3.シムラ・エトワス〜小指狩りプロミス〜


第四回 『業火』


寂れた公園内を覆うひりつくような気々。乾いた嫌な風が空のペットボトルをどこかへ運んでいく。
 それが行き着いた先は男の足元だった。次の瞬間、一歩踏み出した男がペットボトルを踏み潰す。その男は身体にフィットしたジャケットを纏った中国系の男性であり、その男と対峙しているのはまだ十代前半ぐらいの北欧系の少女だった。
「さぁ、終わりにしよう」
 男は少女に向かって言う。
「終わり?」
 男は少女を、死村九六三を見てなどいなかった。その瞳は入り口に佇む先客に向けられている。先客は二十代後半ぐらいのどこにでもいる女性だった。遠目から見体中の肉が抉り取られ、来ているスカートや衣服は焦げ落ち見るだけで痛々しさを感じさせる。
「もっとも、生き延びようと組織はお前を見逃しはしないだろうがな」
 九六三は背後に立った先客を見るや否や二人の間から退く。
 退かなければならなかった。女性の眦には、意を決した覚悟のような鋭い輝きが宿っていたからだ。それはまさしく命をかけて戦っている者の瞳だった。
「どうした? あまりにも脆弱すぎるぞ」
 先客である女性はその言葉を受け、荒い息で足を踏み出す。
 その身体が徐々に節くれだち強張っていく。骨と筋肉が軋み変態しているからだ。
 さらに筋肉質になっていく体躯は赤黒い体毛に覆われていく。くまなく全身が体毛に覆われ変態を終えた時、立っていたのは女性の服を纏ったワーウルフ(人狼)だった。しかし、その姿に力強さはない。今にも千切れそうな足はハイヒールまで赤く染まり、立っていられるのが不思議な状態だった。その蒼白な顔と絶望しきった表情から、どれだけのダメージを追っているか簡単に分かる。
そしてこのダメージの与え方の意味を悟った瞬間、九六三は拳を握り締めた。
同じだ。トランシルヴァニアの古城で命を弄んだあの男と――魂を辱め、肉体を犯し、精神を壊す吸血鬼、ドラクロアと。
 九六三は知っている。これは嬲り殺す為のダメージの与え方だ。
 嬲られ続けてどうにもならないほど致命的なダメージを追っているにも関わらず、女性は一歩踏み出す。傷は、もうどうにもならないほどに致命傷だ。それを分かっているだろう。分かっているからこそ、九六三は止めることも声をかけることもしなかった。立っていられるはずのない状態だった。それでもこの女性が一歩踏み出すのは誇り高き人狼であり、覚悟を持った戦士だからだ。それを九六三が止められることも、遮ることもできるはずがない。
 この女性のエトワス――抱えている何かの思い。それが何かは分からない。どんな理由で戦ってるのかも。
 ここで助けることは裏事師としても、戦う者としても九六三のルールに反することだ。
 裏事に身を染めたがまだ戦う者としての心を忘れてはいなかった。
 それが九六三の中にあるルールであり、一三と同じように自分の定めたルールの中で生きていることが九六三の誇りだ。
「少し待ってろ」
 男は九六三を見ることなくそう言った。
「もう少ししたらお前の相手をしてやる。死村九六三」
「何?」
 九六三が何故名をと言い終える前に男は動いていた。
 男が地を蹴る。
 女性には最早抵抗する余力はなかった。
 加速し体重を乗せた男の拳が女性の顔の真中にめり込んだ。
「たいしたポイントにもならんが死んでもらう」
 鼻がへしゃげ歯が折れる音が響き、女性の細い体が吹き飛ばされてしまう。ロケットペンダントが千切れ飛び、九六三の足元に転がり壊れた。その音はひどく儚かった。
 男は女性に馬乗りすると、高々と国旗を掲げるようにその拳を振り上げる。
