第七回:忘却の空へ



 痛みがある。どうにもならない喪失感を伴う痛み。それから逃れることが出来れば李は何を失っても良かった。
 どれぐらい昔のことだろうか。
 李が虎戯の裏町にあるゴミ捨て場で死ぬのを待っていた頃。
『生きている理由がないのだな、君は』
 李の目の前に立った男はそう言った。
 どこかの金持ちだろうか、でっぷりとした体に白いスーツと真っ白な帽子をかぶっている。
 虎戯の裏町に人が来るのは珍しいことだった。
 何の目的があってかは知らないが李の目の前に立った男のような身なりのいい紳士が来る場所ではない。
 中国は強さと弱さを合わせ持つ。
 中国経済も同じだ。中国経済の強さだけに注目すれば『中国脅威論』となり、逆に弱さだけを信じれば『中国崩壊論』となる。
 しかし、極端なまでのコンストラストを伴った強さと弱さとの双方を同時に生み出していることが中国経済の真の特徴だった。
 そういう意味では虎戯は中国経済らしい影響を受けていない。貧しさと弱さのみに特化していた。
『死にたいか?』
 男はそう言った。弱さしか残っていなかった李に告げる。死にたかった。胸を穿つ痛みから逃げ出したかった。
『死にたいかね?それならば君に相応しい場所を用意しよう』
 フフフと男は笑う。愉快そうに。何が楽しいのか李には理解できなかった。
 ただ男は笑う。底知れぬ邪気を含んだ笑みを李に向けながら。この世の暗黒を体現する男はその邪気をばら撒く。
 自分は堕ちて行くと知りながらも李は悪魔の誘いを断ることが出来なかった。
 思えば、それが李と九頭龍門の出会いであり、そこからは闘いの記憶ばかりが残っている。
 賭けられる大金、殺す相手、命令、血と肉、狂宴。
 人間、人外、殺して、殺して、殺し続けた。
『アンタの絶望は多分、どンなことがあっても埋まることはねぇだろうな』
 死村一三という九頭龍門で用心棒をやっている男の言葉だった。
 李は何も言い返さなかった。ただその通りだと自分でも気づいていた。
 殺せば殺すほどに痛みを忘れていくのに、その忘れてしまうこと事態が苦しくて、その苦しみを忘れようとさらに殺す。悪循環だった。
 それを死村一三という男は怒っているような悲しんでいるような瞳で見つめていた。それでも李には殺すことしかなかった。痛みを忘れる為に。
 強い者と弱い者がいる、勝つ者と負ける者がいる、狩る者と狩られる者がいる、李は目の前に転がった死体を見つめ続ける。
 死村一三が何らかの理由で九頭龍門を去って数年が流れ、奇しくも死村一三の故郷である日本で闇賭博が行われることになった。
『李と言ったか、爺さん。アンタ、強いなぁ』
 黒い肌と大きな目玉をした男が、地面伏したまま李を見つめ笑う。ずんぐりとした体型やその皮膚の色とぬめりはフロッグと呼ばれる種族であり、人外が賭けの駒になることは珍しくない。人間より優れた戦闘能力を持つ種族であり李が勝つことで大量のポイントを得ることができた。李はぼんやりと倒れた姿を見つめる。
 闇賭博の決着は既に着いているに拘らず、李がすぐに殺さなかったのはほんの気まぐれだった。
『だが、アンタの強さは酷く脆い。刀みたいだな、まるで』
 その蛙男の名前は何だったろうか。
『刀が折れることについては、江戸時代、寛永11年(1634年)11月、伊賀上野城下で起きた仇討事件で知られとる』
 荒い息で蛙男はそんなことを呟きだす。
『荒木又右衛門と河合又五郎の事件で荒木側は4名、河合側は11名。河合方の桜井半兵衛は槍の使い手だ』
『何が言いたい?』
『荒木の作戦は、まず桜井の槍を封じる事に尽力し、槍を使わせず刀だけの戦いに持ち込んだことが、少人数でも勝てた原因だと言われている。だが、それでも荒木は相手の1人の木剣で刀をたたき折られている。刀の側面を強打すれば、曲がるし折れる。これが刀剣の弱点だ』
 その語り口調はこれから死ぬとも思えない饒舌さだった。
 この蛙は借金の果てに闇賭博に流され来て、今までもこの先にも絶望しかないというのに。
