死村家の人々
〜第六回・前編『勝利者の敗北』〜


 二人で空を見上げていたことがある――。
 一三の好きな川釣りの帰り道の途中――。
 九六三(クロス)と一三(カズミ)は土手に並び、今にも落ちてきそうな夕焼けを眺めていた。
 オレンジの風の中で言葉もなく、どれぐらいそうしていたかも分からない。
 ただ、ずっとそうしていたかった。このままこうして居たいそう思った。
 一三がそっと握ってくれた手の平のぬくもりはきっと忘れない。
 それが九六三の守りたいもの――死村家での日々だ。
「一三……」
 小さな消えてしまいそうなほど弱々しい九六三の呟きが漏れる。
 今、オレンジにラズベリーブルーが混ざりだした空の下。
 街路樹のポプラ並木に立ち尽くしたまま九六三(くろす)は天を見上げていた。
 ポーションを腕の切り傷に塗る手を止めたまま、呆然としていたが奥歯を噛み締める。
 今すべきことが何か――それは家族と合流し李が奇襲を未然に防ぐこと。
 九頭龍門の闇賭博に巻き込まれていることを知らせなければならない。
 その為には通信が取れない結界内での合流が必要だった。術法処理がされた通信機器でなければ連絡手段がない状況では、原始的だが狼煙が有効だと思った。
だが、それはあまりにも甘い。甘すぎた。家族のことが頭の中で渦巻き冷静ではなかった。
「どうすればいい……」
 呟きながら見上げた赤い空には黒煙が濛々と、暗雲のように渦巻いている。
 それは一つではない。遠く彼方、結界内と思われる街中の至る所、あちこちで黒煙が昇っていた。
 見当はつく。
 ――李だ。かく乱の為に火を放ち回っているのだろう。
 これでは九六三のあげた狼煙の意味がない。
 日本語で言うなら『無用の長物』――だろうか。覚えたばかりの諺でそんなことを考えたが、とにもかくにも全く役に立たないことは確かだ。
 もし、ここに向かってきているのが弟の十五(じゅうご)や三三花(さざんか)、十六夜(いざよい)だったらと思うと言葉にもできない冷さが背筋を走る。喉元に刃を突き立てられた時の気分だ。
 李は賭けで得られるポイントの為に、弟や妹を玩具のように扱い、晒し者にして殺すだろう。そこに躊躇いも容赦もなく。ただ命じられるままに殺し、そのことに李は何の感情も持たないだろう。自分の娘の為に全てが犠牲になるのが当然と思っている李は狂っている。その考え方は限りなく死村に近いが何かが決定的に違う。
 あの狂人を認めることは死村への冒涜にさえ思えた。
 可愛い妹や弟があの狂人に出くわすことを考えるだけで、胸の中がジリジリと焦がされ、込み上げてくる怒りに自然と拳を握り締めてしまう。
 血の匂いの残る鼻孔が熱くなっていく。そんな自分に気づき呼吸を整える。
 熱くなるな、怒りは内側で燃やすもの――それは一三の教えだった。
「どうすれば……」
 呟いた瞬間――。
 ドンという音と共に視界がぶれた。
 頭の中にあった全てが一瞬消える。
 刹那、身体が仰け反った。
 そして、ぐるんと視界が回り頭からアスファルトに倒れこんでいた。
 次にまるで背中に火をつけられたような熱さと痛みが広がっていく。
 思わず声が出そうになったのを、グッと歯を噛み締め堪えきる。
「随分と余計な真似をしたな」
 聞き覚えのある声はそう言った。
 声は目の前からだった。
 アスファルトに手をつき九六三は正面を見つめる。
 そこに――いた。
 自身の信念と覚悟の為にという一種の願掛けの為だけに、殺した人間の小指を喰らう殺人鬼。
 中国の闇社会から送り込まれた怪物。
 闇賭博の駒。
 完全なるエゴイスト。
 信念と執念の焔。
 炎の魔術師、李。
「何を驚いている。貴様も戦士だろう。不意打ちされるのは俺が初めてか?」
 切裂かれたグチャグチャの顔のまま、李は刃物のような視線を九六三に向けている。
「生憎だな。既に経験済みだ。そんなことで驚いたつもりはない」
 目の前に立った李を睨み九六三は呟く。