 次の瞬間、振り下ろされた。拳のスレッジハンマーが。一回、二回、三回と男は振り上げては振り下ろす。女性は殴られるたびに空に向かって細い腕を伸ばし、ビクンと電気ショックを受けたように身体を震わせる。脊髄反射だ。
 トマトを潰すような音の後、何かが宙を舞った。丸い、白と黒の球体――眼球だ。
 獣のように理性などなく、ただ圧倒的な暴力が女性の身体を破壊していく。
 やがて天に向かって伸びきった女性の手が、ロウソクの火が消えるようにフッと落ちた。
 それで終わった――と思ったのは九六三だけだった。
 その次の瞬間の行為こそ、この男にとって最も重要なことだと思い知らされる。なぜなら、その行為こそ、この男を小指狩りと呼ばせる理由なのだから。
「俺の信念の為に――」
 男はダラリとした女性の右手を持ち上げる。
 そして、あろうことか。その小指を噛み切った。
「糧となれ」
 指を咥えたまま、血に塗れた唇を動かし呟いた。
 口の中に指が入った、刹那、男は、指を、ゴクリと、飲み込んだ。
 食いちぎられた指が喉から胃へ下っていく。
 男は同じように左手の小指を食いちぎると飲み込んだ。
 九六三は飛び出しそうになる身体を必死で抑える。
 命の冒涜は戦士のすることではない――その考えは裏事師になった今も変わってはいない。
「何故、そこまでする」
 ゆっくりと男が九六三に淀んだ視線を映す。
「貴様のしたことは冒涜だ。その女性は覚悟があって貴様に戦いを挑んで敗れた。何故、それを侮辱する真似をした」
「信念故に。これがクリア条件だった。壊し、破壊し、蹂躙することが加点対象だった」
「条件だと……」
 その言葉の意味を理解する代わりに、九六三は悟った。ドラクロアの似たプレッシャーを持っているのにこの男から悪意を感じなかったわけを。この男は自分がしたことを何とも思っていない。その信念は黒く淀んだ暗黒の沼地だ。目的の為なら何もかも引きずり込むだろう。
 九六三の瞳が足元に転がっていたロケットペンダントを見つめる。
 壊れて半開きになったロケットペンダントの中で、殺された女性と幼い子供が笑っていた。
「女、お前、死村の血族らしいな」
 男はそんなことを呟き、重心を落とした構えで九六三を見つめる。套路も発勁動作もなくただ右拳と右足を前に出した構えであり、それだけでは何の武術か推察することはできなかった。
「強い奴はいい、ポイントが高いからな」
「貴様、何を言っている? どうしてこちらを知っていた?」
 九六三は質問を返しながらも間合いを計り、一瞬たりとも気を抜かない。言っていることの意味はイマイチ分からないが、相手のペースに乗せられるつもりはなかった。
「密告屋を利用しているのは死村だけではない。先ほどの女もそうだ。俺のことを調べ始末しに来た」
「そういうことか」
 密告屋ネットワークの名が出た瞬間、どういうことか悟った。
「貴様の情報を集めていた私の情報を買ったのか」
「ああ。いずれ能力者が来ると思っていたが死村とは思わなかった」
 この男は待っていたのだ。小指を狩り集めながら、いずれ異能者が自分を調べ戦いに来ることを。
 口止めすればいいと考えたのは間違いだった。情報を金で売るような者は客を選ばない。毒蛇の蠢く穴に手を突っ込んだのは九六三だ。
「死村九六三、知っている。死村一三と共にあの吸血鬼城の主、ドラクロアを倒したと聞いている」
「トランシルヴァニアでのことか」
「よく女の弱い身体で生きて帰れたものだ」
 九六三が歯を噛みながら舌打ちした。
「知っているか? 女性の過去をあれこれ詮索するのは下衆のすることだと」
「下衆か」
 男は挑発に動じることなく、小さく『分かっている』と呟いた。
