『第五回:クトゥリューゲート』

 
 考えること。
 とにかく考えて迷うこと。
 立ち止まりながらでも進みながらでも、戦う時でも考えて考え抜くこと。
 それが一三に最初に教えられたことだった。その教えを思い返しながら無人の街を歩く。
 足取りが重いのは考え事をしているせいだけではない。李から攻撃された腹部の痛みのせいでもあ
る。ダメージは軽いとは言えないうえ、肌は焼け焦げ、髪も後で切りそろえなければならない。それでも、九六三は僅かに身体を引きずりながら思考のルービックキューブを組み立てていた。考えなければ状況を打開することなどできないからだ。
スッと意識を集中させれば頭の中のルービックキューブが揃っていく。何を考えればいいか答えが見えてくる。
問題は幾つもあるが、九六三はまず現状を考えることにした。
 ダメージ――腹部への執拗な攻撃で胃が傷ついているが戦闘には問題ない。
 ステージ――現在は結界の中。通信機器は一切使用できない。魔術によるコーティングやエンチャ
ントが施されていれば使うこともできたかもしれない。脱出方法は結界術者の抹殺、結界の破壊、もしくは結界の出入り口に辿り着くこと。
 次に考えたのは李というエネミーについてだった。
 先ほどの戦闘で分かったことが幾つかある。
 猟奇殺人犯『小指狩り』にして魔術師、魔術属性は炎。接近戦では九六三の方が分があるが、まだ
何か隠している可能性がある。体内に幾つかの魔術的な処置を施されている可能性が高い。そして、常時どこかと通信を取っているようでもあった。
 その指示に戦い、貪る様は狂人そのものだ。その螺子の外れた言動の中には『ゲーム』というルー
ルが存在していた。そして、その『ゲーム』で勝利することが娘を救うことだと考えていると推測される。その為なら躊躇も逡巡もないだろう。まさに命を賭けたゲームだ。
 ふと、九六三がまだグレイヴだった頃に聞いた話を思い出す。
 人間と人間を闘わせる裏賭博が大陸に存在すると――。
 詳しくは知らないが、二人の駒を競わせ殺し合いをさせるゲームらしい。
 しかも戦わせる駒は子供でも女でも構わず、一番多くベットした金持ちの注文通り殺す。グロテス
クな殺戮を見ながら退廃的な資産家や好事家達が愉悦に浸るという。溝鼠でも吐き気を催しそうな遊戯だ。その組織の名は裏事師の間では聞いたことがない者はいないだろう。
「クトゥリューゲート……」
 九六三がその忌まわしき名を呟く。
 クトゥリューゲート――日本では九頭龍門(くずりゅうもん)と呼ばれている。
 それは文化大革命を起源とする組織であり、1966年から現在に至るまで、中国の政治や経済の
裏側に深く根を張っている。
 中国共産党とも繋がりが強い組織であり、汚職政治家や汚職公安警察、国務院、国家安全部の関係
者が協力してるという。
 文化大革命、正式にはプロレタリア文化大革命とは共産主義社会の早期実現を謀り、1966年に
毛沢東が発動した政治運動である。
 ヨーロッパもアフリカもアジアも1960年代は革命の時だった。現在に至る社会システムや対立
図式の根幹となるのはこの年代だった。言い換えれば革命の時と言える。
 だが文化大革命は失敗だった。。
 九龍頭門は文化大革命が人類史に残る大混乱と数百万の犠牲を出すことを予感していた。毛沢東の
望んだコミューン型の新社会など信じていなかったのだ。誰もが毛沢東の考えた未来など訪れることはないと気づいた頃、既に組織は完成しつつあった。それまでに蓄えた資材と作り上げたパイプライン、強力なバックボーン、圧倒的な武力――。
 九頭龍門はその存在を混乱しきった中国社会の中で誇示する。そして、中国裏社会の中で不動
の地位を築いたのだった。
現在、参加型エンターテインメントの一つであるカジノについて、構造改革特区構想に対して東京
都や地方自治体から提案が提出されているが、バックには賭博による海外進出を狙った九頭龍門の圧力が噂されている。
 このゲームが九頭龍門の下部組織の行いだとしたら、李の言っていた狂言が意味を持ってくる。敵
の規模や強さも見えてきた。もっともそれが分かったとて九六三は退く気はない。九六三の家族に標的を変えたことを許すつもりはない。
 あの狂人や組織から命に代えても大事な家族を守らなければならない。
 粉砕されようが破砕されても撃砕しても爆砕したとしても絶対に守ってみせる。
 その為にしなければならないことがある。
 そう、最大の問題は九六三の家族がこちらに向かっているということだ。
 こここからの戦いはただの力のぶつかり合いではない。
 いかにしてこちらに向かう家族を見つけ、『小指狩り』を抹殺するかだ。
 しかし、それが自分に出来るだろうか――そこが九六三の考える一つのポイントだった。
 李の執念と信念を上回りることが出来るのだろうか。
 娘の為に人を殺め続ける李を殺すことが出来るのだろうか。
 多分、九六三が純血の死村であれば迷うこともなかっただろう。
 九六三に死村として足りない物があるとすれば多分それだ。
 だが、九六三は一人で生きている時間が長すぎた。人を殺すには優しすぎた。十四や一三のように
家族の為に限りなく冷酷になるということが出来ないかもしれない。
「一三……」
 苦痛からか心の重みからか九六三は眉をしかめ、歯を食いしばった。
 迷いもあるし、恐れもある。トランシルヴァ城を彷徨った時と同じで、黒いモヤが身体に纏わりつ
いているようだった。
 だが、九六三は歩く。考える。
 今、出来ることをしなければならない。歴史も今も全ては積み重ねだ。
 一歩、一歩、ゆっくりでもいい。今を作り出す為に動いて行かねばならない。
 その為にも今は家族を見つけなければならない。
 その為にはどうしたらいいか、居場所を知らせるにはどうしたらいいか、李よりも先に合流するに
はどうしたらいいか、そこまで考えて九六三は原始的な方法を思いついた。
「――狼煙か」
 死村家の者とて九六三を結界内で見つけるのは手探りなはずだ。
 ならば狼煙を上げておけば何らかのアクションがあるかもしれない。
 九六三は瞳を閉じ、家族のことを強く思い浮かべた。
 それだけで胸の奥が熱くなって力が湧き上がってくる気がした。
 九六三は痛む拳をグッと握り締める。第二ラウンドの開幕は近い――。


『第五回中編 約束』


 九六三の後を追って一三が辿り着いたのは駅だった。ここで九六三と良く似た容姿の人物が目撃されている。九六三がこの電車に乗ったと考えると、この先の事件現場は一つしかない。
 切符を買った十五を先にホームで待たせ、一三は売店で喉飴を買う。ホーム内に充満する煙草の匂いは喘息持ちの弟にはあまり好ましくない。飴が効くかどうかは分からないが何もしないよりはいいだろうと判断した。一三は飴を買うと十五の待つプラットホームに向かい歩き出す。
 サラリーマン、学生、様々な人々と擦れ違う中、一三の足音がないということに気づく物がどれだけいるだろうか。暗殺者だと気づく者はどれだけいるだろうか。
 もちろん、一三はどこにでもいる青年を装っているし、他人の足音や衣擦れの音がないことに注意を払う者はこちら側にいる者ぐらいだろう。逆に言えば一三が他者の気配や尾行、違和感に気づかないことはほとんどない。
「黒い狼達の守護者よ」
 と、ふいに言葉を投げかけられた時、背筋に冷たい氷を入れられるような感覚がした。
 気配も何もなく、一三にさえ気づかれることなく、隣に白いローブをかぶった者がいたからだ。
 もちろん、衣擦れの音一つなく、階段の脇にチョコンと座っていた。その姿はまるで占い師やジプシーのようであり、幾つかのアクセサリが広げた黒の布の中に並べられている。
 そう言えば――と、一三は妹の三六が駅前のジプシーからペンダントを買ったと話していたことを思い出す。このジプシーが一三に接近したのではなく、一三がこの女性のテリトリーに踏み込んでしまったようだ。