「なら問題はない。殺しあうぞ。俺はモニターの向こうを楽しませなければならない」
 血に塗れた狂人――九六三を見下し手の平をかざす。
「後々逃げられたらポイントにならん。お前は今すぐ俺の糧になれ」
 糧になれ――傲慢なその言葉には、搾取する側としての揺ぎ無い自信が込められている。自分が勝つと信じ、正しいと心の底から信じているこの男にはごくごく普通のことかもしれない。
「命令違反じゃないのか?」
 そう言いながらも九六三はボロボロのナイフを握り立ち上がる。立ち上がらせる暇を与えられたと言った方が正しいかもしれない。
「目的達成過程での戦闘とポイントの獲得は認められている。貴様をポイントにした後に貴様等死村も一人残らずポイントに変えてやる」
 まずい――と九六三は思った。
 李のかざした右手に光が集まっていく。
 詠唱キャンセル。九六三は詠唱により魔術の強弱が決まると思っていた。
 だが、李の手に瞬時に集められた禍々しい光はどうだろうか。
 魔術知識の低い九六三にもその威力は想像できた。
 さらに集められた力は赤い光となり、さらに丸い球体に変化していく。
 九六三のリーチでは距離が足りない。間合いに踏み込むにも遅すぎた。
 十分に魔力を練りこんだ赤い球体、炎の塊が九六三目掛けて放たれる。
 九六三はギリギリで握っていたナイフを咄嗟に突き出す。
 燃え盛る火焔玉を刃が受け止めた。
 ズンとナイフが重くなり、指先の一本まで力を緩めることができない。
 対魔効果がエンチャントされたシェフィールドナイフでなければ弾き飛んでいただろう。
 火球を受け止めたまま、九六三の小さな体は衝撃に耐える。
 ナイフの刃で受け止めていた火球の威力が落ち、刃先が軽くなっていく。
 チャンスだった。咆哮と共にナイフを振り切る。
 薙ぎ払った先で炎の塊が街路樹を吹き飛ばした。
 瞬間、九六三の身体が走る。
 好機だった。李は次の発動までに数秒を要する。
 そして九六三には自信があった。
 接近戦なら負けないと――。
 先ほどまでの戦闘で考えても李より早く、鋭く、強く動けると思った。そう思ってしまった。
 だが、思い込みを砕くのは現実と痛み――飛び出した自分の細い体をくの字曲げながらそんな言葉を脳裏に思い浮かべる。
 吐瀉物と血反吐を撒き散らした刹那、意識が闇の中に沈む。
 水月に拳がめり込むなど、自分より早く間合いを詰めているなど思いもしなかった。意識が途絶えたのも一瞬であり、肉弾戦に負けた理由を考えている暇もなかった。
 もう一撃、肘が九六三の背に振り下ろされる。
 体の中を押しつぶすような衝撃と痛みで呼吸が出来なかった。
 距離を開けなければと思った。身体が、足が全力でアスファルトを蹴る。
 バックダッシュ。だが李はそれを許さなかった。下がるよりも早く李の手が九六三の顔をつかみ上げていた。九六三の足が地面から離れた。焦げてボロボロの爪先が空気を蹴る。
 顔をつかんだ指先が熱い。まるで鉄板に押し付けられているように熱い。
 九六三の手足が李の手を外そうともがくが、李の力は九六三ではどうすることもできなかった。野生の狩猟者が一度食いついた獲物を離すわけがない。足がもがれようと、腕をもがれようと離さない。
「分からないか?」
 離れようともがく九六三に向かって李は呟く。
 つかまれた指と指の隙間から李の顔が見える。
 執念だけがその瞳をギラギラと輝かせ、その体から禍々しい黒煙を立ち上らせている。熱に呻く九六三を見つめる瞳はどこか満足そうであり、暗い感情がむき出しになっている。それが九六三をゾッとさせた。
「熱によるカロリー消費が俺の運動力を上げていることに。俺はカロリーを消費し運動能力を上げる上位魔術を知っている」
「カロリーだと……」
 1カロリーとは1CC水の温度を1℃上昇させる熱量であり、20℃の水100CC分を100℃に沸騰させるのに必要な熱量は100CC ×(100℃−20℃)=8000カロリー、これはあくまで20℃の水100CC分。
