4.『スタンド・バイ・ミー』
どれだけ時間が経っただろうか。
その部屋の中央柱に飾られた大時計だけが歯車の音を響かせている。
ステンドグラスから漏れる月明かりが、ハングドクロスを讃えるように照らしていた。
赤く血で染まった逆十字は今まで何人の血を吸ってきたのだろうか。
流れる葬送曲。
「……」
立ち尽くした少女は空っぽの瞳でその光景を見つめる。
ただ、魚の死んだような瞳で。
心の中の何かが音を経てて崩れてしまった。
涙すらも流れない。
目の前のエグジスタンスを受け入れてないからだ。
ヘミングウェイの敗れざる者では老いた闘牛士が人生を賭けた闘いで敗する。
だが絶望の中で闘牛士は泣きもわめきもしなかった。
ただ『運が悪かったのさ、それだけのことよ』と息を吸う。
闘牛しかない老闘牛士の全てが終わった。
だからこそ、闘牛士は泣かない。泣けば終焉を受け入れることになるからだ。
泣くことが目の前を受け入れることだと言うのなら。
そう、受け入れられるはずはないのだ。
「……」
小さく、少女の……クリスの唇が動いた。
大理石の柱に持たれた死村一三と死村十四。
眠っているように見える二人の腹部に突き刺さっていたのは両刃の大剣だった。
二人の流れた血だまりも既に固まっている。
『可愛い妹が傷だらけになって喜ぶ兄貴がどこにいるンだ?痛みも苦しみも全部、俺が受け入れて背負う。それが兄貴の務めってもンだろ』
グッと一三が着せてくれたコートの裾を握り締める。
ぬくもりも。
大好きな一三の匂いも。
まだ残っているのに。
「嘘つき……」
少女はうつむくと、震える声でただそう呟いた。
受け、入れ、られる、はずが、ない、のだ。
「いやいや。彼らは下等生物なりに頑張ったと思うだのがね」
嘲るような見下した笑い声……。
クリスはその声の方を見ずにただうつむく。
「いやはやまったく。ゴミクズにしては上出来だ。だが、だがね、いかんせん低度が低すぎる。暇潰しにもならなかったな」
祭壇の玉座の上で豊かな顎鬚をいじりながら、暗黒の王はクリスに冷酷な視線を向けている。
「クリス……。ここまでの到達おめでとう。二人の犠牲を出したが、ゲームクリアまでもう少しだ。君の為に戦って死んだ二人の為に是非頑張ってくれ」
トランシルヴァニア城の主、吸血伯爵ドラクロア・S・ディープカルネージはあざ笑う。
「ドラクロアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
劈く咆哮の後、クリスの身体が疾駆した。
怒りがより強く、より速く、クリスの身体を動かす。
「いやはや、どうやら君はあの二人よりもさらに退屈なようだね」
ドラクロアが玉座に座ったまま人差し指を動かす。
もし、クリスがもっと冷静な状態であれば、背後から飛来したそれを避けることが出来たかもしれない。
だが、今のクリスには三本の大剣を避けることなど出来なかった。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!」
絹を裂くようなクリスの悲鳴にドラクロアは恍惚の笑みを浮かべた。
三本の大剣。
それがクリスの腕を貫き、赤く染め上げる。
「どうしたのかね?うずくまって。私が憎いのだろう、クリス。知っているぞ、ずっと私を恨んでいたのだろう。覚えてるかね、クリス。君がこの城に入った時、絶対に私を殺すと吠えていたね。あの言葉に嘘偽りはないのだろう」
ゆっくりとドラクロアがうずくまるクリスに近づく。
押しつぶすような悪意を持って。
「あぐううううう……」
「セリザワの血を引く君をタダでは死なせると思ってるのかね? もっと苦しみたまえ、もっと惨めさを感じたまえ。私を裏切った罪はそれだけ重いだのよ、クリス」
「裏……切った?」
クリスの混濁した紫の思考はただ言葉をなぞるだけだった。
「いやはや。それを君が知る必要はないのだよ。そう、必要などない。君はただ世界と己のエグジスタンスを呪いながら、ただただ泣いてくれればいい」
ドラクロアは左腕を脚で踏みつけ、右腕を両手でつかんだ。
「ふむ。傷だらけの手だ。余程の鍛錬を積んだんだろう?」
右手で四本の指を固定し、左手の指でそっと――。
クリスの人差し指の生爪を剥ぎ取った。
「ああああああああああああああ!!!!」
駒鳥が囀るような悲鳴。
「いい声だ。いやはや。実にいいッ!! いいぞッ!!」
クリスの苦悶の声にドラクロアは身を震わせた。
「泣いてはくれないのかね?ふむ、では一枚ずつ剥いでいくとしようか、クリス」
