『シムラ・エトワス』

0.


 東京都知事である維持原瓶太郎は維持原グループの本社ビルで生活していた。
 全六十階のほとんどに息子達の経営する維持原グループ関係企業のオフィスが入っている。その五十八階が維持原瓶太郎一家の生活している自宅だった。
 維持原瓶太郎に手に入らない物はない。特別豪華なその階には高級調度品、医療施設、トレーニングルーム、和洋中のレストラン、もちろん維持原のプライベートルームには常に女性も用意されている。
 維持原はそこで国産高級肉を食べながら、自分の下の肉を女に世話させるのが好きだった。金も女もある維持原は普通の美女と性交するのにもう飽きてしまっている。最近のコレクションは美少女と美少年であり、海外のマフィアや日本の暴力団と強いつながりのある維持原はそういう商品の顧客だった。
 維持原はプライベートルームに入るとでっぷりとしたその体で部屋の真中に置かれたデスクに頬擦りした。傍から見たらただの高級そうなデスクにしか見えないが、それは日本の大規模暴力団である黄塵会の幹部が持ってきた貢物であり、維持原のお気に入りだ。
 「ボクちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁんのデスクうぅぅぅぅぅぅ最ッ高ぅぅぅぅぃ。うぇへひひへへっへへへへへへへへへへっへへ……」
 トロンとした顔で維持原は頬擦りを続ける。
 そのマットが十代の美少年の皮膚で出来てると思うだけで股間が固くなっていた。
 病んだ心は、常に暗く淀んだ欲望を満たすことを求め、黒い悪意は湧き上がり止ることを知らない。
 デスクに置かれたスクリーンモニターのリモコンを押す。
 スクリーンに映像が映った瞬間、ドラムロールと歓声が響き、派手なスポットライトで照らされた舞台が映し出される。
 維持原は慌てて口の端から毀れそうになった涎を拭う。
 それは維持原の関わっている中国系組織の闇賭博で今回の取引相手でもあった。
「しっかり頼むよ、諸君……なぁんちゃってぇぇぇぇぇぇ、うひぃへへへへへほほほほへほぁぁぁぁ」
そう呟いた維持原の股間は天まで届きそうなほどに屹立させ、デスクに頬擦りしていた。



 池袋の60階通りの裏町を歩くと灰色の壁にぽっかりと開いた穴が見えてくる。
 その地下に降りる階段を下れば、そこは闇の底、カジノ『ナインドラゴン』だ。
 ルーレットは回る。乾いた音を立てて象牙の玉に込められた欲望が転がり落ちていく。辿り着くスポットは血の赤か奈落の黒。
 人生を賭けて築かれたチップの山がどこかで崩れ、観客から歓声が沸き起こった。
『やめてくれ!!頼む!!』
 悲鳴はすぐに消えた。
 崩れたチップの山に血が飛び、歓声が再び上がる。
 誰かが破滅するのは最高の見世物だった。
 再び轟くドラムロール。
 どこかから響く喝采。
 狭く暗い部屋を照らすライトが赤、緋、黄、碧、蒼と目まぐるしく変わり点滅を繰り返す。
 紳士、淑女が恍惚の笑みで壁のスクリーンを見つめる。
 外交官、好事家、実業家、富と暇を持て余すもの、どの瞳も暗黒を宿し、恍惚とした悪意を持っていた。
 病んだ瞳が見つめるモニターには肉の塊とチャイニーズの老人。
 賭けはいたってシンプル。
 駒である中国系の老人と、選んだ人間を戦わせ、後はシェフに味付けを催促するのと同じように、駒である老人にどう殺すかリクエストするだけだ。
 殺せというコールに従い老人は目の前の肉の塊から心臓を抉り出す。
 そこまでだった。それがその老人の限界だった。
 その老人も身体から血を吹き出し息絶える。『これでやっと死ねる』とでも言う様な長い苦痛から解放された満足げな表情だった。
『子守VS李』と表示されていた画面から両者の顔写真が消える。
 再び巻き起こる大喝采、大喝采、大喝采。
 老人の獲得したポイントを告げるアナウンスが響く。
 ここは地獄。人の生き死にさえも遊び。
 もっと遊戯を、もっと血を。
 己の手を汚すこともなく、血肉のゲームを欲しがる。
 ここは暗黒。人の生き死にさえも札束へと変わる。
「ああ、死んじゃったね。それにしてもこんなことでよく盛り上がるよね」
「退廃を愛しているのだろう。そこに真の芸術があるとでも思っているのかもしれない」
 暗がりでモニターを見つめる二人の人物が言葉を交わしていた。
