『クリス・エグジスタンス』

1.『フラッピープラナリア』


「さてと、仕事の時間だぜ?」
 漆黒の中――。
「ええ、兄さん。それにしても実に素敵な夜だと思いませんか? 僕と兄さんを結ぶエグジスタンスが……嗚呼、なんて運命的な夜」
「エグジスタンス、存在感か――。お前と存在までつながってると思うと寒気がするな」
 静かに響く声――。
「素直じゃないですね、こんな夜に敬愛する兄さんとデートできるなんて……」
 蒼い月に照らされた二つの影――。
「お前、仕事する気ないだろ?」
「フフ、九割本気の冗談ですよ、兄さん。どうやら僕たちを歓迎してくれてるようですよ」
「呼ばれて来たわけでもねぇのに律儀なこったな」
 二つの影は闇の中に浮かび上がるそれに視線を移す。
 蛍火、儚く――、蒼月、淡く――、星宙、煌き――、混ざり合った光が、その荘厳なるシルエットを照らし出す。
 その美しくも妖艶に、闇の中に聳える姿を。幻想的な美の中に禍々しさを宿した古城――キャッスル・トランシルヴァニア。
 二人の視線の先、月明かりを背に漆黒で縫い繕われた外套がはためいた。
 吹きすさぶ風が儚く啼く中、忍び笑いが辺りに木霊する。
 それは美しくも凛々しい――幻惑的で官能的な甘い声。
 だが、だが、その声は――聞く物の心の底を鷲づかみにし蹂躙する魔力を持っていた。高まる声は終わりなき暗黒の中をどこまでも響きわたる――。
「随分と楽しそうじゃねぇか。時代遅れの吸血伯爵」
 ――古城の煉瓦門のもたれていた男が両手を合わせ拳を鳴らすと、そのネクタイがフッと夜風になびいた。
 月明かりに照らされた黒いスーツ、メタルフレームの眼鏡のクールなデザイン。それらが男の整った顔つきをより鋭く見せている。シャープでありながらも二枚目半に見えるのは、ややクシャッとした黒髪としわだらけのブラックトレンチコートのせいだろう。
「主役さんの登場ですね、兄さん」
 ――門の上で黒い薔薇を手にした男が、長い黒髪を風に遊ばせばながら微笑む。
 質感のあるシルバーのスーツは、インナーに黒いシャツを着ることで落ち着いた印象を与え、男の知的な魅力を引き出していた。
 この落ち着いた柔らかな物腰はこの男本来の物であり、その甘いマスクや憂いを帯びた瞳、美形と言ってもなんら遜色のない顔立ちは見るものの心を奪う魔力を秘めている。
「ま、俺たちはパーティの脇役だからな。盛り上げてやるだけさ」
「フフ。では主役の伯爵には私たちと一緒にブラッディーマリーでも存分に味わって頂きましょうか」
「……俺はパスな」
「兄さんはお酒も煙草もダメでしたね。人生の半分を損していますが、そこが兄さんのかわいいところなんですよね」
「……うるさい」
 ゆっくりと二人の眼前の地面が隆起した。
 まるで殻から生まれ出る胎動のように――それは大地を破る。
 突き出した腐った無数の手が地面から這い出した。
 二人の鼻先をかすめるその匂いは、ポドゾルと呼ばれる腐葉土と似ているが、濃厚な死の香りを含んでいる。
「まさか、お前と吸血鬼狩りするとはな、十四(じゅうし)」
「ええ、私こそ一緒に仕事するとは思いませんでしたよ」
 十四と呼ばれた男は胸元から小さな鉛の塊を取り出す。
 その鉛の塊は掌でどんどん形が変わり――黒光りするフォルムに変貌していく。紙粘土のように、それは十四のしなやかな指先で形を変えていく。
「しかし、兄さんと一緒に殺しが出来るなんて私は『暗殺一家死村(しむら)』始まって以来の幸福者ですね、一三兄さん……いや、むしろ一三兄様」
「……その呼び方はやめろ。鳥肌がたつ」
 露骨に嫌な顔を浮かべて一三(かずみ)はコートの上から自分の身体をさする。可愛い弟や、妹に言われるのはいいが双子の十四に言われるのは耐えられない。
「フフフ、兄さんにゾクゾクして貰いたくて私は言ってるのですよ……」
 いつの間にか、十四の掌にはモダン、コンバット、オート、ピストルの中でトップの性能を誇るSIG−P226が握られていた。それが先ほどの鉄くずだと、一体誰が考えつくだろうか。