グッとクリスの爪に力が加えられる。
「うああああああああああああああああああああああああ!!!!」
薬指の爪が宙を舞い、カツンと音をたてて落ちた。
「順番に……剥がすとしよう」
順番に、ゆっくりと、クリスの、爪が剥がされていく。
クリスの悲鳴を聞くたびにドラクロアは恍惚の笑みを浮かべる。
それは憎悪からかもしれないし、もしかしたらサディストだからかもしれない。
どちらにしろそれは最悪だ。
もっとも最悪なのは痛みなどではなく――その傷だらけの手を蹂躙されることである。
クリスは人に手を見せるのが嫌いだった。
傷だらけで豆だらけの手は少女らしさの欠片もない。
それを見られるのがたまらなく恥ずかしかった。
その手が好きだと言ってくれたのは――一三だ。
爪が剥がされる苦しみと痛みよりも一三が好きだと言ってくれた手が、伯爵の薄汚い手に蹂躙されていく。そのことの方が数倍耐え難い。
一三、一三は――もういない。
「ドラクロ……アァァァァァ。貴様……だけは絶対に……」
痛みで泣き叫ぶよりも、怒りと悲痛で惨めな気持ちが震えた声をあげる。
「フム。次は一本、一本、剣で貫いてみるか」
ぽそりと。
小さくドラクロアが呟く。
「出来れば顔は傷つけたくない。動かないでくれたまえ」
来る。
背筋に走る冷たい感覚が背後から迫る大剣の存在を伝える。
「フラッフィー・プラナリアァァァッァアァッァ!!」
タイミングは今しかない。
これを外せば――死ぬ。
力ある言葉と共に、大剣がドラクロア自身に向かい放たれる。
「ほう」
ゆっくりとドラクロアが瞳を閉じると大剣が、胸を、腹を、その身体を貫く。
夥しい出血の中、ドラクロアが笑った。
「これがどうかしたのかね?」
一言。
あまりにも大きな暗い闇がクリスの心の中に広がっていく。
圧倒的な絶望感が今にも闇の中にクリスをひきずりこもうとしていた。
「いやはや。絶望したかね、クリス」
伯爵はゆっくりと大剣を体から抜く。
まるで痛みなど微塵もないと言わんばかりに。
そしてクリスの胸倉をつかみあげる。
「怖いか? 苦しいか? 孤独か? 孤独だろう。寂しいだろう。一人で私に蹂躙され死んで行くのだ。永遠に、孤独に魂はこの城の中を彷徨うのだ」
クリスが震える唇を動かす。
「……嫌だ」
「いやはや。ゲームオーバーだ。孤独な闇の中で絶望感を抱えたまま死にたまえ、クリス」
「……一人は嫌だ」
「いやはや、まったく。そうだな、その通りだ。でも君は孤独に惨めに死ぬのだ。孤独に」
「お前は……孤独ではないのか?」
ドラクロアのこめかみが僅かに動いた。
「私はもう一人は嫌だ!
誰かと一緒にいたい! 好きな人に寄り添いたい! 同じ空を見たい!
同じ風を感じたい!!」
叫んでいた。
心の底から。
ドラクロアに。
動かなくなった一三達に。
今までの自分自身に。
「繰り返すが、君は今から惨めに一人で死んで行くのだよ。孤独の闇の中に。たった一人で」
「私は一人じゃない……」
「いいや、一人だ」
クリスは首を振った。
「居場所になってくれると約束してくれた人がいる。私の存在を認めて受け止めてくれた人がいる。お前には……」
「もういい」
小さくドラクロアが呟く。
「ドラクロア、お前には……」
「それ以上言うな……」
「ドラクロア」
「黙れと言っているのが聞こえないのか、クリス」
「ドラクロア、お前にはそんな人がいるのか!!!!」
「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!! たった数十年しか生きてない生物が、私、この八大伯爵の一人である私に、この私に、知った口を叩くな!!!! 分かった口で知ったかぶるな小娘が!!!! 孤独の苦しみも何もかも知らないで貴様が孤独を口になどするなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
紳士などではない。
それは最早ただの悪鬼の素顔であり、孤独に怯え憤慨する姿であり――ひどく人間的だった。
「我が娘は愚かにも私の側から離れ人間を愛し、魔女として処刑されたッ!! 己の子孫にだッ!! 私の全てを、技術を、力を継ぎ人間など虫を捻るように殺せたはずなのに……!! 自ら殺された……!!」
荒い息で伯爵が壁を殴りつける。
部屋全体が強く揺れて壁に大きな穴が開き、冷たい風が一気に流れ込んでくる。
もしや――その殺した者達の中にいたのがセリザワだったと言うのだろうか?