 観客たちを金づるとしか思わない二人には、その盛り上がりがばかばかしいと言わんばかりの口調だった。
 この賭け賭博で選ばれる駒は借金を背負って参加させられてる者の他に、ある規則性と条件で選ばれていることを観客は知らない。
 それを知っているのはごく限られた者達と維持原だけだった。
 この二人が日本に来た目的はカジノの運営でもあり――殺しでもある。
 そうやって暗殺の標的を闇賭博で殺すのがいつもの手口だった。
 とにかく、金の為ならどんなことでもする、それが二人の属している組織だった。
「今まで頑張ってくれたよね。死んじゃったけど」
 もちろん、駒に対する愛情も感情もない。本国のカジノ本体にはまだまだ駒はいるし問題はなかった。
「そのようだな。美しい死に様、アートだよ」
「次の駒はどうしようか。補充する?」
「いや」
 モニターの中で老人の死体が回収されていく。
「より美しい芸術に作り直せばいいだけのことだ。それに奴にはあんな表情は似合わないのだよ」
「そっか。ねぇ、じゃあさ、次の演出は僕がやっていい?」
 八百長はいつものこと、より金が多く動くほうを勝たせればいい。
「どうしてもさ、会いたい人がいるんだ。どうしてもね」




1.『バンビーノブレンド』
前編

 休日の朝は大概、いつも通りの大騒ぎで始まる――。
「さぁ、十五君。お兄ちゃんと一緒に朝風呂に入りましょう。日本では古来より兄弟は朝風呂を共にし、絆を深めるという儀式があるのです。俗にこれを漢・兄弟風呂と言い……」
「言わねぇよ!!」
 風呂場から聞こえる、十四(じゅうし)と十五(じゅうご)のいつもの会話。
 それを聞きながら死村九六三(しむらくろす)は、納豆キナーゼを活性化させるべく納豆をこね続ける。
 まだ眠いのか蒼い瞳も半開きであり、その金色の美しい髪は寝癖が残ったままだった。
 死村家の中でも勝気強気でプライドの高い九六三でも朝靄と眠気に勝てない。シャワーの取り合いには参加せず、目の前の卓袱台に、味噌汁と御飯、納豆、サラダが用意されていくのをぼんやりと見つめ手を動かし続ける。
「寂しいですね。かの有名なクラーク博士も言いました。少年よ、お兄ちゃんと朝風呂に入れ――と」
「どこの変態博士だっ!!」
「ちなみに博士はこうも言いました、少年よ、大人になれ、兄の手で――と。さぁ、大人の階段を上るシンデレラになりましょう!!」
「やめ、やめ!!姉ちゃん、助けて姉ちゃん……!!」
 絹を裂くような悲鳴。ボーイソプラノ。
 九六三はその助けに応じることなく、納豆を見つめてねばりを確認した。
 直後、風呂場の方から、ボグリという殴り飛ばすような音が響く。
 大方、十五に反撃されたか、もしくは三六があの変態を殴り飛ばしたのだろう。
 いつものこと。やはり問題はないと、九六三の蒼い大きな瞳が黄金色の納豆を見つめる。仏蘭西人形のような九六三が、懸命に納豆を混ぜるその姿はどことなく違和感があった。
「悪くない出来だ」
 納豆のねばりを確認しながらそんなことを呟く。
 日本の重要食文化、納豆。
 黄金色の輝きは美しさの中に上品さすら感じさせると九六三は常々思う。
 殴られているだろう十四の悲鳴をよそに、ふと見たテレビは、カジノ法案と都知事のことから、隣街で起きた猟奇連続殺人事件に切り替わっていた。
 興味深い事件だが、解決するのは警察の仕事、死村の仕事は――殺すことだ。
 暗殺一家、死村。
 四百年の歴史を持つ暗殺の名門一家であり、死村の仕事は暗殺や諜報などの表に出ない裏事を扱う。
 見つめていた画面内の時刻表示が七時十三分を刻んだ。
 死村では三という数字は奇数ならぬ危数とされ、十三や三十三等の三の絡む数は、一三や三三と表記するなど独自の文化を持っている。それは日本人が四や九のつく数字を嫌うのと同じ風習的な物で、ほとんど形骸化している。
 日本人は既に形骸化した礼儀作法を、今もなんとなく大事にする。
 なんとなくでも、親から子へ伝えられ文化や風習は生きているし今後も生き続ける。
 それは日本人の持った慎みの文化や、優しさがそうさせるのだろうと九六三は思う。
 そういう日本の文化や風習に触れる瞬間がとても心地いい。
 海外生活が長く、日本の文化が物珍しいというのもあるが、文化形態の美しさのような物に心が惹かれる。日本に来てから週末の寺社見学は欠かしたことはない。
