シムラ・エトワス 第二回

0.


 ルール。標的となった獲物と闘い殺すこと。
 ルール。闘い方は指示に従うこと。
 ルール。指示をこなすことでポイントが加算されていく。
 それがナインドラゴンで行われている人間賭博だ。
 闇の中に歓声が響く。
 暗く淀んで暗澹とした喝采。
 それは他人の不幸を蜜の味と心底信じ嘲笑う人間達だけが出す声だった。
 スポットライトに照らされた画面の中、人の気配がない黄昏時の街中に三人が佇んでいた。
 一人は痩せ型の中国人。
 一人は地に倒れた女性。
 一人は中国人男性に押さえ込まれた女の子。
「よし、そこで台詞だ!!」
 用意された壇上の上でアイマスクをつけた紳士がマイクに叫んだ。
 行われたオークションで殺害指示権利を男だ。
 指示されるがままに、画面の中の中国人男性が子供の首筋に手を当て台詞を口にする。
『もっと俺を楽しませろ!!』
 男が台詞を口にした瞬間、再び歓声が巻き起こる。
 捻りも何もない台詞だとオーナーである少年は思ったが薄ら笑いを浮かべながら狂宴を眺める。
 中国組織からこの賭博場を任されていたが少年は既に飽き始めていた。
 人間の醜さは嫌いでもないし、組織の命令もあったが日本に来た目的はこんなものではない。こんな茶番などではない。
「よし、そろそろ止めだ!!半殺してその目の前で、ふひひ、子供を殺して脳髄を引きずり出してやれ!!」
 紳士は醜い人間の本能をむき出しにしたまま叫ぶ。
 画面の中、中国人男性は倒れていた女性を蹴り飛ばした。容赦など微塵もない。それがさらに観客を興奮させていく。自分が暴力をふるわれるのは嫌だ、だがそれが他人なら喜劇だ。ここにいる観客が喜ばないはずはない。
 画面の中では顔を蹴り飛ばされ血反吐を吐いた女性の身体が最後の力を振り絞り起き上がる。眼前で殺されようとしている子供を守るために。
 自分から金の為にゲームに参加したくせに――そう思いながら少年は淀んだ瞳で画面を見つめ続ける。
 このゲームに巻き込まれる生贄には二つパターンがある。
 金で買われた者と何も知らず殺される者。
 それはどちらが幸せだろうか。どうせ、殺されると言うのに。
 人間という残酷な生き物に相応しい残酷な運命だ。
 死ぬと分かっていても女性は男に向かって突進をかける。
 その腕、脚、体躯が膨らんだ。筋骨が急激に増強され体毛が身体を覆っていく。
 それは最早人ではなく、覆い隠している本性でもあり本来の姿だった。
 顎が獣ように裂けると共に、咆哮を響かせる。外敵を前にした野生の叫びだ。
 だが、それに動じることなくも、臆すこともなく、中国人男性はスッと構える。中国武術の構えに似ていたが隙だらけであり、ただ殴るためだけの構えだった。
 殴るだけであるが故に全ての力がそこにこもっている。
 突進する獣に対し、中国人男性の突き出した拳が人狼の腹部にめり込んだ。
 衝撃は肉を貫き、骨を絶つ。数十メートルも吹き飛ばされた獣がアスファルトの上を転がった。
 その瞬間、カジノ内で歓声が巻き起こる。
 それにはこれから始まることへの期待も込められていた。
 そう、そこからがメインディッシュだった。
 ここでは弱者のありとあらゆる願いが砕かれる――。
 ここからが最も重要であり賭博上の興奮をピークにまで高める。
 場内を包む緊張感。それに中国人男性は答える。
 ――指令を完璧にこなすことで。
 女だろうと子供だろうと関係ない。ただ与えられた仕事の為に殺す。
 血と肉が男の目の中にしこまれたカメラを染め上げる。
 すると、本日、最大の歓声が賭博場を包み込む。