「下衆であろうと、ダニであろうと。信念さえ貫けるのなら」
 男の細くしなやかな体躯が動き、
「俺は構わない」
 九六三目掛けて風を切るように疾駆する。
「悪いが」
 フワリ――金色の海原が踊ったのは一瞬だった。
 九六三は弾かれたように前方へ飛び出す。
「そういう男に付き合う趣味は持ち合わせていない」
 男の背中に回り込むやコマのように旋廻して振り返る。眼前に広がるのは男の頑丈そうな背中だ。その男の背中が後ろを振り向くより早く、九六三が一撃切り込むほうが早かった。
「もっとも私はあいつ以外の男が嫌いだ。特に女性の扱いも知らないような男がな」
 左足の踏み込みと共に、薙ぐように放たれた右からの一撃。それが振り向きかけた男の脇腹を切裂いた。しかし、浅い。ギリギリで男が僅かに反応したのだ。相手に完全に背を取られた状態でだ。
『なんて、奴だ』と九六三は間合いを取りながら呟く。
 並みのDや裏事師なら今の一撃で死んでいてもおかしくない。それほどに容赦も躊躇もない一撃だった。
「強いな、女。だが俺は貴様からポイントを奪って殺す」
「ポイント?」
 怪訝そうな九六三と違い、男は表情を変えなかった。
「最初に攻撃を喰らうとポイントが20加算される。これは最後の大技を決めた時の倍率に関わることだ」
 先ほどからこの男は何を言っているのだろうか。殺すことに並々ならぬ執念を持っているようだが、何かがおかしい。
「さぁ、貴様も何か技や異能があるなら使って来い。既に結界内だ。人目を気にすることもない」
「結界だと?」
 結界とはレベルの差こそあれ一定の区画を隔離するものを言う。本当に壁を作ってしまうものから見えない壁で覆ってしまうものもある。上等な結界は何もしてないのに誰も近寄らないという強制暗示を与えることさえできる。
「驚くことか? 結界は死村でも使っているのだろう?」
男の言う通りだった。死村家のマンションが地図に載っていても見つかりにくかったり、周囲から違和感なく受け止められるのも結界による効果だ。
「何故、それを知っている」
「お前が俺を調べた瞬間から必要な情報は全て整っている」
 三日――まだ三日しか経っていないはずだ。
「短時間でそこまで調べたのか?」
 男は質問に答えなかった。九六三は数秒の沈黙の後、ナイフを構える。
「そうだ。構えろ」
 そう言うと男も再び身構えた。
「まだまだ俺にはポイントが足りない。全力でかかって来い」
「ゲームか何かのつもりか?こちらはそんな物に付き合う気はない」
 九六三の身体が空気の壁を突き破り飛び出した。
 それに合わせ男が右拳を突き出す。九六三が僅かに身体をずらしそれをかわす。
 そこに、ナイフが走り、肉が裂ける歪んだ音がした。
 魚をさばくように、キルトに鋏を走らせるように、ナイフが手首から二の腕まで切裂く。
 吹き出した赤く熱い血が二人を染める。
 鮮血に塗れた九六三のナイフが男の喉を狙う。
 突き出したエッジが肉を貫く。
 仕留めた――はずだった。
 男の流した血は確かに九六三の頬を染めた。
 だが、ナイフを止めたのは男の左手であり、喉元まで届いていなかった。
 ナイフに貫かれた手の向こうで男は言葉を発する。男の胸元で右掌が九六三の身体に向けられていた。
「我、紅蓮の魂魄。仇為す者を煉獄へ誘わん」
 ――しまった。
 男の声を聞きながら九六三は声にならない声を上げた。
 呪文。この男は魔術師だ。
「アゼリア・イフリート」
 赤い閃光が九六三の身体を貫いた瞬間。
 熱いとしか言いようがないほどの熱が通り抜けていく。
 爆発が、炎が、九六三の身体を吹き飛ばしていた。






2.