「自ら人間に殺されることを選んだ!! 残された私のことも考えずに!! 愚か、愚か、愚かの極み!!!! 貴様に分かるか!! このジレンマ!! 悲しみ!! 永遠の孤独ッ!! 思い知るべきなのだ、全ての生物は孤独であることを!! そして、私に詫びろ!!」
「孤独に怯えるか、吸血鬼」
「ああ、そうだ。孤独は永劫の地獄だ。だがな、貴様に何が分かる。繰り返そう。貴様に何が分かるのだ? 私の苦しみを誰が理解できる!!」
「孤独をばらまく貴様が孤独を口にするな!!!!」
「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!! 孤独に怯えながら死ねェェェェェェ!!」
ドラクロアが右手を振り上げ爪を輝かせた。
それは確実にクリスの頚動脈を裂き、致死に至らせるだろう。
血肉を吸って、孤独をばら撒いてきた爪牙が、振り下ろされる。
「……いいや」
囁くように呟く声。
伯爵の手が空中で止まった。
「なっ……」
伯爵が思わず呟く。
それは、まさに力を込めて振り下ろす瞬間だった。
「アジな真似を……」
伯爵は呟きながら二の腕に刺さった黒薔薇を引き抜く。
すると、その黒薔薇がチーズやバターのように溶けて伯爵の腕に絡みついた。
クリスはただ、ただ、その光景を見つめる。
見つめる以外にできることはなかった。涙で滲んだ視界で男は笑う。
泣かない、そう自分の中で決めていたのに。
それを見た瞬間、涙があふれて雫になってしまう。
その声は確かな存在感を持って言葉を紡ぐ。
「識りな、殺戮式を」
伯爵の心臓を背後から貫く掌。
「貴様ッ……!!」
腕が血肉と共に引き抜かれた瞬間、伯爵が跪く。
その背後で伯爵を貫いた男は微笑んだ。
「泣くなよ、クリス」
その微笑みに、その言葉に、そのぬくもりに。
答える言葉はクリスの中に、既に存在している。
クリスはグッと涙を拭って笑顔を作った。
「誰も……泣いてなどない!!!!」
暗闇も絶望もクリスの中から消えていく。
ゆっくりと心の中にある何かが強い力へ変わっていくのだ。
「……いやはや」
ドラクロア伯爵の目玉が動き、十四と一三を見つめる。
一三が小さく舌打ちした。
ダメージがないことは既に予測ができていたのだろう。
もっと確実に殺すチャンスを狙っていが、クリスを助ける為にこうしたのはクリスにも分かった。
心臓を貫かれた伯爵があふれ出す血肉も気にせず笑う。
二度目……それはドラクロアが不死であるということを確信させる。
「ククク、これは驚かされる演出だ。心臓が止まっていたのに起き上がる……死んだフリ、セリザワの仮死法か」
ドラクロア伯爵の目は足元の歪んだ大剣を見つめていた。
グニャァリと粘土のように先が曲がった大剣、それは十四たちを貫いていたものだ。
「つまり、物質を溶かす……もしくは硬さ、柔らかさを変化、変質させる能力かね。貫いた瞬間、咄嗟にその能力を発動させたというところかな」
「御名答です。ドラクロア伯爵。貴方の方は、呪法の他にも吸血鬼の特質、念道力(サイコキネシス)等が使えるみたいですね。不死の秘密は呪法ですね?」
十四の声と共に黒薔薇だった粘膜が蠢く。
ゆっくりと元の黒薔薇の形に戻り――。
伯爵の腕から離れた黒薔薇が大理石の床にゴツンという音をたてた。
「そしてチャンスを窺っていたと。いやはや、驚いた。全くもって驚いた。だがそれでどうだね、どうするつもりかね。不死身の私に何が出来ると言うのかね? 勝てるとでも言うのかね?」
ドラクロア伯爵の右手と左手が素早く十四と一三の顔をつかむ。
普段ならば、みすみす触られることはない。
ダメージもあるがドラクロアが予想以上に速かったのだ。
その動きの速さは一三の想定を上回っている。
「次はどう驚かせてくれるのかな?」
その問いかけに対し言葉を発する間もなくドラクロアは腕を振った。
当然のごとく、そのまま二人の身体は左右の壁面に叩きつけられる。