 目の前で自分の子供の脳髄を抉り取られるのを見た母親の気分はどうだろうかと少年は笑う。絶望に歪んだ顔からは何の表情も読み取れない。人間というのは本当に絶望した時、涙を流さない。ただ目の前をことを否定する。そして次に襲ってくるのがマグマが噴出すような怒りだ――。慟哭、憤怒、絶望。何日も何年もそれを繰り返し続けと少年は知っている。
 ふと、少年の所にスタッフであるスーツの男が近づいてくる。
 耳元で網に獲物がかかった知らせだった。
 カチカチ――と少年は数回ほど歯を鳴らす。
「李、聞こえてるか」
 画面の中の中国人男性が少年の言葉にコクリと頷く。
「すぐそこに来る。分かるだろう」
 再び李は頷く。
「次の獲物は今までで最高のポイントだ。しっかり闘いなよ?」
 その意味が分かったのか李の瞳がギラリと輝くのを見て通信を切った。
 少年の瞳にも暗い輝きが宿る。悪意と言う名の誰それ構わず傷つける鋭さだ。
「楽しいなぁ。日本に来て本当に良かった。ああ、なんて愉快なんだろう」
 無邪気な笑い声が薄暗い闇の中に響く。少年とも少女ともつかない中世的な声だった。
「こんなに簡単に仕事を受けてくれるなんて。全部が僕の思い通りに動いているよね」
「事件を起こさせ、それを解決させるマッチポンプがそこまで上手く行くだろうか」
 ふいに別の声が、賭博場ナインドラゴンの闇の中に響く。
「別に。解決しようがしまいがいいんだ。僕はただ会えればいいだけだから。事件を追って僕の作ったシナリオに絡んできてくれればそれでいいんだから。この物語は僕があの人に再会する為だけに存在するんだ。事件が解決する、しないはおまけに過ぎないよ。どうでもいいことさ。組織が利益を求めるなら適当に負けさせて稼げばいいだろう?」
 八百長はいつものこと。躊躇いなどない。
「全部さ、僕の思い通りに動けば間違いないんだ。簡単でシンプルなことだよ」
 少年の言葉はまるで自分に陶酔するような醜悪さを感じさせる口調であり、全てが自分のために動くと信じて疑わないと言わんばかりだった。
「どうかな。短絡的な衝動では芸術にはならない。苦難と葛藤の先にこそ真の芸術は存在する」
 その声もまた醜悪な邪悪さを持ちながら、男とも女とも分からないあやふや、抑揚のないまるで機械のような声だった。
「苦難ならこれでもかってぐらい十分さ、葛藤なら飽き足らないほど味わってきたさ」
 カチカチと言う歯を噛み鳴らすような音が響く。
「そうか。君が何をしようと君の自由だ。ただ目的は見失わないことだ。それが我等のルール。目的を達成し利益を手にすること、そこにどんな芸術を見出そうと自由だ、どんな形であれ――だ」
「どんな形であれね」
 カチリ――歯を噛み締める音が闇に響く。
「李の修復は終わったみたいだね」
「ああ、ああ、あの滑稽な木偶人形か。完全だ。完全に美しい芸術に戻っている。もう、二度とあんな表情で死ぬこともあるまいよ」
「やっと死ねる――と苦痛から逃れるような死ぬ瞬間の表情か。けっこう好きだったんだけどな」
 木偶人形。死ぬことも許されない木偶人形。
 少年が李と初めて会ったのは随分と昔のことであり、少年にとって大切な人がまだ組織にいた頃だった。
 その頃から李と言う老人は死ぬことしか考えていなかった。
 だが、それももうない。既に李であって李でない。
 『餌に食いついた死村家』をおびき出す為の餌にしか過ぎない。
 もしもこれが物語りだとするなら全てがあの人と再会する為だけのお膳立てだと少年は本気で思っていた。中国に戻れば独断の責任を取らされるだろう。それでもいい、ただ会いたい。あの人に――もう一度。
 カチカチと歯を噛み鳴らす音と無邪気な声が闇の中に飲み込まれ消えていく。
 ここはどんな些細な願いさえ奪う場所。九匹の龍が住まう暗黒、ナインドラゴン。



1.『ナインドラゴン』前編

