『サツキ・ダブルスタンダード』


1.『ライダーズ・オン・ザ・ダークネス』

『私は誰に媚びることなく、流されることもなく、常に強い自分でいたい。――殺姫初生・卒業文集より』




「なんだなんだ、また随分と面倒な仕事請け負ったんだね、お父さん。こないだは豆腐屋の信二さんと暗殺じゃん?その前は確か牧師の香良洲さんと銃器運びだったけ?」
 そんな物騒な会話を交わす二つのシルエット――。
「違うよ。香良洲さんとは金物屋のシゲさんの手伝い。銃器運搬は八百屋の正光ちゃんでしょ」
 鏡に映したかのように寸分違わぬ姿をした二人、褐色の少女と白色の少女、初生、初音。
 その横顔を点滅する街の光が照らす。華やかで虚しいだけの光。闇を彷徨う人を呼び寄せ、朝には消えていくだけの蜃気楼。田舎町の犬杉山町で生きてきた初生は都心部の華やかさがあまり好きではない。
「そうだった、そうだった。シゲさんとこに初孫が出来たから殺しが出来る人手が足りなかったんだよね。犬杉山町一の殺し屋にしてみせるってシゲさん張り切ってたもんね」
 都心部、狭間市の裏通りに佇む五階建て雑居ビルの前でそんなやり取りをかわす。
 物騒なことを話しているが周囲数百メートルには人の気配がないことは初生の耳で、初音の鼻で確認し続けている。元より犬杉山から数十キロ離れた挟間市は繁華街の開発区域であり、夜の訪れと共に住み分けが始まる。チーマーや酔っ払いが闊歩する時間からさらに闇が深まる頃、裏側の住人にとって仕事しやすくなる頃には初生たちのようなこちら側の住人しか近寄らない。
 この時間が心地よいのか、これからがお楽しみなのか、仕事前で浮かれている初音と違って、初生は少しだけ沈んだ気分だった。
 誰もいないネオンライトだけの街並みが寂しく感じたなどとは妹の初音に言えるわけもなく。
「ねぇねぇ、姉貴。ここにいるの?藤原何とかの関係者って奴。強いの?そいつってさ」
 初音はシシシと意地悪そうに笑い口の中にブルーベリーチューインガムを放り込む。これから起こることを期待してか、ギラギラと瞳を輝かせ拳を重ね合わせる。強いか、弱いか、戦って楽しめるかが初音には重要だった。
「お父さんの話だとね。名前は武中直登(たけなかなおと)、藤原大連の古い知り合いで、魔道書の横流しとかしてるけっこうろくでもない人らしいよ」
「魔道書ねぇ。随分面白い玩具を扱ってるね」
 軽々しく玩具と言った初音に対し初生は眉をひそめる。
「初音、あれはそう簡単に軽く見ていいものじゃないよ」
「分かってるよ。『ナコト写本』とか『ネクロノミコン』を巡って今まで大惨事が起きてるんだから――でしょ?」
 現在、魔術書の所有を個人で行う際は魔術教会を通して許可を得なければならない。魔術書の中には封印を施さねば異常事態を引き起こすものもあり、一般人の手に渡り大惨事が起こることも在り得るからだ。極めて危険な存在であり、欧米の田舎町の住人が魔術書の影響で一人残らず蛙になってしまった例や、街が丸ごと消し飛んだ例すら存在する。それを知りながらも魔術書を古書コレクターと裏取引しているのが武中という男だ。
「魔道書か。そいつ魔術師なのかな」
「アンタねぇ、資料ぐらいには目を通しておきなよ」
それはいつものこと。裏事師としては褒められたことではない。
「にゃは。ま、何にせよさ、殺すことになっても悪人なら容赦する必要はないよね」
 確かにと呟きながら初生は頷く。今回の任務は武中を拘束し藤原の情報を入手することだけだが、いずれは誰かが始末することになるかもしれない。
 悪いか、良いか、正しいことをしているかが初生には重要だった。
 魔術書よりも何よりも武中と言う男が、人身売買に深く関わっていることが初生の心を締め付けていた。何の罪もない子供を玩具にすることは絶対に許されない。きっとそれはあの人も同じだ。それが初生の行う仕事を肯定してくれる気がした。
 初生の細い指先がジャケットのポケットから写真を一枚取り出す。
「見てて。頑張るからね」
 小さく呟き、僅かに染まる頬、少しだけ潤む瞳。それを眺めていた初音の手が初生の頭をなでる。
「姉貴、超可愛い」
「バカ言ってないで行くよ?」
 初生は少しだけ照れながらそっとポケットの中にしまう。強い女は抱えた感情を悟られないものだ。
「あいあい」
 初音は意地悪く笑いブルーベリーガムを丸く丸く膨らませた――いずれ弾けてしまう世界のように。


『サツキ・ダブルスタンダード』
2.