一三は空中で体制を直すと、掌で壁の衝撃を受け止め、十四は柔らかくした壁にめり込む。
「一三ッ!!」
叫んだクリスの足元に大剣が突き刺さった。
バッ!と背後を振り向くがそこに姿はない。
そう、伯爵にはまだこれがあった。
――見えない角度から飛来するブレードが。
「三人の揃った所で何ができるのかね? 一人、一人順番に送ってやろうではないか!! 認識するがいい!! 自らが孤独で哀れな生物だとッ!!!! 見えぬ絆を信じる愚かさを」
「その絆が人間の強さなのですよ、伯爵」
「ああ、てめぇにはわからねぇだろうな」
伯爵の左右にいた十四と一三の姿が消えた。
否、消えたのではない。
疾く、静かに、加速して、ただ、伯爵に向かって、大理石を蹴り真っ直ぐ走ったのだ。
「なッ!!」
伯爵が間合いに入った二人を認識した瞬間、
グシャリという音と共に二人の長い脚が伯爵の両頬にめり込んだ。
その瞬間、血肉に包まった歯茎が噴出すように飛び出す。
完全にガードが間に合ってない。
それは全くの不覚。
二人は伯爵の予想以上に戦いなれているのだ。
頭から転がったドラクロア伯爵がそのまま大理石の壁に叩きつけられる。
「クリス……」
一三がクリスに駆け寄る。
その表情はひどく心配そうで――まるで娘を心配する父親のようでもあった。後悔と怒りが表情に滲み出ている。
伯爵の隙を狙うためとは言え、クリスに苦しい思いをさせたのが心苦しいのだろう。
「すまない、クリス……」
「ううん、私は大丈夫だ」
血に塗れた指先を押さえクリスが微笑む。
今はそんなことより一三がこうして生きていたことがずっとうれしいのだ。
「ほら、手を見せてみろ」
「う、うん……」
躊躇いながら手を伸ばすと、一三はそっとその指先を舐めた。
クリスはそれを真っ赤な顔でぼんやりと見つめてしまう。
一三は消毒のつもりだったのだろう。
だがそれはクリスにとって――。
「人間どもがぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁっぁぁ!!!」
怒号が蝋燭の炎を揺らめかせる。
ドラクロア伯爵の怒号が鳴り響いた瞬間、室内の大気が震えた。
人間に足蹴にされる。
ダメージがなくてもそれが上級種族としてのプライドを砕いていた。
伯爵が振り上げた拳を大理石の床に向かって振り下ろす。
ただ、それだけだった。
それだけのシンプルなアクション。
振り下ろした瞬間、
ハンマーを叩きつけたような破壊音が、流れていた葬送曲すらかき消す。
まさに豪音。
音、それと同時に衝撃が床に伝わり……大理石の欠片が宙を舞った。
まるで隕石が落ちたように、大理石の床にクレータが出来上がる。
圧倒的なまでの力の差、それが生物としての差だ。
「おいおい……」
思わず一三が呟く。
圧倒的にレベルが違う者と向き合う感覚。
どれだけ殺せば死ぬのか、目の前の化物は。
人間が戦うには全てが不足。
生物としてのポテンシャルの違い――いわば格差。
生物ピラミッドにおいて下位は上位に搾取されるのが定めだ。
しかし、その格差を埋めるのが人間の知恵と技術である。一三と十四の体躯が再び疾駆する。左右に展開しての同時アクション。
それはドラクロア伯爵にも簡単に予測できただろう。
近づいた瞬間、吹き飛ばそうともう一度拳を振り上げた。
「フン。同じ手をそう何度も……」
そう呟いた瞬間、ドラクロアの足元がグニャリと歪んだ。
まるで柔らかなマットの上に立っているような感覚――十四の能力だ。
ドラクロア伯爵の頭部目掛け、一三の掌が伸びた。
舌打ちと共に伯爵がスウェイバックで後退すると、掌が空を切裂く。
もし喰らっていれば頭一つ持っていけたかもしれない、とその光景を見つめていたクリスは思った。
ぐらつきながら繰り出したドラクロア伯爵の右蹴り。
「おっと!!」
チッ、と音をたて切裂かれた一三の前髪が落ちた。
蹴りを一三が咄嗟に伏せてかわしたのだ。
