴流はひどく狼狽した様子で白い携帯を取り出す。手神らしい簡素でシンプルなデザインだった。
 小狼は携帯を手にした手神が何をしようとしているのかすぐに分かった。
「ああ、すまないが手神君。救急車は止めてくれないか。もし君がここで救急車を呼ぶのなら私は舌を噛み切って死んでしまうだろう」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょが!!」
 確かにそうだと思うが、手神を巻き込む気にはなれない。この少女にはごくごく幸せに生きる権利があり、こちら側などに関わる必要はない。
「落ち着きたまえ、君らしくない。そういう時は素数を数えろとかの有名な神父が……」
「血反吐吐きながらジョジョネタか!!いいから医者に――」
「医者は嫌いなんだ」
 真剣な表情の小狼に対し、手神はあきれたような怒ったような顔を浮かべ、今にも千切れそうなボロボロのスーツの裾をつかむ。そして、両腕で重たそうに小狼の身体を引きずり出した。
「アンタ、仮にも私の先生なんだからしっかりしてよね!」
「しかし、私はただの塾講師で――」
「そりゃあ学校の担任とは違うけど、アンタだけなのよ。私の趣味が漫画描きって聞いて笑わなかった教師――ってなんで泣き出してるのよ!?どっか痛いの!?ってそんだけ傷負ってれば当然か……って、ああ、もう!!」
 闇の中で生まれた者は闇の中でしか生きられない――その答えが握られた掌の中にあった。
「――マーベラスだ」


 

7.