「……先に行くぜ」
 一三が溜息の後、はいでる屍骸の群れを見つめた。
「ええ、その前にいつものあれをやりませんか?」
 いつものあれ――。
 そう言われ一三は面倒そうに髪をかく。
「おいおい。今夜は脇役って言っといてかよ」
「はい。脇役だろうが何だろうが、登場に格好つけるのは暗殺一家である死村の嗜みですよ」
 地面から這い出した腐った死体達――リビングデッドが一勢に動き出す。
 眼前に立つ二人の生き肉を食らうために。
「では高らかに誇りを持って私の名を名乗りましょう。『黒き眠りへ誘う者(マインスリーパー)』の二つ名と……死村十四の名を。せめて儚く散りなさい」
 ――スッと死村十四は銃を醜悪なリビングデッド達に向ける。
「ま、信念と忠義を持って俺の名を名乗るとするか。『死村第六位・甚六(ジンム)』の二つ名と……死村一三の名をな。お前等のレール、今、ここで途切れンぜ」
 ――スッと死村一三は開いた右手をリビグンデッド達に向ける。


 ――十四、一三、二人のシルエットが闇の中を疾駆した。


『ゲームをしようか……クリス』
 頭の中にまで響く忌々しい言葉……。
『私の元へ辿り着きたまえ、クリス。さぁ、君の首筋に刻んだ我が牙の後を思い出すがいい……』
 魂にまでこびりつくようなどす黒い気分。
 暗黒のパレットで真っ白なキャンバスに闇を塗りたくるよう感覚。
 それはトランシルヴァニア城の主、吸血伯爵ドラクロア・S・ディープカルネージの声だ。
 マントを纏った少女はゆっくりと瞳を開ける。
 クリスタルのシャンデリアとアンティークの調度品。
 この部屋は、トランシルヴァニア城の来賓広間の一つであり、少女が数十分前から休んでいた場所でもある。
 少女はもたれていた白い大理石の柱から華奢な身体を起き上がらせた。
 まだ少し疲労が身体に残っている。脚の先の筋細胞が震える感じ――。
 眠ったのはほんの数分だが追撃がある以上、長くは休めない。ゲ−ムは既に始まっているのだから。
 小さな深呼吸の後、長い金色の髪をなびかせ歩き出す。
 室内の豪奢なドアを開け外に出ると、そこは石畳の螺旋階段だった。
 少女は靴音を立てず、螺旋階段の石畳を上りだす。
 その動きには足音、外套が擦れる衣擦れの音、乱れる呼吸の音さえない。全くの無音。
 音すら立てず気配に警戒しながら進む様は、まるで夢遊病者(ノクターンビュール)や幽鬼だ。
 夢遊病者や幽鬼――。
 もしかしたら、それは魔夢の城と呼ばれる此処、トランシルヴァニア城には相応しいかもしれない。
 魔夢の城――その呼び名はくだらない流言蜚語でもないし、虚言者の妄言でもない。
 そのことは少女の首筋に刻まれた奇妙な噛み傷や、武具を手にしたまま転がった白骨死体が教えてくれている。
 螺旋階段で朽ちた亡骸――。
 食い散らかされた白骨死体はこの城に訪れた少女の同業者の者だろう。
 耳元まで届く、屍骸から発せられる憎悪と悲嘆の声。魂はこの城に囚われたまま永劫の罪囚と成り果てる。
 闘いの果ての死。それは魔を狩る者が抱えた定めでもある。
 そして、この少女もまた魔を土に帰す者――グレイヴであり、戦いの果ては覚悟できていた。
 格子窓から漏れる月明かりが少女の美しい金色の髪を照らす。
 あどけない蒼の瞳は、澄んだ湖面のように限りなく透き通っている。
 幼さを残した顔つきは十代前半の少女が大人の女性に変わる――その狭間でみることができる美しさだった。
 細い薄絹の手袋をした指先が白く滑らかで美しい肌に触れた――。
 その首筋に穿たれた二点の痕を。
 それは深々と柔肉を裂き悪魔の牙が刻印を刻んだ証である。
「傷が気になるのかい? 吸血鬼狩りのクリス。伯爵様の牙は太くて立派だっただろう?」
 不意に響く突然の声。
 自動車のノーズアップダウンのように少女の体が急停止した。
 その声にクリスと呼ばれた少女は咄嗟に振り返る。
 ――誰もいない。
 ただ通ってきた螺旋階段が続いてるばかりだった。