 早い物で九六三が日本に来て、死村家に迎えられ三ヶ月。
 現在、九六三と一緒に暮らしているのは、一三、十四、十五、三六の四人だが、マンションの他の部屋には宗主や他の死村の者達が住んでいる。一族全員が同じマンションに住む、それもまた死村の文化だ。だが、嫌いではない。むしろ、そのつながりが心地よくもある。
 三ヶ月経った今、死村に来て良かったと九六三は思う。
 三六は料理も上手で優しい。本の趣味や気も合う。
 十五は愛らしくて可愛い弟だ。
 そして一三は、ブラコン気味だが優しくて強くて、格好よくて、と、そこまで考えて九六三は顔を真っ赤にする。気づけば、納豆をこねるスピードは二倍近くになっていた。
 誰か一人、ブラコンの変態を忘れてるような気もするが――きっと問題はない。
 問題があるとすれば、その変態が常に一三や十五の身体を狙っていることだろうか。
「ふふふ、妹と弟に殴られる兄の喜びが私の背筋を恍惚感となり……」
 聞こえてくる変態の声と再び殴られる音。やはり問題はないと九六三が思った時、
「おはようさん」
 いつも通りのどこか飄々とした声が響く。その声を聞いた瞬間、九六三はビクリと身を震わせる。
 寝ぼけた眼が、疲れた体にビタミン剤を投与した時のように覚醒していた。
「お、おはよう」
 慌てて、九六三は寝癖を手で直す。少し、自分の朝の弱さに後悔した。
 プライドの高い九六三としてはこんな姿は絶対に見せられない。
 九六三が背筋を伸ばすと、ゆっくりと引き戸が開き長身の男がリビングに入ってくる。
「いい朝だな」
 十四の双子の兄、一三(かずみ)だ。
 シンプルでクールなリィーデンググラス、その奥の瞳が九六三に微笑む。
 その瞬間、九六三の体がカッと熱を持つ。祇園精舎の鐘の音をエイトビートでゴンゴンと打ち鳴らすように胸の鼓動が高鳴りだす。
 そんな気持ちに気づくこともなく、新聞紙を手にした一三はその正面に座った。
 黒いスーツと顔つきはシャ−プながら、どこか大人の余裕を感じさせる。
 それは暗殺一家死村を支える中核の一人としての貫禄かもしれないし、父性的な物かもしれない。
 そんな一三を赤い顔でしばらく見とれていた九六三だが、『どうした?』と一三に不思議そうな顔をされ、首を横に振った。
「一三、珈琲は飲むか?」
一三と九六三の密かなこだわりは朝の珈琲であり、無論、インスタントは論外。
「ちょうど、飲もうと思っていたところだ。ついでに淹れるが?」
 そう言いながら、ギクシャクとした動きで立ち上がる。納豆を手にしたままということにも気づかない。まさに骨抜きだった。
 まったくもって自分らしくないと九六三は思っているが、裸を見られてしまうような関係であり、『お前は俺が守る』等と言われてしまえば、こうならないティーンエイジの方が少ない。一三は兄として接しているが、ずっと離れ焦がれていた九六三にはそう思うことができないのも仕方がないことだった。
「ああ……っと。そう言えば、たはは、豆を切らしてるンだったな」
「そ、そうか。なら仕方ないな」
 と、九六三は再び座る。座ったはいいが、納豆を混ぜながら一三のことを何度もチラチラと見てしまう。何か話したくて仕方がないが話題が見つからない。今更知的ぶって小難しい話などしたくはない。そもそも、あれは人を遠ざける為に覚えたことだ。
「九六三、今日は何か用事はあるか?」
「え?」
 九六三は、唐突な一三の言葉に少しだけ戸惑いながら答える。
「今日か、殺しも学校も今日はないが……」
 殺し。何の躊躇いもなくその言葉を口にする。
 それは死村にとってごくごく普通のことであり、息をするのと同じようなものだ。学校はあくまで本業のカモフラージュにすぎない。
 殺しは死村にとって自然で当たり前のこと、だが覚悟は常に持っている。だからこそ、口にできる。
「ンじゃあ、たまには二人で珈琲豆を買いに行くか」
「ふ、二人で!?」
 九六三の手から納豆の器が飛び上がる。
 あ、と声を出すより早く――。
 一三は何の気なく、九六三を見つめたままそれをキャッチした。
 そして、再び器は九六三の手に戻ってくる。
「何、驚いてんだ? 嫌なら別に……」
 蒼い瞳を丸くしたまま、ブンブンと九六三は首を横に振る。断るわけがない。だが素直に気持ちを言葉にできなかった。
「まぁ、たまの休日だ。兄弟でどっか行くのも悪かねぇだろ」