「バカ……」
 死村一三は困難なことを自分の流儀で成し遂げることを好む。
「バカ……一三の……」
 どんな窮地でも軽口を叩き、正義感は全くといっていいほど持ち合わせていないが義理と忠義は通す。
「バカバカ大バカ……」
 そして、家族と一杯の珈琲をこよなく愛する。ややブラコン。
「鈍感バカ……」
 死村一三と九六三がデートする――予定だった日から三日が過ぎた。
 九六三は電車に揺られ、一三への想いと不満を聞こえないほど小さな声で呟き溜息をつく。
 悩ましげに吐息を漏らすその姿は、少女と女性の間に垣間見える艶かしさがあった。
 そのせいか、自然と男達の視線は九六三に注がれるが、九六三がその事に気づくことはない。
 元々外国人ということもあり、端正な顔立ちも綺麗な金色の髪も目立つぐらいにしか考えていなかった。
 何よりも、今は出かける約束を仕事でキャンセルした一三への不満しか出て来ない。
 既に三日が過ぎているのに九六三の気持ちは整理がつかなかった。
「二人で……って言ったのに……」
 九六三が吊り輪を握る手にキュッと力が入った。ついつい力が入ってしまうのは様々な感情のせいだが、浮かれていた自分自身へのバカさ加減のせいもある。わざわざ、デートで着るはずだったミリタリーベースのガールズコートで仕事しに行く自分が本当にバカみたいだった。
 シックなタイトスカートは少し大胆かもしれない等と思いつつも、一三とならそういうのもいいなどと思っていた。浮かれてた。あの時は正直、浮かれていた、これでもかというぐらいに浮かれていた。
 違うのは気持ちだった。同じ服装だというのに気持ちは沈んだまま浮き上がってこない。
「仕事だから仕方ないか……」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 あの日、いざ出かけようとした時に掛かってきた連絡は二件の仕事依頼だった。
 最近、隣の市内で起こっている連続猟奇殺人事件の調査。
 もう一つは、ちょっとした暗殺だった。
 暗殺の方は一三が請け負い、連続猟奇殺人事件の調査は九六三が請け負うこととなった。
 やはり一三は九六三に殺しやそういう仕事をさせたくないのか、あまり殺しは回さない。
 それとも単に一三が面倒な仕事を好まないのか――何にせよ、九六三は一人で事件現場を調べることになった。
 調べることになったのだが、猟奇殺人事件の現場に踏み込むのは少し躊躇いがある。なぜなら猟奇連続殺人事件は酷く歪な事件だったからだ。
 この猟奇殺人事件で今までに殺されたのは十二人。
 年齢も職業もバラバラであり、誰でもいいから殺したとしか思えないほどに共通点がない。しかも子供だろうと老人だろうと躊躇いがなく、殺害方法は絞殺であったり、刺殺であったり、法則性もない。
 そして、もっとも奇妙な点だが、犯人は死体の『ある一部』を持ち去る、戦利品や記念品を集めるタイプの殺人者だ。こういうタイプの殺人者は罪悪感というものを持たない。
 米国で、百一人を殺害した殺人犯グラウデ・カッチェルスは殺害した女性の耳を集め、自身の体中に縫い付けていたという。
『僕はただ、みんなの心の声が聞きたかっただけなんだ』
 それが死刑になる前の言葉だったという。
 今回の犯人がカニバリストにせよ、ネクロフィリア(死体愛好者)にせよ、異常者には変わりない。
 そう言った異常者や悪意に満ちた者が放つ粘着質の闇は関わる者を飲み込もうとする。自分だけ滅びるのではなく周囲さえも巻き添えにしてしまう。
 それが九六三には不快だった。
 どうしても、あのトランシルヴァニアで感じた感覚を思い出してしまう。未だに拭うことができない粘着質の恐怖が心の底で渦巻きだす。