 目的は雑居ビルの四階、武中の事務所。
 一階、二階、三階の飲食店は武中の部下である外国人マフィアの経営であり、逃亡中の犯罪者の隠れ場所に利用されているらしい。警察が手を出せないのはそれが証拠不十分であり、武中の手が加わっていることは明らかだった。悪意を隠すなら悪意の中、そこに善なる者が入り込むことは蛇の巣穴に腕を差し入れるのと同じだ。
「最初に言っておくけど、ちゃんと仕事しないとダメだからね」
「分かってるって」
 パチンと音がして、寂しい路地裏に消えた。
 ブルーベリーチューインガムの匂いが初生の鼻先にまで届いてくる。
「ただちょっと面白くなってきてさ」
 初音はまたチューインガムで風船を作ってみせる。闘いを楽しむ初音には緊張感などなかった。相手は強ければ強いだけいい。目的よりもその過程に価値を見出してしまうのが初音の悪い癖だ。猟犬は猟犬として命令を実行しなければならない。
「また、アンタは」
 初生が溜息を着いて肩を下げると初音はシシシと笑う。
「魔術師ってさ、あんまバトッたことないからさ。ついうれしくて」
「初音、油断してると痛い目見ることになるよ」
「だってねぇ、魔力、魔術回路、詠唱、魔道書、地場属性、小難しいことは幾らでもあるけどさ、強いってダケでワクワクしてくるじゃん」
 ごちそうを目の前にしたような、あるいは玩具をみる子供のような瞳で初音は笑う。初音は既に自分の生きる場所を決めている、それは初生にはどうしてもできないことだった。
「しかも魔術師教会からマークされてるんでしょ? 最高ジャン」
「確かに負ける気は全くないけどね。でも仕事には慎重さと冷静さが必要っていつも教えられたでしょ?」
「それってさ、父さんの教え?それともあいつの?」 
 初音は眉を八の字にしてそんなことを尋ねてくる。修学旅行の夜に女の子同士で好きな相手のことを話すような手軽さだった。
「ねぇ、姉貴ってさ、まだあいつのこと好きなわけ?」
「あいつって……」
「あいつ。あのダメ男だよ。シスコンでブラコンで変態」
 それはまるで別れた彼氏のことを悪く言うような口調だ。
 『あんな男と会うのやめなよ』という否定のニュアンスが露骨なまでに見え隠れしている。
「好きというか何と言うか――」
「チューしたいとか?」
 その問いは初生の心を鋭くえぐり、思春期の複雑な感性を揺さぶるのには十分な効果があった。初生は小さく咳き込み照れを隠す。
「アンタねぇ、そういうのは夫婦になるそういう者同士がやることであって――そういう風になればそういうことがあったとしてもそういうことで――」
 そこまで聞かれてもいないのに語りだす殺姫初生、十五歳。
 頬を染め、あまりにもストレートな質問に困る初生の顔を見つめ、初音は意地悪く笑う。自分の質問に初生がどう答え、どういう反応を示すか知っているからだ。
「別にそんなんじゃないってば。尊敬してると言うか、私の目標みたいなもんだしね。ほら、私が強い女目指すのもそういう教えあってだから」
 照れを隠しながら初生がまくしたてるのを見て初音はニヤニヤと目を細める。自分の予想通りの反応が愉快で仕方なかったのだろう。
「やっぱ、姉貴可愛いわ」
「え?」
 ふっと初音の両手が伸び初生の胸に触れる。
 何の前触れもなくあまりにも唐突に、小さな双丘は初音の手に覆われた。
 瞬間、初生の喉から小さな悲鳴が漏れるが初音はその手を離さない。
「ちょ……」
「んー。ラヴ」
月明かりの下――。
「やめ……」
「ラヴ、ラブ」
 路地裏で慰めあう子猫のように――。
 蒼い光を浴びた白い手が褐色のウナジをなでる――。
「やめいちゅーとんじゃ!!」
 初生の怒声と共に初音の頭がはたかれ、ようやく初音が離れる。荒い息シャツを直す初生の顔は紅潮していた。
「叩くことないじゃん。いつもしてんだし」
 確かに初音はよく初生に抱きついたりしてくるのだが――。
「家と外じゃ違うの!!」
 初生が肩で息をすると初音は愉快そうに笑う。
「どこだって愛があれば大丈夫じゃない?伝わらないかな?こんなにラブってるのにさ」
「アンタ、本ッ当に殴るよ?」
 少しだけ涙目の初生に対し、初音は悪びれた顔の一つもしない。こんなことはスキンシップぐらいにしか考えていないからだろう。
「仕事前なんだから緊張感持ちなさいっての!!」
「ほらほら、大きい声出すと怪しまれるよ?」
 言い返すことができず、自分の周囲にはどうしてこんな連中ばかりだろうかと初生は頭を抱えたくなった。
 それでも仕事と頭の中を切り替えることに数十秒、二人は足音も衣擦れの音も漏らすこともなく四階への階段を上りだす。子供の頃から受けている暗殺の英才教育で既に足音も気配もほとんど消すことができる。それができなければ冷酷なリアリストである初樹は容赦なく二人を見捨てていただろう。『どうせこちらでは長くは生きられない』――と。
 初生がそんなことを考えていると階段を上る初音の足が止まった。
「妙だね。どうにも妙だ」
 階段の途中で初音が小さく呟いた。その視線は階段の先にある扉を見つめていることに気づく。そして、その違和感には初生もすぐに気づいた。
「そうだね、これって――」
 同じように初生も入り口のドアを見つめ頷く。
「姉貴、血の匂いだ。腹黒い豚の腐った臓物の香りだぜ、こいつは」
 シシシと初音は八重歯をむき出しにしていつも通りの笑みを浮かべる。まるで楽しくて仕方がないと言わんばかりに。
「うん。水の滴る音、これは多分、血液、しかも一人じゃない。でも……」
 それ以上ははっきりと言えなかった。大量に血を流しているはずの者達が室内で動き回っている音がするなどとは――。
「初音には聞こえる?」
「ん?私は姉貴ほど耳が良くないから。でもさ、生きてても死んでても敵はいるってことじゃん」
 嬉々としたバトルフリークスの狂犬は口元を吊り上げた。
「なんだ、もうパーティが始まってるんだ。いいね。面白くなってきたじゃん」
 そう言いながら心底楽しそうに初音は笑う。殺しと戦いは人生そのもの。既に自分の生きる場所と死ぬ場所を決めている初音にはたまらなく面白いのだろう。
「一人、二人じゃないか」
 そう言いながら初生は髪をかく。殺しと戦いは仕事、不確定要素やリスクは少ない方がいい。未だに自分の生き方を決めかねる初生には面倒この上ない事態だった。
「行くべきか、避けるべきか……」
「ねぇ、姉貴」
 考え事をしている初生の隣で、パチンと音をたて初音のチューインガムが割れた。
「先に中へ行っててくれる?」
「何?どうしたの?」
「雑魚の臭いがするからさ、片付けとくよ」
 ニッと初音が笑うのを見て初生は頷く。
「分かった。何かあったらすぐに知らせて」
「了解っす。愛してるぜ、姉貴」
 『バカ』と初生が苦笑いを浮かべ、その言葉の後で二人は別れて動き出す。
中に入っていく初生の後姿を眺め初音が呟く。その瞳は闘犬の二つ名とはかけ離れた優しさと慈愛、それとほんの少しの切なさが込められていた。
「やっぱ可愛いなぁ……姉貴。だからこそ、あいつを近づけるわけにはいかないんだけどさ」
 初音の細い身体が階段から軽々と飛び降りる。高層ビルから高層ビルへの移動や空中戦を得意としている初音には造作もなく、木の葉が舞うように地面に音もなく着地してみせた。
ゆっくりと立ち上がった時、その場に漂う空気が、蒼い月明かりが、へばりつくような闇がチリチリとした鋭利な物へと変わっていく。大気に混ざりだした刺々しい殺意が初音を取り巻く全てを研ぎ澄ましていた。
 触れば誰それ構わず噛み付く狂犬のような瞳がギラリと闇を射抜く。それは野生の肉食獣が獲物を前にした時と同じ物だ。
「ここになんでいるのかは知らないけどさ、よくもノコノコ私達の前に現れたよな」
 殺意と狂気を瞳に宿し初音は闇の向こう、ネオンライトを背に受ける男にありったけの殺気を送る。狩るべき獲物はそこにいた。
「姉貴はお前のことを尊敬してるみたいだけどさ、私はお前なんか大嫌いだ」
 初音からの鋭い言葉を受けながら男は『たはは』と間の抜けた声で笑った。



3.

