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デザイン/みそそぎシャギー

『死村家の人々。』



『サツキ・ダブルスタンダード〜プレリュード〜』

 憂鬱な雨の日の放課後は少し悩む。
 一つはヨーグルトミルクドリンク。
 もう一つはミルク珈琲。
 昇降口に設置された古びた自販機。
 その前で少女が『むー』と唸る声は、窓の外の雨音に混ざりかき消された。
 夕時雨の細い雨のラインが駐輪場のトタン屋根を浅く打って弾ける軽やかな音。屋根の真直ぐに走る溝を伝い、濡れたアスファルトに打ち付けられる音。
 それが少女の耳にははっきりと聞こえていた。
 耳に入ってきた周波数(ピッチ)が自然にドレミファなどにラベリングされていく。雨が真直ぐ綺麗に地面に落ちないでアスファルトや鉄筋に落ちる為、砂漠や草原と違い音の質が変化している。少女の小さな耳はそれを聞き分けながらもう一度『うーん』と唸った。
 水泳部の筋力トレーニングの後は、この二つのドリンクの内どちらかで喉を潤すのがこの少女のさりげない幸せだったりする。
 ヨーグルトティストも捨てがたいが、ミルク珈琲も捨てがたい。迷いながら少女は塩素で茶色になったショートヘアに触れる。
「初生、何してんの?」
 ふいに背後から声をかけられ褐色の初生(はつおい)と呼ばれた少女は自販機の前で指を彷徨わせながら振り返る。
 声の主は水泳部の部長だった。中学生の癖に小学生と交際し光源氏計画を実行しているある意味凄い人だ。
「おっす、部長」
 初生は八重歯を見せ子供のようにニパッと笑う。爽やかでありながら子犬のように愛嬌のある笑顔だった。
「んー。ねぇ、部長だったらどっちだと思う?」
 初生の指先が二つのドリンクを指さす。すると部長は『はぁ?』と鼻で笑う。さもくだらないと言わんばかりに腰に手を当てた。
「アンタ、そんなことで悩んでるの?そもそもアンタ、辛党じゃなかった?」
「うん、基本的には。でも、たまねぎ以外だったら大丈夫。アレって食べるとなんか貧血みたいになるよね」
「私に同意求めてんじゃないわよ」
『アンタ、犬じゃあるまいし』と部長が毒づいた後、自販機を眺めながら『ふむ』と頷いた。
「知ってる?こういう時って両方押すわけよ」
 部長のしなやかな指先がチョキを作る。そしてピコピコと点滅を繰り返す二つのボタンを同時に押す真似をした。
「そうすると真に買いたいほうが選ばれるってわけよ。これぞ、人間力」
「えー。両方選ぶのってなんか不純じゃない?」
 口先を尖らせる初生に部長はチッチと指を鳴らす。
「両方選んで生きていける人間なんて一握りよ。だからこそ、人間は最高の選択ってのを考えるわけ。もしくは自分で最高を作り出すもんなのよ」
 それが小学生の男を自分好みに育てる光源氏計画。恐るべし。
「よし、やってみるね」
 初生は部長に言われた通り、両方を押す。
 ピコピコという電子音の後にガシャという機械音がした。
 その直後、取り出し口に選ばれたジュースが転がる音が響く。
「え?」
 初生が眼を大きく見開いて思わず呟く。
 出てきたのは何故かカロリーメイトドリンク、チョコレート味。
 『ありえねー!!』と部長が腹を抱え笑い出す。確かにありえない。
 初生は呆然とカロリーメイトドリンクを見つめる。
 それは紙コップの自販機で原液だけ出て来た時の理不尽な気分だった。
 よくよく見ればボタンと機械の隙間に何かが挟まれ、カロリーメイトドリンクが常時選ばれるようになっていた。
 両方選ぼうと何だろうと最初から決まっていたのは少しへこむ。
「飲んだことないけど、これっておいしいのかな?」
 見るからにまずそうなスチール缶を見つめ、もしかしたら意外とおいしいかもしれないとポジティブに気持ちを切り替える。
「ああ、私飲んだことあるよ」
「おお、マジですか」
 さすが部長、勇気がある。初生は買う気にもならないのに、好奇心だけで初生の出来ないことをやってのける。そこに痺れる、憧れる。