  人は敗北したことを、己の失敗を、心が折られた瞬間を決して忘れない。
 それを塗り替えることができるのは未熟だった己を乗り越えた時――あるいは全てを放棄した時だけだ――死村九六三、本名、クリスクロス・芹沢・ロックナイヴスは敗北からそれを学んだ。
 敗北――それは九六三がまだ死村一三と出会い家族となる前、まだトランシルヴァニアにいた頃――まだ一人裏の世界で生き抜いてきた頃だ。
『孤独な音色だね、君の心は』
 かつて九六三にそう言ったのはしなやかな細い体躯と女性のように繊細な声を持った男だった。
 その男の名は奏屋音一(かなやおといち)、二つ名は『心調律師(リズムマスター)』、能力名は『B−』。裏事師同士が命の取り合いをすることなど日常茶飯事、どこかの国が最後は武力行使にでて紛争を鎮圧するのと同じで、話し合いで解決することなど限られている。戦闘になることはそれほど珍しいことでもない。
 重要なのはただ一つ、奏屋が死村九六三の想像を遥かに上回る異能力者であったこと、手の内を知り尽くされていたことだ。
 何もできぬまま地に倒れた九六三を見下ろし、奏屋は持っていたサックスを鳴らした。
 完全な敗北だった。手の内を知り尽くされていたことを除いてもだ。何もできず、何もされず、死村九六三は奏屋音一の能力『B−』に敗れ、その能力を理解することすらできなかった。
 奏屋は戦う前から勝負が決まっていたように、予め決まったシナリオであるかのように、喜びも驕り高ぶることもなく、ただ『女の子を傷つけるのはポリシーに反するんだよ』と呟いていた。
『人が何かを支払うことで何かを手に入れるとするならば、君は繰り返される放浪と戦いを対価として 孤独を手に入れてきたんだろう。その両手は血にまみれ、赤い雫は真っ白な手のひらに刻まれた無数の傷の上を流れて、君を呪い続ける――お前は何一つつかむことなどできはしない、と。その度に心は傷つき、より無機質により無感情に、孤独と戦いの運命を受け入れる為だけに誰も寄せ付けず、誰にも心を許すこともなく一人ぼっちになっていく――それが君の音色の孤高の音に変えているんだろう』
歌うように奏でるように奏屋は囁く。
 九六三は睨み返すのがやっとだったが、内心はこれから自分の命が絶たれるであろう恐怖をゆっくりと感じ始めていた。奏屋はそんな九六三を見つめ、もう一度サックスを奏でる。
『ぬくもりや優しさを知らない心は純粋だ。そこに醜さや弱い意志は存在しない』
 ぬくもり、それがどんなものだったか、九六三は思い出そうとして意識を失った。
 ――その後の結末から言えば九六三は助かった。
 それは奏屋の気まぐれかもしれないし、お遊びかもしれない。
 それでも九六三は助かった。孤独な少女は屈辱と敗北と共に生きながらえた。
 あの頃の九六三では奏屋に勝てなかった。だが、今はどうだろうか――そんなことを考えることがある。大切な者、居場所を手に入れた九六三の音は奏屋の胸に響くのだろうか。