 建物内部に入り込んだ初生が最初に感じたのは戸惑いと違和感だった。
 廊下を歩く度に生活の音が初生の耳の中に入り込んでくる。
 人の歩く音、お茶を入れる音、書類を書く音。
 おかしい。人の気配がないのに生活の音だけがはっきりと聞き取れた。
 同じように廊下を歩いているはずなのに姿も気配もない。
 見えない何者かがごくごく自然に生活しているようでもある。
 これは一体なんだろうか。
 緊張で少しだけ強張る身体は冷静だった。廊下を動きながらも物音を漏らさない。
 仕事中はどんな時でも冷静に考えろ――それは写真の中のあの人が教えてくれたことだ。
 その教え、言葉の一つ一つは今も初生の中で柔らかな陽光のように輝き、進むべき道、取るべき行動を示してくれていた。
 今出来ることはシンプルなこと。
 理由を探り、それがどういう影響をするか、どう行動すべきかを考えることだ。
 呼気のリズムを整え、初生は室内へのドアの前に立つ。素材はミスリル。呪法耐性有りの防弾性。
 中から聞こえる音から推測すればお茶を飲んでいる者が一人。壁際に立っている者が一人。座っている者が三人。
 そして呼気をコントロールしている者が一人。プロ、しかもかなりの使い手だろう。
 相手がプロならば勝負は一瞬。
 出来る限り相手に反撃されないよう、一瞬でこちらの最大攻撃力を発揮しなければならない――相手が異能でないのならばだ。
スッと、初生の手が動いた。
 その瞬間、目の前の防弾製のドアが裂かれる。まるでバターでも切裂いたかのような滑らかさだった。
事務所内部を見つめ、初生は深く息を吐く。
「最悪だ――」
 月明かりに包まれた室内はめちゃくちゃだった。穴の開いたソファ。壊れて砕けたテレビ、あまりにもナチュラルに床には男の屍骸が五つ転がっている。もちろん、でっぷりとした中年の武中もその中の一人だった。
 そして、最も最悪なのは武中達を殺した人物が目の前にいることだ。
 犯人はまだ十代と思われる少女――。
 部屋の中央でひっくり返された机の上にちょこんと立ち、初生のことをジッと見つめる蒼い瞳は限りなく透き通っていた。綺麗だと不覚にも一瞬心を奪われるほどに。
 開きっ放しの窓から流れ込んでくる風が、少女の髪と月明かりを浴びた黒コートを揺らす。
 ミリタリーベースのガーリッシュコートとマッチした金色のフワッとした髪。それが夜風に靡く様は絵本で見たお姫様のようだった。しかし、その黒いコートにはべったりと血が纏わりついている。ぬぐっても落ちないほどに何十人もの血が沁み込んでいることがすぐに分かった。
 少女は間違いなくこちら側の住人、プロ、しかも異能だ――。
「武中を殺したのは――?」
「答える必要はない」
 突き放すような傲慢な冷酷さを持った言葉を、小鳥が囀るような高い声で少女は紡ぐ。言葉はたどたどしい日本語だった。初生は英語と中国語、ドイツ語なら喋ることができるがそれ以外だったら会話にならなかった。事態を把握しなければと初生が考えた時、金髪の少女が呟いた。
「去れ」
 その一言と共に――。
 部屋に散らばった木片が初生目掛け流れ星のように疾走する。重力も斥力も引力も全てを無視した動き。包丁を振り下ろした時のようなストンという音。
 木片の欠片で出来た凶器は初生の頬をかすめ壁に突き刺さった。状況から推測すれば物質操作タイプだろうと初生は判断した。
「問答無用みたいだね」
「そういうことだ」
 スッと少女が抜いた銀刃がネオンライトで輝く。退魔効果のあるシェフイールド産のナイフだ。これを手にしていることはこちら側で戦ってかなり長い。さきほどの物質操作能力と併用してナイフを使ってくることは容易に想像できた。
「こちらにも事情があるからね。そう簡単には退くわけにはいかないんだよね」
 ニッと笑った初生の瞳が挑発的なギラつきを見せる。
「それにさ、私、何もしないで負けるつもりはないから」
 強い女は退く時と戦う時を知っているもの、今退いてしまえば全てが途切れてしまう。それを少女は冷酷な瞳で見つめる。
「怪我をしてから後悔しろ」
 月明かりを浴びた二人の華奢な身体が闇の中を舞った――。
 少女の投げたナイフが風を切る。だが既に初生はそこにいない。
 ナイフは獲物を捕らえることなく壁にサクリと刃先をめり込ませた。
 慌てて少女が初生を眼で追う。遅い。初生は既に少女の頭上に移動していた。
 音もなく空気を歩くようにそこにいた。中空でしなやかなその右手を構える初生。
「速い。だが、甘いな」
 初生の姿を見ることなく少女が呟く。
 初生がそのまま拳を振り下ろせば防弾ドアのように切裂かれていた。金属も有象無象も関係なく切裂いていただろう。
 しかし、少女の呟きと共に先ほど弾かれたナイフ。それが再び動いた。めり込んだ壁から抜けるように動き出す銀刃。現実には在りえない動きも異能により可能となる。スピードが加速し、先ほどよりも数段勢いを増した刃が空中の初生を狙う。
「そう来ると思ってた」
 物質操作タイプがある程度自由に支配物を操作できるだろうことは想像するに容易なこと。
 大事なのは相手に隙を作らせることだ。初生を仕留められると思わせること。
 ナイフと落下する初生の右手が重なり合う――。
「殺戮――惨式」
 それは技でもない、異能でもない、術でもない。人と物を殺す方法――圧倒的なまでの破壊それが殺戮式だ。
 それがどういう原理なのか、それは少女には分からないだろう。しかし、目の前の光景の意味は分かったはずだ。
 実にシンプル、ナイフは跡形もなく破壊された、それだけのことだった。
 右手と触れたナイフはパラパラと砕け散り床に落ちていく。まるで最初からそこには存在しなかったかのように。
 初生は最初からナイフを切裂くことができた。だがあえてしなかったのは相手に隙を与える為だ。それはコンマ数秒だけ少女の反応を鈍らせるはずだった。
「殺戮――式?」
 青色の瞳を大きく見開いたまま呆ける少女。
 少女の前に着地した初生の右手が少女の首筋にあてがわれる。
「チェックメイト――だね」
 初生はここまですれば少女があっさりと降参すると思っていた。
「ここからが勝負だろう?」
 違った――。
 ここからが勝負――そう呟いた少女の瞳は死んでない。むしろ、相手に生命線を握られた状況で輝いている。
 簡単に敗北を認めないその姿勢、それがこの少女の強さを教えていた。
「あちゃー」
そう呟き、初生は舌を出した。呟いた初生の足元には――。
「このまま首を切ってたら私も死んでたわけだね」
 セッティングされた木片が並んでいた。それは少女の指先ひとつで初生のか細い喉を貫き抉っていただろう。少し油断していれば、注意力が削がれていればどうなっていただろうか。自分が追い詰められたぎりぎりまで初生の隙を狙う――その精神力には驚かされる。
「一つ、聞いていい?」
 その強さに驚きながらも初生は尋ねる。
「なんで武中を殺したの?」
 少女は少し躊躇ったが、ゆっくりと小さな唇を動かしだす。
「最初から死んでた」
「最初からって――」
「お前には分かるか、この部屋の中を彷徨う気配が。生活の息遣いが」
それは初生も感じていたことだった。
「竹中達は死んだ。だが当の竹中達はそんなことにすら気づかずこのままこの世界、この建物の中を今までように彷徨い続けるだろう」
「幽霊みたいなもの?」
「存在の別離とでも言うべきかもな。こんな真似ができるのは奴ぐらいか――」
 音もある、気配もある、だがそこには存在の輪郭がない。触ることのできない蜃気楼のような何かがすぐ傍に存在している。
「どういうこと?」
「さぁな。私の目的は武中ではない以上関係のないことだ」
「つまり――それが目的でここに?」
「貴様だって『アレ』が目的だろう?」
「アレ? それが何のことか知らないけど、武中が目的じゃないんだ?」
 答える代わりにコクリと少女はうなづく。
 それで十分だった。初生は子犬のような人懐っこい笑みを浮かべ手を下ろす。少女は眼を見開きそれに僅かながら戸惑う。
「じゃあさ、私達が戦う理由はないよ」
「なんだと?」
「武中も殺害されてるしさ、私がここにいる理由はないよ。後は下で暴れまわってる妹を連れ出して帰るだけだし」
「そんなに簡単に私を信じるのか? 騙しているとは思わないのか?」
「なんで?」
キョトンとした初生はわずかに首を傾げた。
「あは、だって私が信じてるんだしさ」
 まるで子犬のような笑顔で微笑む初生。その笑顔の奥にあるのは強い意志だ。初生は人を殺すことに躊躇いを感じても誰かを信じることには躊躇いなど感じない。そうすれば後悔しなくてすむ。
「強い女はさ、騙されたって傷ついたって後悔しないンだ」
 それは明らかにプロの人間が言う言葉ではないだろう。
 殺さねば殺される、やらねばやられる、それが子供であろうと殺す、そういう世界だ。初生が口にしたのはプロが口にしていけない言葉でもある。
 だがそれは、常人とこちら側を彷徨っている初生だからこそ言える言葉でもあった。初生が眩し過ぎて正視しかねたのか、少女はわずかに視線をそらす。
「甘いことを言うな。貴様もプロの端くれだったら――と、昔の私だったら言っていただろうな。確かに敵ではないものと戦う理由はない」
 と、そこまで言って少女は溜息をつく。自分のしていることがひどく無意味だったと言わんばかりの溜息だった。
「今度は私が聞いていいか?」
「ん?」
「貴様、何で殺戮式を知っている? それは一三のものだぞ?」
 ふいの一言だった。
「かず――み?」
 初生の瞳がより大きく見開かれネオンライトを吸い込んだ。光を吸い込みそれが初生の中に流れ込んで、時間の概念が自分の中から消えてしまったような長い一秒が過ぎた。セピア色の様々な映像が脳内を駆け巡っていく。過ぎ去った思い出や想いが心臓の鼓動を加速させる。
 カズミ――その言葉は初生の思考を停止させるには十分な効果があった。
 怪訝そうに少女は眉をしかめるが初生はそれに気づかない。
 ドクンと初生の心臓が強く脈打つ。そして激しさを増していく。
 かすめたナイフが切裂いていたジャケットから紙切れが落ちた。
 まだ幼い初生と一人の青年が観覧車の前で映っている写真だった――。
 真っ白な頭の中に浮んだ言葉は――死村一三。
 かつて強い女になれと初生に教えた人物だった――。
「じゃあ、もしかして、君の名前は――」
 少女は誇りと信念を声に宿しその名を名乗り、青い瞳が一際深く強く輝く。
「九六三……死村九六三(シムラクロス)」