無論、不安定な足場の影響を受けた一三が前のめりになる。
一瞬の隙。
それを伯爵が見逃すはずもない。
「もらったぞ、小僧!!」
無防備な一三に迫るドラクロア伯爵の拳。
風を切裂いてうねりをあげる。
――次の一三の行動はドラクロアにも予測できなかっただろう。
十四が能力を軸にした一撃離脱のシュート・アーツに対し、一三の戦闘スタイルには決まった型というのがない。いや、骨法などを取り込んではいるがそれにとらわれる考え方をしない。
床に手をついた一三の体が勢いのまま逆立ちした。
そのまま長い両脚が伯爵の首を挟む。
流れるようなリズム。
一三が身体を捻る。
――変則式首狩り投げ、ミョルニルスープレックスだ。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
伯爵の尾をたなびかせるような叫び声。
物理法則に従い、両脚につかまれたまま伯爵の体が宙に浮んだ。
まるでハンマーを振り下ろすように、
そのまま、頭部から床に叩きつけられる。
鐘を鳴らすような轟音。
能力解除した大理石の床にもろに頭部が打ちつけられた。
「ぐううう……」
ダメージにふら付きながら伯爵が距離を取ろうとした。
だが、甘い。
背後に接近していた十四がいたのだ。
それに伯爵が気づいた瞬間、
十四の投げたコートが伯爵の頭から纏わりつく。
そして掌に握られていたSIG−P226の引き金に指をかけようとする。
だが、十四は引き金を引くことはなかった。
ゆっくりと床に片膝をつく。
流れ出た血液が床血だまりを作った。
その背には再び、あの大剣が刺さっていたのだ。
ほぼ同時に狙われたクリスも床を転がり大剣を避けていた。
死角から一体どうやって――。
何かがクリスの中でざわめく。
死角からの一撃――それが引っかかって仕方ないのだ。
心の中で引っかかる物がチリチリ燃えていた。
クリスと一三が十四に気を取られた刹那。
伯爵は一三の眼前に立っていた。
赤い血液が一三の視界を染める。
それを認識した瞬間、右腕に食い込んでいたのは大剣だった。
クリスですらそれにきづくことはない。
「まさか、てめぇ……」
呟く言葉も言い終わらぬ間に、
「見えぬ物を信じる愚か者が!!」
伯爵の突き出した拳が、うねりを上げ一三の肩を抉った。
飛び散った血飛沫。
紙一重。まともに当たっていたら顔が飛んでいたことだろう。
「動作が鈍っているぞ。本当は立っているのもやっとなのだろう?」
「たは、うるせぇよ。聞こえないか、ドラクロア。お前が死ぬまでのカウントダウンがよ」
一三の右腕が血を噴出しながら掌を打ち込こうとする。
伯爵の口元がニヤリとつりあがった。
一三の掌が伯爵の顔にめり込む。
――それだけだ。
速度もなければ威力もない蝿が止まるような貧弱な一撃。
それを分かっていてドラクロアは受けたのだ。
屈辱感と無力感を持たせ殺す為に。
「絶望的だな。全く威力がないでないか」
ドラクロアの伸ばした人差し指がゆっくりと。
「クリス!! 本体だ!! 伯爵の本体を見つけ……!!」
――そこで一三の言葉は途切れた。
一三の鳩尾に伯爵の人差し指が食い込む。
肉を抉り、骨を砕き、根元まで深々と。
身体を震わせ、苦悶に歪む一三の顔……。
伯爵が笑みと共に赤い指先を引き抜くと、鮮血がこぼれ落ちる。
「一三……!!」
駆け寄ろうとしたクリスを襲ったのは死角からふってくる大剣だった。
それをかわし、冷静にクリスは一三の言葉を頭の中で繰り返す。
床に刺さった大剣。
つまりこれと一三が戦ってるドラクロア伯爵を操っている本体が存在するということだ。
本体がこの部屋の何処かに――。
「いやはや、良く分かった。分かったところでどうにもならないがね。さ、次はクリス、君だ」
「待てよ……」
スッと伸びた一三の手が伯爵の肩をつかんだ。
一三は震える身体で笑みを作ってみせる。気持ちはこの絶望的な状況の中、一片も折れてなど無い。