「それね」
 もったいぶって部長が笑う。
「すっげぇの。超微妙なのよ」
「うわ、不味くもないし美味しくもないの?」
 雨の日のトレーニング後の楽しみが台無しだった。
 この後、実家の仕事を手伝わないといけない初生の唯一の慰めだったのに。
 心の慰めを奪われ、期末テストも近いのに家業を手伝う、それが少し憂鬱だった。
 そんな鬱屈とした気分のままの初生と妙にテンションの高い部長は並んで下駄箱を抜けて駐輪場まで歩き出す。
「あ、そういや、初生。マサジとアキミツの新曲聞いた?」
 人気アイドルグループのデュエット、いわゆるジャニーズ系と言う奴だ。
 最近の音楽ランキングで上位をキープしているらしい。
「あれ、部長ってジャニーズ好きなの?」
「ううん、バックダンサーの小学生が可愛いのよ」
 なるほど部長らしい。目の付け所が明らかに違う。
「歌の方もそれほど嫌いじゃないけどね」
『そうなんだ』と相槌を打ちながら初生は少し困る。初生はあんまりそういうのが好きではない。アイドルソングで泣いてしまう人間の気持ちが全く分からない。
 初生が初めて感動した曲はニルヴァーナ、最近はピロウズとスネオヘアーの曲で胸がキュンときた。個人的に一生、ファンで追いかけようと思う。
 でも、そういう普通の女の子が聞かないような音楽を好きと言ってしまうのはどうだろうかと思う。好きだという確固たる気持ちはあるが、普通の女の子ぽくない気がして人には言えない。
 車が好きとクラスメイトに話し『初生、渋い趣味というか変わってるよね』と言われてしまったことがある。変わってるねの副音声が分からないほど初生はずれてないが、初生としてはごくごく普通のつもりだった。
 双子の妹とはしょっちゅう、『乗るならプレジかロードスターだよね』等と話していたりしたせいもある。
『変わってるね』と言われたのが、普通の女子中学生は車に興味を持たないと気づいて瞬間だった。
 勿論、お洒落とかファッション、恋愛を愛する普通の女の子の部分も確かにある。だが、初生はマイノリティに価値を見出しておりそれが悪いとは思うことが出来ない。
 そんな『初生マイノリティ論』を口になどできず、それ以来は出来る限り普通の女の子っぽい発言を心がけている。
 話を合わせ、『あのアイドルって格好いいよね』とか『あのドラマ見た?』とか、どこにでもあることを口にするようになった。
 そんな自分に『それってどうですか、自分を誤魔化して生きてませんか?』等と思ったりすることもある。
 周囲に合わせてしまう自分に対して疑問を持つのは、誰にでもよくある悩みかもしれない。本当は自分はこうなんだと主張できる人間はどれだけいるだろうか。
 初生にはそれが少し重たい。
 家業、仕事、趣味、家族のこと――。
 殺姫初生(さつきはつおい)には、そういう言えないことが多すぎた。
「ウチの妹ってテレビでああいう曲が流れるとチャンネル変えちゃうんだ」
「初音はロック命だもんね」
 と部長が笑う。
「ま、嫌いでもないけど心に響く歌じゃないのは確かだわ。なんつーの?軽い?」
「あ、やっぱり部長もそう思う?なんかスナック感覚だよね」
 心に響く歌が皆の好きな歌である必要はない。マイノリティが全ていいものではないのと同じで、マイナーであることがいい歌の条件ではない。メジャーかマイナーかなどは関係なく、その歌詞が音が心に届くかが本当に重要なことだ。
 そういう初生の好みを理解できるのはいつも遊んでいる仲間や部長、どちらかと言えば少数派の人間だった。そうやって似たもの同士が集まるのはよくあることだが、同じことを感じてるのが自分だけじゃないと思うと少し嬉しかったりする。
 初生は駐輪場でカロリーメイトドリンクを口にした。チョコレート風味だが確かに味は微妙。例えるなら微妙なB級映画を見たときの気分に似ている。部長は初生の顔を見て『ね?ね?』と得意げだった。
 部長は何かを思い出したかのようにポンと手を叩く。