 いない、違う。
 視覚による意識認識だけではなく全ての感覚を研ぎ澄まし、在ることを感じなければ何も見えることなどない。
「この城に入った時、伯爵様に噛まれた傷痕だね。でも君は伯爵様の牙では物足りなかった……そうだろう、クリス」
 クリスの首元で囁かれる言葉。
 ――感じる。
 しかし体を捻り、振り返るがやはりそこに姿はない。
「見ていたのか、覗きとは品がない奴だ」
 小さな溜息の後、クリスは闇に向かって呟く。
「それともレディに話しかける自信がなかったのか、化物」
「チークタイムを待っていたのさ。僕の牙だって太く固く……クリスを十分に満足させることができるんだよ?」
 闇の中、甘美なる声だけが虚ろな空間に響き渡る。
「柔らかな君の肌……まるでフーラードの薄絹だね。今夜のパーティの姫君よ。僕はずっと、嗚呼、この城に入った瞬間から、そう、君を気にいってたんだ。君が伯爵様の物にならなくて心から安堵しているよ……」
「……出て来い。時代遅れの吸血鬼。私が塵に還元してやる」
 クリスは美しい声に似合わぬ口調の後、銀のナイフを構える。
 それはドイツのゾーリンゲンに並ぶ三大産地の一つ、シェフィールドで作られたナイフだ。
 刃は清められた特殊な物であり、吸血鬼やアンデッド等、総称してDと呼ばれる怪物達などには絶大な効果を発揮する代物である。
「無理だよ、クリス。そんなナイフでどうするんだい? 長いグレイヴ達との争いを生き残り、現代まで生き残った上級種族……僕たちDに人間が勝てると思っているのかな?」
「……貴様、甘く見てるな、腐れ吸血鬼。貴様等を滅ぼすロジックは既に確立されている」
「そうかな? 太陽の光? ニンニク? クロス? 聖水? そんな物が御伽噺みたいに聞くと思っているのかい?」
 闇の中から伸びた手がクリスの首筋をつかんだ。
 冷たい、死者の指先――。
「!!」
 クリスが思わず小さく悲鳴をあげた。
 当然のように闇から現れた男はそっとクリスの体を背後から抱きしめる。
 男のオールバックの髪から漂う甘いフレグランス――。
 クリスは手足の力が徐々に抜けていくのを感じた。
 吸血鬼の持っている『魅了』の力だ
「華奢で細い首筋……ここに伯爵様の牙が通ったのが数時間前の事だ。君はか細く弱い声で嫌と言ったね。伯爵様の孤独な御心を理解せずに……」
 数時間前――。
 伯爵抹殺の為トランシルヴァニア城に来たクリスを出迎えたのは――。
 他ならぬ城主、ドラクロア伯爵だった――。
 そのことを思い出すと寒気に似た感覚が身体を走り抜けて行く。
「うう……」
 クリスが小さく呻くと男の手はそっと首筋の刻印を弄ぶ。
 それはまるで薄絹をなでる様な愛撫だった。
「何故、伯爵様が君を僕達ヴァンパイアにしなかったか分かるかい?」
「……弄ぶ為だろう」
「それもあるけど、違うのさ。本当は君が拒んだからだ。君は拒んだんだ、伯爵様の吸血を」
「何が言いたい?」
「拒んだ……だが君はここに来た。それは……僕に、このギュンター・ラル……ギュンター・ラル・ザ・エイムストライクに会う為だろう? クリスは僕の側に居たいのさ」
「ふ、ふざけるな……」
 クリスの背筋を寒気と違うゾクゾクとした物が通り抜ける。
 その感覚――。
 まだ男を知らぬどころか、キスもしたことのないクリスはそれが悦楽だと知ることはなかった。
 朦朧ととした意識である男の姿を思い浮かべる。
 何故、その姿が思い浮かんだか分からない。
 このまま闇に落ちてしまったら『あいつ』にもう届かない気がした。
「私の居場所は貴様の側などでないッ……!!」
 シェフィールドナイフが手から離れた瞬間、風を斬る。
 銀刃がギュンター・ラルの首筋目掛け放たれた。
「くっ!!」
 舌打ちと共にギュンター・ラルは首をひねらせる。
 もし少しでも反応が遅れていればナイフは眉間を貫いていただろう。
 紙一重、首筋を掠めたナイフは螺旋階段に突き刺さった。