「常に物語の中に存在し、英雄になれる資格を持ちながら、気高き剣を捨てて守ることを選ぶ者」
 ジプシーの聞いただけで心を鷲づかみにするような魅力的な声は流星の夜に聞く竪琴のように軽やかな響きだった。ローブの下から女性の顔が覗いて見えた。
 滑らかな絹のような褐色の肌と、引き込まれてしまいそうなほど深い瞳を持った蟲惑敵な女性だった。星々の煌きを宿した瞳のせいか、その黒髪の滑らかさは夜の闇のように思える。
 気を抜けば魂すら抜き取られそうだった。このジプシーの女性が何物か尋ねることが愚かしく思えてしまう。
「隠された事物の知恵を学び、星達の見下ろす影の道をよぎろうとする御身よ。砂塵に消えた英雄たちの足跡を後から歩む者が辿れるように口にする、ナイアート族の苦痛の唄に耳を傾けよ」
「ナイアート族?」
「我等は千の顔を持つ名状しがたき神を崇拝する者。旅人を導く一冊の書物。木々を支える枝葉。歌姫の舞台に舞う花弁。物語から外れた名もなき風」
 僅かに興味を持った一三が座り込むとジプシーは表情を変えずに言葉を続ける。
「御身はロバ・エル・ハリイェーに入り込み独り徘徊する者」
「ロバ・エル・ハリイェー?」
 一三が尋ねると、女性は僅かに眼を細め一三を見つめる。
「ロバ・エル・ハリイェーは御身の放浪する世界。人が歩む大いなる砂礫の大地。魔物の咆哮が響きわたる荒野」
 言葉を遮るように吹いた一陣の風がジプシーのローブを揺らした。だがジプシーは微動だにすることなく言葉を紡ぐ。その神秘性を秘めた表情には、余計な口を挟むのを躊躇わせる何かがあった。
「残酷だが必要であった教訓という岩に、己の生と言う家を建てよ。策略と奸智によって門の知恵と古の知識を得た者も、勇気と狡猾さで持って世界の深みたる禁断の知識を奪う者も、いかなる妖術の悪意も、いかなる神性や魔物の力も、いかなる人間の権威もお前から守る意志を奪えやしない」
 ジプシーの言葉が途切れると一三は髪をかいた。
「守るって辺りはなンとなく理解できるンだが、いまいちパッとしねぇな。つまりはどういうことだい?」
 ジプシーはやはり身動き一つせず、その美しい声を発した。
「いずれ分かる。御身は長い放浪の先で答えを見出す者」
「放浪ねぇ……」
 髪をかく一三を見つめジプシーはわずかに眼を細める。それはどこか挑発的であり、まるで一三を試すような表情でもある。それでもその神秘的な感じは変わらない。
「人は皆、旅を続け彷徨う。いずれは幼き狼達もお前の元を離れ旅に出るだろう」
 その言葉に一三はフッと口元だけで笑った。
「分かってることさ」
「分かっていることと受け入れることは違う、黒い狼達の守護者よ。御身が砂礫の大地を旅するなら努々忘るることなかれ」
 ジプシーはどこからか取り出したキセルを妖艶な唇で咥える。
「御身に無謬の神の幸があらんことを」
 ジプシーがそう言うと、一三はミント味の喉飴をそっとジプシーの前に置く。するとジプシーは置いてあった羽根付きのペンダントを一三に差し出す。
「幾らだい?」
 ジプシーはミントキャンディーを手に微笑む。それは先ほどまでと違い、僅かに愉快そうな感じのする表情だった。
「金はいらぬ、黒い狼達の守護者よ。御身が苦痛に晒される時、風の向こうに聞こえるナイアートの唄を思い出すがいい」
「ま、参考にさせてもらうさ」
 一三はジプシーから背を向け階段を上っていく。その背中に向かってジプシーは言葉を投げかけた。
「躓きながら歩む狼を探すなら、炎を纏う骸に気をつけなければならない。道を間違えれば骸が一つ増えることになる」
 一三は背後に向けて手を振ることでジプシーの投げた言葉に答える。
 そのまま階段を上りプラットホームに出ると、通勤ラッシュのホーム内は人で溢れていた。通勤帰りのサラリーマンや煙草を呑む中年男性が多く、独特の脂ぎった匂いと煙草の匂いが周囲に漂っている。東京のような大都市圏の駅ならまだしも田舎の駅では喫煙禁止になっていないせいだ。十五が喉を痛めていないだろうかなどと考えていると、『兄貴』と呼びかけられる。
 九六三とお揃いのミリタリーベースジャケットを羽織った十五が階段の入り口に立っていた。十五は手にしていた黒い携帯を一三に差し出す。
「兄貴、十四兄貴から電話だよ」
「十四から?」
 何故わざわざ十五に掛けるのか、理由は簡単だった。
『あのブラコンめ』と人のことを棚に上げて呟きながら一三は電話を受け取る。
「十五、ダメだぞ。変なお兄さンからの電話は切らねぇとな」
『聞こえてますよ、兄さん』
 電話の向こうで十四がフフフと笑う。十四の容姿を知らない者が、その透き通った甘い声を聞くなら、ローマの休日に出てくるような物腰が柔らかで優美な紳士を想像してしまうだろう。その声だけでなく、十四の容姿を見て『黒薔薇の王子』と例えた者さえいる。振る舞いや物腰、容姿や言葉遣い、どれをとっても完璧と思われる十四の問題点はその思考の方だった。
「どうした、変態」
 極々普通に一三がそう言うと十四は笑う。
『相変わらず双子の弟に対してだけはツンデレですね、兄さん。その素直じゃないところがまた愛しすぎるのですが。嗚呼、この手でそっと抱きしめてあげたい。そして二人の――』
「黙れ、変態」
 最愛の対象が双子の兄という、ただ一点が十四の全てを損なわせていた。
「ツンデレってのが、なンのことか分からねぇが、お前に言われると無性に腹が立つから不思議だな」
 一三はそう毒づきながらミントキャンディーを十五に渡す。十五が『ありがとう、兄貴』と微笑むと、我慢出来ずその頭をなでた。くすぐったがる十五を本当は抱きしめたいところだが、そんなことをすれば電話の向こうの変態と同じになってしまう。ここは我慢すべきと判断した。
『さて、兄さんに電話を掛けたのには幾つかの事情がありまして』
 十四の声の後、ゴキリという鈍い音がした。
「何してンだ、十四」
『ええ、密告屋ネットワークの中に九六三さんの情報を売った者がおりまして。中々、口が固い物ですから少し御仕置きを』
 声色を変えることなく十四はクスリと笑う。その後、悲鳴に混じり骨と肉が鳴く音が響いた。
『どうやら、兄さん達が調べているという情報も既に流れているようですね』
「止めるのはできねぇか?」
『ネットワークを作った本人から言わせてもらえば、一度降り出した雨を止めるのと同じぐらいに難しいですね』
「作った本人が止められねぇとなると厄介だな」
『ええ、正確には、生みの親は私と友人の鈴原さんという方なのですが……まさか、こんなことになるとは思っていませんでした』
「そこら辺のことは後で家族会議するとして、情報ってのは?」
 再び聞こえる悲鳴の後、十四が『はい』と呟く。
『兄さん、今回の件に九頭龍門と賭け賭博が絡んでいることはご存知ですか?』
 少しの間の後、一三は『ああ』とだけ答えた。フッと一三の手が十五から離れる。
『では国内カジノ構造改革特区構想の話は?』
「確か、合法のカジノを作る提案書を東京や地方自治体が出してるって話だろ」
 構造改革特区構想とは、地域の特性に応じて規制の特例を導入する特定の区域を設け、地域での構造改革を実施する為のものであり、その区域内で自治体独自の政策を行うことが出来る。現在は東京都知事である維持原瓶太郎と内閣官房構造改革特区推進室が中心となっている。構造改革特区構想で東京都内にカジノを設けることを提案したのも維持原都知事だった。
『はい。その通りです。実は被害者の身元を洗って行く内に、今回の小指狩り事件には意図があることに気づきまして』
「意図?」
『実は被害者のほとんどは構造改革特区構想に反対している有力者の親族なんですよ』
「なるほど、そういうことか。奴等の目的は」
『ええ、中国系組織のカジノ参入が狙いですね。被害者に全く関係のない人間を組み込んでいるのは分かる人間にしか分からない圧力、カモフラージュと言ったところでしょうか。多分、殺された反対派の親族にも賭けへの参加を強要して殺している可能性がありますね』