「カロリーメイトで思い出したけどさ。初生。こないだ野球部の工藤君からラヴレター貰ってたじゃん」
 ピタリと初生の足が止まると部長はニヤリと笑う。人の噂話で盛り上がる主婦のような表情だった。
「なんでカロリーメイトでそんなこと思い出すの?」
「丸坊主、カロリーメイト、白球は青春の代名詞じゃん」
 そんなこと聞いたこともない。
「で、返事はしたわけ?」
 部長の問われた初生は目を逸らしグラウンドを見つめる。その先では雨の中、野球部員達が必死で練習していた。それを眺めながらポツリと初生は呟く。
「苦手なんだよ、そういうのって」
「苦手?」
 初生は両手を頭の後ろで組みながらつまらなそうな顔をして見せた。
「そっす。男の癖に人に手紙渡して貰ったりとかさ。好きなら自分で手紙ぐらい渡してくれないとね。せめて私よりタフじゃないと」
「おうおう。強気ぶっちゃって」
「強気、勝気が私のポリシーっすから」
 『強い女になれ』――初生にとって大事な人が与えてくれた言葉だ。初生はそれを信じている。
「で、アンタはそのまま返事を返さないと♪」
 からかうような部長の言葉に初生は『う〜』と唸り唇を尖らせる。部長は笑いながら初生の頭をなでた。まるで子供をあやすように。
「アンタ、本当に色恋沙汰に弱いよね」
「べ、別に弱くないよ。ちょっと経験が少ないだけであって――」
「将来の夢はお嫁さんのくせに」
 その一言で初生の顔がカッと赤くなってしまう。確かに小学校の卒業文集でそんなこと書いた。しかし、それは子供の頃のことであり――道は既に決まってしまっている、初生の意志とは関係なく。
「何照れてんのよ」
「べ、別に照れてないよ」
 意地悪く笑う部長にそれ以外言い返す言葉がなかった。
「ま、恋愛で困ったことがあったらさ、私に言いなよ。お姉さんがすぐにサポートしてあげるからさ」
「そうやって玩具にするくせに!」
「ホホホ、今更何を言っていらっしゃるのよ、初生さん。人の恋愛ほど面白い玩具は――」
 部長がそこまで呟いた瞬間には初生の体は飛んでいた。
 褐色の長い足が空を切裂いていた。空中を蜂のように舞う見事なボレー、標的は青春のシンボル。キラービーが狙った獲物に棘を刺す。
『あ』と部長が呟いた時、パンと風船が割れるような響く。初生がアスファルトに着地すると遅れて千切れた小さな布欠片もパラパラと地面に落ちた。
 野球部の流れ弾は容赦がないほどに四散していた。どうやったら軟球をここまで破壊することが出来るのか、元は何だったのか分からないほどに千切れている。
「部長、怪我はない?」
 先ほどまでのまごついていた初生とのギャップのせいか、部長はぼんやりとしていた。
「うん、ないけど、初生、アンタ……」
 野球部員達とも呆然としたまま初生の方を見ていることにようやく気づいた。信じられない物を見たと言わんばかりだった。
 初生はギュッと歯を噛み締める。
 しまった――と思った。学校では目立つなと教えられているのに。
「部長、あの……」
「初生……」
 怪しまれている――初生が言訳を口にしようとした。
熱くなるな、常に己を抑え、周囲に合わせ爪と牙は隠せ――初生は実父にそう教えられてきた。『こちら側』の人間はそういう生き方をしなければならない。
「初生、スカートの中モロ見られたよ?」
 違った――。
 慌てて両手でスカートを抑えたが既に遅かった。真っ赤な顔で口をパクパクさせる初生。
「あ、あの殺姫さん、ボールを――って粉々に……」
「あ、工藤君じゃん」
 呆けた顔で初生を凝視する球児達の中、工藤工作が声を上げた瞬間――スチール製の缶が矢のような勢いで空気を突き抜けた。
何かを言う暇もなく。避ける暇もなく。
 顔面でカロリーメイトをキャッチした工藤工作はマウンドに散った。
「あー。ありゃ死んだわ。どうせならラヴレターつけてやれば良かったのに」
「これで十分だっての!とどめ、とどめを!」
 初生がジロリと睨めば青春球児達は何事もなかったかのようにポジションに戻っていく。ノーサインでの一斉行動はチームワーク良さを感じさせた。