「ほう。随分頑張るじゃないか。もう一度聞くが何故、君はそこまでする? まさか本気で子供が泣くのが嫌だなどと言ってはないのだろう?」
「てめぇにはわからねぇさ」
「そうか、実に残念だ」
ずぶぅり、という音と共に伯爵の指先が一三の胸に食い込んだ。
細胞、筋繊維、血管を破壊し肉を抉る。
虚ろな瞳の一三の身体だけが震えた。
そして、狂ったように笑う伯爵。
ずぬ、ずぬ、ずぬ、ずぬ、ずぬぅりと肉音が何回も響く。
聞いているだけで耳を塞ぎたくなるような音だった。
玩具だ。
弄る、弄る、指先が一三の身体を。命の玩具を。弄る。
――クリスは襲い掛かる刃をかわしながらその光景を見つめる。
泣き叫びそうになるのを唇を噛み締め堪えた。
堪えなければならない。
今できることは叫ぶことではない。
怒りに身を任せることでもなければ、一三を助けることでもない。
今すべきことは、命懸けで伯爵を食い止めている一三の言葉に――思いに答えることだ。
感じ取れ、この室内にいる全てを。
剣が飛びかう中、ゆっくりと目をつむる。
瞳を閉じた後、意識の全ての感覚を広げていく。
――来る。
クリスの体がスッと左に傾いた。
そのスレスレを大剣がかすめていく。
刃物のように研ぎ澄まされた感覚のセンサーが全ての動きを教えてくれる。
そっと広げた指先に触れて通り過ぎて行く大気。
蝋燭の揺らぎまで感じることができる。
全てが指先に集まり、肌が神経が自分のという存在が周囲と一つになっていた。
まるで水の中に包まれている感覚。
何故、一三ほどの者達が背から刺されたか。
――スッとクリスが下がると大剣が大理石の床に刺さった。
目が眩まされていた。目の前の醜悪な邪気に。本当はそこにいるのに気づかなかったのだ。
伯爵が血まみれの一三の襟首をつかむ。
「もういい。貴様には飽き……!?」
そこまで言いかけて。
唐突にビクリとドラクロア伯爵が身体を振るわせた。
「一三が言ったはずだ、貴様が滅びるまでのカウントダウンを」
ゆっくりと――ドラクロア伯爵が振り返る。
「まさか……」
伯爵の崩れる体――。
砂となる指先――。
「クリス、クリス、クリスクリスクリスクリスゥウウウウウウゥウウゥ!!」
ぐるぅりと回転した瞳がそれを見つめる。
構える宙に向かい掌をかざすクリス。
「私は一人なんかじゃない!!!!」
――赤。
空中から溢れ出した赤い血。
ゆっくりと周囲から姿を隠す迷彩が剥がれ落ち――。
クリスの視線の先で、空中に浮遊するドラクロアの姿があらわになる。
シェフィールドナイフを刺されたドラクロアの姿が。
それは一三の前にいるドラクロアと似ても似つかぬほど弱々しい老人だった。
そう、この痩せ細った老人は最初からそこに存在していたのだ。
カメレオンのように姿を隠す呪法、あるいは上位吸血鬼の特質の一つだろう。
「小娘がぁぁぁぁぁぁっぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
しわがれた手がナイフを握りつぶす。
同時に一三をいたぶっていた方のドラクロアもクリスに向かって動き出す。
「ハッハ!!ナイフがなければなにもできなだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
先ほどまでの大剣を既に塵となっている。
クリスの武器ももうない。
――だが、クリスは冷静にただ、スッと手を動かす。
「一三……ありがとう」
小さくそう呟いた。
その瞬間。
赤が奔った。
赤の死線。
煌く赤い何かが。
「あがががががっがががあがっがあがっががが!!!!」
迸る赤黒い鮮血とドラクロアの叫び声。
「……少しは叫ばなかった一三を見習ったらどうだ、伯爵」
胸を袈裟斬りに裂かれたドラクロア伯爵の声が響き渡る。
「何をしたぁぁぁ……何故……気づいたぁぁぁ……」
老人――ドラクロアの本体が呟いた瞬間、立ち尽くしたドラクロアが砂となり崩れていく。