『何が言いたい?』
『爺さんは強いだろうさ。その体温を異常上昇させてカロリーを消費する禁術はたいしたものだ。だがなぁ、アンタはいずれ折れるだろうさ』
『折れるだと?』
『俺には出来なかったなぁ。アンタがもうすぐ死ぬとしても、アンタ心は折れなんだ。なんせ、俺はアンタと同じで否定する為に真っ向からぶつかるだけだ。だがよ、側面からぶつかる相手と会った時――』
 最後の言葉までは言わせなかった。
 僅かな苛立ちを感じながら李は蛙男の心臓を抉り出し、小指を千切り取る。
 そこで李の意識は途切れる。
 同時にヤドクガエルの持ったプミリオトキシンや、トラコトキシン等と呼ばれるふぐ毒と同様の神経毒などの複数の毒で皮膚がただれ落ちその場で死に絶えたからだ。
 故に九六三と戦闘後、気絶している間にそこまでの記憶を思い出している李は自分がどうなったか知らない。
 フロッグの毒に殺され一度は死んだ李が、喪失感から逃れようとした李が、『娘の為に戦う』という理由を取り戻していることに気づかなかった。娘が生きていると信じきっていることに気づかなかった。七十歳を越えた老人の身体が成熟した四十代の頃の肉体に戻っていることも、ほとんどの記憶すら若返っていることにも気づかなかった。小指を狩る本当の理由も、何もかもが変わっていたことに気づかなかった。
 


 

 意識を失った間、李はそんなことを思い出していた。
 ――どうでもいいことだ。
 思い出した記憶に見切りをつけ再び、立ち上がった。体から立ち上る黒い煙は崩壊する身体を焦がす死の匂いを漂わせている。
 そうやって立ち上がることに理由はなかった。戦わなければ守れないからだ。
 それ故に李は何度でも立ち上がり、人を殺す。
 モニターの向こうでゲラゲラと笑う好事家達を満足させる為に殺す。
『お前のことはお父さんが必ず助ける』
 そうやって指きりした。そうやって約束した。いつのことだったろうか。誰とだろうか。
 ――いつだっていい。誰だっていいと李は思う。
 小指と小指をつなぎそう約束したのは確かだ。確かなはずだった。
「死、村」
 悪意と憎悪を持って李はその名を呼ぶ。四十を迎えて尚しなやかな肢体な動きで起き上がる。
 生きていたことは奇跡だと李は思った。死んでいてもおかしくなかっただろう。
 死村の一人は始末したが、自分から残りがノコノコやってくるとは思わなかった。
 これでポイントを手にすることが出来るだろうと李は口元を歪ませる。
 李はどう殺すか指示を仰ごうと思ったが、九六三にやられ体内に埋め込んだ通信機器が壊れていることに気づく。片目に仕込んであるカメラは無事ならば、喜びそうに殺してしまえば問題ないだろう。
 子供の死村がいた。必死で腕の千切れた死村の治療をしている。
 まだ幼い男の子ようだが尻の穴の締りはよさそうだ。
 尻から血が吹き出すまで腕をぶち込み、それ以外のことを考えられなくしてやった方が後々楽だ。少年を溺愛する者なら喜んで喰いつくだろう。
 他の死村も殺そう――李はそう考えた。
 死村の中でジュウシ、イクミという二人が絶世の美形と聞いたことがある。
 是非とも半殺して持ち帰りたかった。そうすれば娘の治療費のたしになるかもしれない。
 問題は目の前の死村一三だった。
「兄貴……!!」
「大丈夫だ、十五」
 子供の死村が声を上げると、それを庇うように死村一三は李の前に立ちはだかる。
 李は知っている。こいつは強い。手強い相手になる。元は九頭龍門の用心棒、闇賭博で中位クラスにいた男であり、人間の中ではかなり出来る方だった。
 殺せば当然のこと、ポイントも高くなるだろう。
「人の可愛い妹に随分な真似してくれたじゃねぇか」
 死村一三の呟きと共に空気が軋んだ。
 鋭い刃物のような冷たく静かな気迫が李にまで届いていた。
 九頭龍門の闇賭博に参加していた時と同じ、あるいはそれ以上――。
 いい殺し合いになると李は思った。
「久し、ぶり、だ」
 途切れ途切れの言葉で言うと死村一三は僅かに眉を顰める。