 情けなさから少しだけ瞳を潤ませた初生の頭を部長がポンポンと叩く。
「まぁ、あれよ。犬に噛まれたと思って諦めなさいって。大人になるためのステップだって」
 と、部長はなだめてくるが、当然、そんなこと出来るはずもなく八重歯を尖らせる初生。強気なようでいて意外と純情なところがあったりするのを初生は未だに認めていない。あまり自分の弱さが露見するのは好きではないからだ。
「ほら、帰るよ。私には王子様が待ってるんだから」
 部長は文句を言いたげな初生の背中を押しながら歩き出す。
 恥ずかしさで身悶える初生はこの時、携帯の着信――仕事の連絡に気づいていなかった。

 


 

1.『ガール・ミーツ・スタンダード』


 喫茶『ハニービー』。
 雨の日の閉店後の三十分間。その僅かな時間に『黒犬(モーザ・ドゥーグ)』は現れるという。
 犬杉山町は人口数百万人の狭間市から、さらに車で三十分ほど離れた地方都市だ。
 川沿いの狭い平野に広がる田んぼと点在する集落。国道沿いの町並みという風情は、都会であるはずもなく、かと言って日本の原風景などと言い表されるような田舎でもない。あまりにありふれた地方都市だった。
 犬杉山中学校から河川敷沿いの土手を通り、少し歩くと狭い商店街が横切っている。
 犬杉山商店街と呼ばれるその道は、犬杉山市内では有名な神社へと向かう昔ながらの街道だ。
 二十年ほど前に作られた新しい国道沿いへと市内の中心が移りつつある今も、犬杉山町の中心街だった。
 学校から土手を通ってきて、商店街を右に曲がれば町で唯一の駅があり、左に曲がれば神社がある。その先は川沿いを遡って小学校や、山沿いの集落へと通じている。
 そんな狭い通りが犬杉山町の商店街だった。
 喫茶『ハニービー』はラーメン屋『にのまえ』の隣にある。
 『ハニービー』はお年寄りから高校生まで幅広い年齢層に愛されている。全体的にクラシカルなデザインの中にも、黒板に模した壁掛けにメニューが書かれていたり遊び心が散りばめられていた。それがどことなくビターな雰囲気をマイルドにしている。
流れるジャズの選曲も知っているものなら唸るような曲が選ばれ、マスターである殺姫初樹(さつきはつき)のセンスがうかがえる。研ぎ澄まされたセンスの良さと腕は比例し技術も熟練の域に達している。
 初樹の珈琲を淹れる手つきには淀みがなく、その瞳に宿る僅かな翳りさえ珈琲を彩るエッセンスとなる。その立ち振る舞いに惹かれる女性は多いが、初樹はまだ結婚をしていない。
その年齢になるまで一人身だったのは仕事のことや一人が好きだったということもある。何より初樹は他者を必要としない。初樹の人生にミルクやシュガーは必要ない。
 混ざり合うことはなく――。
 甘さを求めることはなく――。
 ただただビターでブラックであればいい。
 誰もが初樹はそのまま一人で生きていくと思っていた――娘を育てることになるまでは。
「お父さん、店先の掃除終わったよ?」
 玄関から箒を片手に少女が店の中に入ってくる。娘の一人、初生だ。どことなく端正な顔立ちは初樹に似ているが、初樹と血は繋がっていない。亡くなった兄の娘だからだ。
「ああ、そのままレジに入ってくれ」
淡々といつも通りに初樹が呟く。
 ストゥールから立ち上がった常連の老紳士が、初生が勘定をしているレジに近づいていく。
 学校から帰ったばかりの初生はセーラー服の上にエプロンを着込み店を手伝っていた。その短くカットされた髪は女の子らしさよりも明るさと人懐っこさを感じさせる。まだまだ女性らしさのない体つきには短い髪がよく似合っていた。女らしくないと言われることを気にしているが本人の気づかない魅力の一つであり、その髪型や勝気な瞳は笑顔とマッチしている。
 初生は愛想のいい笑顔とチョコンとした八重歯を見せ老紳士に頭を下げた。常連の客には必ず頭を下げるように初樹は教えているし、初生自身お客は神様だと信じている。祈った人間しか信じないせこい神様よりはマシだ。