流れ出す血と共に、ドラクロア本体の上半身が床に落ちた。
「デコイや迷彩とでも言うのだろうな。傀儡に戦わせてる間に自分は安全な所から敵を狙う。下衆が考えそうなことだ」
「うう……」
「何故、狙ったように百発百中で大剣が死角から刺さるのか考えてた……貴様、私が気づく前に一度だけ外したな。私が動かなかったのに貴様は外した。その時は角度的にうまく見えなかったんだろうな……」
クリスは立ったまま朦朧としていた一三に近づくと、そっとその身体を抱きしめる。
そっと傷をいたわる様に。
「透明な貴様が血飛沫や埃が飛び散る中を移動して、大気がゆらめいても蝋燭のゆらめきのせいだと思ってしまう。だがその醜悪な臭いと染着いた血の臭いは別だ」
ドラクロアは震える声を絞り言葉を紡ぐ。
「……武器はもうない……はずだったのに……」
「分からないか?」
スッとクリスが傷だらけの手を宙にかざしす。
すると掌に赤い塊が集まり……大理石の床に落ちて広がった。
「それは……いや、まさか……」
「ヘモグロビンの死滅した血液だ」
ヘモグロビンは赤血球の中に多く含まれている“血色素”とも呼ばれている成分だ。
ヘモグロビンは,鉄をふくむ特別の色素(ヘムまたはヘモクロモゲン)とグロビンというタンパク質との複合体である。
「勘違いしていたようだが私の能力は斥力、引力の影響を物質に及ぼす力。ヘモグロビンの死滅した血液なら物質と同じで操れないことはない」
つまりクリスはドラクロアに向かい引き寄せて集めた血液を、ドラクロアに向かって放ったのだ。
それは水圧のレーザーに良く似ていた。
「そう、それの硬度を調節したのが私だったりします」
よろよろと立ち上がった十四が一三を抱き起こしながら微笑む。
一三も血反吐を吐きながら呟いた。
「そンで俺が囮ってわけだ……」
ドラクロアは血走った目を見開き、三人を見つめる。
認められるはずがない。
信じられるはずがない。
そんなことがあるはずがないのだ。
「そんなバカな……いつ……タイミングを合わせたと言うのだ……まさか短時間でそんなこと出来るはずが……」
ドラクロアがそれを絆だと気づくことも、認めることも多分もうない。
「何故だ……クリス。私と同じでお前に人間として受け入れられる場所など……」
「終りだ、孤独な吸血鬼。ここから、私は一三と共に生きていく。もう私は孤独なんかじゃない」
決意と決別。
それはどこか、始まりと終わりに似ていた。
孤独を飲み込むたびに、苦笑いをして大人のふりして生きてきた日々――。
きっと、そんなことに意味なんてなかった。
今はもう一人じゃない――大切な者は掴めるほど側に存在する。
「何故、私は……。あの時……」
遠くを見つめたままドラクロア伯爵が呟いた。
それは死の淵の走馬灯と蜃気楼かもしれない。
何を見ているのかはドラクロア伯爵にしか分からなかった。
ゆっくりと夜が終わり、オレンジの光が開いた壁穴から差し込む。
今、長い夜が終ろうとしていた。
死を迎える伯爵の唇が僅かに動いた。
「嗚呼……なんて眩しい……」
瞳を閉じかけてドラクロアは呟く。
「迎えに来て……くれたのか……エクシード……」
ドラクロア伯爵はゆっくりと瞳を閉じる――。
その死に顔は悪鬼に相応しくない穏やかな――微笑。
それが吸血伯爵ドラクロア・S(セリザワ)・ディープカルネージの最後だった。
終わった――長い夜が、今。
その瞬間、空へ伸びていく光の粒子――。
朝日の中、捕らえられていた魂たちが空へ光となって帰って行く――。
十四はやれやれと呟き、マイルドセヴンを口に咥える。
「終りましたね……兄さん」
「ああ」
よろける一三がそう言った瞬間、
「一三……!!」
バッと、クリスが一三の身体に飛びついた。
それを支えきれず二人は抱き合ったまま転んだような姿になる。
「おいおい」
そう言いながら、フッと一三が微笑む。
傷は負っていて余裕などないはずなのに、いつも通り余裕ぶるのが一三らしいとクリスは思う。