4.


 手神綴流(てがみつづる)は進学塾の教室から見える夜景を眺め、『ああ、今日はバイトがなかったのよね』と思い出し小さく欠伸をした。バイトがない日はこうしてごくごく普通に塾に通っているがどうにも退屈で刺激のない時間だった。
 塾講師の男性が、『赤毛のアン』の英文をいつも通り、身振り手振りで情熱的に和訳する。生徒達はそれを極めて冷やかな目で見つめ、綴流はそんな講師や生徒達を見ながら溜息を漏らす。埋めがたい温度差が薄い膜のように張られていることに気づいているものはどれだけいるだろうか――等と考えながら教室内に響く、ペンを動かす音に耳を傾けた。その極めて機械的なリズムには、少しうんざりさせられる。同じことを繰り返し、ただただ黒板に書かれたことを暗記していく毎日は単調で、それはサビに辿り着かないポップスを永遠に聞いているようなものだ。
 窓の外を見れば藍空市の夜景が広がっていて――。
 見慣れた退屈な街並みがどこまでも続いて――。
 すぐ下の繁華街のネオンライトは煌びやかで――。
 数百メートルほど先の雑居ビルでは――。
 まるで鉄球を打ち込まれたかのように――。
 壁がこれでもかというぐらいぶち壊されていて――。
 黒板に向き直ろうとして、一瞬だけ、固まる。
 今、ぼんやりと何を見たのだろう――。
 女のだ。
 もしそれが見間違いでなければ自分と同い年ぐらいの女の子が素手でコンクリートを――気のせいだろうか。
 少女と同じように黒いコートの男が闇の中を舞っていたのは――。
「手神、どうした? 何を言っている」
 塾講師の太い声に気づき、綴流は慌てて前を向く。
「なんでもないです」
 綴流がそう言うと塾講師は溜息をついた。
「手神綴流」
 塾講師は語りかけるような声で、ふいに少女をフルネームで呼んだ。
「らしくないな、手神。それはあまりにもマーベラスではない」
「すいません」
 綴流が答えると、塾講師は自分の眼鏡のブリッジに人差し指を当てる。それは知的な印象よりも高圧的なイメージを人に与える仕草だった。
「我が塾の文系エースとして君には期待しているのだよ、マーベラスにね」
「ああ、はい」
 全く心を込めず綴流はそう答える。塾の評判や知名度を意識した勝手な期待に答える必要はないと分かっているからだ。
「もう少し授業に集中したまえ。君は常にマーベラスでベストな結果を出すことだけを考える義務があるのだ」
「すいません」
 綴流が適当に謝ると、隣の席の友人が小声で『大丈夫?』と尋ねてくる。
 綴流もいつもの調子で『ああ、心配ないよ』とだけ返す。塾講師は納得したらしく、眼鏡のブリッジを押さえ何度も頷いていた。
ちらりと窓の外を見れば真っ黒な闇がそれこそ永遠にリピートし続けるメロディのようにどこまで広がっていた。


 手神綴流が見た少女『殺姫初音』と、もう一人の男の戦いに巻き込まれなかったのは幸運だったのかもしれない。



5.