 信じる心の生み出す初生の笑顔には力がある。自然と人の顔を綻ばせる力だ。初生の褐色の肌に浮んだ笑顔を見て老紳士が微笑んだ。
「小雨だったのに強くなりそうですねぇ」
 老紳士が微笑みながら、レジに置かれた『ハニービー』のマッチを大事そうに手にする。在庫の余った軍用マッチを加工したものだ。
「夕方から雨足が強くなるそうですよ」
 初樹はそう答え窓を見ると、クレセントの向こう側で水滴が窓ガラスを滑り落ちていた。
「あ、これどうぞ」
 老紳士に向かって初生の細い手が黒い傘を差し出す。傘を持ってないことを察しての行動だった。
「ありがとう、初生ちゃん」
 本日最後の客である老紳士は『また来させて頂きますね』と微笑みながら帰って行き、初生がいつも通りそれを見送る。
 老紳士がドアを開け出て行く時、外は風が吹いていた。この町に入ってきたばかりの新しい風だ。
 犬杉山町に入ってきたこの風はどこにも行かず、いずれは勢いを凪がれてしまうだろう。その吹き溜まりの凪に辿り着くのは、心が向かう場所のない人間――居場所を探す人間だ。
 この商店街で暮らす人々や初樹のように、様々な風が渦巻く中で疲れた人間がこの町を訪れる。そういう人間が最後にこの町に辿り着く。追い風、向かい風、北風の中では人は疲れてしまう。だから、癒しや救いを求める人間にとってこの町の風は優しい。初生は犬杉山のそんな風が好きだった。
 名残惜しさを感じながらドアを閉め、カウンターの片づけを始めると柱時計が鳴る。
 五時だ――。
 それに混ざり車の止まる音がした。
「ン。この音はリンカーンコンチネンタルだね。いい音♪」
 と、初生は推測する。
「俺には分からんな」
 と、初樹はぼやくがそれが当たっていることを知っている。車の車種当ては初生のさりげない特技の一つであり驚異的な的中率を誇る。初樹が珈琲の種類匂いだけで当てることができるのと同じぐらいに当たる。
「初生、看板下げてくれ」
 初樹がいつもの静かな口調で呟くとと、カレンダーにバツ印を書き込んでいた初生は『はいよ』と返事する。それを見つめながら初樹は小さく『フム』と呟く。何を書き込んでいるのかは初生以外には分からないことであり誰にも教えていなかった。そんな年頃の娘の行動が不可解になってくるのは初樹も理解しているのか尋ねることはなかった。
「複雑な年頃だな」
初樹のぼやきになど気づくことなく、初生がドアノブにかかっていた看板を『CLOSED』にしようとした。
 その時、ドアの前に和服を着た老人が立っていることに気づく。
 こざっぱりとした印象だが、肩幅の広さや恰幅の良さのせいか威厳がある風体だった。
 全体的に肉付きのいい老人だが、目には異様な何かを宿している。
 背後には黒スーツの男が三人。上から下まで真っ黒なスーツを着た男だった。背が高く身体も引き締まっていた。特に老人の背後に立つ愛想笑いを浮かべた男は他の二人と異なる。どちらかと言えばマスターや初生と同じ匂いを持った人間だ。初生もそれに気づいて愛想笑いの男から視線をそらさない。車にはさらに二人待機している。一人は口元を髑髏の描かれた布で覆った長髪の男、もう一人はジャラジャラとアクセサリーをつけてヘラヘラとしている優男、合計五人の護衛と老人が一人。
 作り笑顔の男――。
 髑髏の布の男――。
 アクセサリーの男――。
 この三人は他の黒スーツとは格が違う――。
 シュガーやミルクのある世界ではなく、ブラックで限りなくビターな世界で生きている――。
『この人たちが連絡のあった仕事の相手?』と初生が目線で合図を送ると初樹が頷いた。
初生がそれを眺めていると、老人を先頭に男達も店内に入ってくる。カウンターの前で愛想笑いの男がストゥールを引く。
 すると恰幅のいい身体がドッカリと腰掛けストゥールを軋ませた。男達は老人の後ろで立ったまま微動だにしない。良く躾ができている証拠だった。
「お客様、当店は五時閉店で……」
 初樹がそう言いかけると、老人が真直ぐ背筋を伸ばし答える。