「おいおい。久しぶりってよ。俺はお前さンなンざ知らねぇよ」
 その言葉にクククと李は喉を鳴らす。
「忘れたか、李だ」
 死村一三が闇賭博にいたのは一年にも満たない僅かな時間、覚えていないのを無理はないと思った。だが、少しの間の後で死村一三は答える。
「アンタが李の爺さンだと?」
「何……?」
 それは予想もしない妙な反応だった。
「何を言ってるか分からねぇが――」
 ゴキリと死村一三は掌をならしながら尋ねる。
「アンタは誰だ?」
 それは李にとって予想外の言葉だった。
 一瞬、挑発か何かだと思った。だがそんな感じでもない。本当に知らないというような顔で李のことを見つめていた。
「何を、言っている」
 会話が妙に噛みあっていない。まるで歯車がずれてしまっているような感じだった。
 李には死村一三の言っていることの意味が理解できない。
 やはり、自分のことを知らないと本気で言っているようであった。
 李のしわがれた声と共に炎の塊が瞬時に放たれる。
 死村一三はさも平然と右手を一振りした。
 その瞬間、赤い火玉はこの世界からかき消されてしまう。避けることはしない。 そしてこの男は守る者がいる時こそ完全な力を発揮すると李は知っている。それでも倒さねばならない。
 李には戦う理由がある。
「娘の為に死ね!!」
 咆哮と共に李は、再びボロボロと皮膚が剥がれ落ちた腕を構える。
 『娘のために死ね』、その言葉に死村一三は怪訝そうに何かを考えていた。
「娘、娘だと?李の爺さんは七十越えてて娘さんも――」
 そこまで言いかけ、考えていた死村一三は面倒そうにくしゃっと髪をかいた。
「おいおい、そういうことかよ」
 瞳に鋭さを宿らせ死村一三は呟く。手品の種が分かってしまった時のようなつまらなそうな僅かな苛立ちさえ宿っている声だった。分からないのはそこに深い慈悲の眼差しがあることだった。
「何を、言っている?」
 李が戸惑うのと死村は淡々と呟く。
「李の写真は十四がよ、空港のカメラに映ってるのを既に確認済みだったけどよ、そン時は確かに七十越えた爺さンだった」
「何を、言っている」
 抑揚のない機械的な声で李は呟く。
「アンタは俺が知ってる李の爺さンより若いンだが間違いねぇな」
 若い――その言葉の意味が理解できない。
「どう、いう、意味だ」
 少しの間の後で死村一三は答える。
「アンタ、今の自分がどうなってるか知ってるか?」
 何を言っているのかさっぱり理解できない。
 ゆっくりと李は首を動かし自分の体を見る。
 それはあまりにも遅すぎた。常人ならその変化にすぐ気づいたかもしれないが李には自分を省みる余裕などなかったのが災いした。
「なんだ――これは」
 李自身がそう呟いた。今更ながら自身の変化に気づいた。
「どうなっている――」
 最早、それは人と言うことができるのかも怪しい。
 黒く変色した胸部、その傷口からは黒い触手のような物が蠢いている。胸だけではない顔に触れて見えるとウネウネと触手が動いていることが分かる。
 どうやら傷口という傷口からそれが生えているようだ。
 指先は人間の形をしていない。びっしりと吸盤が生え植物の根のように伸びていた。さらに足も指先や腕と同様だった。
 動揺し汗を浮かべた李に死村一三は淡々と呟く。
「アンタ――身体をいじられたな」
「いじられただと――」
「時間で考えるとよ、日本に来て闇賭博で敗北した後に改造されたンじゃねぇのか?記憶がまじってるンだな、アンタ。若い頃の記憶とよ」
 何がどうなっているのかは李にも分からなかった。
 いじられたというのはどういう意味だろうか。
『あーあ、死んじゃったか。子守って言ってたっけ?あの蛙強かったね』
 カチカチと歯を噛み鳴らすひどく不安定な表情をした少年の言葉が脳裏に浮んできた。
『けっこう面白かったけど、所詮はロートルなんだよなぁ』
『ロートルが悪いわけではない。アートは滅びるからこそ美しいと私は思う。滅びるからこそ永遠になることもある』