――それはまだ初生が人を殺める前のこと。初生とその少年が出会ったのは雨と煙の中だった。


 シマウマ模様の幕が祭壇を取り巻いて揺れていた。
 背伸びをして棺桶のふちから鼻先を出すと眠っている顔があった。そっと手を伸ばすと冷たい感覚がした。この時、初生は初めて人の死に触れた。祖父に促され離れても手には冷たいその感触は残っていた。これから幾度となく経験し、幾度となく生み出していく感触だった。
 初生は大人たちの会話を聞きながら、ジッと黒縁の中で微笑む写真を見つめる。
 初生の耳に届く嗚咽、降りしきる雨、白菊の花畑、鳴り響くお経、全てが灰色だった。
「死村などと関わらなければ」
 誰かが言った。
「先に内の者に手を出しておいてよくも。八属間の協定さえ守っていればこんなことには……」
 誰かが言った。
「死村も殺姫も悪くない。古い掟に縛られ無理矢理別れさせた我々にこそ責任はあるのではないかね」
「兄貴の子供の前でくだらない話をするもんじゃない。一番傷ついてるのは子供たちだ」
 良く見知った叔父がそんなことを口にした。
「しっかしねぇ。死村と殺姫を出て再婚したのが芹沢とはねぇ。トランシルヴァニアってのもまぁた傑作だねぇ」
 誰かが笑った。
「最初からこうなる運命だったのかもしれないよ。報復はどうするのさ」
 誰かが。
 死村の人、殺姫の人、誰もが死をそれぞれの形で受け止めている。そこには子供の入る余地など何もないことを強く感じさせられ胸の奥が黒い靄で包まれていくようだった。
 ふと、雨に濡れていた初生の肩に手が置かれる。
 振り返ると、そこに中学生ぐらいの少年が立っていた。少年は初生の顔を見つめ『たはは』と笑う。
「泣かないのか?」
 と少年が言った。
「泣けないの」
 と初生は答える。聞く人が聞けば『不人情だ』と憤慨したかもしれない。
 だが、少年は怒るどころか、『同じだな』と笑った。
「あの子の為だろ?」
 と呟いて、棺にしがみ付き泣きじゃくる初音の方を見つめる。
 『初生はお姉ちゃんだから初音を守ってね』――いつも母にはそう習っていた。 だから今、ここで泣いてしまうわけにはいかなかった。
 強くなければいけない、妹の為にも――。
 そんな気持ちを悟られ、初生は少年の体を両手で跳ね除ける。
「おまえになにがわかるっ!」
 必死に自分の体裁を保とうとする初生。
「おまえなんかに!」
 叫んでいた。それが自分の心を露呈させることは気づかずに。
 これで突き放せると思った。少年は離れ初生は自身の在り方を保てると思った。
 だが、そんな初生の予想を裏切り突き飛ばされた少年は微笑む。
 全てを受け入れる青空のような笑顔を浮かべて――。
 戸惑うほどにドキリとした。
 こんな笑顔が出来る人間がいること――。
 その笑顔の持ったとてつもない力、強さに――。
 それは今まで初生が信じていた強さを否定してしまえるほどの何かを持っていた。
「分かるさ」
「わかる……さ?」
『分かるさ』その一言に気づき周囲を見渡す。
 同じだった。
 周囲にはこの少年の兄弟らしき少女や少年たちが泣きじゃくっていることに。
 この少年は初生と同じものを抱えながらそれでも前を見て耐えている。
 そして、初生に手を伸ばしてくれていた。
 虚勢で固められた強さを否定してくれようとしていた。
 初生のことを分かってくれた。
「泣いてもいいンだぜ?」
 初生はグッと唇を噛み締め涙をこらえる。
「おまえなんかに……」
「泣いてもいいンだ。だってよ、俺はお前の――」
 

――それは死村家と殺姫家の合同葬儀のことだった。

「一三さん……?」
 ドクンと初生の心臓が脈打つ。
 恐ろしいほどの速さで血液が全身を駆け巡っていく。何も持ってない空の手が熱い。指先から全身の全てが熱を帯びたようだった。止まっていた時間が動き出すまでの刹那の時間、九六三の体がすばやくバックステップを刻む。そして華奢な体を窓枠に移し蒼い月を背にする。金色の髪を風に躍らせ流れるような素早い動きだった。
 自分の動きに迷いがない。自分のすることに迷いがない。自分の先に迷いがない。それこそ初生に欠けているものだ。蒼い瞳に宿った気高さは自分の生き方を信じ迷いを超えて来た者だけが得るものだ。
「今の私じゃ勝てそうにないね……」
 ポツリと聞こえないような小声で初生は呟く。勝気で負けず嫌いだがつまらないプライドにこだわるつもりはない。強い者は強い、弱い者は弱い、できないことはできない、初生はその事実をしっかりと受け止めることができる。
 初生の見つめる前で少女は僅かに、ほんの僅かに微笑する。初生と同じ勝気な瞳だった。だが、その瞳の中に凛とした何かを秘めている。
「お前が一三とどういう関係であろうと関係ない。敵ならば倒す、それだけだ」
 少女の体が闇の中に舞った。
 既に足場は夜空の闇に出来上がっている。
 浮かび上がったペットボトルやアルミ缶、その上に飛び移りながら軽やかに夜空を疾走していく。
 ゴミできた道は九六三がステップするたびに地に落ちていく。
 初生は後を追うことなく、その後姿の美しさに見とれていた。金色の髪が青い月明かりを浴びて煌々と煌くのがたまらなく綺麗だった。
 追跡は得意中の得意だが深追いをする気にもなれなかった。
 敵にすれば厄介な能力者であり、初生と同じ年ぐらいで自分の能力を完全に使いこなしている。なにより一三の兄妹だ。できることなら戦いたくはない。
 初生の視線の先で九六三は闇の中に消えていく。小柄なその体がどこかのビルへ飛び移ったことは伝わってくる着地音で分かった。九六三の次に気になっているのが階下の路地で戦っている妹のことだった。
 スーッと細い糸を手繰り寄せ選別するように、初生の耳に届く音を拾い集め選んでいく。闇の中に散らばった喧騒や静かな息遣い、全ての音を手当たり次第に集め識別する。それは初生が得意としている車の車種当てと良く似ていた。
――逃げるな、死村!
 僅かに聞こえた初音の声。
 その瞬間、初生は九六三と同じように窓枠から飛び立っていた。
――たはは。じゃあ、頼ンだぜ、初音。
――絶対伝えないからな!
 聞こえた。落下しながら初生はその声を確かに聞いた。
 初音とあの人が。
 いる、死村一三が。
 よくよく考えればあのブラコンでシスコンが妹と一緒にいないはずがない。
会える――。
 一三と会うのは一体どれぐらいぶりだろうか。