「ついでに賭け賭博ってことか。九頭龍門からしてみれば二重の得があるわけだ」
 カジノ反対派の人間も立て続けに、反対派の親族が殺されればそれがどういうことかは分かるだろう。しかも一般市民を巻き込むということに躊躇いが全くない。
『兄さん、気をつけてください。もし、最初から死村家を狙うとしたら、最終目標は兄さんですからね』
 一三は、一瞬だけ瞳を閉じて再び開く。
「ああ、分かってるさ」
 と、だけ一三は答えた。十四は一三の気持ちを察したのか、僅かな間を置いて言葉を紡いだ。
『今回の件は僕達のミスですね。お互いにキッチリと決着をつけましょう』
「ああ。九六三のことはこっちが何とかするから転寝に緊急治療の手配を頼む」
『了解です。宗主にも事態を伝えて動けるように手配しておきます』
「ああ」
 十四に頼んでおきながら、『修復師(レディファウスト)』と呼ばれる悪原転寝の能力が必要にならなければいいがと思う。
 最悪の場合、今動ける死村第三位『三威弧』と死村第五位『五醍醐』の力を必要とするかもしれない。いや、むしろあの二人が可愛い妹の身を案じて暴走を開始する前に解決しなければならない。あの二人は家族を守る為だったら、家族以外の者が犠牲になることを一切躊躇わず微塵の逡巡すらない。それは純粋な死村らしい思考だった。
 死村が死村たる理由は家族に対する強い忠義と、他者への冷酷さにあるからだ。
『兄さん。必ず無事帰って来てくださいね。その時はデカダンに酔いどれ朝まで愛し――』
 そこで一三は電源を切ると心配そうに十五が一三を見上げている。
「どうしたの、兄貴。急に顔色が悪くなったよ?あの変態に何か言われたの?」
「たはは。いや、何でもねぇさ」
 あの変態のことは何も言わなくても十五は何となく分かっているようだ。
「十五、九六三を助けて皆で飯でも食い行こうな」
 十五が満面の笑顔で頷く。一三はしばらくその眩しい笑顔を見つめぼんやりとしていた。それに気づいた十五が小さく首をかしげる。
「どうしたの、兄貴。電車、そろそろだよ」
「ン、ああ」
 十五がそう言うと、丁度アナウンスが流れ線路の向こうからロートル電車が近づいてくる。
 軋んだ金属音と風切り音がデュエット。それがゆっくりと消えて電車が停車すると、動き出す人ごみに合わせて二人も電車に乗り込む。電車内は人で埋まるというわけでもなく、吊革を手に立つサラリーマンが点在するローカル線らしい混み方だった。十五が座席に座ると一三はその隣に座る。
 すると、ゆっくりと電車が動き出しリズムを刻みだす。
 ここから三つほど行った先の駅が終点であり、そこで九六三は降りたはずだった。
 十五は緊張しているのか、駅を二つ越えるまで黙っていたがふいに口を開いた。
「ねぇ、兄貴」
「ン?」
 隣に座った十五がミントキャンディーをころころさせながら一三を見る。
「今度の敵は九頭龍門って奴等なんだろ?」
「ああ」
 短く一三はそう答えた。少しの間の後、十五は尋ねる。
「昔、何かあったの?」
 そう言われ、一三は少し困った顔で笑う。
「まぁ、昔、色々あってな」
 一三が面倒そうに髪をかくと、十五の追撃が来る。今日はいつもと違って遠慮も容赦もなかった。
「仲間とチーム作る前?」
「ああ」
「時々、フッてどっか出かけちゃうのもそのせい?」
「まぁな」
 いつもの十五らしくない態度に一三は少し困った。学校や裏事で何かあったのかと心配になってしまう。十五は三六と同じように案外ナイーブで繊細なところがあるからだ。
「どうしたんだ、十五?」
 一三が尋ねると、十五は少しだけうつむく。
「だって兄貴の側にいても知らないことの方が多いんだもん」
「そうか、そうだな」
 よくよく考えてみれば一三は昔のことをほとんど弟や妹たちに話したことがない。上手く立ち回ることもできなかった情けない自分のことを語ったところで、恥の上塗りでしかないと思っていたからだ。
「俺のことなンざぁ、聞いても面白くねぇ話だぞ?」
 一三がそう言うと十五は首を横に振った。
「ううん。兄貴のことなら何でも聞きたい」
 そう言われてしまうと困ってしまう。眠る前に絵本を読んでくれとねだる子供のような、そんな瞳の輝きが十五にあった。
「参ったな……」
一三は苦笑いを浮べ『たはは』と笑った。
「いつか、話してくれる?」
 少し考えた後、一三は口元に笑みを浮かべながら呟く。
「十五が本当に強くなったらな」
 そう言うと十五はパァッと明るい笑顔になる。
「本当?」
 十五がそう尋ねると一三は十五の手をソッとつかむ。そして自分の小指と十五の小指を絡めた。
「ああ、約束だ。それに俺がお前に嘘ついたことあるか?」
 『ううん。ない』と十五は首を横に振る。
「兄貴が話してくれるまで強くなって待つけど……あんまり危ないことやらないでよ、兄貴。俺達、いつも守ってもらってばっかだけどさ、俺達だって兄貴が傷ついたら苦しいんだから」
「十五……」
 一三の脳裏に子供の頃の十五の姿が浮ぶ。いつも一三達の後ろを着いてこようとしてたおチビさんは気づかない間に立派な死村として育っていた。それが一三に僅かな寂しさを含んだ微笑を浮かべさせる。
「大きく、なったンだな」
 一三が十五の頭をなでた、その瞬間、ゾクリとした悪寒が背筋を走り抜ける。
 背筋に氷を入れられるような、落下する夢を何度も見るような感覚であり、それは駅で感じた感覚と同じだった。
 反射的に一三の双眸が眼前を見つめる。
 その鋭い視線の先にいたのは、吊革を手にするサラリーマンの男ではなく、参考書を開く学生でもなく、正面に座っている目深にキャップをかぶった少年だった。黒いコートを着ているが十五とそうは変わらないだろう。一三の視線に気づいた少年はニッと笑う。
「鋭いね。やっぱ気づいちゃったか、流石だね。完璧に気配を断ってたのに」
 気づくのが遅かった。
「十五――!!」
 駅で感じた悪寒はジプシーではなく目の前の少年だった――。
 ゆっくりと電車が停車しようとする中、一三は叫ぶ。
「伏せろ!!」
 銀の細い光が、輝いた――。




3.シムラ・エトワス〜小指狩りプロミス〜第五回・後編『長い別離』〜

 
 死村一三は横たわり弟の手で包帯を巻かれていた。左目からの出血は既に止まっているが開こうとすれば痛みが走る為、右目だけで周囲を見渡す。
 荒涼とした終わりのような世界には二人しか存在しない。
 肉と血の海のプラットホームに転がった人間だった者達。
 ぐしゃぐしゃに捻れ切裂かれた電車だった鉄くず。
 そこから飛び出した人間の手足もほとんど原型を止めていない。
 茶色い小石のようなバラストが散らばったアスファルトには螺旋の模様が幾重にも刻まれていた。レールもぐにゃりと折れ曲がり、ここが結界の中でなければ情報操作を頼むにしても難しかったかもしれない。
「兄貴、左目にも包帯巻いとく?」
 弟の十五がその大きな瞳を潤ませて尋ねる。「ああ。頼む」
「水かけるぜ、兄貴」
 そう言うと十五は一三の閉じた左目にミネラルウォーターを浴びせ洗浄する。
 さらにそこへフィビリンガーゼを当てた。
 人間の血管が破れて出血が起きると、その部位に血小板が集まって白色の血小板性血栓を形成し、フィビリンと呼ばれる繊維状のものが形成されかさぶたのような赤色の血栓になる。それを元に開発されたのがフィビリンガーゼであり、人体の組織に近い繊維質で出来たガーゼは凄まじい速度で止血、かさぶたを形成してくれる。
「待ってろよ、九六三(クロス)。お兄ちゃンがよ、すぐ助けてやるからよ」
 死村一三は僅かに瞳を閉じ、オレンジの空を見上げた。
 時は数分ほど前に遡る――。

 


 電車が結界の入り口があるその場所に到着した――と一三が感じた一瞬だった。
 それは懐かしい者と再会した一瞬でもあった。
 瞬きをするような刹那、意識と意識が途切れて繋がる一瞬。
 『シュン』という風切り音と共に銀色の瞬きは消える。
 たった一瞬、たった一瞬、電車が停車するのと同時に銀色の光が疾っただけだった。たったそれだけのことがあまりにも多くの物を奪った。