『うーん、そういうのはよく分からないな。でもいらなくなっちゃったね。これ。次でパーッと負けてもらって稼ぎに変える方がいいよね』
『では、作り直すとしよう。フフ、この芸術の領域にはあの悪原転寝でも到達できないだろう。何が修復師だ。私こそが真の芸術家なのだ』
 フッとそんな会話が脳裏に浮んで消えていく。それは誰の言葉だったろうか。
「いや、誰の言葉デモ問題ナイ」
 先ほどより明瞭になった言語。
 その発音は高低が非常にあやふやになっている。
 まるで壊れたラジオのようだった。
「娘のタメニ殺ス」
 いじられたとしても――それはたいして問題はないかもしれない。
 殺せばいいのだから――。
 殺せばいいのだから――。
 殺せばいいのだから――。
「もう――生きてねぇのにか?」
 一瞬。たった一言で。
 ブツンと糸が切れるような音がした。
「生きてナイ――?」
「ああ」
ただ死村一三は呟き頷く。
「生きてナイだと?」
「ああ」
 糸が切れる音。
 それは大切な何かが壊れた時の音に似ている。
『お前のことはお父さんが必ず助ける』
 そうやって指きりした。そうやって約束した。
 それはいつのことだったろうか。誰とだろうか。
 娘、娘だったはずだ――名前は何だったろうか。
 思い出せない。
 自分が病で死ぬ間際までずっと李の心配をし、最後の最後まで李の幸せを願っていた。その娘の名前は何だったろうか。
「何をイッテイル?」
 自分の本当の年齢は何歳だったろうか。
 自分はいつから九頭龍門の闇賭博にいるのだろうか。
 そもそも、李が九頭龍門に下った理由は痛みから逃れる為だったはずなのに――理由が摩り替わっている。
一三はただ黙ったまま李を見つめた。そのまるで語ることを躊躇うような雰囲気が李を苛立たせる。
「アンタがよ、闇賭博に転がり込んだのはよ」
 それ以上、死村一三の言葉を聞いてはいけない、それを李は本能的に知っていた。
 開けてはいけないドアが開いてしまう。そのドアを開ければ李はまた元の弱い李に戻り心の痛みに苦しまなければならない。やっと忘れた痛みに向き合わなければならない。
「娘さんを助けられなかった自分の死に場所が欲しかったからだろ?痛みを忘れてそンなことも忘れちまったのか?」
 闇賭博に誘われた時、死に場所を求めていたとして――改造された時に記憶が混乱し、娘が死んだことを忘れようとして生きていると思い込んでいるとしたら?
「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 李は叫んでいた。あらん限りの力で叫んでいた。
「ソれ以上口にするナァァァァァァァァッァアァッァァァ!!」
 約束を果たさなければならない――その罪の意識だけが李を動かす。
 思い出せないのに果たせなかった約束だけが自分の中に存在するような気がした。
 本当は全てがどうでもよく、それだけが自分の全てのような気がした。
「分かってるンだな、自分でもよ」
 怒りのままに李の右手の触手から繰り出される一撃。
 それを一三の右手が薙いだ。
 千切れた肉触手が地面を転がる。まるで粘土のように容易さだった。
 だが千切れた触手は傷口からすぐさま生えてくる。
 今の李には恐ろしいまでの再生速度が備わっていた。
「コレガ、俺――」
 李の動きが止まる。
 自分の姿を名前も思い出せない娘が見たら何と言うだろうか。
 李にとって他者はゴミクズでしかなかった。目的の為の生贄だ。
 しかし、その末期的な思考に至った己の姿を――守られた者はどういう目で見るだろうか。死村九六三は最後まで人間の心を失わなかった。それが死村九六三と李の違いだったかもしれない。
 だが、今の李には後戻りする術はなかった。
 死村一三の右手がぼんやりと光った。
 その弱々しい光は次第に輝きを増していく。
 避けるつもりは李にはなかった。どちらにしろ、さきほどまでの戦闘で体はほとんど動かなかった。それは死村一三の手柄ではない。若い死村九六三の手柄だ。
 死村一三の手の中で揺らめく輝きが白い閃光に変わる。