 一三はそう言いながら大人びた笑みを浮かべた。
「か、一三が一人だと心元ないからな。私が着いて行こう。そういう浮ついたのはあまり好きではないが仕方ないな」
 少し威張りながら、薄い胸を張ってみせる。
 言いたい事と思いはいつも裏腹で――。
 こういう素直に自分を表現できない癖は、死村家に引き取られても直っていなかった。
「そうだ、一三。今度一緒に訓練しないか?」
 目線を逸らしたまま、細い指先がつかんだ箸が納豆を混ぜ続ける。
 勢いを感じた九六三は普段言えないことを口にしていた。
「訓練?」
「ああ、いつも一人でしているが一三と訓練した方が効果があると思う」
 なんで自分はいちいち格好つけて理由をつけてしまうのかと九六三は思った。
 こういう時に素直になれればいいのにとも思う。
「おいおい、俺に教えられることなンざないだろ?」
 それは謙遜でなく一三は本気でそう思っていると九六三は知っていた。
 自身を過大評価しないことが一三に鋼のような冷静さと注意深さをもたらし、どんな危機であろうとその余裕を崩すことはない精神の強さがある。
「そんなことはない」
 それは九六三の本音だった。九六三では一三のレベルまで達していない。
 総称して『ルーン』と呼ばれる異能力である、『フラッフィー・プラナリア』を持っていても、体術や精神的な面では一三には勝てない。
 むしろ、九六三は弱い。強い言葉、強い態度で、自分を取り繕って強く見せているだけだと自覚していた。
 弱さ、諸さは既にさらけ出してしまったというのに未だに強い自分を取り繕っている。
「私はまだ一三に追いついて……」
 そこまでいいかけた、その時――。
『電話ですよ』と三六の一三を呼ぶ甲高い声が響いた。
「おう、今行く」
 そう言いながら一三は立ち上がる。流れは完全に九六三を置き去りにして過ぎてしまった。
「じゃあ、九六三。すぐ行けるように準備しといてくれ」
「わ、分かった。す、すぐ準備する」
 そう言いながらも、九六三は納豆を混ぜる手を止めない。
 納豆は混ぜ続けられた結果、ただの粘着質の液体へと変貌していた。
 九六三は気づかなかった。
 自分の流れを飲み込んだ流れの大きさとこれから待ち受ける出来事を。


2.中編

珈琲ショップ『BAMBINO(バンビーノ)』。イタリア語で子供、赤ちゃんを意味する。珈琲の専門店であり、一三の行きつけの店だった。棚には所狭しと様々な種類の珈琲豆が陳列され、その独特の香りが店内を包み込み珈琲好き達の鼻孔を刺激してやまない。
「いい香りだ」
 陳列された珈琲豆の前で少女が呟く。サファイアのような蒼い瞳と、稲穂の海原を彷彿とさせる金色の髪はパッと見ただけで少女が日本人ではないことが分かる。十三歳、十四歳ぐらいのまだ幼さを残しているが、服装はミリタリーベースのジャケットと黒のタイトスカートと少し大人びている。
「随分といい豆を揃えている」
 やはり外見に似合わず子供っぽさのないどこか大人びた感じがする声だった。その流暢な日本語は無理して大人ぶっている感もあるものの少女の雰囲気とマッチしていた。
「驚きました。珈琲豆ってこんなに種類があるんですね」
 金髪の少女の隣で、しげしげとコーヒー豆を見つめている少女が呟く。
 その声には優しい落ち着きがあった。雰囲気と同じでかざりっけもなければ、髪型にも派手さはなく、肩口まで伸びた黒髪を一まとめにしているだけだった。
「なんだか落ち着く香りですね、クロちゃん」
 黒髪の少女がクスクスと笑う。こうして会話していることが楽しくて仕方ないと言わんばかりの表情だった。それが照れくさいのか、金髪の少女は少しはにかんだような表情をしている。本当は嬉しいのに言葉にできない――そんな感じだった。
「でも、どういう豆がおいしいんですか?」
 黒髪の少女――死村三六(みろく)の問いに、金髪碧眼の少女――死村九六三(くろす)は答える。
「珈琲を楽しむ為のポイントは四つだ。AROMA(アロマ)――香り、BODY(ボディー)――コク、ACIDITY(アシディティー)――酸味、FLAVOR(フレバー)――風味だ」
「四つのポイントですか。奥が深いんですね。インスタントじゃちょっと味わえないですよね」
 興味深そうに三六は豆の袋を手にする。三六の丸い大きな瞳が見つめているのはヴィンテージコロンビアだった。