 もし、人間の耐えうる限界まで血液を沸騰させカロリーを消費するとしたら、短時間にどれだけのエネルギーを消費し運動能力上昇に使っているというのか、九六三にも見当がつかない。それは一三の『殺戮式』の体力消費の比などではない。
  簡単に計算しただけでも象が体温維持に必要とする25800カロリーに並んでしまう。60kgの男性が活動に使うエネルギーの何倍ものエネルギーを消費していることになる。
 そのエネルギーを消費するのはダムドならいざ知らず、人間に出来ることではない。李が何らかの術式処理や機械改造を受けていたとしても耐えられるものではないだろう。
 やはり李の顔に疲労と死相が濃く現れ出していた。
 体から立ち上る黒い煙は命が燃焼している証だ。
 フル稼働し続けたエンジンが今にも焼きつこうとしている。
「お前の負けだ、死村」
 圧倒的な実力差と絶望感を与え、李は口元を歪めた後に一瞬だけ瞳を閉じる。
 まるで何十年も旅した男が故郷を思いはせるようなそんな顔だった。
「これで娘との約束を果たせる……」
「約束だと……?」
 乱れた呼吸で九六三が問う。
 その一瞬の間の後、李が答えた。
「娘の手術に必要な金が集まる――貴様には関係のない話だがな」
 ドクンと九六三の心臓が脈打つ。聞いてはいけないと思った。それを聞いてしまったら迷いが生まれると分かっていた。
「それで闇賭博に――」
「そうだ。それしかないからだ。だから九頭龍門に従った。簡単なことだ。実に簡単なことだ。娘の為に殺せばいいだけだからな。俺は娘に指きりして誓った。絶対に助けると。だから誰を殺そうと何も感じない。そもそも俺の娘が苦しんで生きているのにのうのうと生きている奴等は死んで当然だ。小指狩りは俺の覚悟の証、娘との約束だ」
 その為に――李は今まで殺してきた。あまりにも多くの人間を殺してきた。
 自分の娘を守る為に。自分が正しいと信じて殺してきた。
 覚悟の証として殺してきた者の小指を喰らってきた。
「お前の家族も一人残らず皆殺しだ。一人残らずだ。ガキも女も命令通りに殺し、切裂いて、犯して、俺のポイントにしてやる」
 その為には誰が犠牲になろうと李には関係ない。
 自分が正しいからだ。自分の娘が何よりも大事だからだ。
 そして――その為に死村家まで犠牲にしようとしている。
「だから、貴様も死ね。貴様の小指を喰らい俺は俺の戦いを終える」
 ドクンと九六三の心臓が再び脈打ち動悸が早まる。胸が痛くて熱い。
 李にも戦う理由がある。だが九六三にも戦う理由はある。互いに戦う理由はある。
 李は犠牲になれと言った。
 負ければ李の娘は助かるかもしれない。
 だが、九六三の答えは決まっている。
 最初から終わりまで。九六三が死村の血族である限り。
 李に戦う理由があるとしても、守りたいのは九六三だって同じだ。
「私の勝ちだ」
 九六三の唇がはっきりとした声で囁く。
 僅かに李の顔が強張る。
「何を言っている?」
「私の勝ちだと言っている」
 九六三が宣言すると同時に顔を締め上げる手に力が篭った。
 その痛みと熱に耐えながら九六三は李を見つめる。
 気高い輝きを宿した瞳を李の双眸から逸らさない。
 チェックメイト目前に起死回生の一手を思いついたようなそんな顔だった。
 李にはそれが根拠のない自信と思えたかのか、怪訝そうに九六三を睨みつける。
「なんだ、その目は。俺を哀れんでいるのか?」
 傷だらけの李の顔が強張る。
「勝ちと言っただけだ」
「貴様の勝ちだと?何を言っている?」
 獅子が兎を前にした時――。
 その時、今の李のように自分が勝利することを確信し、磐石の自信を持っているだろう。
「お前は自分のポイントにしか意識が向かってない」
「何を言っていると聞いている」
 九六三の言葉に李は声を僅かに荒げる。
「分からないか?」
 それは先ほど李が九六三に言った言葉だった。
「お前の思い通りにはならないということだ。何一つだってな」