 ウルフガープソリッドとの戦闘で負傷した九六三が眠りについて数時間。
 九六三はだんだんとまどろんでいた意識がはっきりとしてくるのを感じ、瞼を開けようとしてやめた。
 怖かった――。自分が目を覚ましたら再び孤独になっているのではないか、と。
 一三が傍にいないことを感じシーツをキュッと握り締めてしまう。
 裏の世界でたった一人で生きてきたあの頃のように、自分は一生一人ぼっちだと諦めていたあの頃のように――もう一人ぼっちは嫌だ。
 ずっと、ずっと、傍にいて欲しい。ギュッと抱きしめて欲しい。
 傷だらけの手を握ってくれるだけでいい。
 それだけでいい。それだけでもう一度、瞼を開けることができる。
「一三……」
「あ、起きたのかな?」
 その声に気づき、九六三は瞼を開ける。
 その青い瞳に映ったのは子犬のような笑顔を浮かべた初生だった。
「大分、うなされてたみたいだけど大丈夫?」
「ああ――」
 そう答え九六三は自分の手と初生の手が重なっていることに気づく。握っていたのはシーツではない。初生の手だ。
「あ――」
「あ、ごめんね。九六三ちゃんさ、なんかうなされたたからこうすれば落ち着くかなって。子供の頃、こうしててもらったことがあってすごく落ち着いたからそれで――」
「いや、いいんだ。嫌じゃなかったか?」
「ん? なんで?」
 そんなことを質問した自分が恥ずかしくなり、照れを隠しながら九六三は答えた。
「その――ありがと」
 と、できるだけそっけなく付け足した。
 初生はまたニパッと笑顔を浮かべて頷く。
 それを直視できずに九六三は真っ赤な顔でうつむく。
 その表情、その仕草があまりにも素直で真っ直ぐすぎて少し眩しい。その真っ直ぐさは諸刃の剣だ。この世界を切り裂く光になれば、蛾を寄せ付ける灯火のように無数の悪意を寄せ付ける甘さになってしまうだろう。そして、九六三はそういう甘さを持った男を知っている。誰よりも知っている。
「お前は少しだけ、一三に似ている気がする」
「え?そ、そうかな」
「少しだけだ」
 どこがどうだ等ははっきりとは分からない。
 ただ、その手の平のぬくもりは一三と変わらない。優しくて懐かしいその温度は九六三に一人じゃないと教えてくれたあのぬくもりだ。
どうかしている――自分でもそう思った。一三の弟子のような存在とはいえ、まだ出会って数日、お互いの音楽の趣味も分からないような相手に安堵感すら感じてしまうなんて。初生と一緒にいるのがまるで死村の家族達といるように心地よい。
『なぁ、もう少しこうしてていいか?』
 そんなことを九六三が言えるはずもなく、ただただ黙って初生の手を握る。
 この懐かしく優しい暖かさが温もりの音色なのだろうか――そんなことを思った。
 誰かとつながっていたという心は醜さや弱さを生むかもしれない。
 だが、そんな心もきっと何かに繋がっている――死村九六三はそう信じている。

 

 

 一三との合流は明日。約束の場所『hideout』――。
 


 

『幕間1〜ジュブナイル〜』

 