そうやって余裕ぶるならば――少しぐらい甘えてもいいだろう。
「クリス……これから先だが……」
言いかけた一三の唇にクリスの人差し指が触れた。
そう、それは一三がクリスにやったのと同じ仕草だ。
「家族なら、こうやってハグするのは……自然なことだろう?」
既にクリスは選んでいた、これから進む道を……。
共に生きるべき相手を。
またさっきのように一三が止めようとしてもクリスは着いていくだろう。
キュッと一三を抱軋める手に力を込め、そっぽを向くクリス。
キョトンとしていた一三が、そっとクリスの髪をなでる。
「よろしくな、九六三」
「うん……」
相変わらず不器用に照れながらもクリスは答える。
クリスは暖かな温もりの中、もう少しこのままこうして居たいと思った。
大切な物を見つけるのには時間がかかる。
だがそれを大切にしていくのはもっと時間がかかる。
その時間はこの先、十分に在る。
クリスの居場所と大切な人を大事にしていく時間が――。
◇
三年後――。
その部屋の中央柱に飾られた大時計だけが歯車の音を響かせている。
ステンドグラスから漏れる月明かりが、ハングドクロスを讃えるように照らしていた。
赤く血で染まった逆十字は今まで何人の血を吸ってきたのだろうか。
そして流れる葬送曲……はどこかテンポがおかしかった。
「ははははっははははは!!良くキャッスルトランシルヴァニアに来た、人間よ!!我こそは吸血伯爵……」
悪意を持った声が響き渡る。
祭壇の上で、髪をオールバックにまとめた紳士が両手を広げた。
「不死身、無敵、絶倫!! 最強世紀末覇者吸血鬼伯爵!! ギュュュュュュュンタァァァァァァァァァ・ラル!!ギュンター・ラル・ザ・エイムストライク!!」
ギュンターラルは視線の先に立つ者に向かって叫ぶ。
その視線の先にはフードマントを纏った人物がギュンター・ラルを見つめていた。
「怯えるがいいさ!! 泣き叫ぶがいいさ!! この私に跪くがいいさ!!」
マントを纏った人物はフゥーと溜息をつく。
「まさか、知らせを聞いた時は驚いたぞ、ギュンター・ラル。貴様が生きているとはな」
意外にも、その声は高く美しい女性の者だった。
ギュンター・ラルは首をかしげる。
「ンン〜? 何を言っているのだ?」
マントの女性はなおも言葉を続ける。
「しかも犯した罪は、飲食物窃盗、猥褻行為……どこまで落ちぶれれば気が済むのか」
「う、うるさい!! 吸血歯が折れてなければ私だって……!! 私だって生活が大変なのだぞ!!」
痛いところをつかれギュンター・ラルは地団駄を踏んだ。
下級吸血鬼、しかも元人間のギュンター・ラルは三年前に死にかけて歯を折られてから再生することがなかったのだ。当然、部下など出来るはずもなく――。
「ええい!貴様、女だな!! 久しぶりの女、十分に味合わせて貰おう!!」
「退治する気も失せるが……貴様は誰に歯を折られたか思い出してみるか?」
女性がバッとマントをはぎ取った。
「へ?」
その瞬間、ギュンター・ラルは口をあんぐりと開く。
大きく見開いた双眸がヒクヒクと動いた。
「あわわわわわわわわわわわ……」
震える指先が女性を指さす。
そう、それは――ギュンター・ラルをこの生活に追い込んだ張本人だ。
今でもあの日を思い出すと恐怖で眠ることもできない。
「登場に颯爽と名を名乗るのが死村の嗜み、あえて名乗らせて貰おう」
金色の長く美しい髪を靡かせ、女性は微笑を浮かべる。
あれから三年、スラッとした体つきと、ほんの少し、ほんの少しだけ大人になった胸。変わらない勝気な表情。
「孤独に抗う強さを持って私の名を名乗ろう。『制裁の朱線(デッドロード・エンド)』の二つ名と……死村九六三の名を。お前の居場所、散る前に決めておけ」
強さと意思を瞳に秘めて九六三は疾駆する。
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