 それを思うだけで胸が不思議とワクワクしてドキドキして少し切ない。仕事中だというのに感情を抑えることができそうにない。それがプロのプレイヤーにあるまじきことだと知りながらも。
 音もなくアスファルトの上に降り立ち、初音に向かって走り寄る。
「一三さん!!」
 初生が駆けつけた時――。
「あ、姉貴」
 そこに立っていたのは初音だった。やはり体に傷一つなく、微妙に眉をしかめ髪をかいている。イライラが抑えられない、そんな感じだった。
「いつも通りだよ、あの弱虫野郎」
「これで十六戦十六勝だっけ?」
「十六戦全部相手にされなかっただけだけどね。おかげさまで怪我の一つもない」
 つまらなそうに初音は長い足でアスファルトを蹴り上げた。
 まともに一三が戦っていれば初音もここまで怒らなかっただろう。だが、一三はいつも通り初音に無抵抗で攻撃させた、それが初音には許せない。
 初音が本気で一三を殺しにかかったことは周囲の破壊痕ですぐに分かる。
 アスファルト、ビルのコンクリート壁に小さなクレーターが出来ていた。それも無数の流星群が降り注いだかのようにあまりにも圧倒的に破壊されていた。
 小さな拳の――跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡、跡。
 無音の闇突――『血坤(けっこん)』。それは格闘において天才と呼ばれる初音が独自で編み出した必殺打突。流れるような動きと連続性を重視した遊心八卦連関拳と技の複合がしやすい八極拳をベースとし、力学的に最も効率よく最小の動きで出せる突きを組み合わせた技だ。その結果、音もなく必殺の一撃を雨あられのように無駄のない動きで何度も放つことができる。それを呼吸が途切れるまで一三に加減なく使ったのだ。
 その結果、周囲の構造物には流星群が降り注いだような破壊痕が残された。言い換えれば全て一三がかわしたということだ。
 初生はため息と同時に初音の耳を引っ張る。大げさに痛がる初音も初生が何を言いたいか理解したらしい。
「ご、ごめん、姉貴。やり過ぎたよ」
「アンタねぇ。怪我がないからよかったけど」
 他にも言いたいことはあったがお説教は帰ってからすることにした。それよりも聞きたいことがある。
「一三さんに何か頼まれてたでしょ?」
「頼まれたって?」
「聞こえてたよ」
初音は言いにくそうにごにょごにょと口を動かす。一三の存在に気づかなければ黙っているつもりだったのだろう。
「だってさ、だってさ。姉貴こそそっちはどうしたんだよ?あいつの兄弟がいたんだろ?」
 まごつきながらも何とか話をそらそうとする初音。
 どうやら一三本人から妹と来ていることを聞いたらしい。
「どうしたって言われても……ンー。勝てる相手じゃなかったというか、なんと言うか。他にもちょっとしたことがあって後で詳しくは説明するけど」
ケロリと照れた笑顔を浮かべて頬をかく初生。本来は負けず嫌いだがそれは認めなければならない。
「それは姉貴が本調子でも?」
そう言われ初生は腕を組んで真剣に考える。
「この仕事にもしもはないからね。今日勝てなかったからもう戦いたくはないかな」
 あまりにも正直な言葉に初音は笑った。
 一三の妹ということを引いても戦いたくはないタイプというのが初生の感想だ。
「姉貴なら本当はよわっちい死村の妹なんて――」
「初音」
 静かな怒気がその一言に込められていたのを感じたのか初音は身をすくめる。
「ご、ごめん。姉貴」
 初生は戦った相手を馬鹿にされることを最も嫌う。戦う最中に挑発することはあっても一戦交えた後は馬鹿にしない。それがどんなに弱くても馬鹿でもろくでなしでもそれを嫌う。そして、しばらくは殺した敵のことを引きずる。それは初生持った優しさであり、甘さでもある。
 初生はそっと手を伸ばし初音の頬に両手で触れた。
「さっぱりと行こうよ、初音。戦いの後はさ、さっぱり洗いながそ? グジグジしたり戦いを自慢したりするのって嫌いだし格好悪いもん」
 本来、あがり症で照れ屋なので人と上手く話せず悩むことはある。殺し屋と中学生のギャップに苦しむことはある。未だに自分の生き方を決められない中途半端さもある。それでも初生はさっぱりとした気風の良さを持ち、心の中に夏風のような爽やかさを宿している。そういうところがあるから初生は人から愛される。ハニービーで見せる爽やかな笑顔とさっぱりとした性格は生まれ持った才能だ。
「本当にごめん、姉貴。そういうのってやっぱ戦士のすることじゃないよね。私が間違ってたよ」
 シュンとした初音の髪をなでて初生は優しく微笑む。
「いいよ。そんなことよりさ……」
 初音の頬に触れた手に力がこもる。初音の口から奇妙な声が漏れた。
「あ、姉貴?」
 少しだけモジッとした初生の声が小声になる。
「一三さんには何を頼まれたのかなーって」
 ビクリと初音の体が震えた。
「そ、それは――」
「もしかして私にかなぁ――なんて。うん、まぁ、何かを期待してたりとかそういうわけじゃないんだけど一応聞いておくべきかなって、うん」
「滅茶苦茶もじもじしてるやん。ど、どこがグジグジしないでさっぱりと――」
「それとこれとは別問題♪」
 さらに頬に触れた手に力がこもり両頬をムギュッと寄せ集められる。
「で、どんな用かなって」
 それは思春期特有の『もしかしたら』であり、初生の胸の中で妙に甘酸っぱくて淡い期待が次々とこみ上げてくる。デートとかお食事の誘い――。
 いやいや、それではまるで恋人同士のようだし、自分が一三のことを好きみたいではないか。違う。師として人間として尊敬しているだけだ――と自分に言い聞かせゆるみそうな顔を引き締めた。
「教えて、初音」
「い、いやだ」
 そんなことを聞かれたくない初音は頬を押さえられながら目線を逸らした。
 初音は初生に嘘をつかない。それは子供の頃からずっと守られてきたルールだ。ならばはぐらかすか、黙っているしかない。
「ね、お願い。初音、教えてよ。私にとってはすごく大事なことなんだよ」
 上目遣いに瞳を潤ませ頼み込む初生。言葉にするのが恥ずかしかったのか頬は僅かに桃色に染まっている。まるで甘えて尻尾を振っている子犬のようだった。それは初音にとっては十分な効果があった。一気に初音の耳まで赤く染まっていく。
 初音は赤い顔で悔しそうに唇を噛み締めた後、視線を逸らしたままため息をつく。
「話すから……一緒にお風呂入ってくれる?洗いっこ付きだかんね?」



