3.『ドラクロア』


 夢を見ていた。
 それは二年ほど前の記憶――。
 ある異能者との戦いに敗れ、死にかけたクリスを助けたのは一人の男だった。
 介抱されたのはトラシンルヴァニアの古宿で、クリスがまだ排他的な思考を信条としてた頃だ。
 どうしてその男がクリスを助けたのかは分からない。
 変わり者か何かで気まぐれで助けたのか。
 もしく面倒ごとに巻き込まれたがる馬鹿な男なのか。
 怪我がある程度治り動けるようになるまでの数日間、クリスはその男とずっと一緒にいた。
 そのうち、クリスが回復するにつれその男と言葉を交わすようになる。
 最初は確か、エグジスタンシャリスムとエッセンシャスリスム――いわゆる、実在主義と本質主義の話しだったろうか。キルケゴールやマルサルの有神論的な立場をどう思うか、排他的論理和について――大体の人間はこんな話をすればクリスが生意気な小娘だと思い離れて行っただろう。誰かを寄せ付けるつもりなどなかった。一人で十分、そう信じていたし、どうせこの男もすぐに離れていくだろうと思っていた。
 だが、その男は違った。
 一言を一言を受け止め、クリスに言葉を投げ返す。
 その心地よさはクリスが今まで感じたことのない心地よさだった。
 男と話すほどクリスの態度や言葉はゆっくりと柔らかくなったいく。
 好きな映画や音楽、話すことは何でも良かった。男の祖国である日本の話や経済の話し、男が裏事師――殺し屋であることや、体験談、家族の話し――。
 その男と話すことが人と関わることを怖れていたクリスの心を開いていく。
 どこまで話してもその男の事を知りたいという気持ちや、話していたいという気持ちが湧き上がってくるのだ。
 男の言葉は暖かかった――。
 一言一言もぬくもりが砂漠のような心に染込んでくるのだ。
 傷だらけのクリスの額にそっと冷やしたタオルを乗せる度に触れる手が暖かくて。
 自分の為に作ってくれたライスボール――オニギリが懐かしい優しい味で。
 なんでそれが懐かしく感じたのか分からないが。
 だから――ばれないように泣いていた。
 胸がドキドキして苦しくて――でもそれがなんだか幸せで。
 クリスは排他的だった自分の弱さや愚かさを知る。
 そして、それを知った頃には傷が治り、男はクリスの前から去った。
 男から与えられた物の大きさをクリスは別れの涙と共に知ることになる。
 それでも、クリスの中には、またどこかで会える――そんな予感がしていたのだ。
 その男の名は――。
 ……。
 …。
 ゆっくりと瞳を開ける。
 真っ暗。顔の上に何かひんやりとした物が置かれている。
 それが瞳から額までを覆った濡れタオルということはすぐ分かった。
 どうやら自分は大理石の床の上に寝かされているようだ。
「目が覚めたか?」
「!?」
 その声を聞いた瞬間、クリスは飛び起きようとした。
 だが、体は思うように動かない。
 痺れるような感覚がして身体を見ると手足から首までのいたるところに包帯が巻かれていた。
「おいおい、まだ無理するな」
 そんなこと言われても、気持ちを抑えることなどできはしなかった。
 クリスがこの声を忘れるはずがない。
 何度もあの時の言葉をなぞってきた。
 再び、この声を聞くのをずっと待ち望んでいたのだから。
 心臓が柔らかで高らかなメロディを奏でる――。
 音符が弾むように鼓動に合わせて心まで弾むように震えていく。
 クリスは震える手でゆっくりとタオルを取った。
 涙がゆっくりと溢れていく。
 クリスの傍らに座った男はあの頃と何一つ変わらぬ姿で微笑んだ。
「……一三」
「ああ、クリス」
 その言葉だけ十分だった。
 昔のようにそうやって名を望んでくれるだけで――。
「ずっと……。ずっと会いたかった。ずっと……」
 なんてクリスは言えなかった。
 その代わりに小さく呟く。
「今更、こんなところで会うとはな。寂しくでもなったのか?」
 それは精一杯の強がりだった。
 本当は、いつか必ず会えると信じていた。
 海と空が遠く彼方で重なり合うように。
 風と花弁が季節の果てに巡り合うように。
 いつか、必ず会えると。
「久しぶりだな、クリス」
「べ、別に私はお前になど会いたくはなかった」
「そうか、俺は会いたかったけどな」