 コロンビア産の中でも良質と言われるナリーニョ地方の珈琲豆、その中でも最上級品といわれるスプレモ規格の豆だけを厳選した逸品、上質な香りと豊かな酸味が特徴であり、九六三が好きな豆であり、そして一三も好きな豆だった。
 三六の細く白い手がヴィンテージコロンビアを棚に戻す。
 それを見ながら九六三は一三のことを思い出していた。
 ――本来ならこのショップには一三と来るはずだった。仕事が入ってしまったなら仕方ない。そう割り切っている。ただ二人来るのが明日になっただけだと。
 それでも無性に胸の奥に風が吹き込むような感覚がしてならなかった。
「仕事――か」
 九六三がポツリと呟くと三六が少し首を傾げた。
「仕事? ボク達が受けた仕事のことですか?」
 今日は九六三の仕事を手の空いていた三六が手伝い、その帰りにCD・DVDショップに寄った。安いアイドルソングがクラスの話題に上っていたので視聴コーナーでチェックしてみたが九六三の感性に合わなかった。結局、買ったのはギターウルフ。最高にクールな音が好きだ。
 三六はナンバーガールやストレイテナーなど九六三の知らないCDをたくさん買っていた。その中で九六三の知っていたのはカート売りされていたウィーザーだ。涙腺を刺激するせつないメロディと極上のポップサウンドを売りにしたロックバンドで九六三も気に入っている。
 CD・DVDショップの後に立ち寄ったのがこの珈琲ショップだった。
「あ、いや。何でもない」
 九六三と三六が受けた仕事は今朝ニュースでやっていた猟奇殺人の調査であり、死村が扱うのは暗殺だけではない。諜報的な仕事もある。
 「なぁ、三六」
 ふいに九六三が三六の名前を呼んだ。
「ん?どうしたんです?」
 三六が微笑むと九六三は少し照れてうつむく。
「あ、いや、よければもう少し街を歩きたい。悪いが付き合ってくれないか?」
 相変わらず自分の意志を伝えたり頼みごとをするのが苦手なのは直っていない。それを知っている三六は『うん!』と頷く。勘の良い三六は今の九六三の気持ちを何となくで察しているのか、いつもより明るく優しく微笑む。
「行きたい所があったらジャンジャン行ってください。ボクがどこでも連れて行っちゃいますからね!」
「三六……」
 包み込むような三六の優しさが少し照れくさくて九六三ははにかむ。こんなことでは一三と二人で来ても上手く喋ることが出来なかったかもしれない。伝えたい気持ちはやはり恥ずかしがらず伝えるべきだ。自分の弱さを隠そうとするのは意味がない。
 九六三は聞こえないほど小さな声で『三六が姉さんで良かった……』と呟く。
 聞こえていたらその場で三六が狂喜乱舞しそうな台詞だった。
 照れながら九六三はバンビーノブレンドを手にする。
 珈琲ショップ『BAMBINO(バンビーノ)』はバンビーノブレンドが名前の由来であり、スパイシーなアロマでありながらも味は甘く少し優しい。
 帰ったら一番に三六に飲んでもらいたいと九六三は思った。


3.後編


 バン――と卓袱台を叩く音が居間に響く。
「一三兄さん、クロちゃんに何したんですか?寝てるところに忍び込んだとか、押し倒したとか、下着を盗んだとか、唇を強引に奪ったとか、何か強要したとか――」
「待て、待て、三六」
 ジッと大きな瞳で睨み、一切の弁明を許さず早口でまくしたてる三六。
 その言葉を遮ったのはくしゃくしゃの頭を押さえた一三だった。
 仕事を終えて戻ればまた別の仕事の依頼があり、九六三は口を聞いてくれず、さらに謝る暇もなく変態に襲われかけ、三六からはあの変態と同じ扱いを受けているというこの現状。死村で最もタフな一三も頭を抱えたくなる。
「さぁ、十五君。お兄ちゃんが勉強を教えてあげましょう。学校も赤ペン先生も教えてくれない大人の階段を登る為の勉強を――」
 変態の声と同時に大根を数本まとめてぶち折るような音が響く。
「兄貴、風呂空いたから」
 廊下から聞こえた十五の声に一三は『おう』と答えつつも内心肩を落とす。
 妹から嫌われ、疑われ、弟と風呂に入り兄弟愛を深めることも出来ない散々な一日に対し、一三が小さく『たはは』と自嘲的に笑う。
 すると、再び爆竹が破裂するような音が居間に響く。
「聞いてるんですか、一三兄さん!?」
 卓袱台を叩いた三六を見つめ一三は短く『ああ……』と答える。
「包み隠さず全部ボクに話してください!!怒りませんから!!」