「ブラック・ドック・セレナーデを。黒犬(モーザドゥーグ)」
 老人がしわがれた声で呟く。
 その言葉の意味を確認する沈黙で店内が覆われる。
 初樹がレコードを取り替え、ほどなくして男性ジャズの声色が響き始めた。
 『ブラック・ドック・セレナーデを』、それが合図だった。
 雨の日の閉店後の三十分間。その僅かな時間に合言葉を口にする者が現れた時。
 喫茶『ハニービー』ではなく、『殺姫一族』としての時間が始まり――。
 『ブラック・ドック・セレナーデ』の調べと共に殺姫の裏事請負人は現れる――。
 『死』を友として、『罪』を愛し、『罰』に抗いながら、『闇』の中で笑い、『悪』に身を窶す。『魔』なる業を持って、生きる『屍』を切裂き、『殺』めし者の命を、『墓』石に刻み込む。邪道と外法、キリング&デッド。千人殺しの裏事師――八属殺姫の長、その名は『黒犬(モーザ・ドゥーグ)』。
 それがミルクとシュガーに隠れたハニービーのもう一つの顔、『殺姫』だった。


 

1.『プロローグ2』

「仕事を請け負って貰えるか、黒犬(モーザ・ドゥーグ)」
 老人の鋭い眼光に怯むことなく初樹はいつも通り頷く。
「仕事次第ですよ。着手金はお持ちで?」
「百万だったか、おい、我孫子(あびこ)」
 後ろに控えていた愛想笑いの男が袱紗に入った札束をそっとカウンターに置く。
 すると初樹が目で合図して初生がそれを数え出す。
「おい」
 それが勘に触ったのか、護衛役の男の一人が声を荒げる。信用されてない、それが気に喰わなかったのだろう。
 男が初生に向かって手を伸ばす。男の太い腕が初生の華奢な肩をつかもうとした瞬間、細くしなやかな白い手が容易くそれを止める。
「どうか勘弁してあげてくださいな」
 腕をつかみ止めたのは愛想笑いの男だった。
 穏やかな口調で男はそう微笑む。表情や仕草は柔らかで穏やかでもそこには何の感情も宿っていない。そのにこやかな作り笑顔と同じだ。
「我孫子さ――」
 腕を押さえられ声を荒げた男を老人がジロリと睨んだ。
 すると男は『申し訳ありません』と呟きながら悄悄とした顔で下がる。どうやら躾は出来ているが、経験はまだ浅いようだ。番犬は吠える相手を見極められなければならない。
「すまんな」
 老人が短くそう言った。
「まだ名乗ってなかったな。儂は黄塵会八橋組第八代組長、八房完治だ」
「八橋組のお噂は承っています。『ファクトリー』の名前を知らない者はそういないでしょう」
 僅かに八房の口元が緩んだ。そこには揺ぎない自信すら感じさせる。手の中の切り札をみせびらかすような優越感すらあった。
「そうか。知っているか」
 黄塵会が先月亡くなった東京都知事の維持原や政界と関わっているのは有名な話だ。その両者の間にはどうしても『ファクトリー』の名前が付き纏う。
「私は殺姫初樹(さつきはつき)、そちらにいるのが娘の初生です」
 初樹に紹介され初生がうやうやしく頭を下げる。すると老人は身体を揺らし笑った。
「こちらこそアンタの噂は大分聞いとる。今まで裏事で一度も失敗したことがないそうだな。黒犬にこなせない仕事はないとまで言われとるらしいじゃないか」
「昔の話ですよ」
 グラスを拭きながら初樹が答えた。謙遜でもなく初樹は本気でそう考えていると初生は知っている。
 昔のことは昔のことでしかない、それがどんなに輝かしい栄光であろうとすがるのは愚かなことだと初生は教えられてきた。
 己への慢心や過信は身を滅ぼす。それはこちら側の世界では尚更だった。
「引き受けるかは仕事次第だと言ったな」
「ええ、何の御依頼で?」
「ああ、これを見てくれ」
 老人がそう言うと、我孫子と呼ばれていた愛想笑いの男がそっと老人の着物の肩口をはだけさせた。
「分かるか、これが」
 初生が『うわぁ』と呟き思わず口元を覆う。それは女子供には少し刺激が強い代物だった。初生につっかかった男は再び睨んだが今度は動かなかった。
「似たような物を見たことがあります」
 極めて冷静な初樹の言葉に老人が頷く。