『〜幕間〜異能達の夜』

 何の感情もなく躊躇いもなく逡巡すらなく――。
 豊かな顎鬚に触れながら、顔中に刻まれた皺を僅かに動かし笑みさえ浮かべ――。
 老人は薄暗いビルの中に散らばったそれを眺めていた。
「いやいや、派手にやったものだ。いやいや、全く。用心に用心を重ね、用心を怠らないという用心し、より用心深く用心し、いやいや、全く、殺されかけるとは」
 死村九六三と殺姫初生の戦闘終了後の荒れ果てた事務所内に老人のため息だけが木霊した。
「しかし、いやいや、しかし、私のことが見えていないとはいえ感づくとは。今後はより用心せねば。用心、用心……」 
 老人の名は王李。とある中国組織に所属する古株の構成員の一人であり、主に諜報などを担当し、組織から受けた任務の為に武中を殺害したのは死村九六三がビル内に侵入する数十分ほど前のことだった――。
 

 殺姫初生と死村九六三がファーストコンタクする前――それは闇の住人達が本格的に動き出すには早すぎる時間帯だった。
 ネオンライトの華々しさの裏、反吐が塗りたくられたような繁華街の闇の中でいくつかの黒いシルエットが蠢く。その影はどこにでもいるタイプの若者たちであり、あまり良い部類の若者たちではなく獲物を取り囲んで狩るように一人の老人を中心としていた。その老人もまたどこにでもいる老人であり、若者たちに囲まれる理由など特にはない。若者たちはその周辺を自分たちのチームの縄張りとし、不用意にもテリトリーに踏み込んでしまった老人が気に食わなかったようだった。
 若者たちは口々に汚い言葉で老人を罵る。それが自分の口にする最後の言葉だとは思わなかった。老人の手の中で一瞬、閃光が光る。老人の手にしていた黒い古ぼけたカメラだ。それだけだった。老人よりも一回りは大きい若者たちの体は次々と冷たいアスファルトの上に足元から崩れていく。それはまるで魂が抜き取られたかのように、重力に引き付けられたように。どちらにせよ、苦悶の表情すらなく倒れた若者達になど興味なさそうに老人はため息をつく。
 本来はそこまでする必要はなかった。ただ、この若者たちがあまり良い部類の人間でないようにこの老人もまたあまり良い人間の部類ではなかっただけだ。運がない、そう言ってしまえばそれまでだろう。だが『こちら側』の世界ではそういうことで十分であり、理不尽なまでの力の差や暴力が往々にして存在する。老人はそういう世界で生きている人間だった。
 老人の手にしたカメラからゆっくりと出てきた一枚の写真がアスファルトの上に落ち、その中には――若者達が映っていた。その代わりに倒れたのは老人の前に立っていたはずの若者達だった。
「いやいや、分からんだろうな。用心深くない連中には用心することの価値が分からないだろう。」
 老人は写真の中の若者達に向かって呟く。
 その言葉が届くはずもないことを知りながら老人は写真を見つめる。まるでテレビ画面のように、動画のように動く、写真の中を。若者達を。そこには街が写っていた、夜風でそよぐ街路樹も静かな月明かりも何もかも。
 老人には感じることができた。写真の中でいなくなった老人を探す若者達の声が。当の写真の中に閉じ込められた若者達の精神は自分がこちら側にいないことにすら気づかない。若者達は完全に隔離されてしまっていたが分かっていなかった。
 そうやってカメラを媒体にすることで魂を分離させ、写真の中に閉じ込めることができる。それこそがこの老人の能力『分離解放(リリース)』。発動条件は相手の姿を写真に写すことであり、それにより至極簡単に言えば幽体離脱、精神と肉体を強制的に分離させることができる。
 「用心深く観察したまえ。心霊番組などでカメラの中に赤い発光物などが時折写されることがある。それは生命体や物質から漏れるエネルギーが放出される刹那より短い時を捉えているからだ。君たちには分からんだろうがね」
 写真を月明かりにかざしながら王李は『フム』とうなった。『この辺か』等と呟きながら宙でナイフを振るう。すると変化は写真と倒れた若者の両方に起きた。写真の中の若者の胸骨が切り裂かれ、それは同時に倒れている若者の方にも起こった。勢いよく鮮血が飛び散る、うめき声もなく。叫んでいるのは写真の中だった。写真の中のアスファルトをのたうつ姿は至極愉快だった。
 老人が位置を確認しナイフを振ったのは写真の中で若者が老人を探している位置、現実空間の中では何もなくても写真の中では少年がそこにいた位置だ。老人は隔離された魂の世界と肉体の世界の両方に干渉することができる。それゆえの現実世界からの回避不能の絶対攻撃、絶対優位。老人は豊かな顎鬚に触れながら、顔中に刻まれた皺を僅かに動かし笑みさえ浮かべていた。もちろん、隔離され意識を失い倒れた肉体は決して攻撃しない、その方が残酷でいい、それだけの理由だった。

  ◇


 侵入してから数分、実にあっさりと簡単に問題もなく王李は武中を抹殺した。
 王李の名は日本人の異能者の中でも知っている者は多い。だが、知名度の割には戦闘能力に乏しく常に安全策を取り、今回の竹中事務所を襲撃した際も不意打って能力を使用してから竹中を殺害した。何度も何度もチャンスを待ち、確実に殺し任務を達成する。
 王李の最大の武器は能力ではない。その名を有名にしたのはその用心深さと蛇のような執念だ。
「ふむ、厄介なことになったな。用心せねば」
 床に落ちていた一枚の紙切れからそんな声が発せられた。紙切れは老人の映った写真だった。次の瞬間、手、頭、胴、足と王李の体が事務所の中へ現れる。能力の応用であり、自分だけなら肉体、魂ごと別の世界に隔離することができた。
 白い髭に包まれた顎に触りながら王李は事務所内に転がった武中の死体を眺める。まるで壊れた陶器を眺めるように、自分が殺した相手に何の感情も感じていなかった。
 何の感情もなく躊躇いもなく逡巡すらなく――。
 豊かな顎鬚に触れながら、顔中に刻まれた皺を僅かに動かし笑みさえ浮かべ――。
 老人は薄暗いビルの中に散らばったそれを眺めていた。
 死村九六三と殺姫初生の戦闘終了後の荒れ果てた事務所内に老人のため息だけが木霊した。
「ここにはないということは既に持ち出されたということか。用心深い連中よの」
 王李は辺りをもう一度うかがう。死村と殺姫の戦闘に巻き込まれ室内はボロボロであり、王李もその様を始終見ていたがハイレベルの攻防だった。あれだけの戦闘だ、巻き込まれていたら怪我ではすまなかっただろう。だが、王李にはそれを解決する手段がある。写真の中に隔離される絶対防御だ。離れた世界まで攻撃を届けることが出来るものなどいない、無問題。
 王李の懐から取り出された写真の中ではいつも通りに竹中たちが談笑や仕事に従事している。さきほどの戦いも王李の存在もまるで関係がないかのようでもあった。
 それは僅かにずれた魂だけの世界の中でのこと――。
 王李はその魂を『こちら側』からでもはっきりと感じることができる。『ああ、今この辺にいるんだな』と思うととても気持ちいい。それが自分だけではなく初生や九六三のように感覚能力が優れた者が、この世界からほんの少しだけずれた世界に閉じ込められた魂達の存在に気づくこともありそれはあまり面白くない。それでも竹中達が自身が死んでいることにすら気づくことなく、いつも通りに精神体として隔離された世界で生活を続けているのは愉快だった。自分が魂を感じる位置でナイフを振るうだけで武中は絶命してしまうのも最高だ。
 これは時間が経てば解ける能力だが戻る器は既に死んでいる。もう数時間で死んでいる肉体と生きている精神が重なり合えばこの世界ともおさらばだろう。そして、『あれ』がないと分かった今、王李もここにはおさらばだ。
「では用心しつつ帰るとするかね」
 探し物が見つからなかったならば根城に戻り次の手に移らなければならない。
 王李は一枚の紙切れとして乗り物や荷物に紛れ込み移動した。数本のバスと電車を乗り継ぎ足跡を残さない。王李は攻撃、防御、移動、全てにおいて完璧にこの能力を使いこなしている。
 それでも怖い。異能者は怖い。亜人種は怖い。魔術師は怖い。怪物は怖い。組織は怖い。『アレ』を手にするために様々な組織が動いている。『アレ』の存在すら知らない能力者さえこの事態に首を挟み始めている。この争奪戦はどこまで広まっていくのか考えただけで身震いがした。
 だから用心する。王李の能力よりも恐れられているこの異様な用心深さこそが王李のリミッターとなっていることに本人は気づいていない。そして、その用心深さは自分だけのものであることに気づいていなかった。
「戻ったぞ」
 薄暗い闇の中に王李の声が響いた。
 根城としている湾岸区域の倉庫に戻った王李を数十人の部下が出迎えるはずだった。
「なんだ――これは」
 王李はそう呟いたつもりだったが言葉にはならなかった。
 耳元に響くのはブルース。サックスの音色だった。
「知ってる? サックスの音ってさ、楽器だけが鳴ってるんじゃないんだ」
 目の前に男がいた。アクセサリーをチャラチャラとさせたスーツの男だった。男というには丹精で美しすぎる顔立ちであり、声も澄んで高い。
 そんな優男がサックスを手に何かの上に座り込んでいた。
「全身が共鳴して音色を作り出してるんだ。特にからだのなかの空洞ってのはよく鳴ってね、肉体を使って音色を作る楽しみ、それがサックスの魅力なのさ」
 王李はその男が何を言ってるのか理解できなかった。
 ただ男が座り込んでいるのは――。
「ここで眠ってる連中の音色はあまり良くなかったが、アンタの音色はどうかな?一つ試してみるかい?」
 自分の部下だった男たちだ。無造作に積み重ねられ山のようになっていた。切り裂かれた死体、叩き潰された死体、外傷もなく死んでいる者まで。
「さてさて、貴方のことをマークしていて正解でしたね。正確にはマークしたのは使えない貴方の部下なのですが」
 ふいに背後からかけられた声に気づき振り返るとそこにはもう一人スーツの男が立っていた。
「早めに貴方を始末できそうで安心しましたよ」
 嫌な笑顔の男だった。まるで世界をさげずみ馬鹿にしているようでもある。
「ああ、申し遅れました。私、我孫子と申します。こちらが奏屋です」
 サックスの男がうやうやしく頭を下げ一鳴らしした。
「以後があればよろしくお願い致しますね。まぁ、ないんですけどね」
 何十人もの部下を殺しておいてまるで何事もなかったかのように二人は言葉を紡いでいる。二人と数えることすら間違いかもしれない。王李はこの二人が自分とは全く異質の存在であることが分かった。レベルとか次元が違う。
『助けてくれ』――かすれた声で王李が呟く。
『どこの組織の者だ』とかそんな言葉は出なかった。本能は助かることを優先していた。この二人にカメラを使う一瞬でその腕を潰されることが理解できてしまった。
「すいません。それは出来ないんですよ。こちらも仕事でして。八房様が『アレ』を欲しておられるのなら手に入れるのが我々の仕事でして。貴方が持っている情報を全て頂きます」
 奏屋は返事の代わりに再び演奏を始めた。
「頼む。助けてくれ」
 伸ばした王李の指先が我孫子のスーツの裾に触れた。その瞬間、奏屋は『あーあ』と呟いた。我孫子の手がスーツに触れた王李の手を掴む。
「何、触ってるんですか?このスーツに。貴方の手、汚れてますよね?」
 柔和な顔のまま我孫子の声がほんの僅かに震える。それを奏屋は小さく『一オクターブ声が低い』と笑った。
 風が啼く。倉庫の闇の中で啼く。
 この時、初めて王李はカメラを使おうと思った。怖い、だが戦わなければならない。今までずっと格上の相手とやりあったことなどなかった。分かるからだ。自分よりも強いと一瞬で。でも今は違う。戦わなければならない。
「困りましたねぇ。クリーニング代ちゃんと払ってもらえるんでしょうか?」
「我孫子、我孫子」
「申し訳ないですが今日中にですよ?私のいつも使ってるクリーニング屋の閉店まで時間がもうないんで急いでくださいね」
「我孫子、我孫子」
 奏屋に呼ばれていることに気づき、我孫子は奏屋に視線を移す。奏屋は指で王李を示した。
「バラバラだよ、我孫子。粉々だ。もうそいつの音楽は聞こえない」
 我孫子の握った手の先の王李は既に原型を留めていなかった。
 そのことにようやく気づき、我孫子は『ああ、困った』という顔で髪をかきあげる。
「お前の悪い癖だ」
「面目ないです。直そう、直そうと思っているんですがあの方から頂いたスーツのことになると」
 掌を振りながら安孫子はいつも通りに微笑む。
「ま、悪癖もお前の音色さ」
 そう言うと奏屋はもう一度サックスを一吹きした。
「クリーニング屋の閉店までに間に合うといいんですけどねぇ」