 死ぬべき理由のない人々の日常が終わった。
 あまりにも圧倒的で理不尽な絶対的暴力により、その命を終えた。
 そんなものとは接点もない人々は殺された。
 悲鳴をあげることもなく、呪いの言葉を投げかけることもなかった。
 自分が死んだことにさえ気づかないかもしれない。
 全ては刹那、日常を切裂く一瞬の出来事だった。
 狭い電車の中は地獄と化した。キャンバスを真っ赤に塗りつぶしたように、壁に、窓ガラスに、吊り革に、網棚に、血肉がこれでもかと言わんばかりに飛び散っている。
 細切れになった車掌の身体は、少しの間バランスを保っていたが崩れ落ちていく。
 新聞紙を手にしたサラリーマンは自分の首から上がないことに気づかず、真っ赤な新聞紙を開き続け座っている。明日は自分が三面記事に載るとしてもそれを見ることはもうないだろう。
 その隣の高校生女子は携帯のメールをいじったまま、左手と口角筋から頭をスッパリと切裂かれたまま固まっていた。右手があればメールを打つのには困ることはないだろう。
 ゴシックロリータファッションの女性の首は、網棚の上から座席に座った自分の胴体を見つめていた。自分がどういう風に思われているか、見つめ直したとしても遅いかもしれない。
 容赦もなく切断されたまだ幼い子供の首がゴロリと転がる。綺麗な表情だった。自分が死んだことも気づいていないだろう。
 その首がころりと――。
 一三と十五の前を転がっていく。
 一三の手により十五は抱き押さえられていた。一三が銀の光に気づいたのはまさに間一髪であり、コンマでも遅れていれば十五は助からなかっただろう。
 一三の腕の中で、十五が子供の死体を見つめ歯軋りする。
 それは言葉にしないが一三も同じ気持ちだった。何の罪もない人間、しかも子供を殺すと言うことは一三と十五の信条に反する。それが目の前で行われた時、怒りの炎を燃やさずにいられるほど下衆ではない。
 二人の激情を察したのか、帽子を目深にかぶった少年はそんな二人を眺め微笑む。十五とそこまで年齢の変わらない表情には幼さが残っていた。
「さぁ、これで余計な奴等が消えて話がしやすくなったね」
 周囲から浴びた血で真っ赤に染まりながらも、少年の視線は一三と十五を見つめ続けていた。
 まるで何事もなかったかのように平然と言葉を紡ぐ。その夥しい返り血ですら雨に濡れたのと同じぐらいの手軽さで払う。
「少し黙ってろ――」
「久しぶりにあったのに寂しいなぁ」
 少年はクスクスと笑う。一三はただそれを見つめていた。
『黙ってろ』――そう口にするのが精一杯だった。それがやっと言えた言葉であり、今の気持ちでもある。
 少年はただ微笑んで頷く。嬉しそうに、心底嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべていた。その笑顔を見て一三は後悔する。一三の知っている少年と――昔と何も変わらないからだ。戦うことに恐れを抱き、迷っていた頃の笑顔と何も変わらない。それは二人が普通に再会していれば一三の心を喜ばせていただろう。今はそういう気持ちが血の一滴分も沸かなかった。
「十五、怪我はないか?」
 一三の言葉に十五は答えなかった。
「なんで、ここまで――!!」
 肩をわななかせ十五が呟く。それは恐怖などではなく怒りだった。その小さな身体が湧き上がる感情に震えている。
 十五にとって何の意味もなく理由もなく、ここまで残虐に人が殺されるのを目の当たりにするのは初めてだろう。
「全然、関係のない人たちだった! 殺される理由のない人たちだったんだぞ!」
 十五の言葉に少年は不思議そうに首を傾げる。どこか馬鹿にしたような心底理解できないものを見たときの人間の反応に似ていた。
「え?それが何なの?」
 右手で頬をかきながら、平然と極々普通に少年はそう言った。
「お前、面白い奴だね。自分の家族が殺されたわけでもないのに何で怒るかな?それでも死村家の一員なわけ?」
 淡々と口にした言葉を返され、十五は肩をわななかせる。
「てめぇ――!!」
 十五の身体が反射的に動こうとした。
 その手を握ったのは守るように抱きしめていた一三だった。
「落ち着け、十五」
 十五を抱き締めたまま一三は呟く。淡々といつもと変わらぬ声で、ただそう言った。
 怒りの炎には三種類ある。轟々と全てを焼き尽くす紅蓮の炎と、全てを巻き込む暗黒の業火、そして凛と輝き静かに燃える蒼い焔。
 一三の冷静な声の中に含まれた怒りは家族でなければ気づかないほど些細な物だった。
 その身体からあふれ出る裂帛した気々は刃のように鋭い。
 銀色の光など比にならない切味を秘めている抜き身の刀だ。
 だが、死村一三はそれを抜かない。刃を向けるべき相手を知っているからだ。
「熱くなったら終わりだぜ、十五。怒りや激情ってのな、外に出すもンじゃねぇ。内側に込めるもンだ」
 それはいつも一三が十五に教えていることだ。プロのプレイヤーとしての一三の信条でもある。狩人は冷静でなければならない。夜鷹のように冷静に、梟のようにクレバーに、激情を込めるのはその爪が相手の喉下に食らいつく時でいい。
 一三の腕の中で落ち着いたのか、十五の乱れた呼吸のリズムが徐々に整っていく。
 一三は十五の『能力』の影響を受けたコートの袖をチラリと見つめる。
 ここで十五の『加減の効かない能力』を使われたら一三でさえただですまない。それは眼前の少年も同じだった。
 殺戮され尽くされた車内にパチパチパチパチと場違いな拍手の音が響く。帽子を目深にかぶった少年はさも嬉しそうに手を叩いていた。
 うっとりとした美酒に酔うなまどろんだ双眸だった。血の香と臓物の輝きに酔ったような恍惚とした表情で瞳を輝かせる。
「やっぱり格好いいなぁ。格好いいよ。最ッ高に格好いい。九頭龍門にいた時と何も変わらないんだね」
 少年のうっとりとした表情とは反対に、落ち着いたはずの十五はただただその少年を睨んでいた。
 抱き押さえている一三にも、十五のわななきが伝わってくる。だが少年はそんなことに構うことなく言葉を続ける。あたかもそこにいるのは一三と自分だけのように。
「こんな時でも余裕の表情を全く崩さないんだね、さすがだよ」
 目の前の虐殺を平然と何の躊躇いもなく行った少年は蟲惑的な眼差しで一三を見つめる。
「久しぶり、兄貴。ずっと会いたかったよ」
「文龍(ウェンロン)――」
 一三は少年を見据え、ただ静にそう呟く。
 その呟きに様々な感情が込められている再会だった。この先、会うことはないと思っていた。例え、会ったとしてもこのような形で再会することになるなどと思ってもいなかった。
「お前が今回のことを全部仕組んだのか?」
 子守を殺害し――。
 賭け賭博を行い――。
 密告屋のシステムを利用し――。
 九六三を事件に巻き込んだ――。
 九頭龍門の日本進出の尖兵として――。
「違うよ、兄貴」
 その問いに少年は首を横にふって笑う。屈託のない無邪気な表情だった。
「あは。ううん。違うんだよ。僕は賭けゲームの調整役だから指揮はしてないよ。ただ、兄貴たち死村を巻き込むように仕向けたのは僕だけどね。だから――」
 文龍がそう呟いた時、
「兄貴たちがしようとしてることとは、言い換えるなら本筋とは関係ないんだ、必要性もない。物語で言えばいらない部分だよ」
 銀色の光が輝き、
「僕の完全なただの我儘。命令違反ギリギリのね」
 その一瞬で、ハラリと一三の髪が落ちた。短くなった一三の髪を見て文龍は満足げな表情を浮かべる。
「うん、その方が昔に似てるし格好いいよ、兄貴」
 一三は腕の中から飛び出そうとした十五を再び抑える。こういう時の心のコントロールは必須だ。
「そいつはどうも。だが、その腕前じゃ美容師にはなれねぇな」
「フフ、最初から普通の世界で生きられるとは思ってないよ。それが九頭龍門に残った理由さ」
 文龍が再び手を動かそうとした――。
 素早く十五から離れた一三の手が文龍の細い手首をつかむ。
