5.『ファミリー』
「兄さん……」
三六がかすれた弱々しい声でその名を呟くと、十四は屈み込み、三六の頭をそっとなでる。優しく愛しむように。
「三六さん、遅くなってすいませんね」
「兄さん」
暖かくて大きな手――。
今まで兄がここまで頼もしく見えたことはない。
グッと三六は涙をこらえる。
今は泣く時じゃない――今は。
「どうでもいいことですが……二人とも可愛い下着ですね」
なんのことかキョトンとしていた二人だったが――すぐに分かった。
三六と初音の顔が暗闇でも分かるほど赤くなる。
「兄さん、こういう時に……!!」
「ぶ、侮辱するなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
三六が怒鳴るより先にキレタのは初音だった。
大きな瞳には薄っすらと涙を浮かべている。
薄々、三六も気づいていたことだが、この少女は戦士ということと、戦うということに何かしらの誇りを持っているようだ。そう考えれば十四の言葉は最大の恥辱であり、初音の逆鱗を弄び嬲っていた。
「闘いは常に冷静に……熱くなったらそこで終わりですよ?」
初音の振りかぶった右手が十四に迫る。
あの圧倒的な一撃が。
「兄さん、避けて!!」
三六の叫びに十四は指を振る。
「いやいや、避ける必要はないですよ」
唸りをあげる右手……!!
獣の爪牙が風すら薙ぎ、十四の体すらも裂こうとした!!
「兄さん……!!」
三六の悲痛な叫びの後、金属と金属の擦れる音が響く。
「兄さん!!!」
金属音に三六の声が混ざり合う。
エコーする叫びと金属音が消えていく……。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その次に叫んだのは初音だった。
驚愕に目を見開き、呆然と光景を見つめている。
その体は右手を振り下ろし固まったままだった。
「……避ける必要はないんです」
初音の必殺の一撃。
それを止めたのは十四が手にしていた黒い薔薇だった。
「右手に気……中国武術の勁を込めた必殺の一撃……。貴方のお姉さんと同じ技のようですが威力は劣りますね」
十四の振るう黒薔薇が初音の脇腹を易々と切裂く。
流れた鮮血と共に、初音の表情が苦悶に歪んだ。
十四は黒薔薇の花弁に付着した血をピッと振り払う。
「薔薇が……私の右手を受け止める『硬さ』?」
戸惑いながらも、それを振り切るようにもう一撃、右手が放たれる。
烈火のごとく繰り出された右腕。
女の子らしいどこにでもある細腕、だがそれは偽装の為でしかない。
内側の筋肉は限界まで鍛えられている。
普段なら易々と標的の肉を裂いていたことだろう。
息の根をとめていたことだろう。
しかし、一輪の黒薔薇はそれを易々と受け止める。
「まだまだぁ!!」
さらにもう一撃。
右手と薔薇で奏でられる金属と金属がこすれ合うメロディ。
その旋律と二人の闘いは流麗ですらある。
コンクリートの破片が右手が振るわれるたびに弾けて舞い上がる。
その威力はさきほどなんら変わることはない。
だが、力の拮抗でコンクリートが易々と切裂かれるのに対し、黒薔薇の花弁が散ることはなかった。
……三六は知っていたそれが十四の能力だと。
「な、なんで……!?