 疲れた。一言で言ってしまえば疲れた。
 手当てを終えた初生は部屋に入るなり制服のままベッドに寝転んだ。
 全身の筋肉が引き伸ばされたように軋み、腹部の打撲がハンマーで殴られているように痛むが体中にできた切り傷や打撲もポーションのおかげで数時間あれば治る。だが『殺戮式』を使って消耗した体力、すり減らした精神力はだけはどうすることもできなかった。
 ベッドの上で包帯や絆創膏の巻かれた四肢を伸ばすと、指先が枕元のヌイグルミに触れた。妹の初音と違って女の子らしい小物やコレクションのヌイグルミ達が並べられた部屋はどこから見てもごくごく普通の中学生の部屋にしか見えない。やはり自分は半端なのだと初生は思う。殺姫の中にいても、仕事をしていても半端だ。
 初樹はそういう半端さを消したいのか、ヌイグルミの一つもくれたことがない。
『女の子はキラキラした光物が好きと聞いたからな』
 初樹はそんなことを言いながら、幼い初生と初音にナイフセットをプレゼントしてくれたことがあった。確かにギラギラと怪しく輝いていたし初音は大喜びだった。初生は妹がそれを部屋に飾るのを見ながら『違う、何かが違う』と頭を抱えたことがある。
『博物館に行きたい? そうか連れて行ってやろう』
 初樹が珍しく初生の要求を聞いてくれたこともあった。前日の夜はワクワクして眠れなかったのを覚えている。
 だが行ってみればそこは古寺で、待っていたのは、博物館に飾られているミイラのような住職だった。
 『俺の師匠――生きた化石だ。良く見ておけ』
 愕然とする娘に初樹はそんなことを平然と言ってのける。
 将来ぐれたら初樹のせいだと真剣に思った。さすがに文句を言うと、初樹はマルボロを吸いながら笑う。
 『習い事もしたかったんだろ? ついでだ、師匠にここでしばらく鍛えてもらえ』
その一言で、十二歳になるまでそこに通い毎日体術や暗殺の修行をすることになる。
 思えばあの頃から裏事師として――殺姫一族としての英才教育が始まっていたのだろう。なんて長い仕込みだろうか。初樹はそうやってさりげなく生活に裏事を溶け込ませて来たのだろう。
 しかし、初樹がどんなに初生を熱心に教育しようと――。
 ヌイグルミを集めたり、可愛い物が好きだったり、恋愛に興味があったり――。
 初樹が思ったよりも一般的少女の感覚が残ってしまったのは誤算だったろう。
 だが初生本人がどんなに拒もうと――。
 どんなに嫌がろうと――。
 殺姫の一族の一人だ。
 請負人一族・殺姫は暗殺一家・死村に並ぶ裏事の名門であり『狩猟の殺姫』、『暗殺一家』等と呼ばれることもある。殺姫当主が継いできた『黒犬』の名は、裏事師の間では伝説だった。それは初生にはあまりにも重過ぎる。
 幼い頃の初生のままだったら必死にそれを受け止めようとしただろう。躊躇いもなく人の命を奪い、表の世界での自分をカモフラージュと割り切っていたかもしれない。だが初生は裏事に関わるたびに戸惑い、迷い、眩暈にも似た鬱屈した気持ちにさせられる。
「裏事か――」
 溜息と共にそんなことを呟く。
 裏事――それは表には出ない裏仕事、暗殺、諜報、人身売買等を指し、殺姫一族が表ではごくごく普通の人間を演じる傍ら、裏で扱ってきた仕事だ。
 犬杉山という町は大勢の亜人種、異能者で構成されたコミューンであり、金物屋の一家は壊し屋であったり、宅配屋はゲッタウェイドライバーだったり、担任の教師にいたっては欧州の魔術師教会で修行した魔術師だったりと二面性を持った者が多い。