 赤い光は鮮やかなまでに眩しく輝き消える。
 痛みはまだない。ただ身体が熱い。貫いた閃光のせいだ。
 ずっと鳴っていたキンという音が消えた後、九六三は何が起こったか分からないほどの混乱に襲われる。
 吹き飛ばされたことが分からなかった。
 しかし、それも一瞬だった。地面に叩きつけられてから自分の身体が爆炎に焼かれたことを知り、そして次に九六三を襲ったのは抗いがたい痛みだった。
焦げ付いた衣服からはブスブスと音を立てる煙が立ち上っている。
 髪も肌も所々焦げ、肉の焼ける臭いを放っていた。
 咄嗟で詠唱を妨害することができなかったせいだ。だが、ガードだけは咄嗟にシェフイールドナイフをガードに回したおかげで間に合っていた。その刀身は黒く焼け焦げている。退魔効果がなければ九六三ともども吹き飛んでいただろう。
「うぐ……」
 倒れたまま九六三は呻き声を漏らした。
 痛みはあるが火傷も衝撃も、骨や臓器にダメージを与えていない。
 それは男も気づいていた。
 この男には容赦も淀みも躊躇も逡巡もない。
 男は無表情に、倒れた九六三の腹を踏みつけた。
 踏まれた瞬間、木材が軋むような音と稲妻のような痛みが身体を駆け抜ける。
 反射的に体が動き声と血反吐が口から溢れた。
 さらに、もう一度、苦悶する九六三に足が踏み下ろされる。
 痛い。意識が途切れかけるほどに。踏まれた身体が、骨が悲鳴をあげていた。
 壊れた玩具のように男は同じ動作を繰り返す。
 その繰り返しが、容赦なく意識を奪おうとする。
「死村か。思ったほどではない。ラストの加点対象にもならない」
 男の左足が九六三の顔を靴底で踏み躙る。
 九六三は男の声を聞きながらかすれた声で呼吸を続けていた。
「弱いな。あまりにも弱い。期待はずれだ」
「取り……消せ」
 九六三の焼け爛れた右手が男の足をつかんだ。
「今の言葉を……取り消せ」
「貴様で死村の程度は知れた。感謝する。次の死村には……」
 もう一度軋んだ音をあげたのは男の足の方だった。九六三の右手にはこれまでにないほどの力が篭っている。
「次だと?」
 空気が急激に張り詰めていく。先ほどまでの少女の声と違い、力と圧力を持った声で九六三は叫ぶ。
「私の家族に手を出すというのか!?」
 自分のせいだ。激しい後悔が九六三を襲う。
「そうだ」
 最初に目的どおり調査で終らせておけばこんなことにはならなかった。
 これは自身の甘さのせいだ。このままでは自分の甘さのせいで大切な者を傷つけてしまう。
「それだけはさせない、何があろうと……!!」
 孤独の中で生きてきた九六三がずっと求め続けた温もりを、大切な家族を――。
 人を遠ざける為に言葉を発し――。
 孤独を紛らわせる為に戦う――。
 そんな九六三を受け入れてくれた一三を――。こんな男に奪わせはしない。
 誰かが偽りの家族と嘲笑うかもしれない。だが九六三はそう思わない。
 自分以上に誰かのことを思うことができるなら、それは家族となんら変わらないだろう。
「行け……」
 九六三が言葉を発した瞬間。
 フッと小石が一つ男の足元から浮かび上がる。
 一つじゃない。無数の小石が浮かび上がるように宙に止まっていた。
「これは……」
 男がそれに気づいた時には既に遅すぎた。
 四方八方から集まった小石が標的に向かいうねりを上げる。
 無数の小石は降り注ぐ流星のように、砕け散らんばかりにスピードを上げて空気の壁を突き破る。
 それは時間にしてほんの数秒ことだった。
 一つ目の小石は男の腕で弾く。だが同時に男の背に小石がめり込んでいた。
 男の身体がその衝撃に大きく仰け反る。
 同時に腕、足、胸に防ぎきれなかった流星雨が降り注ぐ。
『ぐぅ……!!』と、予期せぬ苦痛に男が呻きを漏らす。
 めり込み突き刺さった石片にバランスが崩された時、男の足元には九六三はいなかった。
 素早く男が体性を直す瞬間、ナイフが空を走る。
 男が素早く身を引かなければ切裂かれていた。
 その刀身は焦げていたが、まだ男の喉を切裂くことはできるだろう。
九六三の身体が再び地を蹴った。
「ぬ!」
 先ほどよりも速いその動きに男は声を上げる。
 しかも、九六三が間合いに入ったのは男が怪我をしている右腕側だ。
 男の反応が僅かに遅れた。