「知っているよ、クリス。僕は君のことは何でも知っているんだ。クリスクロス・セリザワ・ロックナイヴス。君の『自分より軽い物体の重さを自由に操る能力』もね。その力が伯爵様に全くつうじなかったのは忘れてないだろう」
 ギュンター・ラルはクリスの細いウナジにキスをした。
「あああああああああああああああああ!!!!」
 ゆっくりと牙がクリスの中に入り、血管に牙を立てる。
 その瞬間、ギュンター・ラルの表情が慈愛と恍惚に満ちた物になった。
 吸血鬼にとって吸血とは最大の陵辱行為でもある反面、愛情表現でもあり、性行為だ。
 牙の刺さった首筋から、クリスの熱い血が溢れ首筋を伝う。
 次にクリスを襲ってきたのは体の中を侵略する官能だった。
 意識が、無意識と意識の狭間に堕ちていく。
 現か幻かぼやけた思考の中、悦楽だけが確かだった。
 血管から血を吸い上げられる度に、そのおぞましい行為が、柔波に素足で触れる心地よさをもたらすのだ。
 血を吸われているというのに、華奢な身体を駆け巡る熱い快楽。
 それはこの吸血鬼がもっとも理解していることだろう。
 ギュンター・ラルがうなじから牙を抜き、真っ赤な歯を見せ微笑む。
「あうう……」
 クリスの弱々しい声――。
「ん? 血が止まった……これが君の持つ『セリザワ』の血か。もっとも多く僕たちDを滅ぼした者の力……素晴らしい!!」
「貴様ッ……!!」
「さぁ、次はどこを噛まれたいんだい、クリス。その白く細い胸元かい? それとも舌かな? 嗚呼、いっそ、君のつぶらな胸を……」
 クリスは赤らんだ顔で小さく呟く。
「――――」
「ん? なんて言ったんだい?」
 ギュンター・ラルが甘い吐息を漏らしながら尋ねる。
 その瞳は吸血の恍惚に酔いうっとりとさえしていた。
「愛の言葉かい? 嗚呼、もっと吸ってくださいと君は心の中で……」
「……落ちろ」
「え?」
 次の瞬間、ギュンター・ラルの口からゴポリと赤黒い呪われた血が溢れた。
「ナッ……!!」
 震える体でギュンター・ラルが呟く。
 ――ウナジから首筋をシェフィールドナイフに貫かれたまま大きく目を見開いて。
 赤黒く染まった銀刃。
 それはさきほど螺旋階段に刺さったナイフだ。
 素早くクリスはギュンター・ラルから手から離れた。
「落ちろと言ったはずだ」
 もがくギュンター・ラルの頬に全体重をかけたクリスの拳がめり込む。
 それはひどくマヌケな表情だった。
 ギュンター・ラルからしてみれば予測などしていなかったのだろう。
 勢いに押され前のめりなった二人は螺旋階段から闇の中へ落ちていく――。
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!! クリスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!」
 ギュンター・ラルの咆哮が城内に轟いた。
 深い闇の中に落ちていく二人の体……。
「クッ!! フラッフィー・プラナリア!!」
 クリスの力ある言葉と、風を切裂く音が鳴った。
 闇の中からギュンター・ラルの首筋を離れたナイフが飛来する。
『綿毛の兆重(フラッフィー・プラナリア)』。
 それがギュンター・ラルの口にしていたクリスの能力である。
 クリスは空中でバランスを取ると、長い足で乗るように飛来したナイフを踏んだ。
 ナイフに重力に引かれた体を支える力などない。それはクリスも分かっている。
 ……トッ、と階段をステップで上がるようにナイフを踏み台にして、細い体が壁際の格子窓につかまった。他の格子窓と違い内部につながる格子窓だ。
「……悪かったな、つぶらな胸で」
 クリスは闇の中を見つめる。
 ギュンター・ラルの姿も声も既に闇の中へ消えていた。
「ギュンター・ラル。私をクリスと呼んでいいのは……あいつだけだ」
 答えはない。
 ただ風だけが闇の中から吹きつけていたのだった。


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