 何故そんな者達ばかり集まったかは定かではないが、犬杉山ではそんな人々がこれと言ったもめごとを起こさず、ごくごく普通に、学校や会社、一般社会の中に溶け込み生活している。それは皆がこの町の雰囲気を愛し大事にしているからだ。根底に抱えられた想いがこの町独特の呼吸や優しい風を作り出している。初生は犬杉山町が抱えた裏表も、犬杉山で生きる人々が二面性も、好きだった。自分だって汚い部分ときれいな部分、強い部分と弱い部分の反するものを持っているしそれはきっと自然なことだろうと思う。
 だからこそ、初生は裏事に関わるたびに迷い戸惑う。
 別に人を殺すのが嫌で裏事に関わりたくないというわけではない。
 殺す、殺さないの領域は既にクリアしているし、殺すのは好きではないが躊躇うことはない。裏事に関わるのはそういう世界で生きていくことだと初生も分かっている。今でも傭兵だった母は憧れだし、自分の生き方に迷いつつも初樹のような一流の裏事師になりたいとも思う時もある。だが、それ以上に迷い戸惑う。
 この世界には悪の部分しか持っていないと思えるような者が大勢いる。国民の血税を自分自身の為に使い罪は全て秘書に被せて自殺させた政治家、援助交際の斡旋やドラッグのバイヤーをしている人気アイドル、自分以外の人間は全てゴミくずのように利用する人間や本当に悪の部分しかもたない人間、心のキャンバスを黒い絵の具で塗りつぶしたような根っこからの悪党を目の前にした時に何とも言えない気持ちになってしまい、胸が痛んで眠れなくなってしまったこともある。裏事に関わる自分はそんな人間達とあまり変わらないのではないかと思えて不安になってくることもあった。
 そんな悪党が普通に生きる人々を貪るのを知ると憂鬱になってしまう。しかもそんな奴等の為に仕事を引き受けなければならない。それも仕方のないことだとは分かっている、そういう世界なのだから。分かっているが、それもまた初生を悩ませる。
 どうにも気分がモヤモヤして胸が苦しくなってきた。
 初生はベッド下から傷だらけのカラシニコフを大事そうに取り出しギュッと抱きしめる。
 眠れなくて不安になる時、初生はいつも母親の形見のカラシニコフを抱いて眠る。鉄の冷たさが無性に初生の心を和らげてくれるのが良い。カラシニコフを抱いて眠るのもテディベアのぬいぐるみを抱いて眠るのもそんなに変わらないと思う。勿論、子供っぽい癖だと思うし、恥ずかしいのでそのことは近しい友人にも言わない。
 だがヌイグルミやら毛布やら何かを抱いて眠るのは誰にでもあることではないかとも思う。自分の生き方に迷うのも初生ぐらいの年齢の者ならありふれたことだ。
 普通の中学生として生活している自分と裏事師としての自分とのギャップや疎外感に悩みながらも――どちらの自分も肯定しきれていない。
 「一三さん……」 
 初生の視線が机に置かれたフォトスタンドを見つめる。そこには小学生だった初生と高校生ぐらいの少年が映っていた。メリーゴーランドをバックに二人は眩しい笑顔を浮かべている。
それが初生を奮い立たせる。信じられるもの、確かなものがそこにあった。
 ――あの日、二人が交わした約束はまだ初生きの中で輝いている。
「よし!!」
 初生は起き上がると自分の頬を両手で数回叩き気合を入れ、『んー』と背伸びをすると全身に熱い血が流れ生きていることを強く感じる。ウジウジするな、ジョン・マクレーンのようにクールになれ、強い女は暗い顔をしないものだ――そう自分に言い聞かせる。結局、それは自身の心の痛みと、どうにもならない現実から目を逸らすだけではないかという迷いはあった。そう簡単に解決する悩みじゃないことも分かってる。馬小屋で生まれたどこぞの神の子が、スナック感覚で答えを導いてくれるわけでもない。
 だったら、今やらなけれならないことをするだけ、向かい風や弱い自分に立ち向かうだけだ。