 男はスウェイバックしながら左手を九六三に向けた。
 左手に出来上がったバレーボールのような火の球が九六三に放たれる。詠唱省略した低級呪文だ。
 しかし、それは九六三の計算内だった。
「フラッフィー・プラナリア!!」
 突き出した右掌が火の球を弾き返す。
 引力と斥力を操るその異能はコントロール次第では飛び道具をそのまま相手に返すこともできる。
 条件は自身の体重より重いものは影響を及ぼせないことだが、駅で痴漢の衣服を拭き飛ばしたようにかなり細かい調整も可能だった。
「異能かっ!!」
 男が声を上げると同時に、火の球は男の顎先まで迫っていた。男は咄嗟のクロスガードでそれを防ぐ。
 その瞬間の隙を九六三は見逃さない。
 焦げたナイフが鈍く輝き、男の腹を横一文字に切裂いた。
「おぐぅぅうぅい!!」
 鮮血と言葉にならない叫びを漏らす男を九六三の追撃が追う。
 状況を整えさせることも強い術を詠唱させることもしなかった。
 右目を狙ったナイフが男の右耳をそいだ。
 その耳が血肉と共に宙を舞う中、さらに突き出す刃は執拗に眉間を狙う。
 ヒュッと風を切裂く音がする度に鮮血が飛び散る。
 耳、頬、唇、ヒュッヒュッと突き出されるナイフが肉を切裂く。
 さらに切る動きが加えられる。僅か数秒で男の顔中に無数の傷が刻まれていた。
「お前が、貴様等が、私の! 家族を! 大切な者を!」
 右首筋、左二の腕、右胸を。
「傷つけると言うのなら!! 自身の信念の為に孤独をばらまくなら!!」
 右額を、鼻先を、左脇腹を。
「私は貴様をここで殺す!!」
 ヒュウッという音の後、ナイフが煌く。
「ぐうううううう!!」
 唸り声と共に男は口の中に溜まった血を吐き出した。
 血の目つぶし、狙いは九六三の目だった。
 九六三がそれをナイフで防ぎ薙がれた血反吐が地面に叩きつけられる。
 その僅かな時間は距離を取るには十分だった。 
「今ので百二十ポイントだ」
 ぜひぜひと喉を鳴らしながら追撃を逃れた男は呟く。
 ギラギラとした執念を宿す瞳は流れる血で真っ赤に染まっていた。
 見る者をゾッとさせる何かがそこにはある。
「おおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 グシャグシャのトマトのように切り刻まれた顔で男は吠える。血肉や唾液がゴプリという奇妙な音と共に口の中から溢れた。それでも男の咆哮はやまなかった。
 それはまさしく凶人という言葉が相応しい。
 何がそこまでさせるのか、ここまで突き動かす物こそこの男の抱えた理由であり信念かもしれない。
「貴様……」
 そう言いながらも九六三は身を捩り咳き込む。喉の奥では焦げた臭いがした。
 男は九六三を見つめたまま左掌の血をぺろりと舐める。ひどくのっそりとした動作だった。
 その緩慢な動作で耳元に手を当てる。耳元から垂れていた血の線に傷だらけの指が触れた。
 それを見て警戒していた九六三の構えが僅かに緩む。
 ともすれば血管や血の流れにも見えるそれはコードだった。そこから漏れる機械的な音と声のような物は九六三の耳にまで届いていた。
「壊れたか。まぁ、いい」
 男は何事もなかったかのようにコードを耳の中にねじ込み、九六三を見つめた。
「俺の名前は李・王煉。ダメージを与えた後、名乗ることで五十ポイントか」
 自身のダメージを意に介することもなく李は呟く。もちろん、男の左掌も脇腹も石片がめり込んだ身体も出血は止まっていなかった。
「なんなんだ、お前は……?」
 僅かな動揺を含んだ九六三の声が妙に響く。対照的に男の声は淡々としたものだった。
「言ったはずだ、李・王煉と。ポイントにならないことをさせるな」
「ポイント……」
 何度も繰り返されるそのフレーズを呟く。
「さっきからポイント、ポイントと何を言っている」
「女、貴様が知った所で意味はない」
李はそう言うと、九六三に向かい血まみれの左腕を向ける。距離数メートル、詠唱妨害は間に合わない。即座に判断した九六三は距離を取りナイフを構えた。男の右手は耳元を押さえる。
『死村……移動……獲得……ポイ……は……ま……』
 途切れ途切れの声はかすかに九六三の耳元まで届いていた。死村家のことが話題に出た瞬間ドクンと心臓が脈打つ。胸の奥をジリジリと焦がすような嫌な予感がした。