 できれば一三と一緒に仕事がしたい――そう強く思う。
 それは弱さから来る感情かもしれないが、あの時覚えた恐怖はやはり拭い去れる物ではないからだ。
 一人でいることの怖さを知ってしまった九六三にはそれを乗り越える強さはない。
 そう考えれば、ブッキングしたことは九六三にとって様々な意味で痛手だった。
 裏事に急な仕事が入るのはよくあることだというのは分かっていた。
 すぐさま殺さなければならない仕事や、早急に調査を要する仕事だってある。
 それを任されるのは、腕が立つと認められている証だと九六三は考える。
 家族として喜ぶべきなのだろうが――やはり溜息がもれてしまう。
 芽生え始めた複雑な気持ちや、一人で生きてきた頃と違う、己の脆さや弱さに少し戸惑う。
 九六三は自分の強さに対し自信をなくしかけていた。
 これまで、様々な敵と戦ってきた。
 隻腕の黒魔術師、不死の刀使い、トランシルヴァニアの吸血鬼。
 そんな難敵と遭遇する度に、誰かに助けられる度に、自らの能力に不安を感じる度に、一三の背中が遠く見えてしまう。
 今の気分は、まるで置いてかれるのを怖がる子供みたいだった。
 孤独に怯える子供――自嘲的に冷笑を浮かべ、もう一度溜息をつくと背後に手を回す。
 いともたやすく。
 躊躇うことなく。
 その手を。
 九六三のお尻を触ろうとした男の手を捻った。
 予備動作もなく。
 獲物がかかった竿を引くように。
 ただ捻りあげる。
 女子供にしてはその力は強かった。
 それは男の方も予測できなかったことだろう。
 九六三は電車の中や人ごみであろうと、気配に気を配ることは怠らない。
 習慣というのは怖い物でごくごく自然にそれが癖になっていた。
 本当はそのまま足腰立たなくしてやろうかとも思うが、それは我慢しなければならない。
 男の呻き声が漏れ、周囲もそれに気づくと同時にタイミング良く電車が停車した。
 脱兎のごとく男がホームに走り去る。
 男は前のめりにのけぞると頭からホームに倒れこむ。
 不自然に頭から転がる姿はボーリングボールだった。
 そのままホームまで転がり、頭から壁に激しく打ちつけられる。
 鐘を突くようないい音の後、男は動かなくなった。
 もちろん、自分から駆け込んだのではない。
 走り去ろうとした瞬間、九六三が『能力』で『吹き飛ばした』のだ。
 その姿を見ながら、九六三は、
『自分にそういうことをしていいのは一三だけだ』
 と、心の中で呟いて俯く。
 そういうこというのは互いに求め合い、気持ちを重ねることであり――と、そこまで考え赤面した。
 ――破廉恥な思考だと自分を問い詰める。
 もしかしたら周囲の者達には、九六三が赤面する様が、痴漢されて恥ずかしがっているように見えたかもしれない。しかし当の九六三はそのことに気づくことはなかったのだった。




第二回・後編



 電車を降りた後、九六三は公園や繁華街など殺害現場付近を巡っては調査を繰り返していた。
 周辺の建築物や人の流れ、ありとあらゆることを調べデータを蓄積していく。ほんの些細なことでも街中に散らばった密告屋から情報を買った。
「ん?」
路地裏の暗がりで携帯をいじっていた男は九六三の姿に気づいてそんな間抜けな声を上げる。
見た目は冴えない中年に見えるこの男、その裏の顔は密告屋代理人だった。
この男のような密告屋には二種類いる。特定の人間とだけ情報の売り買いをする情報屋チクリ屋。
残りは、会員制の密告ネットワークに所属している極めて『新しいタイプの情報屋』、言い換えるなら時代に適応したと言ってもいい。
手続きは会員制ホームページに登録するだけのごくごく簡単なもの。会員制ホームページにアクセスして欲しい情報を求めれば、同じく会員である密告屋代理人がすぐにでも情報を持ってくる。それだけで金が講座に振り込まれる。
