4.『マインスリーパー』
――殺される。
本能的に三六はそれを悟っていた。
それなのに――殺されるというのに、三六は不思議な気持ちだった。
「フ、フフフ……」
「ん?」
少女の振りかざした手が止まる。
「何?」
「ハハハハハ……」
死を前にして三六は尚も笑う。
「貴方は人を殺すことに躊躇ったことはありますか?」
「……ないよ」
「じゃあ、心が痛んだことは?」
「ないけど?だってこの仕事なら当たり前のことだよ」
そう、それがこの世界で当たり前で普通のことだ。
自分より年下であろうこの少女は既にそれを理解している。
「なんだかバカみたいですよね。ボクは普通に生きたかっただけなのに……」
初めて人を殺した時から、それが当たり前になって……。
周囲では人を殺すなと誰もが信じてる。
汝、殺めることなかれ。
教主は教徒に、親は子供に、教師は生徒に、人を殺めることを禁忌として教える。
でも死村は違う。
人を殺すのが死村だと教える。
この世界の正義が大多数の方なら、死村は悪であり異端だ。
「ボク……自分が普通じゃないと思ってたんですよね」
「……」
『普通』というのは一体なんであろうか。物理現象によって起こされる事象には必然的な結果が伴うものが多い。こうしたら『普通こうなるだろう』というように。
一般論というにはあまりも不確実なロジック――。
つまり『普通
』は『普通こうであるべき』という何らかの考えによって定められた不確定な基準である。確か、哲学者エソントの言葉だ。
――要は、決して決められたことが正しいわけではないということだ。
「分かりました、自分が何なのか……」
死を前にして今更、気づいたこと――。
少数の正義が悪だとしてもそれを誰が否定できるのか。
そんな権利は誰にもない。デタラメなロジックに従う必要などない。
少女は躊躇わないこと、痛みを感じないことが当たり前だと言った。
その考えにも従う必要などないのだ。
「ボクは……」
そして、こんな絶対絶命の状況で、圧倒的な強者を目の前にしたこの高揚感……湧き上がってくる力。
それは死村の者として当然のことであり普通のこと。
表にも裏にも従わない、死村の普通。
なんのことはない――三六は骨の髄まで死村だったのだ。
そんな分かりきったことを確認するとは――悩むとは愚の骨頂もいいところだ。
『ジャメ・ビュ』――探してた答えは死村の血が知っていたのだ。
「ボクは死村、死村三六ですっ!! それが貴方を殺す者の名前ですよ!!」
怒りと決意の咆哮が夜空を劈いた。
怒声と共に三六の繰り出した指先が少女の首筋を狙う。
武器なんかない。
ただの爪だ。
だがそれだけで十分だ。
肉を裂き、獲物を仕留めることができるならば。
「ッ!!」
少女は頚動脈スレスレの一撃をなんとかかわす。
それは少女にも予測できなかっただろう。
その証拠に爪がかすめた首筋から血がしたたっていた。
一瞬の隙。
少女の指先が緩んだ瞬間、三六が素早く後退した。
「やるね、三六さん!! それでこそ、あの死村だね!!」
少女は心から楽しむように笑った。
まるで遠足を前にした子供のような表情――。
どうやらこの少女も根っからの戦闘狂いのようだ。
三六は死村家がそれなりに裏事の名門だと知っていたが、そんなに有名だったのだろうか。
「私は殺姫……殺姫初音(さつきはつね)。それが三六さんを殺す者の名前だよ」
初音の指がパキパキと音をたてると大気を振動した。
三六の額から一筋の汗が流れていく。
圧倒的なまでのプレッシャー。
デジャビュの反対であるジャメ・ビュの感覚。
多分、勝てないだろうこと。
三六にはそれが分かっていた、知っていた。
「行くよ、三六さん♪」
少女が地を蹴る。
一瞬で詰まる間合い。
舞い上がったコンクリートの欠片が落ちるよりも早く三六との間合いを詰めた。
勝てない――。
今の三六にできること。
それは見ることだけだった。
視ることだけ――。
拳が風を切り突き出されるのが見えた。
三六は僅かに体を捻る。
いや、それぐらいしか出来なかったという方が正しい。
突き出された拳は風を裂き、三六の頬をかすめた。
――見える。
驚くほど心がクリアーだった。
煌く夜空を流れる星が、頬に触れる風が、今なら全てが見える。
感覚が研ぎ澄まされていく。
殺姫初音の一瞬で接近し、拳と蹴りのコンビネーションで攻める戦闘スタイル――。
確か、中国武術の八卦掌(はっけしょう)の亜流派である八卦連符掌(はっけれんぷしょう)だったろうか?