「貴様の兄弟が結界の入り口まで来ているようだな」
「何だと?」
「ルール変更の知らせか……仕方ないな」
 李が独り言を言うように呟く。
 その次の瞬間、構えていた李の手から突然、黒い霧状のガスが吹き出した。咄嗟に九六三は霧から逃れようと背後に下がる。
「女、貴様に教えてやる!!この世には金で救える命がある!!」
 濛々と立ち込める黒い煙の中で李は叫ぶ。今までにないほどの感情を込めて。
「貴様は強い!! だが、俺は貴様を殺す!! 貴様と同じく俺には護りたい者があるからだ!!」
 響く声はどんどん遠ざかっていく。
 遠ざかっていくにもかかわらず、その声は九六三の中で強さと重さをましていった。
「俺の娘はこの世の何よりも価値がある!! どんな人間よりも素晴らしい!! 至高だ! 究極だ! 十全だ! 完璧だ! だから他の人間は等しく俺の娘の為に犠牲になる義務がある!! 全てを俺の娘に捧げなければならない!! 死ね!! 死んでしまえ!! 俺の娘の為に!! お前等などに価値があるものか!! 俺の娘が幸せになれないのに気様等が幸せになっていいはずがあるか!! 幸せ面した世界中の蛆虫も!! 貴様等、偽善者家族も!! 俺の娘の為の糧になれ!!」
 九六三は悪意を感じなかったわけがはっきりと分かった。自分の為に何かが犠牲になるのはこの男にとって極々自然なことだからだ。その声は、言葉は、一片の淀みも、迷いも、自分を疑うことも、羞恥心も、感じさせない。ただただ自分の娘の幸せの為に犠牲になればいいと本気で言っている。本気以外の何物でもなく、それが正しいことと高らかに宣言している。
 九六三が戸惑うその間にも、水の中に黒い絵の具を溶いたように公園を黒煙が覆っていた。
「その為に殺す。俺の前に立ちふさがる者は殺す! 子供であろうと、女であろうと、殺して殺して殺しつくす!! それが俺の信念だ!!」
 返す言葉はなかった。言えることはない。この男がどんなに邪悪でも、どんなに狂っていても、護りたい者の為に戦うのは九六三も同じだからだ。そして、同じであるが故に否定することができない。だが、この男は殺し続けるだろう。子供も女も老人も。弄び、壊し、冒涜し、殺し続ける。
 壮絶な覚悟と信念を持っているに関わらず、なぜゲームのように殺すのか。分からないことが多すぎた。この男の背後に何が潜んでいるのか。
 はっきりとしているのは、この男は娘を護る為に殺し続けるだろうことだ。
「ここからだ、ここからが本番だ。女、貴様を殺し俺は次のゲームに行く。絶対に行かねばならない。賭けてやる、賭けてやろう。オールブラックだ。俺は俺の勝利に全て賭ける。そして、賭けに負けた貴様の家族も次のゲームで殺す。一人残らず俺のポイントにする!!」
 言える言葉もなかった。この男にどんな理由があろうと家族は護らなければならない。しかし、九六三にそれが出来るだろうか。李にも家族がいる。どんなに李が淀んで歪んでいようと李を待つ娘がいる。
 そのことを考えた瞬間、煙が身体に巻きつくような感覚を覚えた。
 纏わりつく重い煙の暗幕が晴れるまでに数十秒。ゆっくりと視界がクリアになっていく頃には李の姿はなかった。
 落ち着け、九六三は自分に言い聞かせながら、李がどこに行ったか冷静に考える。移動した可能性あるが、まだそこらに隠れている可能性もあった。まずは確かめなければならない。
 九六三が地面に触れると公園内の砂利がフワリと浮かび上がる。それがゆっくりと、九六三の意志通り公園内を動き出す。
 フラッフィー・プラナリアは斥力、引力に影響を与える。二つを調整さえすれば速力、浮力もコントロールできた。
 感覚を尖らせ、公園内を漂う砂利が李の身体にこすれる音、自分の支配する砂利に異物が触れる感覚を探す。
 砂利が李に触れた瞬間、僅かに斥力と引力、浮力のバランスが変わるはずだ。それを感じ取るため、慎重に丁寧に細かく砂利を動かす。しかし、李の反応がない。
  公園内をくまなく探してみたが砂利には反応がなかった。そう判断すると逃げた可能性が濃厚になってくる。逃げるなら、まだ結界は解かれないだろう。血まみれの李が移動しているからだ。もしかしたら、李の言葉通り他の死村の家族を狙っているかもしれない。