「お嬢さんが情報欲しがってるお客さん?」
ジロジロと自分を見る視線に不快感を感じながら九六三は頷く。
随分と慣れた感じの口調だった。
密告屋ネットワークに最初は罪の意識を持つものもいるようだが、すぐに慣れる者が多い。何万人の会員が登録している中で自分の所だけに警察やら何やらがやってくるはずもないと分かってくるからだ。それはCDをテープにコピーするのと同じようなものだ。ただ知っていることを教えているだけで罪に問われることはない――そういう余裕がこの男にはあった。
「若いのに大変だねぇ。へぇ、お嬢さんみたいなのがね」
「そんなことはいい。情報を」
「あいあい」
九六三がそう言うと男は書類を手渡す。
「君みたいな女の子がねぇ……」
男は明らかに九六三を見かけだけで判断していた。
「随分からんでくるな」
「いや、ちょっと興味深いと思っただけだよ」
九六三は知り合いの情報屋が密告屋は性質が悪いと言っていたのを思い出した。ポリシーもモラルもなくただ情報を金に変える、と。
それはほとんどの人間が普通に生活してる素人のせいもあるが、密告屋のネットワークが情報屋に比べトラブルに巻き込まれることが少ないことも原因だった。時には会員が会員が監視し裏切りを許さない。その為、もし会員がトラブルに巻き込まれたときは密告屋全体で庇うというシステムになっているという。
さらに密告屋間で情報、利益の共有化がなされているらしく、この共有化と監視は、類史発展の最終段階としての社会体制である共産主義を彷彿とさせた。
「少し興味深いと思っただけでさ、そっち側には踏み込んじゃやばいって分かってるさ」
男はそんなことを言いながら作り笑いを浮かべる。
ギリギリのラインを踏みとどまり、こちら側に踏み込むことはしない。表と裏の狭間、昼と夜の境目に位置するような存在であることを保とうとする。それも情報屋よりもリスクが少ない理由の一つだ。
「ふむ」
九六三は男の目の前で書類に目を通す。
 あまり期待していなかったが情報の量だけはあった。
「質より量、それが密告屋ネットワークのスタンダードか」
そう呟くと目を通していた書類を千切る。
「あ、おい」
声を荒げた男に背を向け九六三は歩き出す。
「既に全ての情報は把握暗記した」
そう呟くと路地裏を後にする。
 九六三が手に入れたのは殺害された被害者の情報であり、そこから何か共通点を見出そうとしたがこれと言って役に立つ物はなかった。だが無駄足ではない。一見して関係ないことが何かに繋がることは幾らでもある。
考え事をしながらさきほどコンビニで買った牛乳とあんパンを口にした。勿論、鞄には三六や一三の分も買ってある。
こうして、
大好物のあんぱんを口にしている表情は殺し屋などでなく、年頃を迎えた少女の愛らしい顔だった。凛としたいつも表情もどこへやら、アンとミルクのハーモニーに表情が蕩けている。
牛乳とアンパンの組み合わせは驚異的だった。オニギリといい、納豆といい、日本の食文化がここまでレベルが高いとはトランシルヴァニアにいる時は思ってもなかったことだ。
 九六三はあんぱんをほうばりながら、殺害現場巡りを再び始めることにした。
 街を歩くと、やはりその容姿が人目につくのか若い男から声を掛けられることが多い。別にどう見られようが知ったことではないがナンパして二言目にはガイジン、ガイジンと連呼したり、女性への声の掛け方も知らない男には九六三もげんなりさせられる。そういう時は無視して街並みを見つめ歩き出すようにしている。
