2.『ザベル・ザ・ストロングシャウト』


 ギュンター・ラルと戦闘する前――城内に侵入した際、クリスを出迎えたのは伯爵だった。
 あの瞬間を思い出すとまた華奢な身体がまた震えてしまう。
 これは遊戯だ。退屈と永遠の生を持て余した怪物が仕組んだおぞましいデスゲームなのだ。
 クリスとて戸惑いや恐怖感がないわけではない。
 だが戦うべき理由があれば進むしかないとクリスは知っていた。
 だが戦うべき理由がなければ存在する居場所はないとクリスは知っていた。
 格子窓の先を進み、今は下水のような水気のある場所を進んでいく。
 淀んだ空気と溝水の臭い――それが奴等に似ていて気分が悪くなる。
 それは酸性の腐植層土壌の下に溜まった層の臭いに良く似ているとクリスは感じた。
 どこにいてもクリスにはこの臭気がつきまとう。
 ずっと、ずっと――。
 死臭。血肉の香り、獣の匂い、悪意の持って人を惑わすフレグランス――それらは体にこびりつき落ちることはない。
 ずっと、ずっと――。
 クリスは歩きながら、ここに来ることになった理由を思い返す――。
 ……。
 …。
 トランシルヴァニアの町はルーマニアの首都ブカレストから北西約300キロメートルに位置した。
 レンガ造りの建物やチャペルなどが連なる美しい町並みは古い歴史を持っている。
 1191年にドイツ人が移住し、小高い丘を作ったことからこの町は始まった。そして15〜16世紀には、16のギルド(職業別組合)が存在し、城塞都市して大きな興隆を見せる。その中で最も重宝されたのが16番目のギルド、グレイヴギルドだった。
 狩人――グレイヴは余程の実力者でなければ家族や居場所を持たない者が多い。
 いや、持てないと言ったほうがいい。
 殺し屋などの裏事師と違い市民から必要とされることがあっても、始末屋や裏事師同様、日陰の存在でしかないグレイヴは社会的に認められていないのだ。
 そういう者にとって、依頼人などと交渉してくれる仲介人は重宝する存在だった。
「……で?」
 仲介屋の男は格子窓の向こうで調書を取りながら、路上の受付口に立つクリスに尋ねた。
 尖塔や教会などの立ち並ぶ通りの一角――。
 そのやや裏路地に位置する煉瓦作りの簡素な建物。
 そこはトランシルヴァニアの一角にあるグレイヴ専門の仲介屋である。
 クリスは市長から受けた仕事を終えて報告に来たのだ。
 今回の仕事はクリスにとって特別な物だった。
「ああ。村外れの廃屋にひそんでいたのを……追い回して抹殺した」
 クリスが殺したD――グールの牙を格子窓の前にそっとおいた。
「屋敷から発見された農民は六名、うち三名は既に死亡、二名はスレイヴとなっていたので処理、残る一名は現在、教会で治療中だ」
 仲介屋の男は牙を受け取ると銀のピンセットでつまんだ。
 それをシゲシゲト眺めると数回頷く。
「確認した」
 そう言うとスッと、格子窓の隙間から金の入った袋を置いた。
 この金でロマンスシネマを見るのもいいし、音楽を聴くのもいい。
 たまには女の子らしい服を着るのもいいかもしれない。
 だが、それ以上に――今回は欲しいものがある。
「例の件だが……」
 クリスが話を切り出すと、仲介屋は溜息をついた。
「金だ。これをもって街から出て行ってくれ」
「え?」
「この街に住みたいそうだが……許可は無理だそうだ。他の街へ行ってくれ」
 クリスの細い手が男の服をつかんだ。
 今回の仕事の報酬――。
 それはクリスがこのトランシルヴァニアの街に市民権を得ることだったのだ。
「約束と違う!!」
「触るな。と、とにかく六人中、五人も殺しておいて何が約束だ」
 痛い所をつかれた。
 そう言われクリスは言葉に詰まるしかない。
 報酬が大きくなればそれだけリスキーになるのは当然のことであり、そのリスクを減らしてこそプロなのだ。