 九六三の指先が空を指差すと、ビクリと李は身を震わせる。
 ゆっくりと李が暮れ行く空を見上げる。
 そしてただ口を開いた。
 数秒後、ようやく言葉を発した。包み隠さず怒気を込めながら。
「貴様――」
 空を見上げたまま李が呟く。
 ブルブルと李の身体が震え、顔をつかみ上げる掌にギリギリと力が込められる。
「忘れたか?私の能力は物質の引力、斥力に影響を及ぼせることを――。空気中の微量な成分だって例外じゃない。日本語で言う、サジ加減という奴でそういうことも出来る」
 顔を紅潮させ怒りに震える李の瞳が九六三を睨みつける。
「そういうことか、そういうことか、そういうことか、そういうことかァ!!」
 李に怒りの炎が点火される。全てを焼き尽くさんばかりの怒気が焔を上げメラメラと燃え盛っていくようだった。
「そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか! そういうことか、クソ蟲が!!」
「お前にとって私を殺すことが勝利条件でも、私の勝利条件は家族を守ることだ!!」
 飲み込まれ行くオレンジの空。
 先ほど燃えた街路樹から上る黒煙。
 それが濛々と空へ上っている。
 ただそれは歪に、まるで書道家が書いた文字のように、不自然に形を変えていた。
「合流することが私の勝利条件じゃない!! 私が殺されようと貴様から家族を守ることが私の勝利条件だ!!」
 クラインの壷のように、メビウスの輪のように、捻れた煙はたった一言の文字を空に描いていた。
「こんな、こんな、クソ、くだらないことで俺のポイントが……!!」
 李の怒りに燃える瞳が九六三を見据える。
 九六三の瞳に映るのは李ではなかった。
 一三と見上げた空だ。
 一三と二人っきりになった時、好きだと言いたいのに口にすることが出来なかった。『雲に文字でも書いて伝えられればいいのに』などと九六三らしくもないことを考えたりもした。そういう詩的なことは三六の領分だ。
 結局、最後まで思いは伝えられこともなく、今、空に浮んでるのは『好き』等という言葉でもなく『にげろ』という煙で作られた文字だった。
 これで、死村家からの救援は来ず、李はポイントを手に入れることができないだろう。
「貴様!!」
 再度、李は叫ぶ。
 九六三もそれに呼応し叫びを上げる。
「何度でも言ってやる! 何一つ、お前の思い通りにはならない!!」
 敗北感を顔に滲ませ狼狽したまま李は咆哮をあげる。
「いいや、殺す!貴様が何をしようと無駄だと思い知らせてやる!!」
 李の憤怒の叫びと共に、九六三の腹部に右手が押し当てられる。
 黄色から橙、赤、真紅、炎が輝き出すまでがひどくゆっくりに見えた。
 一三のことを思う――。
 最初は大嫌いだった。でも誰よりも優しくて強いと気づいた時、自分の気持ちに気づいた――。
 ゴムが弾ける様な音と共に九六三の体は背後に弾け飛ぶ。
 三六のことを思う――。
 死村に来たばかりの頃はうまくやっていけるか不安だったがその明るさと優しさで包んでくれた。喧嘩友達みたいな感じだろう――。
 身体の中をシェイカーでかき混ぜられたような衝撃と痛みがが全身を突き抜ける。
 十五、十四、十六夜、三三花、死村の家族達のことを思う――。
 家族というのが照れくさくて中々素直になれなかったが本当は嬉しかった――。
 九六三は紅蓮の炎に包まれながら家族のことを思った。




〜第六回・中編『血』〜


「殺してやる、殺してやらぞ、そうでなければ俺の気がすまない!! 一人残らず焼き殺してやる!! そして地獄で思い知れ!!」
 炎に包まれた九六三の眼前で李が吠える。それがひどく遠くのことのように思えた。
「所詮、貴様の言った言葉など全て意味などない!!」
 吹き飛ばされたまま、九六三の身体がアスファルトに向かって落ちていく。
 浮遊する感覚の中、服が、皮膚が、指先が、焔に包まれていくのを感じていた。
 その僅かな時間に九六三は様々なことを思い返す。