 三六の発言は教員が『この中に給食費を盗んだ子がいます。正直に名乗り出れば何も言いません』と言うのに似ていた。
 九六三のことで三六がむきになるのはやはり自分のことと重ねているからだろうか。三六も死村のマンションで生まれたわけではない。そのことに対する疎外感が子供の頃はあったと聞いたことがある。だから九六三を心配してしまうのかもしれない。
「いや、隠すも何もよ、お兄ちゃンはやましいことなンて……」
 可愛い妹と添い寝したいと言う願いはやましいことに含まれるだろうか。
 最近出来たという『妹喫茶』なる甘美な響きを持つ魅惑的な喫茶にも足を踏み込んでみたくて仕方がないのだが。
「隠したりしたら密告屋ネットワークとか情報屋とか使って調べちゃいますからね!!」
「たはは。あれはダメだ。作った連中が作った連中だからな」
 密告屋は簡単に言えばチクリ屋であり、密告屋ネットワークは新しいスタイルの密告屋と言ってもいい。
 手続きは会員制ホームページに登録するだけのごくごく簡単なもので、会員制ホームページにアクセスして欲しい情報を求めれば、同じく会員である密告屋代理人がすぐにでも情報を持ってくる。それだけで金が講座に振り込まれるという仕組みだ。一三は誰がそのシステムを作ったか知っているだけに利用する気にはならない。
「そもそも、三六よ」
「はいな」
「俺を宗主や十四と一緒にするってのはよ、そいつはあンまりじゃねぇか?お前の中の一三お兄ちゃンは変態なのか?」
 三六は『確かにそうですよね』と呟き溜息をつく。
 死村家宗主――死村千三(しむらせんぞう)。
 殺姫家と死村家の長い確執を『だってワシが嫌じゃもん』の一言で終らせた漢。
 ナウなヤングに喰らいつくというポリシーもち、ピアスにアロハをトレードマークとしている、百五十三歳。
 隠居してからはゲームに漫画、ネット、アイドルおっかけの趣味を満喫し、それだけならまだしも娘孫をモデルにしたギャルゲーを作ると言い張る。死村の誇る変態美形――十四とよからぬことを企て孫に阻止される日々を送っている漢でもある。
「ごめんなさい、一三兄さん。一三兄さんは変態でももう少しマシでした」
「マシって……おま、ちょ、お兄ちゃン、少しだけハートブレイクだぞ」
 少ししょげて三六が謝った。
 三六の発言に傷つきながらも一三は三六の可愛さにノックアウトされかける。
 こういう素直さが三六のいい所だ。自分が間違ったことをした時に素直に謝ることが出来る心を持っている。兄としてはそれが嬉しくて一三は口元だけ僅かに綻ばせた。抱き締めたい衝動に駆られたがそれこそ本当にあの変態達と一緒になってしまう。
「クロちゃん、今日一日元気がなくて。ボク、心配で心配で……」
 うつむいたその表情にギュッと一三の心が締め付けられる。実の妹の切なげな表情を見て何とも言えない気持ちにならない兄などいようか。
「出かけンのをそこまで楽しみにしてたのか……」
 仕事で人を殺してもあまり心が痛むことのない一三だが、三六や九六三の気持ちを考えると心に鉛を取り付けられたように重くなる。
「それだけじゃないですよ」
「ン?どういう意味だ、そいつは。他に行きたい所があったのか?」
 三六はジッと一三の顔を見つめる。それは『おいおい、何を言ってるんだ』と言わんばかりの表情だった。間の抜けたことを質問してしまった時の反応のようでもある。
「お、おい……」
 思わず一三がたじろぐ。
「一三兄さん、気づいてないんですか?」
『ああ』と、一三が不思議そうな顔をすると三六は苦笑いを浮かべる。
「いえ、やっぱり何でもないです。そうですよね。兄弟――ですもんね」
 その反応は大いに一三を不安にさせた。実に妙な納得の仕方だった。少し諦めの色さえ見え隠れする。
『こいつはこういう奴だ、仕方ないんだ、諦めるんだ、仕方ないんだ』と言われているようだった。
「おいおい、俺が知らないとこで何かやっちまってるってことか?」
 三六は小さく首を振る。
「ううん、何でもないです。ボク、洗物やってきますね」
 そそくさと逃げるように去る三六。
 ポツンと取り残された一三は髪をかきながら考えたが思い当たる節が全くない。思春期の少女特有の気難しさを解することが出来なかった。
「……思春期か」
 誰にでもなく呟き、ネクタイをゆるめて風呂場に向かう。