「ま、真顔でそう言う恥ずかしいことを言うなッ!!」
 一三がたははと笑う。
 あの頃と変わらない笑い方。
 その笑い方は嫌いではない。
「傷は痛むか?ほとんど十四が手当てしてくれたんだが」
「ん、十四もいるのか」
 思わずクリスの眉間に皺がよる。
「ああ。今は様子見と雑魚掃除だ」
 一三に手当てされてた時、何度か会っているから十四の顔も知っている。
 ――真性の変態だ。
 二人でここに来ているということは仕事だろう。
 暗殺一家死村の殺す者は人間とは限らない。
 殺せる者は全て仕事の対象に含まれる、それが死村だ。
「すまない。手当てまで……」
「ああ、気にすンなって」
 クリスは包帯の巻かれた指先を見つめる。
「また見られててしまったな、この手を……」
 包帯の下から現れたのは火傷跡や傷痕のだらけの小さな掌だった。
 幼少のクリスは、育ての叔母から、『女性は好きな男性から手にキスしてもらうと幸せになれる』と聞かされていた。実に少女チックで夢見がちな話だが、まるっきり信じていないわけではないし、憧れていないわけではない。
 昔、一三はこの手が好きだと言ってくれた。
 あの頃より、刻まれた傷が増えたこの手を一三は好きだと言ってくれるだろうか。
「ん……手当て!?」
 ふとした疑問が脳裏をよぎった。
 クリスは恐る恐る包帯を巻かれた自分の身体を見る。
 手首、腕、太もも、腰、胸に巻かれた包帯――。
 気づいてしまったが為に、段々と恥ずかしさが込み上げてきた。
 それが顔をゆっくりと赤く染めていく――。
 いや、年頃の娘で恥ずかしがらない者がいるだろうか。
 つまり――つまりは。
「にゃああああああああああああああああああああ!!!!」
 その叫びは気高さも高圧感もなく、むしろ女の子らしさを含んでいた。
 十四、あの変態がいたら恍惚の笑みを浮かべているだろう。
「おいおい、どうした」
「見たのか!? 貴様、見たのか!? 見たんだな!?」
 一三が少し考え込んだ後、ポンと手を叩いて笑う。
「ああ、裸か」
「真顔で言うな! デリカシー持て!! 変な想像はするな!!!!」
 クリスはぎこちない動作で真っ赤になった顔を抑える。
 一瞬だけ一三になら――などと戯けたことを考えた自分自身が許せない。
 そんな乙女チックな戯言を考えてしまうとは……。
「たは。十四は女の裸になんて興味ねぇから気にすンなって」
「それはそれで問題はあるし、一三だって見たのだろッ!!」
「おいおい。昔は恥ずかしがらなかっただろが」
 全く意にもかいしてない一三が笑う。
「今は違う!!」
 一三がもう一度、ポンと手を叩いた。
「あれか? あれなのか? 段々、お兄ちゃんと風呂に入るのが恥ずかしくなるってあれか?」
「変な例えを出すなッ!!」
 いつも通りたはは、と一三は笑う。
「まぁ、クリスは妹みたいなもんだろ。兄弟なら別に変なことでもねぇさ」
「ぐ……」
 妹と言われても。
 裸を見られても嫌がらないものなのか?
「泣くなって」
「泣いてない!!」
 一三の大きな手がそっとクリスの頭をなでる。
「泣いてないからな!!」
「分かってンよ」
 たったそれだけなのに、それは吸血の快楽など比べ物にならないほど幸福な気持ちだった。
 それは一三が与えてくれるぬくもりのせいかもしれない。
「そうだ……薬飲めるか?」
「ん……飲める」
 やや不機嫌そうにクリスが答える。
「口開けてろ」
「う、うん……」
 言われるまま口を開けると、中に丸い丸薬が入れられる。
 その瞬間、クリスの顔が引きつり、眉間にグッと皺が寄って眉もつりあがった。
 思わず口元を押さえてしまうほど、その味は――。
「苦っ……!!!!」
一瞬、顔を引きつらせすぐに平静を装う。それを見て一三は水筒を差し出す。
「たはは。だろうな」
 クリスは差し出された竹筒に入った水を飲み干す。
 一体何をどうしたらこんな薬が出来るのだろうか。
 涙目で一三を睨む。
「そんな顔するなって」
 クリスの舌先にはまだ何とも言えない苦味が残っていた。
 一体何を原料にしたらこのような味になるのだろうか。
「薬が苦手なのは変わってないな。涙目になってるぜ」
「な、なってない!!」
 クリスは無理矢理、涙を堪え言葉を紡ぐ。
 今更、意地になっても仕方ないのは分かっているが。