『〜幕間〜血の海で生まれ血の海に帰る』


 『ハニービー』に初生と初音が戻る頃、時計の針は午後十一時を示していた。
 夜の闇が深まり眠りにつく者、訪れた夜の闇に身を任せる者、野生動物の住み分けのように犬杉山はもう一つの顔を見せ始める。夜の住人たちが動き出す頃、喫茶『ハニービー』では『CLOSED』の看板が下げられる。どちらに生きる者にとってもここは梟たちの宿り木のような場所だ。そういう者たちのために『ハニービー』の扉はもう一度開かれ、コレクションのレコードは再び歌い出す。
初生たちから仕事の報告を聞いた後、初樹がグラスを磨いているとドアベルの音がした。
「こんばんは」
 店に入ってきた老紳士は黒い帽子を取り静かに微笑む。初樹が挨拶を返すとカウンターのストゥールに腰掛け帽子を置いた。
「貴方がこの時間にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「ええ。眠る前にここのカフェラッテが飲みたくなりまして」
 もちろん、初樹はそれが半分冗談と知っている。この老人の時間はこれから始まるのだから。
「初生ちゃんたちはもうお休みになられましたか?」
「さっき帰ってきて休んでるところです。明日は学校もあるので」
 学校、宿題、部活、恋愛、その他諸々のありふれたこと――。
 例えそれがフェイクだとしても日常は疎かにしては隠れ蓑の意味がなくなってしまう。
「そうですか」
 そう言いながら老人は懐から茶封筒を取り出す。
「頼まれていた藤原大連に関する情報です」
 そして、初生がカウンターに置いた封筒を懐にしまった。
「随分と仕事が早いですね」
 カフェラッテの準備をしながら初樹が静かに呟いたが正直に言えば驚いていた。未だに現役で活動している一流の情報屋だけはある。
「目立てばそれだけ情報が動きますからね。特に藤原大連の周囲で幾つかの組織も動いているようですよ。どうにも八橋組の八代目殿は今回のことに御執心のようです」
 老人はそう言いながら一枚の写真を取り出す。写っていたのは中国系の老人だった。名前は王李、こちら側ではそれなりに有名な術のこと使い手だ。空港のカメラか何かに映っていたものだろうが、まさか来日しているとは思わなかった。
「維持原が死んで中国組織は風当たりが強くなったと聞いていたが――」
 ミルクを泡立てながら初樹が呟く。
 構造改革特区構想案により国内へのカジノ導入を提案したのは、中国系マフィアと強いつながりのある東京都知事維持原瓶太郎だった。維持原は構造改革特区構想案を利用し中国系マフィアの国内侵出の舵取りをしていた。だが、維持原が死亡しそれが失敗した今、中国系組織への風当たりは強くなり黄塵会の外人締め出し政策が始まっている。
「王李も今回の件に?」
「どうやら藤原大連の周囲を探っていて数時間前に殺害されたようです。無論、死体はわざと残したのでしょうな」
「今後この事件に絡んでくる組織と――」
コクリと老人は頷きながらメガネのズレを直した。
「異能者への警告――ですな」
 泡立てたミルクの上から濃いめのエスプレッソを注ぎながら初樹はうなづく。
 黄塵会、中国系組織、死村家――様々な闇、異能、異形が藤原大連を巡り動き出している。その中心にいるのは藤原大連だ。
「初生ちゃんたちが今回の事件に関わっているそうですね」
 差し出されたカフェラッテを受け取りながら老紳士は神妙な顔を浮かべる。
「出すぎたことかもしれませんがこのまま今回の事件に初生ちゃんたちを関わらせてしまうのはあまりにも――」
「我々は血の海で生まれ、血の海に帰る――」
 ふいに初樹の瞳に鋭さが宿る。
 どんな感情にも当てはまらないただ無機質でギラリとした銀の刃のような鋭い輝きだった。
 老紳士はその輝きを見つめしばらく黙っていたが、静かにカフェラッテを飲みだす。
「歳は取りたくないものですね」
 そして、ポツリと短い一言を呟いたのだった。
「私は願ってしまうんです。あの子達が既に人を殺しこちら側の住人となってしまっていたとしても、血の海で生まれ闇の中でしか生きられない定めだとしても、どうか私たちのように壊れてしまわないことを――」





 

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