『幕間2〜天国の間で〜』

 ハニービーから自転車で飛び出した初生が向かったのは商店街方面から自転車で数分、勾配のゆるい坂を上った途中にあるバス停前だった。そこは名前は壬生坂。初生のお気に入りの場所だ。
 犬杉山町壬生区は坂道の路地に家が立ち並び迷路のように入り組んでいる。真新しい家々や、塀も万年塀ではなく暖かみのある煉瓦塀が使われ、石畳の絨毯などその造りは美しく詩情的な町並みとなっていて。地方雑誌やデート雑誌などで取り扱われたこともある。犬杉山市民の間でもここをデートに利用したりしている者も多い。
 夕暮れ時の坂を歩くカップルや学生、時折すれ違う顔見知りに手を振って軽やかに走りぬけ、夕暮れの坂を上って行く。聴いているミュージックプレーヤーは、アクセサリー感覚で付けられるコンパクトでファッショナブルなアイリバー。ソニー製。初生のお気に入り。聞いている曲は女性アーティスト『カーナ・ヤーソイ』。
 初生はその3トラック目、『ワールドエンド・パブリッククレイジー』のエモーショナルなビートが特に好きで、先ほどから何度もリピートさせたまま自転車を走らせていた。
 曲が丁度終わり、リピートが始まる頃、初生は古びたバス停の前で自転車を止める。初生はそこから見える景色が好きだ。子供の頃から一三が犬杉山町に来るたびに一緒に眺めている。
 初生は見下ろす町並みがオレンジに染まっていくのを見つめたまま音楽に耳を傾ける。建物や、道路、木々、全てが稲穂の海のように黄金色に輝き、まるで金色の魚の鱗みたいだ。それはプールの底から水面を見上げた時の煌きととてもよく似ていた。天国もこんなに綺麗な場所だろうか?
 手を伸ばせばつかめそうな輝きが、あまりにもキレイで切なくて涙が出そうになってきた時、ふいに肩をポンと叩かれる。
 身体は即座に反応した。
 一瞬で身体を捻り鋭い回し蹴りを放つ。背後に立っていた人物初音だと気づいたのは初音が右腕で蹴りを受け止めてからだった。
「あ、初音!ごめん!!」
「いいって。そういう風に教育されてんだからさ」
 初音は右腕をプラプラと振りながら笑った。その背には――九六三がおぶられていた。初音の肩に頬を埋め、子猫のように身体を丸め気持ち良さそうな寝息をたてている。
「アレ、九六三ちゃん?」
「いやさ、悪戯しようとしたらつかまれた」
 初生が拳を握ると初音は慌てて弁解した。
「冗談だよ、いやいや、こいつ私のことつかんだまま離さないもんだからさ。大人しくしてれば私好みで可愛いのにな」
「アンタねぇ」
「大丈夫、好みだけど恋愛対象じゃないから。マイラブは姉貴だけだぜ」
 得意げに笑う妹に思わずため息を吐くと、初音も初生の隣に並んだ。
「やっぱここに来てたんだな。姉貴は気合入れる時にここに来るもんな」
「うん……」
「急にこんなとこ来るなんてさ。どったよ、姉貴。あの狼男を殺したこと気にしてるのかい?」
「そんなんじゃないって。たださ……」
「ただ?」
「目の前のことをやろうと思った時にさ、あと、何人、この先、殺し続けるのかな――って。たくさん、人を殺してその後、私達はどうなるのかなって」
「さぁな」
 と、初音は輝く町を見つめたまま呟いた。
「その先に何があるかなんてさ、分からねぇよ。ただ天国にはいけねぇな。悪党とはいえ人殺しは人殺しさ」
 少しの間の後、初生も頷き空から注ぐ輝きを見つめる。ああ、そうかと思った。手を伸ばせば届きそうなあの輝きには自分は辿り着くことはないんだ、と。
「でもよ、なぁ、姉貴。はっきり言えばさ、この世界はぶっ壊れてると思う。魔術、異能、人外、裏事、そういうもので成り立った世界の上を何にも知らない人間が暮らしてるのが狂ってるとしか思えねぇ時があるよ。いつかこんな危ないバランスじゃ根っこから崩れちまうんじゃねぇかって思える時もある」
「私も時々そう思う時がある」
 ふいにビュッと吹き付けた強い風が二人の髪を揺らし町の中に消えていく。
「地獄だぜ、この世界は。汚職、人体実験、嘘、陵辱、弱者の蹂躙、反吐みたいな悪意、そんなもんが薄皮一枚ですぐ隣で息をしてやがる」
 初生は初音の言葉にコクリと頷く。なんとなく初音の抱えている不安や怒りが分かった。初音はきっとこの世界で生きるには純粋すぎる。
「この世界がおかしいのか、自分達がおかしいのか分からなくなるときもあるけど――それでもさ、私は今生きてるこの町が好きだよ、初音」
 多分、天国と地獄の真ん中なんだと初生は思う。
 どちらでもあり、どちらでもない、犬杉山はそんな半端な場所で、自分達も人殺しで中学生の半端な存在だ。それは狂っているかもしれないし、まともなのかもしれないし、今はまだ答えは出ない。
「私達さ、もうすぐ大人になるよね。いつか分かるのかな。何が正しいか、何が間違ってるのか。自分はどちら側で生きるのか」
 初生がニパッと笑うと、キョトンとしていた初音は少し照れた顔で髪をかいて笑う。やはり初音が笑うと初生も嬉しい。ここがどちらであろうとそれは変わらないことが分かったしそれだけで笑っていられる。
「いつか――か。この仕事の先にその答えがあるかもしれないし。ま、どっちがなんだろうと、今はとにもかくにも目の前の仕事だよな」
初音は少しだけ真剣な顔で初生を見つめた。
「姉貴、ここからなんだけどさ、ちっと別行動だ」
 それは初生にとって思わぬ提案だった――。