 あの頃より強くなった自分を見てもらいたいと言う気持ちがそれを許さなかった。
「一三はなんでここに来たんだ……?」
「それはこっちの台詞だぜ。クリスがまだグレイヴを続けてるとはな……」
 やはり一三はこの仕事を続けてることは快く思ってないらしい。
「って、すまん。好きでやってるわけじゃなかったな……」
 一三は答えながら、タオルを水筒に入っていた水に浸す。
「ううん、気にするな……」
 クリスは首を横に振った。
 一三が心配してくれていることは分かる。
「グレイヴになったことには後悔してないんだ……そのおかげで仇も見つかった」
「仇?」
「ああ。小さい頃、叔母に引き取られて育って、その叔母も襲ってきたDに殺されたのは話したな」
「ああ……まさか」
 一三が言い淀むと、クリスはコクリと頷く。
「襲ってきたDは叔母と相打ちになったが、そのDが死ぬ前に『ドラクロア』と呟いてた。それから何度か私も襲われたし、生前の叔母の話しでは両親も私が物心つく前に襲われて死んでいたらしい」
「……」
「全く普通の人間でグレイヴじゃなかったそうだ。多分、セリザワはDの天敵だから一族皆殺しにしろとか命令していたんだと思う」
「ああ。多分、セリザワ狙いだ。クリスの言う通り、力のある無しに関わらず根絶やしにしろとか命じたンだろうな」
 セリザワの一族は過去において、最もDを殺した一族である。
 それに関しては他の追随を許さぬほど卓越していた。
 分家のほとんどは息絶えたが、本家の血筋と宗主が襲名する『克己(エクシード)』の名はまだ途絶えてない。
「さっきの質問だが一三はなんでここに来たんだ……」
「……」
 一三が面倒そうに髪をかいた。
 裏事には依頼人からの信用上、秘密にすべきこともある。
 それはクリスも十分に分かっていた。
「いや、言いたくなければいいんだ」
「……実を言うとこっちの依頼人がセリザワでな」
「なに……!?」
 無理矢理、上半身を起こそうとして顔を歪ませるクリスを、一三がそっと寝かせた。
「お嬢さんが吸血鬼に噛まれて吸血鬼化を始めてる。セリザワの術者さんたちが仮死状態にして、必死で押さえてるが……ワクチンが必要だ。さっきクリスが飲んだような薬がな」
「さっきのは吸血鬼化を防ぐ薬だったのか……」
「ああ。念の為な。セリザワの血が持った抵抗力は個人差があるからな」
「薬や仮死状態……セリザワはそんなことまでできるのか?」
 クリスもセリザワの抽象的な噂を聞いたことはあった。
 だが、叔母が全てを教える前に亡くなったため、知らないことも多々ある。
「セリザワが怖れられてきたのは何も単に遺伝的な力だけじゃない。何代にも渡る練磨された技術と積み上げられてきた知恵があるからだ。その知恵の中には吸血鬼の毒を中和する薬だってある。まぁ、原料は吸血鬼の脳なンだがな」
「だったらもっと下位レベルの吸血鬼でも……」
「ああ、普通の人間だったらな。だが病弱な依頼主の娘さんでは、吸血鬼の脳に混じった不純物の副作用に耐えられねぇンだ。吸血鬼としての純度……歳月をかけて高めた純度の高い脳が必要だ」
 クリスはふとあることに気づいた。
「一三、脳って……さっきの薬は……」
 大きく見開いたクリスの瞳が一三を見つめる。
「悪い。言ったら飲まないだろ。作戦勝ちって奴だ」
「ずるい……」
「そう言うなって」
 駆け引きのうまさというのだろうか。
 仕方ないのだが気分のいいことではなかった。
「まぁ、それが俺の方の理由だ」
「それでドラクロアを……」
 頷いて、スッと一三が立ち上がった。
「行くのか?私も……」
 一三は振り返らず答える。
「クリス、お前は此処にいろ」
「え?」
「今のお前じゃ足手まといになる」
 足手まとい――。
 一三の厳しい一言が重くクリスの身体にのしかかる。
 足手まといということは分かっていた。
 実際伯爵に手も足も出なかったのだから。
「あ、足手まといなのは分かるが……!!」
「自分でも分かってンはずだぜ。セリザワの血が優れてつってもまだ自分が未熟だと……」
「でも……!!」
「俺はクリスが傷つくのを見たくない」
「でも、二人で戦えば……!!」
「ダメだ」
 一三はそっとクリスにコートをかけた。
 そしてクリスの小さな唇に人差し指で触れる。