 僅かに文龍は『あ……』と声を漏らしたがすぐに笑みを浮かべた。
「凄いね。もう見破ったんだ、僕の能力。兄貴を驚かせる為に必死で覚えたのに」
「そういう小細工はそう何度も相手の目の前でやるもンじゃねぇ」
 クスリと文龍が吹き出す。懐かしむように。愛しむように。それは狂気であり、純粋な感情、一三の知らない文龍だ。
「やっぱり、兄貴には敵わないや。僕だって強くなったつもりだったのに。実戦部隊のリーダーに選ばれるぐらいに強くなったんだよ。見たでしょ?能力を最大限に活かしたあの銀色の光の技(トリック)を」
 無邪気に屈託の無い笑顔で文龍は笑う。違う、死村一三はそう直感する。昔の文龍と何かが変わってしまっている、と。
「俺はお前に九頭龍門から身を引けと言ったはずだぜ、文龍」
 フルフルと文龍は首を横にふった。
「さっきも言ったはずだよ。ここしか僕の居場所はないからさ。そうだろ?兄貴だってこっち側の世界で生きてくしかない、それと同じさ。覚えてるかい?兄貴が僕を拾ってくれた日を」
 一三は一瞬、瞳を閉じ『ああ』と呟く。それは随分と昔のことだった。
 当時、九頭龍門の殺し屋だった一三が助けたのは何の力もない子供だった。
 家族と兄弟を殺された少年は『自分の手で復讐する力が欲しい』と懇願した。
 一三は『その気持ちを忘れるな、何年掛かろうと絶対に家族の仇は討て』と教えた。そして少年が文龍と名乗り、生きる力を手に入れた頃、二人に別れが訪れた。
「兄貴は子犬を拾うような手軽さで僕を拾ってくれたかもしれない。でも死にかけた僕にとっては兄貴は神も同然だった。兄貴と過ごした時間は初めて一人じゃないと思えた。全てさ、九頭龍門と兄貴が」
 文龍はずっと再会を望んでいた。ずっと待っていた。
 それを思うと自分への怒りが込み上げてくる。なんで文龍の気持ちに気づくことができなかったのかと。もう大丈夫だと思ってしまったのかと。無理矢理でもどんな危険を冒してでも日本へ連れて行くべきだった、と。
「知ってるんだ。兄貴が本当にどうしようもなくて僕から離れたことは。だから怒ってもないし恨んでもない。むしろ、そこまでボロボロになってくれた兄貴のことを尊敬してる」
「尊敬される資格なンざ、俺にはねぇよ」
 一三が九頭龍門をどんな理由で離れたにしろ、拾った子犬をまた捨てるような真似をしたという事実は変わることはない。
「僕はね、大事なのは兄貴と九頭龍門だけだよ。他のものはどうでもいいんだ」
 文龍は一三を見つめ微笑む。
 思わず、一三の手が緩むと文龍は距離を取る。
 一三は文龍を見つめたままただ制止したまま目の前の暗黒を見つめていた。
 こんな淀んだ瞳ではなかったはずだった。
 かつての文龍はこんな表情なんてしなかった。暗黒の太陽のようなドロドロとした妄執など宿していなかった。だが、今は違う。九頭龍門が、黒く淀んだ闇が、文龍をすっかり変えてしまっている。
「それが殺した言訳か?」
「理由って言って欲しいな、家族の為なんだから。いいよね、家族の為の殺しならさ」
 なんのてらいもなく文龍はそう言った。あたかも、それが完全に正しいことであるかのように。
 確かに死村も家族の為ならば他者の命を奪う。
 だが文龍の考えと死村の考えには決定的的な相違があった。
「教えたはずだぜ、文龍。家族の為に誰かを殺すなら――」
「業を背負う覚悟と強い意志が必要――でしょ?」
 フフッと文龍が笑う。
「格好いいなぁ、兄貴は。うん、格好いい。覚悟はあるよ。他人が死ぬなんて何とも思わないし。大事なのは兄貴だけだもん。だからいいでしょ、他の連中がどうなったって――」
「ふざけるな」
 そこまで言いかけた文龍を遮ったのは一三ではなく十五だった。
 文龍はカチッと葉を鳴らし、十五に一三に対する眼差しと全く反対の視線を送る。この場において文龍にとって十五は異物でしかない。
「十五、下がってろ」
 一三の前に立ちながら十五は首を横に振る。
「兄貴こそ下がってろよ」
 鋭い視線を宿した表情には、少年特有のあどけなさは微塵もなかった。
「自分の問題とは言わせないからな、兄貴」
 割って入った十五が気に食わなかったのか文龍は押し殺すような声で囁く。
「お前さ、関係ないなら僕達兄弟の問題に入りこんでこないでよね。兄貴の弟でも邪魔すると、殺すよ、チビ」
「気安く話かけるなよ、殺人鬼。関係ない人間を勝手に巻き込んどいて今更何言ってんだ?死ね、変態」
 文龍に向かって十五は首を掻き切る仕草をしてみせた。それは姉である死村第三位『三威弧』と良く似ている。それを真似てか、十五は文龍のリズムを狂わせ自分のペースに持ち込もうとしていた。
「お前、僕でも兄貴に抱きしめられたことなんてないのに。少し調子乗りすぎだ。殺すよ、チビ」
「うるさいよ。変態野郎。好きで抱きしめられてると思うのか?死ね、変態」
 文龍がカチッと歯を噛み鳴らした。
「誰だってその腕で抱きしめられ眠ることを望むに決まってるだろ、殺すよ、チビ」
「アホか。頭の中にウジでも湧いてんのか?一人で寝てろ。死ね、変態」
「殺すよ、チビ」
 ピキリと互いのこめかみに青筋が走る。
「うるせぇよ、死ね、変態」
 カチカチと文龍は歯を噛み鳴らす。
「チビ――殺す」
「変態――死ね」
 一瞬の間の後、一三が十五を止めようとすると同時に十五と文龍の手が互いの胸倉をつかんでいた。押し切ったのは十五だった。そのまま、その背後に叩きつけようとつかんだまま突き飛ばす。すると銀色の光が僅かに輝く。刹那、文龍の背後のドアもシートも鉄板も細切れになった。その光の前では鉄板も金属も紙切れと変わらない。
 当然、二人は勢いのまま外に転がり出て、レールにまかれたバラストの上を転がった。
「おいおい――」
 二人の元に行こうとした一三がその場から数センチ右に飛び退く。
 そして、そのまま左手の平を床に着くほどに重心を落としながらバランスを取る。
 刹那、車が衝突するような轟音と共に、震動、衝撃が激しく車体を揺さぶった。
 降り注ぐ破片の中で、一三は目の前のそれを見つめる。
 座席も吊り輪も鉄板も何もかも関係なく叩き切っていたのは巨大な赤い刃だった。
 もし飛び退くのが数秒遅れていれば、電車をバターのように叩き割った大刃に引き裂かれ潰されていただろう。
 赤い刃は電車を軋ませ、ゆっくりと引き抜かれていく。
 スッパリと裂かれた隙間から見えたのは大男だった。一三の二倍、四メートル近くはあるだろうか。
 スキンヘッドや筋骨隆々とした赤黒い肌、その大きな手に握られた真っ赤な斧は巨躯と大きさが変わらない。
 その巨大な体躯と大斧から繰り出される一撃は電車を紙切れのように切裂く威力を秘めている。
 だが、そのことよりも一三が奇妙に感じたのはその気配だった。
「プラットホームをやったのもお前さンかい?」
 一三の親指がプラットホームを指した。そこに転がった無数の肉塊。最早、大人か子供か女かも分からないほどにただ赤い肉の海と化している。
 一三の問いに巨人が答えることはなかった。
「ああ、紹介するね。その大男は『グリグラ』。僕の護衛みたいな感じかな。フフフ、護衛がつくなんて偉くなったでしょ?少しは見直してくれたかな」
 十五と距離をとって構えた文龍が笑うと、再び刃が振り上げられる。
「グリグラ、動けなくしてもいいけど殺しちゃだめだよ」
 一三は溜息をつきながら髪をかいた。
「おいおい、俺たちは裏事師だぜ。そいつはちっと覚悟が足りねぇな」
 そう一三が呟いた、刹那、音もなく、銀の光のごとく。
 一三の身体が空気を突き破りグリグラの眼前まで跳躍していた。
 矢のように跳躍した一三の長い足が空中でしなる。
 目の前にある物に手を伸ばす動作をする時、どの筋肉をどれだけ縮小させるか考えなくても一瞬で正確に手を伸ばすことができるように――死村一三は無意識で限界以上の力を発揮する、それは繰り返された長い鍛錬と練磨が可能にさせたものだ。
 引き出された力が込められた一撃――。