 それはほんの僅かな、数秒の時間でしかない。
 それにかかわらず思い出されたことは膨大な量だった。
 死んだ母『七七三・ロックナイヴズ』、芹沢一族の血を引く父『アシュトン・セリザワ・ロックナイヴス』のこと、吸血鬼ドラクロアのこと、死村家のこと、そして一三のこと、目の前の狂気の塊のこと。全てに対しやるだけのことはやった、そう思った。そう思いたかった。これはなるべくしてなった結果だと。
 だが、李は最早、ポイントに関係なく行動するだろう。殺すことをやめることをしない。一度進んだら道が途切れるまで走り続け、腹いせ、あるいは八つ当たり、自分の気を晴らす為、そういう理由で死村家に牙を向ける。それが当然と疑うこともなく、他者の命を奪うだろう。奪われる痛みを知ることなく。九六三にはそれが許せない。
 奪われる痛みしか知らなかった九六三は家族の温もりを取り戻した時――失うことの怖さを改めて感じた。それなのに自分や李が誰かの命を奪い殺すことはひどく都合のいいことのように思える。
 死村十四はかつてこう言った。
『死村にとっては殺すことはそれなりに普通のことなんですよ。普通に人を刃を抜いて、普通に人を殺す。御飯を頂くのと一緒ですね。命を頂くと言うことに申し訳ないと言う気持ちは持ってますよ。フフフ、もちろん、それで許されるとも思ってませんよ。でも私達は悪党ですからね』
といつも通りに微笑んでいた。九六三はその時、日本の兎の数え方の話を思い出した。
 『ウサギは匹と数えずに羽と2つ足の鳥のように数えれば、鳥だから良いのだ』という話だ。そうだろうかと九六三は思う。それで兎を殺す罪は許されるだろうか。
 日本では食事の前に『イタダキマス』と言う。感謝の念を持って『イタダキマス』と唱えたのだから一件落着だろうか。それは違う。
 覚悟があります、ごめんなさいと常に言ってれば殺すのは許されるだろうか。それも違う。
 殺すという罪じたいからは逃げられない。
 家族を護る為に戦う、殺すとしても敵にも家族だっている。守るために殺すということはそれを奪うことになるだろう。
 それを知りながら、痛みを感じながら、重さを抱えながら死村は敵となった者を殺す。人道を外れた外道を葬る。敵を殺してた手で家族を抱きしめる。
 他者を犠牲にしても家族を守るのはエゴだろう。
 それは李の考え方とほとんど変わらないかもしれない。
 家族を抱く手が血に塗れ汚れているとしても、それでも九六三は守ることを選ぶ。自分が生きていく場所は、いたい場所は死村家なのだから――。



 身体がアスファルトの上に落ちると同時に、閉じられかけた瞳に李が背を向けるのが映った。終わりだった。九六三が立つはずはない、そう思ったのだろう。あと、ほんの数秒で焼け死ぬと。カロリーを消費した李とて、それは同じことだというのに。
 閉じられかけた九六三の瞳が再び開く。
 立てと、心が叫び身体を起き上がらせる。意志を持ってアスファルトを踏み締める。
 ボロボロのナイフが疾走した。
 自分の腕、目掛けて。焦げた肌目掛けて。
 細い左上腕二頭筋に刃が食い込んだ。
 李が素早く振り返るのと同時に、風を切るような音と共に鮮血が飛び出す。
「何だと?」
 李が理解できない物をみるような顔をしていたが、そんなこと九六三には関係なかった。
 血が吹き出すその傷口に、自身の能力を持って刃が筋肉に埋まるほどに深く差し込む。
 絶叫。叫びは獣に近かった。悶絶して意識を失いそうになるのをこらえる。
 骨格筋を切裂いて、骨膜を砕き、刃が限界にまで達した感覚があった。
 痛みで気を失いそうになった。だがまだ足りない。
 柄をありったけの力で握り締め――。
 地獄の底から聞こえるような壮絶な叫びと共に全力で引き裂く。
 噛み締めた奥歯が砕けるのと同時に、千切れた左腕が宙を舞った。
 赤い血が滝のように激しく吹き出す。
 血液が噴水のように飛び散っていく。
 それは血の雨だった――。