「あ……」
 思わずクリスが呟く。
 その途端、まるで熱せられたようにクリスの顔が熱くなってしまう。
「可愛い妹が傷だらけになって喜ぶ兄貴がどこにいるンだ? 痛みも苦しみも全部、俺が受け入れて背負う。それが兄貴の務めってもンだろ」
「一三……」
 一三の人差し指が切なさと共にゆっくりと離れ。
 クリスはキュッと一三のコートを抱きしめた。
 やっと、やっと出会えたのに。
 胸の奥に、眩暈にも似た苦しさが込み上げてくる。
 止められないことは分かった。
 ならば、せめて。
「戻って来い。絶対、絶対、絶対、約束だからな……!!」
 その言葉に背を向けたまま一三は答えた。
「ああ。それから……居場所がなかったら俺の所に来ればいい。名前は……そうだな、死村九六三(クロス)でどうだ」
 キョトンとしていたクリスは吹き出すように笑った。
 ギュッともう一度強くコートを握り……一三を送る。
「……絶対帰って来い」
「ああ。ま、後はお兄ちゃんに任せろ」
 ゆっくりと一三の姿が闇に消えていくのを、クリスはずっと見つめていたのだった。


 ◇

 

 果てしなく続くの深遠への回廊――。
 黒曜石で作られた廊下は、やはりどこか禍々しさが宿っている。
 何人ものグレイヴがここを通り死んで行ったのだろうか。
 行くは自由、戻るは叶わず――。
 黄泉路という言葉が似合っているかもしれない。
 ふと、さきほどから歩き続けていた一三の足がピタリと止まった。
 その瞬間、ゆっくりと黒曜石の壁面が蕩ける。
 それはチョコレートに火をつけるのと似ていた。
 硬い黒曜石がまるで柔らかなマシュマロのようだ。
 それが誰の能力によるものなのか、三は既に知っていた。
「おいおい、随分早いな……十四」
 蕩けた黒曜石の壁の中から現れた十四は一三に向かい微笑む。
「ええ。兄さん。早く兄さんに会いたくて。兄さんの性格だと一人で戦いに行くでしょうからね。特にクリスさんの事となると……」
「……」
 答える必要はない、それはお互いに同じ気持ちだろうから――。
「今夜のヒロインのお身体はどうでした?」
「ああ、俺たち脇役が心配しなくても大丈夫だ」
 十四が僅かに唇を動かし笑った。
「クリスさんは死村に来るんですか? 兄さんはこっちの世界に引き込むのはあんなに嫌がってたのに」
 そう、だから二年前に会った時、クリスの前から姿を消したのだ。
 できればこんなグレイヴなどやめて普通の少女として生きて欲しかった。
「覚えてるか……十四。叔母さんの作ってくれたおにぎりの味を」
「ええ……」
 十四が遠い目で頷く。
 忘れるはずがない。
 大事な家族のことを――。
「優しい人でした……」
「ああ……」
「兄さん、クリスさんにそのことは……?」
 伝えれば枷になる、それは分かりかきったことだった。
 まだクリスは普通の人間として生きることが出来る。
 戻ることができる、伝える必要はないことだ。
 スッと、一三が黒曜石の扉に手をかけた。
 重々しい音の後、扉がゆっくりと開く。
 飛び込んでくるステンドグラスの輝き。
 祭壇前の棺から漂う邪気。
 鳴り響くパイプオルガンのメロディ――。
 重く暗く心を蝕むメロディ、哲学者にして音楽家エソント作曲の葬送曲だ。
 二人が踏み込んだ瞬間、シャンデリアに虚ろな輝きが宿る。
 その瞬間。
 その瞬間だった。
 背後から。
 余りにも唐突に。
 何が起こったかも分からずに。
 一三の体が大理石の床に沈む。
 十四の瞳に映ったのは――背に両刃の大剣が刺さった兄だった。
 血が勢いよく体から弧をかくように吹き出すと、やっと十四は声を発する。
「兄さ……」
 無意識と意識の狭間――十四の意識は一瞬だけそこに遊離していた。
それはあってはならないことであり、致命傷と何等変わらない。
 腕、闇から伸びた腕、それが十四の顔をつかんだ。
「わざわざ出迎えたんだ。挨拶ぐらいしたらどうだね? 下等生物達よ」
 グシャリという肉を砕く音。
 まるでトマトを潰すようなメロディ。
 十四の顔が大理石の床に叩きつけられた音だ。
「申し遅れたな、私の名は……ふむ、聞いてないか」
 顎鬚を携えた初老の紳士は笑った。
 十四の頭を踏みにじりながら。
「いやはや。まったく。さすがに圧倒的すぎたかな、人間達よ」