 鞭のようにしなった鋭い蹴りがグリグラの顔面にめり込んだ。
 頬骨がへしゃげ、ブッとグリグラの口から血肉と歯が飛び出す。
 その容赦のない一撃は口輪筋や咬筋を切裂いていた。
 グリグラの巨躯はゆっくりとその力を失い、数メートルはある大斧をバラストの上に落とすと同時に、一三のしなやかな体躯が電車の上に音もなく着地する。
 悶絶したグリグラの巨体が電車に倒れ込む。そこへ容赦もなく一三の右腕が振り下ろされる。
 殺戮式――絶対破壊の右掌。首元に振り下ろされたそれはギロチンと同じだ。
 腹に響く嫌な音と共に、黒い血が吹き出す。筋を裂き、骨を砕き、血管を千切り、命を奪う、死刑執行の一撃はグリグラの頭と胴体を分けていた。
 容赦も情けも躊躇いも逡巡なども微塵もない。
 一三の思考は既に十五と文龍のことに切り替わっている。
 対峙した十五と文龍を止める為、電車の上から飛び出そうとした。
 瞬間、体のバランスが崩れてしまう。一三のズボンを何かがクッと引っ張っていた。
「おいおい」
 否、引っ張ったのはでなく絡みついたが正しい。
 それを見て思わず呟く。
 一三のズボンの裾をつかんでいたのはありえないものだった。
 ――グリグラの首だ。その首の赤黒い断面からてらてら光る肉が伸びている。蠢く肉片で作られた肉触手だ。
 その無数の肉触手が地面に根を張り、口から飛び出した触手が一三の体に絡みついていた。まるでゴムのようにしなやかな弾力を持っている触手が次から次へと吐き出されていく。
 体中に絡みついた触手に抑えられる中、一三は文龍と十五を見つめていた。
「お前、兄貴の弟分だったんだろ?」
 二人の間に鋭く尖った空気が漂っている。
 限りなくピーキーでシャープな、触れれば弾けてしまうようなそんな危うさを持った空気だった。それは十代の子供が放つような空気ではない。何年も修羅場を越えてきた者が持つものだ。
「兄貴はお前に教えたはずだぜ。家族の為に殺すってのがどういうことか、意志と覚悟を。耳にタコができるまで言われたはずだ」
「知ってるさ。誰よりも僕は――」
「違うね」
 文龍の言葉を十五が遮った。
「お前はこれっぽっちも兄貴の教えを理解なんてしちゃいないんだ。お前が兄貴の弟を名乗るのは兄貴に対する侮辱だ」
 一瞬、キョトンとしていた文龍はカチッと歯を噛み鳴らした。
 カチカチカチカチカチ――歯を噛み鳴らす。
「何だと……ならどう違うって言うのさ」
「お前には覚悟も意志もこれっぽちもないんだよ。お前は人殺しを正しいことと肯定してる。でもな、そうじゃない。そうじゃないんだ。兄貴がお前にそんなことを教えたなんて思えない」
 文龍のこめかみがピクリと動いた。
「貴様――!!」
 肩をわななかせていた文龍の激昂が響く。
「お前は昔の僕と同じだよ!」
「お前なんかと一緒にするな!!」
 それはプロのプレイヤーを目指している十五にとって最大の侮辱だろう。十五が目指しているのは一三のような暗殺者であり、殺人鬼ではないからだ。
「同じだよ。お前は何も知らない素人と同じだよ! 僕がどういう世界で生きてきたか分からないからそんなことが言えるんだ!」
「だまれ!!」
 空気を震えさせる裂帛の慟哭は一三にまで届いていた。
 その駆け抜ける怒声と共に窓ガラスが次々と砕け散っていく。それはただ砕けているのではない。その欠片の一つ一つが捻れ、螺旋を描いている。
 電車の吊革や床、座席同様にその形を失うほどに捻れ、グリグラの大斧の刃末、刃元、刃、七つ目、目、頭、得方、得首、得腹、得背も、その捻れから逃れることはできなかった。
「物質を捻る力か――」
 一三は十五を止めようと肉触手を強引に引きちぎる。
 それは使わせるわけにはいかなかった。
 子供の頃からそうだった。十五の感情のベクトルが怒り、それも心を打ち砕くような怒りに傾いた時、ありとあらゆる物を捻じ曲げ、壊し、元の形も意味すらも捻じ曲げる。それは本人すらほとんどコントロールできない。
 捩れの反動で十五の皮膚が所々千切れ血が噴出していた。
 十五がまだ幼い頃、何度かこれと同じことが起こったことがある。アスファルトが捻れ、信号機が飴のように曲がり十五の怒りが消えるまで捻じ曲がり続けた。その反動で十五が全身複雑骨折し入院したこともある。
 それが十五の持った物質を捻り回転させるという能力の威力だった。
「十五、そいつは半端ねぇ。まだ使っていいもンじゃねぇぞ」
 一三の視線の先では既に十五と文龍が臨界点に達していた。
 一歩退いた文龍の足元は十五の能力の影響を受け螺旋紋様が刻まれていく。
 それはグリグラの死体も同様だった。
 木材をへし折るような音が響く。グリグラの指先は皮から血と骨がはみ出すほどに捻れていた。捻れと音は止まらない。ドミノ倒しのように指先から全身まで、雑巾を絞るようにグリグラの身体が捻れ、折れ曲がっていく。聞く者の心を凍てつかせるような音が響いた。出来上がった真っ赤な雑巾は肉の塊だ。
 最早、問答は不要だった。
 再び二人の間から言葉がなくなった。言葉と言葉が互いを理解し合う為に存在するなら、この二人には交す言葉など最初から存在しなかったのかもしれない。二人は、決して交わらぬ平行線、同じ菩提樹の木で生まれ飛ぶ空を違えた二頭の鷹だ。
 二匹の鷹が全力でぶつかり合うことは明白だった。
 一三の右掌が触手を苗床であるグリグラの首を粉々に握り潰す。当然の如くそれすらも捩れの影響を受け始めていた。
「十五、文龍――」
 一三の視線の先で、文龍が手を動かすと光の煌きが疾走する。
 十五の力がそれを捻った。その余波を受けたバラストが弾け飛び、枕木や継目板、レールも捻れ飛ぶ。しかし、またもや防ぎきれなかった光が十五の肩口を切裂いた。鮮血を意に介することなく十五は文龍を見つめる。
「ふん、お前如きに、この僕が――」
 言いかけた文龍の顎が勢い良く殴り飛ばされる。踏み込んだ十五は一瞬で間合いを詰めたことに文龍は気づかなかったのだろう。
 文龍は十五の能力を見誤っていた。十五が怒りと共に能力を発揮したように、今の十五はエンジンがフル稼働している状態ということが分かっていなかった。文龍はグッと足に力を入れ、倒れそうになるのをこらえ距離を取る。
 捻り斬られるのをその能力を持って耐え切った。
 それでも、十五は走る。その足元の地面が、跳ね上げるバラストが、螺旋を描いていく。まるで水たまりにできる波紋のようにそれは美しくも禍々しい。
 十五がグッと握り締めた拳を振り上げた。
「来い! 全力でバラバラにしてやる」
 それに対し、文龍も手を動かし銀の光のトリックを放とうとする。
 裂帛する気々と共に――。
 互いの持つ力が、最大出力の異能がぶつかり合う――。
 二人の距離がゼロ距離に達した時、骨肉の破砕する音が響く――。
 猛烈な勢いで舞い上がった土埃が周囲を覆った――。
 もうもうと立ち込める土埃の中、バラストや枕木、鮮血が跳ね上げられ宙を舞った――。
 力と力がぶつかり合い弾け飛ぶ――。
 舞い上がった土埃が晴れていく中、二人に言葉はなかった。
「たはは。強くなったな、二人とも。怪我はないか」
 二人の視線の先にいたのは一三だった。
 ボロボロに切裂かれたコートがぐちゃぐちゃになったバラストの上に落ちた。
 体中から流れた血で出来た血だまりに立ったまま、一三は二人を無事を確認し安堵の表情を浮かべた。
「兄――」
 そこまで言いかけて十五は固まる。
 怒りも何もかも表情から消え去り、大きく開いた瞳は目の前の少年ではなく、一三だけを見つめていた。それは文龍も同じだった。
「あ、に、き――」
 もう一度、十五は呟く。
 抑揚も感情もない途切れ途切れの言葉だった。
 一三は少し困った顔で髪をかく。
「あンまこういうのは好きじゃねぇが。二人とも、歯食い縛れよ」
 一三の平手が十五と文龍の頬を交互に叩く。
 高い音の余韻が響く中、十五も文龍もただキョトンとしていた。
「十五、感情で突っ走るな」
 頬に触れたまま十五は『ごめん』と呟いた。