「英雄の末裔らしいから期待していたのに。出てけ、人を呼ぶぞ!!」
 最初からそういうつもりだったことは簡単に分かった。
 そう、グレイヴなどこの街に住ませるつもりはないのだ。それはそうだ、グレイヴなどただの都合のいい汚れ取りなのだから。靴を磨いて真っ黒になった靴磨き紙は捨てられるだけだった。
 怒りよりも先に浮んだのは深い絶望感と孤独だった。
 クリスは闇に浮ぶ蒼い月を背負ってレンガ造りの街中を歩く。ふと見れば周囲の家々からは楽しそうな笑い声が響き、優しい明かりが灯っていた。
 優しい灯かりが灯る場所、そこにクリスの居場所はない。
 トランシルヴァニアの町外れ――桟橋下の闇の中、そこがクリスの居場所だった。
 そこでクリスはいつも通り老浮浪者の四人兄弟と焚火を囲む。
 街に住むことを許されないクリスはいつの間にかこの輪の中に溶け込んでいた。
 川で取った魚を焼きながら、クリスが今日のことを話すと、
「何? 市民権貰えなかったって?」
「ホホ、そりゃあ、お前さんが怖いからさね」
 事の顛末を聞いた浮浪者の一人が笑い声を響かせる。
 この浮浪者達の兄弟は皆そろいのゴーグルと皮の帽子、ボロボロの外套を纏っていた。
 兄弟、それが少し羨ましいと時々思う。クリスは誰とも心を許しあえていないないから。
「怖い? 私がか?」
 クリスが口の端を尖らせる。
 クリスにしては珍しい子供っぽい表情。
 それを見て他の老人達もつられて大笑いしてしまう。
「だから難癖つけて住ませないのよね。そんなもんなのよね。別にいいのね、街で暮らさなくても。一人は悪くないのね」
「ホホ、そうそう。若いうちはそんなもんさなぁ」
 浮浪者達はクリスから貰ったライスボールを食べながら頷く。
「爺さん達は私を怖がってないじゃないか……」
 クリスの言葉に再び老人達が大笑いする。
「わし達はこの歳だ。どうせ死ぬだけさね。怖いもんなんてない。ほれ、お前さんはこうしてライスボール……オジギーリだったか、よくワシ達にくれるしな」
「日本の重要国産品、オニギリだ。これが作れなければ国民と認められないらしい」
 クリスはそう言いながら小さな口でオニギリに食いつく。
 中身は日本のスローフードであるおかか――を香草で真似た物。クリスのお気に入りだ。
「お嬢ちゃんの気持ちは分からんでもないが、街の者にしてみればそう化物と大差はないさなぁ」
 その言葉を聞いた時、クリスはキュッと自分のマントの胸元を握った。
 それは分かっているが、とても辛いことだ。
 クリスがいくら誰かの為に戦っても感謝されることはない。
 受け入れてもらうことも居場所もない。それはあまりにも辛すぎる。
「もちろん、お嬢ちゃんはいい娘なのよね。でも街の人たちはそんなこと知らないのね」
「グレイヴが薄気味悪いと思われてるのが問題じゃよ」
 うんうんと老人達は頷く。
「そうそう。イメージアップするのよね。ドデカイことして他と違うと思わせるのよね」
「ホホ、吸血鬼伯爵でも退治してみるか?」
「そりゃいい。トランシルヴァニア城の吸血伯爵ドラクロアでも退治するかね」
 クリスが小さな声で『ドラクロア』という名前をなぞる。
 老人達は驚くクリスを見て知らないと思ったのか笑い出す。
「何じゃ、知らんのか? 前にこの辺にいたお前さんの同業者が詳しく調べ取ったぞ」
「お嬢ちゃんは若いし同業者の知り合いは少なそうだしなぁ……まぁ、冗談さね。お前さんみたいなのがそんなとこ行ったら何されるか……」
 老人がそう言った時、既にクリスの覚悟は決まっていた。
 ――クリスがトランシルヴァニア城に向かったのはその夜から数日後だった。
 ……。
 …。
 クリスはそっと首筋に触れてみる。
 まだ、痛みはひいてはいなかった。
 先ほど吸血されたこともあるが、体力の消耗が激しい。