「どうすればいいか調べてみたがダメだった。祈祷師も祓師も糞の役にも立たん」
 老人は顔をしかめながら自分の肩口を見た。
 そのしかめた顔とは反対に老人の肩からは『ゼヒッゼヒッ』という笑い声がこぼれた。
 男の肩口に出来上がった赤黒い顔が笑っている。口の端をクッっと吊り上げ、五つの目を細めている。醜悪でいて人をくったような顔つきだった。それが動く度に、ぐじゅぐじゅのトマトのような醜い皮膚全体が小刻みに動く。
 初生が口元を押さえたわけも分かるというものだ。
「呪いですね。放置していい部類の呪術じゃない」
「らしいな。心当たりはあるんだが……」
「心当たりと言うと?」
「呪術師、藤原大連。頼んだ仕事の揉め事でな。随分前から行方が分からなくなっている」
「藤原大連……『百足(ポドゾル)』の大連ですか」
「ああ。我孫子が動ければ良かったんだがな。本部との仕事の関係で動けんかった」
 作り笑いを浮かべたまま我孫子という男がうやうやしく頭を下げた。
「百足……ですか」
「そいつを見つけ出して欲しい。後は全てこちらで行う」
 少し考えた後、初樹は答える。
「分かりました」
こちらで行うというのは自分の手で呪いをかけた復讐をしたいということだろう――初生は始末を頼まれなかったことに少しだけホッとした。
「その仕事、請負いましょう」
珍しく初樹がすんなりと仕事を請けた。普段は裏を取ってから請けるか判断するのだが。調べるだけの仕事ならそこまでリスクは高くない――初生たちの養育費や学費を考えれば受けたい仕事でもあるのかもしれない。それにこの老人なら着手金だけで払い渋るということもなさそうだと踏んだのだろう。
「では頼んだ」
 老人がそう言った後に立ち上がると、愛想笑いの男がストゥールを戻す。
 初生が窓の向こうを見れば、ドアの外にはあの二人が立っていた。
 髑髏描かれた布で口元を覆っている男は鞘袋を。アクセサリーをチャラチャラつけた金髪の男は獲物を持っていなかった。初生は二人から視線を逸らし八房を見送る。
「雨が降ってますからお気をつけて」
 初生は去っていく男達を送り出しドアを閉めようとした。
「お嬢さん」
 我孫子が振り返り初生に呟く。
「ウチのを殺さないでくれて助かりました」
 我孫子は初生に突っかかってきた男のスーツの腰周りがスッパリと切裂かれ、風に揺られているのを眺めていた。
 我孫子と呼ばれたこの男は『初生が何をしたか』どうやら気づいていたらしい。
さらに車で待機しているアクセサリーの優男も髑髏の布の男も初生に視線を送っている。
 その雰囲気は間違いなくヤクザや老人とは違う『こちら側』の人間だ。初生のように中途半端に表と裏で迷い行き来している者の眦ではない。こちらの世界で生き、幾つもの修羅場を潜り抜けた経験を秘めている。
「では、失礼します」
 最後まで我孫子は表情を崩すことなく去っていく。初生は緊張した面持ちで我孫子の背中を見つめていた。頭の中で戦うイメージをしたが勝てる気がしなかった。
「なんか悔しいな……」
 初生が唇をとがらせ呟くと、初樹はフッと口元だけで笑う。
「まだお前の勝てるレベルの相手じゃない。『右手』は不調なのか? ああいう状況になったらまず自分の実力をある程度アピールしておけと教えたはずだぞ」
「むぅ……」
 初樹の言葉に初生は複雑な表情を浮かべていた。
 負けず嫌いということもあるが、単純にあの手の男は初生の苦手なタイプだった。初生の知らないことが多すぎるのも少しだけ苛立つ。
「お父さん、『ファクトリー』って何?」
「まぁ、あんまり知らなくていいことだ」
 そう言いながら初樹がレコードを止めると、店内にいつもの空気が戻ってくる。
 営業時間の終了だった。
「お父さん、引き受けて良かったの?」
「ああ。いい勉強にはなるだろうしな」
 初生が大きな眼を丸くして驚く。それを見ながら初樹はフッと笑った。してやった――そういう意地の悪いニヒルな表情だった。ニヒルでシニカルなのだが、どことなく楽しそうでもある。