 集まっているのは勁と呼ばれる命の力であり、殺戮式使いはそれを自在に操る。死村一三はそれを掌に集め、全力で解放していた。李の再生力を上回り破壊する為にだろう。
 来い――李はそう望んでいた。
 終らせることを。
 ここで死ぬことを望んでいた。
 李の娘は肉体的な老化が普通の人よりも早いという難病に冒されていた。原因は遺伝子の異常にあるようだが、それは解明できていないので治療法がないということだった。
娘のことを考えると、ほとんど希望というものが浮かんでこなかった。
 この難病に冒された子供の平均寿命は13歳であり、李の娘はこのことを知っていた。
『自分のような子供を作るなんて言うのは、もしも神様がいたらそんなことをするはずはないから、神様はいないわ』と語っていた。現実に希望が持てず、運命という自分の責任ではないもので希望をたたれている時、最後のよりどころになるのは、運命を司る神を信じることではないかとも思える。だが娘にはその神を信じることが出来ないと李は悟った。
 ならば自分が希望になろうと李は誓った。
 神を信じない、約束などない、天国などない。
 故に約束の証を狩る。小指を狩る。
 それすらも、その背徳心さえも捻じ曲げられ、玩具にされ、何も残ってない。
「来ないのかい?」
 死村一三はそう言った。
 空っぽの李に向かって。
「アンタの娘の思いってのはよ、そンな物なのかい?」
真直ぐに心底真直ぐに言葉を投げる。
「思い……」
 違う。違う。違う。李は心の中で叫ぶ。
「娘への……」
 娘に対する思いは絶対に誰にも負けない。絶対に、負けない。
 李は叫んでいた。声にならない声を上げ、死村一三に向かって飛び掛っていく。
 死にかけた体に命の輝きが強さが取り戻されていた。
「死村!!この偽善者ガァァァ!犬の一族の分際でェェェ!!」
 李が叫ぶ。理不尽な全てへの怒り、嫉妬を込めて。
「犬で何が悪い。偽善者で何が悪い?俺たちは悪党だぜ?」
 死村一三が答える。悪びれることなく自らを悪だと心の底から信じきっていると言わんばかりに淀みなどなく。
 刹那、飛び込んだ李の体に死村一三の右掌がめり込む。
「アンタぁ、俺の妹傷つけたンだ、加減はしねぇ。半端なく殺すぜ」
 右掌が唄を奏でる。内部から肉と骨を軋ませる破壊の音楽だ。
 殺戮式は、勁孔と呼ばれる気門や骨を、勁を込めた掌により内部破壊する。
 いかに今の李と言えども致命的なダメージだろう。
 そんな状況だというのに娘の名前は何だったろうか――等と李は考えていた。
 腕を引き抜くと死村一三は片膝を着く。
 刹那、李の身体が弾け血肉を飛び散った。
 手、足、臓器と内部から徹底的に破壊しつくされ肉片がアスファルトにびちゃびちゃと転がる。
 それはもう再生することはない。
 アスファルトに落ちた肉片も空気に触れて風化していく。
 崩れていく、全てを見届けながら李はどこかに向かって呟いた。
「約束、マモレナカ――」
 転がった李の頭部に死村一三は何とも言えない眼差しを向けていることに気づく。それは怒っているような悲しむような表情だった。
『今度はよ』
もう音は聞こえなかったが死村一三の唇はそう言っていた。
『空の上でずっと側にいてやれよ』
 ずっと側にいる――そう誓った。確かにそう誓ったはずだ。
「空――」
 守るという約束を果たせなかった――。
 だが、今度はずっと一緒にいようと誓った約束を守ることができる。
 それはいつの間にか失くしたエトワス(何かあったもの)、ずっと取り戻したかったものだ。
「モウ、一度、指きりを――」
 最後の最後で娘の名前を思い出した――遅かったが許してくれるだろうか。
 李は娘の顔を思い浮かべていた。



 李の頭部が笑みを浮かべた瞬間、崩れどこかへと消えていく。
小指狩りの約束と共に。ラズベリーブルーに染まった忘却の空の彼方に。

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