 過ぎ行く街並みはどこにでもあるような地方都市の風景であり穏やかでのどかだった。商店の主にも道行く人々も、人生の陰翳を顔や胸に刻みつけた老人が目立つ。傾いだ壁、破れたテント、辛くも歩く人々、ここにだけ凝りついた時間が見えた。町自体が歳を重ね、すっかり黄昏ているのだ。どこか懐かしさに似た切なさを宿しているのはそのせいだろう。
 九六三はふいに『こういう街並みを一三と二人で歩きたい』などと考えてしまった自分に腹が立った。それがプロのプレイヤーとしての自覚に欠ける思考に思えてならない。仕事中は仕事に集中すべきだと、九六三は自問自答を繰り返しながら街中を歩き続け、廃墟となった団地の前で立ち止まる。
「ここか……」
 すっかり風雪に色あせた廃墟を見つめ呟く。
 数日前、この廃墟の前の公園で中年会社員が殺害された。
 九六三は現場となった寂れた公園に足を踏み入れる。
 その瞬間だった。
 背筋に鋭い冷たさを感じたのは――。
 コートの中から素早くシェフィールドナイフを引き抜く。これはナイフの三大産地シェフィールドで鍛造された物であり、エンチャンターによって退魔効果を付加されている。
 ナイフを握った指先から全身にビリビリと震えるようなプレッシャーが伝わって来た。
 ドラクロアほどの圧迫感でないにせよ、かなりのレベルを感じさせられる。
 ただ、ドラクロアのプレッシャーが圧倒的な悪意だったのに対し、このプレッシャーからは悪意を感じ取ることができない。
「知っているか……」
 公園の暗がりから聞こえた男の声が呟く。押し殺すような静かな声だった。
 男はさらに言葉を続ける。
「知っているか、死体の一部を持ち去る殺人鬼のことを」
 九六三が答える代わりに頬を冷たい汗が伝う。
 知っている――。
 死体をむごったらしくなぶった後、殺害する猟奇殺人犯。
 そして、殺害後は死体の一部を持ち去る。
 ある一部――左右の小指だ。
「その殺人鬼は左右の小指を持ち去るという……何故か」
 公園の暗がりからゆっくりとその姿を現す。
 全身にフィットしたジャケットを着た細身の男だった。年齢は四十前後だろうか。その顔つきは日本人というよりも中国人に近い。男の問いかけは九六三に向けられた物ではなかった。
「それは自らの決意を揺るがせない為だ。それが己に科したルールだからだ」
 闇を宿した細い目はジッと九六三を見つめていた。
 飲み込まれる――男が一歩踏み出した時、九六三はそう思った。
 男の周囲で渦巻く心の闇が九六三の心を蝕むのを感じる。
 それは男の口にした決意と言う言葉のせいでもあった。
 欧米的、近代的、合理主義的、それらの思想を受けることによって日本はアジア的な感性を失った。アメリカ化することへの収支決算はマイナスであり、九六三の好む『恥』や『義』を根底とした人間関係が崩壊してしまった。
しかし、この男から感じさせる感情はアジア人の持った理屈ではなく信念に基づく物だ。
 九六三は知っている。
 そういった合理的とは対極に位置する信念を持った者は、時に己の命すら投げ出し使命を果たすことを。
 この男、小指狩りは、ただの異常者ではない――しかも何らかの異能者だ。
 九六三が距離を取ろうとした時、男のやせた身体が重心を落とし構える。
「貰うぞ、左手の小指を。俺の決意の為に……」
 やるしかない。この男は決して九六三を逃がさないだろうことを直感的に感じた。
 お互い、覚悟は既に出来ているし信念も持っている。闘いを避けることはできない。
 そして、信念を持った敵を倒すにはそれを上回る覚悟と信念を見せつけるしかないことを九六三は知っていた。
 意識を尖らせると同時に、九六三はナイフを身構えた。




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