「勉強って?」
「分かってるだろ、お前のさ」
 そう言いながら初樹はマルボロに火をつける。カチリという音と共にジッポライターから現れた炎が煙草の先端を焼いた。
「え? 私?」
 初生が面食らった顔で尋ね返す。
「お前以外に誰がいる? こんなロートルに仕事させる気か? 俺はお前をそんな薄情な娘に育てた覚えはないな」
 ムッと顔をしかめた初生も黙っていなかった。いつものことながらあまりにも勝ってだ。
「誰がこんな娘に育てたやら。育て方間違えなかったらきっと今頃はフリルのついたスカート着てお茶とか嗜んでたかもね」
「喫茶店の娘がか?ジーンズと珈琲の方がお前には似合ってるさ」
 似合ってると言われ少しだけ照れる初生を眺め、初樹は口元に笑みを浮かべる。初生の扱いは慣れたものだった。ここまで慣れながらも心情を察するということを全しない。
「いいじゃないか。三歳でカラシニコフを分解できる子供なんてそういないぞ。久しぶりのパーティだ。十分踊って来い」
「覚えたくなかったよ、そんなこと」
「俺はお前を引き取った時から教えるつもりだったさ。初音なんか喜んでカトラス振り回してたじゃないか。可愛いもんだ」
「う〜」
 妹の初音は今や『狂犬(マッドストラッグル)』とまで呼ばれている。
 常人よりも数段優れた鼻を持ち、狙った獲物をどこまでも追跡するスタイルからそう名付けられた。かたや、初生はそれほど裏事が好きでもなく仕方なく手伝うことが多い。
 どうしてここまで初音と初生で違ってしまったのか、初樹にも初生にも分からなかった。
「あの子はギターとカトラス渡しとけば御機嫌だけど、私はそうじゃないからね」
「将来はお嫁さんだものな」
 からかわれて初生はあからさまに頬を紅潮させる。言い返す言葉がない初生は子犬のように唸ることしかできなかった。
「初生、この仕事の何が不満なんだ」
 少し困った顔で初樹が問う。最近になり初生が仕事を嫌がるのが気になるのだろう。初生はマルボロを咥えた初樹を見つめ少しだけうつむく。
「だって、自分が普通じゃないみたいだよ……」
 とだけ、ゴニョゴニョと小さく呟いた。
 初生はまだ自分がどこの世界で生きていくかを決めていない。決めていないにも関わらずもう裏事師として生きるしかないこと薄々感じ始めていた。そのせいか、それが初生の中の普通の部分を黒く塗りつぶしていくような気分が常に付き纏っている。もちろん、初生の性格ではそれを伝えられないし言葉に出来ない。
「なんだ?」
 初樹が尋ね返した時、初生は頬を膨らませてそっぽを向いた。やはり初生は素直に自分の弱みや悩みを口にできるような性格などしていない。それ故に強がり、強くなることを望む。
 初生は少しだけ感情を吐き出しかけたことを後悔した。それは強い女のすることではない。弱いままでは『あの人』にきっと笑われてしまう。
 言葉に困った初生が子犬のように唸ると初樹はおどけてみせる。
「おいおいおいおい。プロのプレイヤーならニヒルに笑って切り替えせよ」
「ハードボイルドの主人公ならここで皮肉の二、三は言っただろうけどね。生憎、女探偵になるつもりはありませんから」
 悪戯っ子のように初生は小さく舌を出しテーブルの片づけを始める。それを楽しそうに眺めて初樹は口の端を吊り上げる。
「まだハードボイルドよりもジュブナイルの方が好きな年頃か」
 今から始まるパーティの主役にはその呟きは聞こえていない。
 『やれやれ』――と初樹の吹き出す紫煙は儚く漂い複雑な模様を描きながら消えていった。


 かくしてパーティのチケットが届き、ハードボイルドは終わりを告げた。
 メインキャストは純情可憐なヤングアサシン。
 まもなくブラッドバスで踊るミッドナイトが訪れ、殺戮のギャラルホンが鳴り響く。
 ダンスパートナーは――未だ未定。


『サツキ・ダブルスタンダード』→開幕


 


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