 場内に進入した時に伯爵と遭遇し吸血され、次はギュンター・ラル――。
 傷はそれほど深くはないが、どこかで休まなければ到底、伯爵の元に辿り着くことなどできないだろう。
 撤退などない。敗北などない。戦わなければ居場所など、どこにもない――それは身を持って知っている。
 この戦いで生き残り、そして――居場所を手に入れてみせる。
 ふいに、クリスの足が止まった。
 歩き続けた先、そこは行き止まりだった。
 戻ることも考えたが無駄な体力を使う気にはなれない。
 手探りで壁を調べると――眼前に僅かな光が見えた。
 そっと行き止まりの壁を押してみる。
 この光が、もしかしたら――そんな予感が確実な物に変わった。
 重々しい音と共に光が広がっていく。
 ――やはり、抜け道だ。
 ナイフを構え、警戒しながら通路の外に出る。
「暖炉か……」
 クリスが這いずり出てきた場所は煉瓦作りの暖炉だった。
 どうやら先ほどの道はこの暖炉に繋がっていたようだ。
 広々とした空間とブロンズ像や美術品の数々――敵の姿はなく、気配もない。静かな空間だった。
『エクシード』と記された美しい女性の絵画や彫刻。ドラクロア伯爵の関係者だろうかなどと考えたが意味のないことだった。
「フゥ……」
 クリスは小さく呟くと赤茶色の壁に持たれかかる。
 コートのポケットから塗り薬を取り出す。
 ポーションと呼ばれている白魔術がエンチャントされている聖水だ。対象者の魔力や魔法耐性によって効果が変わるが、傷の再生を早めてくれる。それをそっと指先ですくって首筋に塗った。
「ッ!!」
 熱く焼けるような感覚。先ほどの快楽など一片もない。
 やはり、一瞬の快楽なんて――幻と同じなのだろう。
 そっと傷口をなぞるとまだ痛む。もしかしたらここで死ぬかもしれない。『あいつ』とこのまま会えずに。
 孤独に――。
「一人は……もう嫌だ」
 うつむき小さく言葉を漏らす。
 こんな職業、何度もやめようと思った。だがやめてしまったら何も残らないのがもっと嫌だった。『あいつ』は今の自分を見て何と言うだろうか。強くなった、と言ってくれるだろうか。
 クリスはそんなことを考える。
 ――その時だった。
 軋むような音が部屋中に響き。
 クリスの頭上、天井が大音響と共に破砕したのは。
 音を立て堰を切るように崩れた木片。
 降り注ぐ木片の土石流。
 気づくと同時だった。
 気づくと同時にクリスの細い体がとっさに床の上を転がる。
 感覚が体を咄嗟に動かしたのだ。
 クリスが避けた瞬間。
 流れ込んでくる木片が破砕音と共に床に叩きつけられる。
 それはまるで木片の雪崩だった。
 あのままその場にいたら華奢なクリスは押しつぶされていただろう。
 積み上げられた木材の山と部屋中に充満し立ち込める埃。
 黴臭い匂いと共にそれが揺らめく中。
 ゆっくりとシルエットが浮かび上がる。
 隆起した骨格と真紅の双眸、孕んだ邪気、異形の姿。
 クリスは体の重心を落としシェフイールドナイフを構える。
「ウォウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!」
 空間を一閃するような獣の咆哮。
 クリスの瞳が、意識が、埃の中から突進する血まみれの獣を認識する。
 刹那だった。
 その瞬間、衝撃と共に体が壁に叩きつけられる。
 クリスの瞳に飛び散る血反吐が妙にゆっくりと見えた。
 一瞬のブラックアウト。
 消えた意識が戻った瞬間、何が起こったか理解する。
 単純な話、突進を避けるのが間に合わなかったのだ。
 息がつまり『カハ……』という、かすれた音が喉から漏れた。
 血が喉の奥に引っかかっている。
 ねばついた感覚――。
 先ほどから痛烈な痛みがクリスの体を駆け巡っていた。
 背骨からそのまま全身が砕けて散ってしまいそうだった。
「アオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 再び響く獣の声。
 血を涎を撒き散らし、雄叫びに全身を震わせる血まみれの人狼。
 腰には中世の腰布であるロインクロス……。伯爵の僕だろうか。
 どうする、どう対処する、感覚が麻痺してる、どう体制を立て直す、あいつならどうする、ダメージが大きい、どうしてあの人狼は怪我をしてる、あいつは――渦巻く思考の中、確実なのは一つ。
 ――思うように痛む体が動かないことだ。
 絶対絶命。
 あの牙が、あの爪が肉を裂き食らうというのに。
 こんな時になぜ――あいつのことを思ったのだろう。
 くたびれたスーツとくしゃっとした髪、鋭さに余裕を隠した表情。
 なぜ、あいつの姿が眼前に浮んでしまうのだろう。
 あいつの姿が。
「よぉ。俺から逃げてどこ行くってンだい? ザベル・ザ・ストロングシャウト」
 狼に向かってあいつが問いかける。
 あいつの幻が。
「ぐぅぅぅぅぅぅ……」
 挑発を受けた人狼がたじろいだ。
 クリスの視界がひどく揺らぐ中、あいつはスッと開いた右手を人狼に向ける。
「……お前のレール、今、ここで途切れンぜ」
 その言葉の瞬間、人狼とあいつが――死村一三が疾駆する。
 ――速いッ!!
 距離など関係なく一瞬で互いの間合いに踏み込む。
 そのスピードはまるで閃光だった。
 一三の拳が人狼の水月――鳩尾にめり込み、人狼の爪は一三の頬を掠めていた。
 赤黒い血反吐をぶちまいた瞬間、人狼が退く。
 ――逃げるためではない。
 その体毛に覆われた巨躯が床を駆け上り壁を奔った。
 室内を疾駆する獣の体躯。
 絵画、ブロンズ像の欠片が、風と共に部屋中に飛び散る。
 破壊音とそれが宙を舞い落ちる音、獣の疾駆する音が混ざり合う。
 天井まで縦横無尽に、駆け上がった人狼がその鋭い爪で一三を。
「ちっと、遅えな」
 クリスは何事もなかったかのように人狼の隣に並んだ一三を見た。
 知っている。
 その動きが無音の高速移動術『闇歩』と呼ばれる物だと。
 そして、その右手が次に繰り出す技と一三の言葉を。
「護るべき主君がありながら逃げた――その時点で終わりだぜ、ザベル・ザ・ストロングシャウト」
 一三の右手が軋む音を奏でる。
「……識りな、殺戮式を」
 シリナ、サツリクシキヲ。
 右手の掌が人狼の顔面に打ち込まれた瞬間、粉骨のフォルティッシモが響いた。
 殺戮式……それは初代創始者である沙羅双樹(さらふたき)が生み出した壱から壱百までの殺し方であり殺戮式は、勁孔と呼ばれる気門や骨を、勁を込めた掌により内部破壊する。
 その威力は武二非ズ、技二非ズ、術二非ズ、是タダ殺戮也と詠わるほどだ。
まさにその詠どおりだった。人狼の体毛と顔の筋繊維が。白と赤が。眼球と神経細胞が。歯茎が破壊され四散した。
 肉片がボトボト床に音をたてて落ちていく。
 大理石の床に向かって二人が落下する最中、人狼の体が弾け飛び血飛沫をあげていた。
 破壊、殺すための方法――故に殺戮式。
 もはや、それは技でも武術でもない。
 そういう領域は既に超えた所に存在する。
 ストッという軽い音と共に、一三が血肉まみれの床に降り立ち、血に塗れたコートが月明かりに照らされる。
 その様は、人ではなく死を告げる黒衣の神のようだった。
「よう……久しぶりだな、クリス」
 微笑み手を差し出す一三。
 それは幻などではない。
 それは黒衣の神などではない。
 それは優しい夢などではない。
 確かな存在感をもってそこに。
 死村一三はそこにいた。
「一三……」
 一三に向けて手を差し出し――。
 クリスは意識を失ったのだった――。


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