 圧倒的なエグジスタンス。
 全てを塗りつぶす暗黒の波動。
 強者は強者を知る。
 それは野生動物の本能である住み分けと同じく自然なことだ。
「よう、クズ野郎。随分な御挨拶じゃねぇか」
 荒い息で一三が立ち上がった。
 背から流れる血は赤い水たまりを作っている。
 傷は決して浅くはない。
「クズ? この私がかね」
 伯爵が指を鳴らす。
 その瞬間、一三の脇を何かが通り抜けた。
 疾駆する銀の輝きが――。
 背後から風を切り飛来した両刃の大剣が十四の背を貫く。
「……!!」
 背から勢いよく噴出す血肉。
 十四の体が僅かにピクリと動く。
 深々と背を貫き心臓を貫いていた。
 一三はグッと拳を握ると歯を食いしばる。途切れてしまいそうな世界をつなぎとめた。壊れてしまいそうな何かを押さえ込んだ。
 一声もたてることなく、一片の隙もない。
 それが十四と一三の差だった。
「冷静だ。いいぞ」
「いや、冷静じゃねぇ。てめぇをどう殺すかしか考えてねぇよ」
 静かな押し殺すような声――。
 確実に弟の為に殺す、その気持ちだけが全てだ。
 その後に泣けばいい。泣き続ければいい。悲しむだろう、狂ってしまうほどに。
 だが、今は殺す――。全てはその後、狂うならその後だ。弟を、家族を殺した者は何があろうと殺さねばならない。絶対に。例え自分の命が消えようとも。
 初老の紳士は一三から流れ出る憎悪と殺気が心地いいのか、大口を開けて笑った。
「君は良いゲームプレイヤーになれただろうに……。クリスの為か? それだけの為にこのドラクロアに挑んだのか?」
「それだけ?」
 ゆっくりと指で銃の真似をするとドラクロアに向けた。
 一三は言葉と仕草をかわすことで冷静を失うのをなんとか抑えこむ。
「ガキが泣くのは好きじゃねぇ。それで十分だったさ。だがな、理由が増えちまった。てめぇを殺した後、その魂すら殺してやる」
触れれば切裂かれるような殺気を放ち一三はドラクロアを見据える。
「いやはや、まったく。それが最後の言葉か。いいだろう。この伯爵ドラクロアの手にかかって死ねるのだ、幸福だろう。君の価値のないエグジスタンスにも価値があるというものだろう」
「てめぇは俺の家族を二人殺した……」
 よろめきながら一三が重心を落とし構えた。
 指先が殺意にかられわななく。一撃で殺す為、それを押さえ力に変える。
「一人は俺の大事な弟……」
「ああ、このゴミか」
 一三の指の骨が鳴った。
 ――やはり決して冷静ではないと自ら感じた。抑えている怒り、悲しみ絶望があふれ出しそうだった。
 ただ、確実に殺すことだけが意識をギリギリのラインに保っている。
「もう一人は死村を捨て、普通の人間として生きようとした俺の叔母、死村六九七……六九七・セリザワ・ロックナイヴスだ。てめぇのレールはどこにも続かねぇ」
 伯爵の笑い声がパイプオルガンのメロディをかき消すほど大きく響いた。
「セリザワ……嗚呼、セリザワか」
 まるで堪えきれないというように。
 伯爵は歯茎をむき出しにする。
「いやはや。なんだ、君の家族はゴミばかりかね。ああ、だから先ほどから臭くてかなわんのか。ヴァハ、ハハハハハハハハッハッハッハハハハハハ!!!!」
 刹那、一三の姿が消えた。
 ゆっくりと、伯爵の目玉だけが動き、自分の胸元を見る。
 瞬きよりも早く、蝋燭のゆらめきよりも静かに。
 伯爵の胸を掌が貫いていた。
「何億回でも途切れたレールから落ち続けろ」
 荒い呼吸で憤怒の形相を浮かべた一三が伯爵の耳元で囁く。
 全ての憎しみと殺意を込めた最大の一撃――のはずだった。
 血に塗れた口元がニタリと歪んだ。
「……いやはや、この程度かね?」
 冷たい汗が一三の頬を伝う。
 ――どんな生物だろうと心臓を破壊されれば死ぬ。
 一三の殺戮式は確実に伯爵の心臓を破壊していた。
「少しは楽しめると思ったが……クズはクズか。ヴァハハハハハッハッハッハハハハハハ!!!!」
 ゆっくりと開きっぱなしだったドアが閉じられる。
 肉を裂く音。
 僅かなうめき声。
 それも消えて。
 暗黒の残響音と葬送曲が、いつまでも鳴り響いていた――。


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