 十五の目指す先は死山血河(ブラッドバス)、暴力と異能の領域(デッドゾーン)、魍魎跋扈の世界だ。感情を自身でコントロールできなければいつか命を落とす。あるいは――文龍のように道を誤るだろう。
 そして、道を誤った文龍にも教えるべきことがある。
 一三の瞳が呆然とする文龍を捉えた。
「文龍、俺たちは自分が正しいと思ってもよ、自分がしたことを正しいなンて思ったらいけねぇンだ」
 文龍は殺したことを正しいことと言った。
 だが、誰かの命を奪うことが正しいはずがない。
 一三も文龍も十五も悪党の人殺しだ。正しいはずなどない。
 そして、一三達はそれを背負い受け入れルールを持っている。文龍にはそれがなかった。
「俺達、死村ってのは世間様で言うとこのクズって奴だ。どんなに多くの他人が死のうが家族が無事なら微笑んじまうンだ。死村にとっちゃ、何人殺そうが百万人の命よりも家族一人の方が大事なンだからよ。エゴイストもいいとこだろうな」
 赤黒い血を吐いた一三の身体を十五が支える。
「兄貴、もういい。喋っちゃダメだ」
 十五の言葉に一三は首を横に振った。
 教えるということは命を持って、覚悟を持って、心に訴えるものだ。
 今度こそ伝えなければならない。文龍がこのまま進むならばそこは奈落にしかつながらないことを。
「だがよ、正義の味方じゃねぇつっても悪戯に命を奪うこたぁしねぇよ。文龍、お前は本当に理由があって殺したのか?そうじゃねぇはずだ。どうあっても死ななくてもいいはずの人間がいたはずだ。そいつはプロの仕事なンかじゃねぇ。キリングホリック(殺人狂)の仕事だ」
 返事の代わりに文龍は狼狽したまま歯をカチカチと噛み鳴らしていた。
 不安定、あまりにも不安定だった。
 一三を傷つけたことがショックだったのか、それとも殴られたことか、または自分の間違いを知ったのか、文龍はただ空虚な瞳で虚空を見つめていた。そこにはなにもないというのに。
「兄貴!」
 思わずぐらりと一三の身体がよろけた瞬間、十五が叫ぶ。
 女の子と変わらないようなまだ幼い少年の声があらん限りの力で叫ぶ。
「兄貴の身体が!! 目が!! 俺のせいで!!」
 左目の視界がぼやけるのはそういうことかと一三は悟った。だが、そんなことは問題ではない。
「自分を責めるなよ。こンなこたぁ、どうってこたぁねぇさ」
 いつもと何等変わらぬ声で一三は答える。いつもと変わらぬ余裕で一三は答える。
 一三はいつもと何も変わらない。何一つだって変わらない。
 ぐちゃぐちゃに捻れ、切裂かれた体で余裕の表情を浮かべる。
 立っていられるはずもない、笑っていられるはずもない。
 一三自身、立っているのがやっとだった。
 だがここで倒れたり表情を崩すのは一三のポリシーと反することだ。
 死んでも自分の流儀を通す、それが死村一三だ。
 一三はそっと十五の頭をなで、スッと文龍にも片手を伸ばす。
 殴られると思ったのか文龍がビクリと身体を震わせると一三は笑う。
「バカ。怖がるなよ」
 そう言いながら文龍の頭もなでる。切裂かれ血まみれの手でそっと。愛しむように優しく。体中から流れ出ていく血を止めることもなく。止める術もなく。ボロ雑巾のようにズタズタの身体で。閉じられた左眼から赤い血を流しながら。
 一三になでられながら文龍はボソボソと呟く。
「僕だって分かってる、でも、僕には、もう」
 文龍は殺したことを分かっている。
「殺しちゃったんだ」
 罪もない人間を何人も殺してしまったことを。
「子供も、大人も、女も」
 自分の愉悦の為に殺してしまったことを。
「それが僕にはたまらなく面白かった」
 黒く淀んだ光が文龍の瞳の奥で輝いた。どす黒い他者を巻き込む悪いの炎だ。一三の言葉は最早、届かなかった。文龍を取り巻く黒い闇を取り除くことはできない。
「兄貴……」
 十五は一度、一三を見た後に目を潤ませながら呟く。
「兄貴はさ。だらしなくて、身内に甘くて、アホで、ブラコンシスコンで、変態でどうしようもないけどさ」
 そう言いながら、十五は少しだけうつむく。
「お前にだって優しかったはずだろ?俺の知らない兄貴のこと知ってるんだろ?分かるだろ、兄貴のこと」
 グッと拳を握りながら十五は言葉を続けた。
「悔しいけどさ、むかつくけどさ、家族なんだよ、お前も。だから殺せねぇんだよ、兄貴は。だから、兄貴を悲しませるような真似してんなよ……!!」
「……羨ましいよ、お前」
 ふいにポツリと文龍が呟く。
 それは十五が『え?』と呟き返すほど弱々しい声だった。今にも泣きそうなほど寂しそうな顔で文龍は言葉を続ける。その内側に酷く不安定で今にも壊れそうなガラス細工の危うさを秘めていた。
「僕が知ってるのは優しくて強い兄貴だけだ。弱みなんて見せてくれなかったよ。だから――」
 言いかけて文龍は言葉を飲み込み、笑顔を狂気の笑顔を、十五がたじろぐほどの狂って壊れた笑顔を浮かべる。
「お前等から僕は兄貴を取り戻す」
 圧倒的な悪意をもってそれを宣言した文龍はコートから小瓶を取り出す。
「霊薬(ポーション)。薬草とかを加えた聖水に白魔術をエンチャントしてあるらしいよ。出血した血液は補えないけど傷の再生を早めることはできると思う。魔術とか結界とか良く分からないけど兄貴にも効くと思う」
 文龍は小瓶の蓋を開け、その中身を一三の傷口にかけた。すると声が出そうになるほどの激痛が体中に走る。それは皮膚の内側、細胞が焼け爛れるような痛みだった。だが確かに効果がある。先ほどよりも痛みが和らいだ感があった。
 一三の状態が僅かに先ほどより落ち着くと文龍は子供らしい笑顔を浮べ、すぐにカチッと歯を噛み鳴らす。
「兄貴、僕は兄貴のことを諦め――」
「時間だ、文龍」
 言いかけた文龍の言葉を遮る声が響く。男とも女性とも区別がつかない声だった。
「グリグラ……いやグリーングラス・ザ・ワイヤード」
 文龍がホームの屋根に向かって呟く。声と同じでそこには黒いマントを纏った女性とも男性ともつかないシルエットの姿があった。
「素晴らしいモチーフと会えて興奮するのも分かる。だがテーマ性を見失った芸術に永遠はない」
 文龍に語りかける言葉は、性別が分からなければ感情も抑揚もない声だった。
「分かってるよ、分かってるさ。少し愛しい人に会えて興奮していただけだよ」
屋根の上のシルエットがスッと細い手をかざす。
 すると、どこかでズルっと絹を引きずるような音がした。
「回収させてもらうよ、私の芸術を」
 一三が音のする方を見れば、ゆっくりと、ゆっくりと、破壊された列車の隙間からから何かが這い出してくる。それに覚えがあった。自分を拘束していた肉触手だ。
 布を擦るかのような音は肉が蠢く音であり、目の前に這い出したのは捻れてぞうきんのようになったグリグラという名の巨人だった。
 再び屋根の上でシルエットが手を動かすとビクリとグリグラが跳ね上がり、その手元を目指し動き出す。まるで糸や磁力で引き寄せられているようだった。それが徐々に丸まりボール状の肉団子となりシルエットの手元まで浮かび上がる。
「たはは。やはりな」
 荒い呼吸で一三が笑う。あの大巨人から生きている人間の気配がしなかったのは物と同じで最初から生きていなかったからだ。
「どういうことだよ、兄貴」
 一三の身体を支えていた十五がシルエットを見つめたまま呟く。
「『グリグラ』の本体だろうな。晶鬼法の傀儡、簡単にいやさっきまでの巨人は人形ってところか。転寝の技と似たようなもンだな」
「人形!?」
「ああ、悪趣味極まりねぇ人形ごっこさ」
 十五が驚くのも無理はないと一三は思う。あの巨人はあまりにも精巧に作られすぎている。材料がなんであるか簡単に推測がつくほどに。
 本来、晶鬼法とは呪術をかけて造った人形に水晶玉で増幅した魔力を込め、人形を自由に操る術であり、元々は道教系の秘術だった。別名で召鬼法、使鬼法とも言う。それをアレンジしたものが肉傀儡だろう。
「確か聞いたことがあったな、四十八人の幻糸術使い集団『速水弦操楽団(はやみげんそうがくだん)』の中に晶鬼法を極めた傀儡使いがいるってな」