 思春期――妹が大人になっていたことが嬉しくもあるが寂しくもあった。
 そういう年頃になるとよいよ兄から離れて、彼氏を作ったりしてしまうのだろうか。百歩譲って交際を許したとしても自分を倒してからにして欲しいと心底思う。
 もし、ちゃらちゃらした茶髪の小僧でも連れて来たら――。
「殺るしかねぇよな……」
 等と物騒なことを呟く。当然、本気だった。
 一三はそんなことを考えながら風呂場のドア開け脱衣所に入る。
 当然、誰もそこにはいないと思って入った。
 言葉はなかった。
 湯上りの火照った白く滑らかな肌を晒したまま立ち尽くす――。
 華奢で抱き締めたら折れてしまいそうな身体、つぶらな双丘を隠すこともなく――。
 動きが止まったまま、金色の長い髪から水滴を滴らせ――。
 何が起こっているのか理解できない蒼い瞳はただ目の前の一三だけを映していた。
 ようやくどういうことか察したのか、九六三は耳まで赤くしてその場に蹲る。
 九六三が一三に裸を見られるのはこれで三度目でもあり、家族とはいえ自分の裸体を晒して喜ぶのは十四ぐらいだ。
「一三……」
 弱々しく瞳を潤ませた九六三が呟く。
 それは全くの予想外だった。今までの九六三なら有無を言わさず怒鳴って殴っていただろう。
 そして、翌日から、
『醤油を取ってくれ、変態』
『ちょっと窓を閉めてくれ、変態』
『食事の時間だぞ、変態』
 と、変態の烙印を押された十四と同じ扱いになるだろう。
 しかし――。
 九六三は身体を腕で隠しモジモジと恥らう。あまりにも驚きすぎて言葉にならないのかもしれない。
「ああ、その、なんだ――」
 少し困りながら一三は『たはは』と笑い頬をかく。
「一緒に入るか?」
 何を言ってるんだと一三自身も思った。
 普段なら殴られていただろう。
 だが、九六三は赤くなった顔で『あう……』と小さく呟く。
 その呟きは肯定とも否定とも取れる声のようでもあり、恥ずかしくて言葉もでないというような声でもあった。
 九六三の唇がゆっくりと動いた時、
「とりあえず出ればいいと思いますよ、兄さん……」
 背後から凄まじい殺気と共に怒気を帯びた声が。
 一三の肌をビリビリと刺激するとてつもない重圧が背後から発せられている。
「お洗濯物を取りに来て見ればこんなことを……ボクの可愛い妹に」
 十四の好きな漫画で例えると『ゴゴゴゴ……』という効果音がつきそうだった。
 『三六……』と弱々しい声で九六三が呟く。その表情は選択に困ってすがりつくような子供の顔をしている。さすがにこの状態は誤解されるしかない状況だった。どんな言い訳をしたとしても――無理だ。
「兄さん!!」
 死村家を揺るがす怒声と、ベレッタのカンカンという小気味いい音が響いた。


3.2後編


「なぁ、おい。三六。そろそろ解いてくれねぇかな。お兄ちゃンもあれだぞ。あれだ、仕事とかあったり弟達と風呂入ったりしないとだな。さすがにお前、少しやりすぎじゃねぇか?九六三も口聞いてくれねぇしよ。そろそろ兄弟のコミュニケーションで仲直りをだな……」
居間の天井から鎖でぶら下げられた一三がブラブラと揺れる横で、三六は湯飲みに入れられたお茶を飲む。この逆さづりは九六三の裸をたまたま見てしまった一三に与えられた罰だった。
「宗主の命令ですから」
 ツンと一三を見ることなく三六は家計簿をつけながらそう言った。
「たはは。命令つってもよ、夜になると十四が襲ってきてけっこう大変なンだぜ。さすがにお兄ちゃんも頭に血が上ってきたぞ」
「クロちゃん、お風呂出た後、ずっと真っ赤な顔してプルプル震えてたんですからね」
「う……」
 そう言われてしまうと言い返すことができない。
「思春期の子供ってのは複雑だな」
「一三兄さんが鈍感すぎるだけです」
そうだろうかと吊るされたまま一三は首を傾げる。
「とにかく。クロちゃんの裸を見ていいのはボクだけですから」
 きっぱりと三六はそう断言した。その言い切り方は妙に――。
「三六、なんだか、最近よ、お前さンが十四に似てきてる気が――」
 ダン――と湯飲みを卓袱台にたたきつける音が響く。
 よほど、あの変態と一緒にされるのが苦痛だったらしい。なんとなくその気持ちは理解できてしまう。
「一三兄さんはそうやってしばらく反省しててください」
「まいったぜ、お兄ちゃンもさすがにこの状態はなぁ」
 『たはは』と、少し困った顔で一三は笑う。まったくもっていつも通りに余裕たっぷりだった。