 びしゃりと水音が響いた。
 李はまだ信じられないものを見るような目をしていたが、数秒後、九六三の意図に気づいたのか苦虫を噛み潰したような視線を向ける。
「血液で炎を消したのか!?」
 李の言葉は正解だった。
 夥しい出血が、赤いシャワーが、九六三を包んでいた炎を消し去っていた。
 九六三の体から立ち上る煙を吸い込みながら李は吠える。
「愚かだな、その傷、その出血、炎を消したとしても致命的だぞ!!」
 それも李の言うとおりだった。
 死村家の者はここには来ない。治療が間に合うはずもない。死ぬだろう。
 それでも――覚悟はある。想いがある。それが九六三を動かす。
「私は家族を守る!!」
 ほとんど言葉にはなっていない叫びを上げ九六三は疾駆する。
 最後の力で。
 血に塗れたまま瞳を鋭利な刃物のように輝かせ疾駆する。
 右手に構えたナイフ。
 それは命を振り絞った最後の一撃だった。
 李を殺す――。
 李の娘は死ぬことになるかもしれない。
 許してくれとは言わない。
 呪ってもいい、恨んでくれてもいい、罵ってくれてもいい。
 謝れというなら何度でも謝ろう。
 それで許されるとも思わない。殺すことを正当化する気もない。
 それでも九六三は――家族を守る。
 これがあの時の延長上ならば今超える――。
 あの夜の先へ行く――。
「李!!」
 九六三は叫びと共に李の目前でガクンと頭が下げた。
 刹那――。
 九六三の背後から飛び出したそれが李の視界を遮る。
 それは李にとって全くの死角だった。
 李に向かって赤いラインが疾る。
「朱い線だと――」
 フラッフィープラナリヤの影響を受けた血液。
 それが鋭い刃のように飛び出す。
 血液の刃に対し僅かに李の本能が遅れた。
 血で造られた赤い線が構えていた李の腕を切裂く。
 その間も九六三は李に向かって間合いを詰めていた。
「強敵に対し颯爽と名を名乗るのが死村の嗜み!!」
 焼け爛れた喉で、声を振り絞り九六三は叫ぶ。
 覚悟は人に示すものなどはない、己に示すもの。
 この叫びは自身への言葉だった。
「孤独に抗う強さを持って私の名を名乗ろう!!死村九六三の名を!!制裁の朱線を持って貴様の命を絶つ!!」
 強さと意思を瞳に秘めて九六三は疾駆する。
 限界を超えた九六三のスピード。
 それは運動能力を上昇させている李の反応速度を越えている。
 ただ速く、強く、鋭く。
 李が後ずさりする。この場面に置いて。半歩、後ろに下がった。九六三に気圧されたからだ。
 その瞬間、覚悟も信念も全てに置いて九六三が凌駕していた。
「私の刃はまだ折れてない――!!」
 突き出した右手のナイフ。
 最後の一撃。
 それが李の胸にめり込む。柔らかな肉を裂く音と手ごたえと共に赤黒い血が飛び散る。
 それが限界だった。九六三の体は地面に崩れ落ちる。
 パクパクと数回、李の口が動いた。
「死村、貴様――」
 ゆっくりと血を流す李の口元が笑みを作る。
 ――浅い。ナイフは心臓まで達していない。
 決死の一撃が無為に終わった。
「俺の勝ちだ! やはり俺は正しい! 全ては俺の娘の為に犠牲になれ! 死ね! 死んでしまえ! 殺してやる、殺してやるぞ、死村! 全員残らず――」
 李が叫んだ瞬間――。
 胸に刺さったナイフが胸骨体を貫き、奥深くまでめり込む。
 李の口の中から赤黒い血と金属部品がこぼれだす。それは身体能力と魔力を強化していた何らかの部品だろう。
「なぜ――」
 ゆっくりと李は自分の胸を見て固まった。
 ナイフを押し込んでいたのは――九六三の千切れた左腕だった。
 九六三は物質干渉型の能力者であり、物質の引力、斥力を操作する能力は決して攻撃力に特化した力ではない。だが、十四の物質をの硬軟変化を司る能力のように、使い方の応用とセンス次第ではどんな脆弱な能力でも武器となりうる。自身の力を過信しすぎたのが李の失敗だった。
「そう、か、能力で、引き寄せたのか……制裁の朱線」