その連続した動作は反撃の隙を一切与えないと十四から聞いたことがある。
だが連続とは絶え間なく繋がるという意味だ。
最初の連動――コンボが崩れれば次の出までにコンマ数秒、僅かな隙ができる。
対応するには十分だ。
次の攻撃の予備動作に入る瞬間が見える――蹴りだ。
それが来る瞬間、三六の指が初音の首筋を狙う。
「くっ!!」
かわそうとした初音のバランスが崩れる。
刃のような蹴りが空を切裂く。
初音は素早くリズムを取り後退してみせる。
三六は追撃せずただそこに立っていた。
次の攻撃に合わせてカウンターを狙う。
勝てなくてもいい――相打ちできるなら。
――きっと十四や兄たちは三六が殺された時、初音を殺しに行くだろう。
もしかしたらその時に手傷を負うかもしれない。命を落とすことがあるかもしれない。
それが嫌だった。それだけは絶対に。
ここで仕留める、死村としての誇りのために、家族のために。
「ヒュウ!! やるね!!」
人を殺すための存在は、三六に向かって感嘆の口笛を鳴らしてみせる。
最早、凶器と言うよりも狂気に近いだろう。
「じゃあ、三六さんはこれをかわせるかな?」
月明かりが褐色の手を青白く輝かせた。
――あのコンクリートを抉って切裂く必殺の一撃。
それが能力なのか、技なのかは三六には分からない。
「ボクはかわさないですよ。撃ってきてください」
三六の白い人差し指が来い来いとサインを送る。
そう、かわす必要はない。三六が絶命する瞬間、三六の爪が喉元を抉っているはずだから。
「戦士の覚悟だね。行くよ、三六さん」
コンクリートの断片が弾けた。
――来る。
覚悟は決まってる。
三六の双眸は真っ直ぐに初音を見つめていた。
腕が振り上げられるのがバカにゆっくりと見える。
三六は心の中で呟く。
十五――お姉さんらしいことしてあげられなくてごめんね。
宗主様――出来が悪い孫でした。
姉さん、兄さん、皆――。
十四兄さん――最後まで素直になれなかったけど、一度ぐらいお兄ちゃんと呼んでも――。
三六の腕が、喉に向かって伸びる。
初音の手が振り下ろされる。
――刹那。
初音が体を軋ませて後退した。
それはあまりに不自然で急な動きだった。
何が起こったのか、三六にすら分からない。
理解できたのは二人の間のコンクリートに――一輪の黒薔薇が刺さっていたことだ。
「誰ッ!?」
初音が給水タンクに向かって叫ぶ。
――いた。
そこに立っていた。
給水タンクの上で、蒼い月明かりを浴びるしなやかなシルエット――。
その人物は予兆もなければ、前兆もない全くの唐突なタイミングで現れた。
男の黒いコートと長髪がビル風にはためく。
手には月明かりを宿した漆黒の薔薇――。
三六はパクパクとその人物を見つめ口を開閉させた。
死を覚悟したはずなのに――その場にへたり込んでしまう。
「やれやれ……」
男は微笑を浮べ、吹きすさぶ風にその甘い美声を乗せる――。
「死村が何故、この名を堂々と名乗るか……。それは実に単純明快。それは危険を回避するためなのです。この名前は言わば海賊旗、威嚇。裏事に関わる者なら関わりたくはない忌むべき存在でしょうね。しかし、しかしですよ。面白いことにそれは賞金首の手配書でもあるのです。この名が目当てで死村に挑む者を呼び寄せてしまう……まぁ、大概返り討ちなんですけどね」
男の黒薔薇がスッと初音に向けられる。
「それはお嬢さんも同じでしょう、殺姫のお嬢さん。殺姫の宗主……貴方の双子のお姉さんはお元気ですか?」
ビクリと初音の体が反応した。
だがそれよりも――恍惚に酔っていた。
「さっきからグダグダと……。格好つけてないで降りて来なよ」
戦闘時に分泌されるアドレナリンが殺姫を狂わせている。
「登場場面に格好つけるのは死村家男子の嗜みですよ?」
「あー、もういいからさ。早く戦おうよ♪」
ワーカーホリックならぬバトルホリック。
初音の獲物を狙う豹のような瞳がギンギンとぎらついていた。
初音からの禍々しい程の重圧感。
本当に心底、闘いを楽しんでいるのだ。
三六にも『関わる者の身を滅ぼす』というその意味がはっきりと分かった。
「では高らかに誇りを持って私の名を名乗りましょう。『黒き眠りへ誘う者(マインスリーパー)』の二つ名と……死村十四の名を」
男――死村十四が三六の前に颯爽と降り立つ。
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