「そういや、九六三は?」
「こないだの事件の調査の続きをするそうです」
「あの猟奇殺人事件か」
 それを聞いて僅かに一三は顔をしかめる。時刻は八時を回っていた。明日は中学校もあるし、こんな時間に出歩くと可愛い九六三は痴漢や変態に狙われてしまうわないだろうか。
一三の心情を読み取ったのか三六は吹き出す。
「大丈夫、一人じゃないです。十二(じゅうじ)兄さんがついてますから」
 死村十二、死村の中で最も冷静沈着な男。大手スーパー勤務。確かに十二がついていれば安全だと一三も思った。だが――
「いや……そうじゃねぇ。十二兄貴が一緒なら何があろうと九六三は安全さ。死村第二位『二統(じとう)』のあの人が妹を守らないはずがねぇ。そいつは絶対に断言していい。ただ、ただよ、今回の件の依頼者はちゃんと分かってるかい?」
「ええ。被害にあった人の家族だそうです」
「そうか。もう一度洗った方がいいな。十四に頼ンどいてくれねぇか」
 一三はそんなことを呟きながらブラブラと揺れる。
 不思議そうな顔をしている三六がそれを見上げ呟く。
「どうしてですか?」
「俺の勘もあるが、ちっとばかし良くない噂を聞くのさ。死村を恨んでる連中が日本に来てるってな。そういう時に偽の依頼ではめられることもあるからな。注意するにこしたことはねぇさ」
 僅かに三六の表情が強張った。
「それって大きい組織ですか?それとも強力な異能者ですか?」
「新興宗教を母胎とした中国組織だ。ガキにクスリばらまかせたり闇賭博で金を作ってる連中さ」
 少しの間の後、三六は尋ねる。
 いつもの愛らしい顔に物事と物事つながりに気づいた時のハッとした驚きを浮かべていた。
「中国って昔、一三兄さんがいた――」
「そういうこった。俺が行方不明になった十(とう)姉さんを探す為に潜入してた組織だ」
 まだ幼かった九六三もそのことは知っているだろう。
 中国に行ったまま行方が分からなくなった姉、十。
 その姉が最後に関わったのが中国のある組織だった。
「そうですか……」
 二人の間にしばしの沈黙が訪れる。
『喫茶店で別れ話をしている男女の沈黙』のような何とも言えない静寂だった。
「分かりました。十四兄さんに話しておきます」
 三六は一三にそれ以上は聞こうとしなかった。
 それが三六の優しさだと一三は思う。三六はどんなことでも理解し受け入れようとする心の広さを持っている。それが可愛らしくてたまらなかった。
『たはは』と笑いながら、一三はぼんやりと昔のことを思い出した。
 随分と昔のこと。
 中国の組織で用心棒をやっていた頃のことを。
「文龍……」
 体の揺れを止め、一三が呟く。
 それはどこか遠くを見るような視線だった。
 遠い昔に置き忘れてしまったものを思い出すような、忘れてしまった場所を思い出すような懐かしさが瞳に宿っている。
 『ねぇ、一三兄貴は僕のこと五十元で買ったでしょ?だからさ、ずっと側にいていい?』
 そんなことを言ってじゃれてきた小さな身体を今も思い出す。
 思い出すとその面影が脳裏をよぎる。今でもはっきりと覚えてる。
 あのぬくもり、声、姿――。
 それが随分と昔のこと――遠く彼方にしまわれ、セピア色に染まった深い思い出だった。
 一三は思う。
 何故、今更、日本で組織が暗躍している噂を聞くことになったのだろうか、と。
 つながるはすはない。決してつながることはないはずだと分かっていた。日本にも組織にも『文龍』はいない。
「なぁ、三六」
「はい」
 少しだけ声に鋭さを持った一三を、三六は真直ぐに見つめる。
「いや、何でもない」
 一三の言葉に三六は首をかしげる。
『もし、俺がお前を殺さなければならなくなったとして――殺さない為に俺が側からいなくなったら恨むか?』
 そんな意味のないことを尋ねても仕方なかった。
 過去はもうやり直すことはできないし、文龍と会うこともないのだから。
 毀れた砂が指先から落ちればそれを全て拾い集めることはできない。
 取り戻すこともどうすることもできずに、棘となってしまう物もこの世界には存在する。
 大事なのことは――。
「痛みから逃げ出さないことか」
 一三のその呟きは三六には届かなかった。



 

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