 再び李の口からへばりつくような闇色をした粘液が流れ落ちる。
 命の燃焼により痩せ細った体も、傷も致命傷だった。
 李の姿を見ながら九六三は心の中で『すまない』と呟くが、その言葉が届いたかどうかは定かではない。
 李には死村家にあり李にはないエトワス(何か)や、九六三の気持ちも、九六三と己を違いも永久に理解できないだろう。
 九六三は李が力なく崩れるのを朦朧とした意識で眺めていた。
 李の身体は血の海に沈んだまま起き上がることはなかった。
 勿論、起き上がることができないのは九六三も同じだった。
 ゆっくりとその蒼い双眸を閉じていく。


〜第六回・後編『もう一度』




今の状況と同じことが以前にもあった――。
 体も心もボロボロで、動くことなどできなくて死ぬと感じていた。
 死ぬと分かっていても、孤独で孤独で、一人で死んで行くのが寂しくてたまらなかった。
 それはあの時と良く似ているが違う。それは心が満たされていることだ。
「一三……」
 かすれた声で九六三は呟く。
 『死ぬ――だろうな』と九六三は心の中で理解していたがそれでも家族を守れた。
 大切な者を守り抜くことが出来た、後悔なんてない――。
 それを思うだけで心が温もりに満たされていく――。
 緩やかな死を前にして九六三は思う――。
 もしも――。
 叶うならば――。
 願うということが許されるならば――。
 最後に抱きしめて欲しかった――。
 孤独から救ってくれたあの時のように――。
 名付けてくれたあの時のように――。
 願うならば名前を呼んで欲しかった――。
 そしてもう一度抱きしめて欲しかった――。
「九六三……」
 そう、もう一度そうやって呼んで欲しい――。
 そこまで考えて九六三は我が耳を疑う。
「九六三……」
今度はより近くから聞こえてきた。
 それは聞こえるはずのない声。聞こえてはいけない声だった。二度と聞くことはないはずだった。
「九六三……」
 もう一度、その声は九六三の名を呼ぶ。
『ああ……』
 声にならない声で九六三は呟く。
 歪んだ視界に映る男の姿があった。
 泥と血で汚れて髪も短くなっているが、それが誰かはすぐに分かった。
 来るはずがない、来るはずなどない――そう思っていた。
 ゆっくりと九六三の身体が抱きしめられる。
 『来るなと言ったのに』と言いたかったが言葉に出来なかった。
 何も言葉にならない。男の手が焼け焦げた九六三の髪をそっとなでてくれる。
「強くなったな、九六三」
 男はそう言って優しい眼差しを向ける。
「でもよ、逃げろってのはないだろ?俺はよ、俺たちはよ、誰一人欠けたらダメなンだぜ?そういう役目はよ、兄貴の俺の仕事だろ?」
「一三……」
 今の九六三には自分を抱きしめる男の名前を呼ぶのが精一杯だった。
『強くなった』その言葉に心が震え、枯れた瞳に涙が浮んだ。
 それを一三の傷だらけの指先がそっとぬぐってくれた。
「九六三姉ちゃん……!!」
 抱きしめる一三の隣で十五も泣きそうになるのを堪えている。
 せっかくの可愛い顔を歪ませて涙なんて流さないで欲しかった。
「九六三、ジッとしてろよ。十五、転寝が来る前に応急手当するぜ」
頷きながら十五が目元を拭う。自分のするべきことが分かっている――そんな顔をしていた。
「大丈夫だ、九六三。転寝なら傷だって千切れた腕だって直せる」
 そう囁いて一三が残った右手をギュッと握ってくれる。
暖かい手だった。このぬくもりがいつも九六三のことを孤独の闇から救ってくれる。
「九六三、一緒に帰ろうな」
 一三の言葉にゆっくりと笑顔を浮かべる、つもりだったがうまくできなかった。
 体力の限界を迎えたのと張り詰めたていたものが緩み、ゆっくりと意識が白い光に包まれていく。
 その意識が消えようとする瞬間、その先で――李が起き上がるのを見たような気がした。



 


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