 九六三は移動することを決意すると、砂利に対しての能力を解除した。フッと砂利が重力に引かれて地面に落ち、代わりに転がっていたロケットペンダントが九六三の掌に運ばれてくる。
 そのペンダントの中で女性と子供の寄り添う姿――。
 ジッとそれを見つめた後に蓋を閉じた。九六三自身もこういう感傷的な部分は甘さだと分かっている。自嘲しながらも公園入り口まで歩きだす。そこに屍骸がゴミクズのように転がっていた。屍骸のへし折れた首に、そっとロケットペンダントをかけてあげた。きっと、この行為は李には理解できないことだろう。裏事師としてはあまりにも無駄で愚かな行為でしかなく間違いそのものだ。赤の他人、しかも屍骸に向ける優しさなど何の意味もなく罵られて当然の行為だった。
 そう分かっている、だが九六三は写真を見た時どうしても胸を締め付けられてしまった。
 今も自分の唯一の家族だった母を殺されたことが脳裏をよぎっている。二度と家族を失いたくなかった。もう二度と。
九六三と同じように、家族に対しての思いは李にもあるはずだ。全てを犠牲にしてでも護りたいという思いが。
それなのに李は孤独をばらまき続ける。それどころか、李に殺された犠牲者の中にはまだ幼い子供もいた。そのことが九六三の心の中に青白い炎を灯した。猛々しく燃え盛る炎でなく、静かに揺らめく炎だ。
 九六三には一三と同じようにルールがある。死村の一員として九六三が殺してきたのは家族を物以下に扱うクズや、罪のない者を孤独にする下衆だ。表、裏、人間、D、どんな世界であろうと子供の命を奪う者は下衆でしかない。それはこちら側のモラルやイデオロギーなど皆無の世界で言えば――やはりどうしようもない程に甘い。それは九六三の弱さでしかない。
 それが九六三をどうしようもなく苛立たせた。迷いがあることも、プレッシャーに押されたことも、苛立ちに拍車をかけている。あの瞬間、李が叫んだ信念は、身震いを起こさせるようなプレッシャーを持っていた。焼かれているようなジリジリとした感覚。それはあの悪夢の古城で感じた感覚と酷く似ている。
 そして、李に同じ部分――自分に共通する部分を見出してしまったのもドラクロアと戦った時と似ている。
 ドラクロアの根底は九六三と同じだった。それは家族を奪われ、幸せを妬み、孤独に怯えながらも、孤独こそが全てであると肯定した弱い心だ。九六三は心の底では、ドラクロアと自分の根底が同じであることを否定できなかった。
『俺は貴様を殺す!!貴様と同じく俺には護りたい者があるからだ!!』
 李はそう叫んだ。李の護るための信念――それは九六三と同じであり、ドラクロアの時と同じように、それを否定することができなかった。
 どうしようもないほどに九六三は甘く弱い。苛立ちの最も大きい要因は自分自身だ。
「トランシルヴァニアの延長上か……」
 九六三は呟く。その言葉は李の背後に見え隠れするドラクロアの影には届いていたかもしれない。
 これは延長上、あのトランシルヴァニアの続きだ。心はまだ彷徨っている、月明かりに包まれたあの古城の中を。ドラクロアの見せた悪夢の中を。あの時、一三に家族として迎えられ、死村になった。つもりだった。
『ああ』と九六三は自嘲的な呟きを漏らす。
 これが自分に足りなかった強さだとようやく気づいた。
 自分の幸せの為に、護る為に殺すこと――。
 孤独だった時はそのことに迷いなんてなかった。
 だが家族の温もりを取り戻した時――奪われること、奪うことの大きさを知ってしまった。
 死村が家族を護るということは、相手の家族を奪うことだ。
 その重さを感じながら九六三はボロボロになった自分のコートを抱きしめる。それはすがりつくような、戦士の雄々しさも裏事師としてのしたたかさもない弱々しい姿だった。
「一三……」
 消えそうな声で小さくその名を呟く。呟きながらも頼った瞬間に九六三は一三と同じ場所にはいられないことは分かっていた。
 この答えは自分で出さねばならない。
 九六三が自分の力で。
 これからも死村家を、家族を、居場所を護る為にも。一三の側で戦い続ける為にも。
 越えなければならない壁にぶつかり迷いを抱えたまま、九六三は公園から身体を引きずり歩き出したのだった。


 

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