 『幕間3〜フールビートスタンスT〜』

  初生と初音、初音の背で眠る九六三が店に戻った頃、既にハニービーは閉店準備を終えた初樹がコミックを片手に珈琲を飲んでいた。こうしてカウンターで仕事終わりを迎えるのが初樹の安堵する瞬間らしい。
「ただいま」
 初樹は初生に視線を移し頷き『おかえり』と呟いてコミック誌を閉じた。読んでいたのは初生も好きなコア系少年漫画雑誌『フールビート』の今月号だった。ちなみに初音の方は姉妹誌『フールビート・スタンス』の方が好きらしい。
「姉貴、とりあえずこのチビを寝かせてくるわ」
「うん、お願い。お腹冷やさないようにちゃんと毛布かけてあげてね」
「あいよー。寝かせるつっても、こう、背中をしっかりとつかまれると離れそうにないよなぁ」
困りながらも初音が寝かせにいくと、初樹は珈琲ポッドからマグカップに珈琲を淹れる。
「学校でのことは隠蔽を依頼しておいた」
「ありがとう」
 初生が珈琲を飲みだすと初樹は再びコミック誌を読み始めた。
 いつも通り初樹は初生のやり方に口を挟まない。それが初樹なりの教育であり、初生もそれを分かっているから初樹に頼るつもりはない。
「そう言えば」
 ふいに、ページをめくる手を止め初樹が呟いた。
「あいつが百足と会ったことがあるとか言ってたな」
「あいつ?」
 初生が尋ねると初樹は『ああ』と頷く。
「珈琲好きのブラコンだ」
「え!?」
 驚いたように初生が高い声を上げた。それに動じることなく初樹はコミックのページをめくる。
「なんだ、そんなに驚いて。あいつがそういう奴なのは別に今始まったことでもないだろう」
「あ、ううん。そうじゃないよ」
 初生はそう言いながら珈琲を口に運び、ぼんやりと手の平の中の黒い水面を見つめた。湯気の立ち上る珈琲カップを握ったまま、視線は自然とカレンダーに移る。
 あの珈琲好きのブラコンは『また来るさ』そう言っていつも通りにたははと笑っていた。それっきりだった。死村一三が『ハニービー』を訪れることはなく、カレンダーのバツ印も半年間も記録更新中だ。昔は毎日のように来てくれていたのを思い出しながらついたため息が珈琲を苦くしていく。
「電話してみようかな……」
 初生の様子を見ながら初樹がニヤリと笑った。
「べ、別に電話したくて言ってるわけじゃないからね!!」
「ああ、そうだな」
「仕事、仕事だから言ってるだけであって――!!」
 初樹は珈琲を飲んだ後、深く呼吸する。
「やれやれ。色気も胸もないと思っていたがそういう年頃か」
 いつもの皮肉がまた始まった。
「おい、コラ!!胸!? 胸が何だって!? タブーに触れたね!?」
 初生の瞳と八重歯がギラリと光った。初生六法では胸をバカにする奴は死刑という決まりがある。
「おいおい、怒るなよ。あいつは胸がない方が好みなんだぞ」
一瞬の間。それは初生も知らない新情報、しかもかなり有益な情報だった。
「……本当?」
 初生はやや上目遣いで照れながら尋ねる。
「いや、嘘だ」
 マグカップがランディ・ジョンソンのファストボールに負けない勢いで初樹に放たれる。
 初樹はマグカップの剛速球を見ることなく座ったまま片手でキャッチした。
「娘に平気で嘘つくなっ!!」
「若い内に騙されて苦い思いしておくことも大事だ。珈琲の苦味や旨みだって長い熟成があるから生まれる」
「くっ! それらしいことを!!」
「経験と失敗から生まれた言葉だ。参考にしとけ」
 いつものことだが、どうにも口では勝てず初生は子犬のように唸った。時々、殺姫初樹は裏事師よりも詐欺師の方が向いてるのはないかと思うときがある。
「とにかくっ! 変な誤解はしないでね!!」
「はいはい」
 そう言いながらも初樹はコミック誌のページを捲る手を止めなかった。
 限りなく適当な二つ返事を聞くと初生は階段を上がる。父の不器用な優しさは本当はただの意地悪心ではないかと疑いつつも階段の途中で脚を止めた。
「ありがとう、お父さん」
 小さく囁いたその呟きが初樹に届いたかどうかは定かではない。それでも初生は初樹の不器用な優しさに気づいていた。初樹は娘をプロとして厳格に扱う反面、誰よりも娘達のことを考えてくれている。死村と協力を認めたのも仕事を確実にする為、リスクを少しでも軽減するのが目的だろう。その考えや隠れた気持ちはきっと初生や初音にしか分からない。だが、そういう優しさが存在することを知っている。
 それは初生がまだ子供で――寺に通うことになり数ヶ月経ったぐらいの頃だった。
 熾烈な修行や初樹の教育に耐えられなくなり、一度だけ初樹に教えられた全てのありとあらゆる技術を駆使し北海道まで逃げ出したことがある。初樹も住職も初生がそこまでするとは思わず、初生の思わぬ成長に喜んだという。とんでもない連中だ。
 結局、初生は北海道の街中で捕まった。
 初生を捕獲したのは初樹ではなく――当時、中学生の死村一三だった。
 一三は怒ることもなく、帰りに遊園地に連れて行き玩具のネックレスを買ってくれた。
 初生の首にネックレスをかけながら一三は笑った。
 『なぁ、初生。優しさってのは言葉や態度に現れるもンだけじゃねぇンだぜ。そっと後ろでよ、見守ってくれるような優しさってのがあンのさ』
 一三はそう言いながら初生の頭をなでると、初樹から遊園地に連れて言くように頼まれたことを教えてくれた。初生がここまでぐれなかったのは一三と初樹の不器用な優しさのおかげだろうと思う。
「何か言ったか」
「何でもない」
再び初生は一段飛ばしで階段を上がりだした。

 

 



 

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