 四十八人の幻糸術使い集団『速水弦操楽団』――糸の性質に関わる技や異能、魔術を使う四十八人の異能集団。その中の『最も多く人間を殺した五人の内の一人』が人形を使うと聞いたことがある。まさかこんな所で会うことになるとは一三も思わなかった。
「私がそれに答える必要はない、死村一族第六位『甚六(ジンム)の一三』」
 一三の言葉にグリグラの抑揚のない声が答えた。
「私の芸術を醜悪な人形ごっこと罵った代価はいずれ払わせてもらう」
 傀儡使い――本体のグリグラがスッと屋根から消える。
 一三もおかしいとは思っていた。九頭龍門が文龍を単独で送るはずがない。
 修羅場を幾つも潜り、冷静で状況判断ができる者がいてもおかしくないと思っていた。
「相変わらずだなぁ。でも仕方ないか」
 グリグラの姿が消えたのを見ながら文龍が呟いた。
「兄貴。この先の結界にゲームプレイヤーの木偶人形――李がいると思う」
 そう言うと文龍は一三と十五に背を向け歩き出す。
 一三以外の死村なら隙を見せた瞬間に殺しているだろう。
 だが、身内に甘いという最大の欠点を持つ一三にはそれができなかった。
 死村の信条である『忠義』は従うことではなく慕うことだ。兄と自分を慕う者を殺すなどと言うことはできない。そして文龍も一三のことを信じている。
 それは十五も分かっているのか、追い討ちをかけるようなことはしなかった。
「なんでそんなこと教えるんだよ?」
 文龍は僅かに振り返り十五を睨む。
「言ったろ、調整役だって。死村一族が勝つほうがウチには金は動くからね。それに――あいつは生半可じゃ死ねない」
 その意味がどういうことか一三にも分からない。
 ただ、李は最初から死村とぶつける為だけに存在する駒でしかないことは分かった。七十を越える李が老体に鞭打って、そこまで戦う理由がそこにあるのかもしれない。
「じゃあね、兄貴」
 文龍は一三に向かって僅かに微笑み歩き出す。
 微笑みはあの日のままなのに、その後姿には翳りがあった。まるで雨の日に眠る場所を探す仔猫のような儚さがあった。
『人は皆、旅を続け彷徨う。いずれは幼き狼達もお前の元を離れ旅に出るだろう』
 一三はなんとなくジプシーの言っていた言葉を思い出した。
 一三から離れた弟は自分の道を歩いていくだろう。
 例え、それが血に塗れた道であろうと――。二度と重なることがなくても――。
 文龍の姿が見えなくなると、先ほどと打って変わって今にも泣きそうな顔になった十五が一三を見つめていた。
「そんな顔するなよ」
「バカ!! 兄貴のせいだろ!!」
 十五は裾でグッと目元を拭うと、表情を一瞬で引き締め応急セットをジャケットから取り出した。



 ほんの数秒ほど瞳を閉じていた一三はゆっくりと瞳を開く。
「十五、能力使って身体に影響はねぇのか?」
 能力の反動で皮膚がところどころ裂けているのが痛々しかった。
「多分、大丈夫かな」
「腹が痛いとか、腕が痛いとかないのか?」
 一番心配なのは骨と臓器へのダメージだが見た感じでは無理している節はない。
「ありがと。でも心配しすぎだよ。兄貴こそ、目は大丈夫そうなの?」
『ああ』と一三は頷く。
「十五が膝枕してくれれば――」
 一瞬の間の後、
「え!? 本当にそんなんで良くなんの?」
 ジッと十五の愛くるしい瞳が一三を見つめる。
 思わず言葉につまるほどトランスペアレントでピュアな瞳だった。
「それで治るなら俺、膝枕するよ!!」
「いや、良くはなりそうだが、アドレナリンやら鼻血やらの問題があるかもな……」
「そっか……」
 しゅんとしてしまった十五の可愛いさに悶えそうになり、今すぐ抱きしめたい欲求に駆られたが必死で堪える。一秒でもいいから休んで九六三を助けねばならない。
「転寝に診てもらわないと何とも言えねぇな。見えることは見えてンだが」
 どちらかと言えば体の方がきつい。トランシルヴァニアで吸血鬼とやり合った傷が完全に癒えてなかったのが災いした。この先で李と戦うことになってもどれだけのことかできるだろうか。
 そんなことを考えた一三の腹部にミネラルウォーターが浴びせられ、フィビリンガーゼを当てられる。
 一三が痛みで歯を噛み締めるのも気にせず、十五は淡々と消毒を済ませ、包帯を巻いていく。さすがに容赦がない。
「電話とか通じればいいのに」
 そう言いながら十五は一三の右腕に包帯を巻く。
「結果内に入っちまうと術式処理されてる機械以外はダメだな。死村で念話できる奴もいねぇしな」
 術式処理やエンチャントの技術を持ったものは死村にはいない。
 そういう技術を取得するには魔術師教会で数年間は修行しなければならず、魔術的な素養も必要とされる。
「なンとかして九六三と連絡取らねぇとな。魔術師ってのはちっとばかし厄介な相手だぜ」
「うん、頑張って俺達が助けないと……」
 十五は頷きながら一通りの手当てを終えて汗を拭う。
 そして少しだけ俯いた。
「なぁ、兄貴。あいつの目的って本当に兄貴に会うだけだったと思う?」
 十五に尋ねられる一三は少し考える。
 今もっているカードでは何が本当の目的かは何とも言えない。間が欠けた七並べには隙間を埋めるジョ−カーが必要だ。
「裏があっても今は九六三を助けに動くしかねぇさ」
「うん、そうだよな」
 十五は改まったように神妙な顔つきで呟く。
 そして少し照れくさそうに髪をかいていた。
「なぁ、兄貴。俺達、家族だろ?」
『ああ』と一三が頷くと十五はジッと一三を見つめる。
「もう、一人で抱え込むなよ。それに俺だってもう守られてるだけじゃねぇんだから。初めてナイフ握った時からさ、俺だって死村で生きてくって決めたんだからさ」
 少しの間の後、一三は微笑んで十五の柔らかな髪をなでた。
「そういうのは一人前になってからだぜ、十五」
 そう言いながら立ち上がろうとした一三を十五が支えた。
「無茶するなよ。いつも格好つけすぎなんだよ、兄貴は」
 十五は溜息をついて一三に肩を貸す。身長差のせいか引きずるような感じだった。
 だが悪くはないと一三は思う。ポーションなどよりこうして弟と寄り添うほうが何十倍も効果があるような気さえしてくる。
「格好つけるぐらいはさせろよ。兄貴は弟の前で格好つけるもンなンだぜ?」
「いつもそんなんだから怪我ばっかりするんだよ」
 ぶっきらぼうな言葉だが十五なり心配してくれているのは一三にも分かった。
「可愛い奴だね、お前も」
「か、可愛いって言うな!!」
 一三としては本心を口にしているのだが、からかわれたと思ったのか十五は口の端を尖らせる。それがまた可愛らしくて一三は『たはは』と笑った。
「また子供扱いを――」
 言いかけた十五はぼんやりと正面を見つめていた。
 十五の視線に気づき一三も同じ方角を眺める。
「おうおう、派手にやってるみてぇじゃねぇか」
 二人の目に入ったのは街の彼方から立ち上る煙だった。
「兄貴、あれ――」
 十五が煙を指さすと一三は頷く。
「ああ。もしかしたら何か起こってるのかもな」
「何かって……九六三姉ちゃん?」
 最悪の場合、既に戦闘状態になっているかもしれない。九六三も相当の修羅場を潜っているが李では相手が悪い。
 たった一人の愛娘を失った時から李は死すら恐れなくなった。踏みこめる限界すらやすやすと越える、まるで死に場所を求めるかのように。
「なんかの罠かな?」
「はっきりとはしねぇが――行ってみるか」
 肩を寄せ合い二人が動こうとした時、彼方に見える街でまた煙が上がった。
「煙が増えてるよ、兄貴!」
「おいおい、どういうこった」
 思わず一三は呟いた。
 動こうとした二人の眼前で、次々と煙が昇っていく。
 それがどういう意味かは一三にも分からない。
 ただその禍々しい黒煙のゆらめきが九匹の龍のように見えていた。





back next

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送