「お嬢さん、普通とはどういうことだと思いますか?」
「そんなこと……!!」
初音が傷口を押さえ後退する。
三六の目から見ても勝敗は明らかだった。
多分、初音の攻撃は十四には通じないだろう。
初音もそれを悟ってか、表情には敗北感が色濃く浮き上がっていた。
だが、確実にこの少女は死ぬまで戦うだろう。
この後退も撤退のためではなく、仕切り直しのためだと推測される。
なぜならその瞳はまだ死んではいないからだ。
先ほどの三六と同じように死を覚悟している目――誇り高き戦士の瞳だ。
「お嬢さん、それが分からなければ私には勝てないですよ」
スッと――。十四がコートから二枚の紙切れを取り出す。
初音の瞳が食い入るようにそれを凝視した。
「あ……ベルベット・ガーデンのチケット!?」
驚くような声を出した後、初音は慌てて口元を押さえる。
十四はそれを見て微笑む。まるで心を見透かすように。
一瞬、一瞬だが、初音のその表情はまるで――普通のどこにでもいる年頃の少女の物になっていた。
「これで手打ちにしませんか。こちらとしては不可抗力とは言え、殺姫さんのお宅と潰し合いはしたくないのですよ」
十四の手が初音の胸ポケットにチケットを入れた。
ソッと優しく触れるように――憂いを帯びた瞳で微笑みながら。
それが初音の瞳にどう映っただろうか。
「あ……」
初音の小さな呟きと赤らんだ頬。
その顔は十四が離れるまで、ぽややんとして固まったままだった。
「こ、こんな物で騙されたりなんか……だいたいが、普通って意味が……」
初音のゴニョゴニョとした呟き――十四はそれにビッと黒薔薇を向け答える。
「その答えは貴方の小さな胸の中に」
一瞬の間。
「小さいだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
再び、初音に怒気が戻っていく。
消えかけた怒りの蝋燭に焔が灯されたのだ。
三六は二人を見つめながら自分も言われたら怒るだろうなと頷いていた。
「いやいや、かなりマズイですね」
「兄さんが余計なこと言うからですよ!!」
十四は慌てて三六の細い体を肩に乗せる。
「わわわあ。兄さん」
「……逃げますよ、三六さん」
屋上に縁に向かって勢い良く走り出す十四。
ジタバタと暴れて騒ぐ三六を他所に十四の体が夜空に舞った。
風を受けコートが大きく膨らんだ。
三六は必死でスカートを抑えていた。
――落ちていく。
糸が糸巻きに手繰り寄せられるように。
水滴が大地に落ちるように。
恋人同士が惹かれあうように。
二人の体が重力に引かれて――落ちていく。
地面に衝突する瞬間、
「ローズ・アンダー・ガーデン」
三六は十四がそう呟き、地面に手を触れるのを見た。
――知っている。
三六は十四の呟いた言葉の意味を。
ゆっくりと――ゆっくりとだった。
三六を乗せた十四の体が地面に沈んでいくのは。
グニャリと曲がった柔らかなアスファルトはまるでゼリーだ。
体が大きく上下した後、どこまでも沈む感覚を感じる。
そして、その次の瞬間、十四は何事もなかったかのようにアスファルトを踏みしめていた。
「兄さん……」
「なんです?」
「力を使うなら事前に言ってください!!」
「フフ、すいません、三六さん」
錠前を蕩けるほど柔らかくした、その反面に薔薇をコンクリートよりも硬くした十四の力。
それは物質の硬さ柔らかさを調節する力――。
いや、むしろ変質言った方が正しいかもしれない。
硬度の変質――十四はこの能力を『棺の薗(ローズ・アンダー・ガーデン)』と呼んでいる。
スッと三六が十四の肩から下ろされたが、三六は座り込んだまま動かない。
「どうしたんです?早く逃げないとあのお嬢さんが追っかけて来ますよ」
「あのですね兄さん……」
三六は両手の指先をモジモジとさせ、上目遣いに十四を見つめる。
「ボク……腰が抜けて動けないんです」
恥ずかしそうに三六が呟いた瞬間、噴出すように十四が笑う。
口元をおさえ体を震わせる。心底可笑しそうに。
ここまで十四が笑うのはとても珍しいことだった。
三六は『むぅ』と唸ると口の端を尖らせる。
「……笑わないでください。ボクだって怖かったんですからね」
「いやいや、可愛いなぁと思いまして」
スッと十四が背を向け屈む。
「オンブしますからしっかりと掴まっててくださいね。さっさと帰って肉じゃがカレーの残りを食べましょう」
ああ、あの残りがまだあったことを三六は思い出した。
「は、はい……。あの変なとこ触ったら上の兄さん達に言いつけますからね?」
「フフ、そんなことされたら、本気で三日三晩追い回されて、嬲られ弄ばれ羞恥地獄の中で殺されてしまいますね」
「ですよ」
十四は三六を乗せ走り出す。
「三六さん、今回の依頼人の事は御存知じゃないですよね?」
「はい」
「依頼人はターゲットの息子さんと奥さんだそうです」
「え?」
風が少し強く吹きつける。
三六は小さくその言葉を反芻した。
「ターゲットの家庭内暴力に耐えられなくなったそうです。いやいや、理解し難い話しですよ。それに比べれば死村家は普通だと思うんですけどね」
淡々と語りながらも十四が怒っているのは、三六にも分かった。
どんな理由であれ、家族を殺そうと考えるのが許せないのだ。
勿論、家族を傷つけることも。
それでも仕事と割り切るのが十四らしいと言えば十四らしい。
十四が本当に殺したいのはきっとそういう人間なのだと三六は思う。だからこそ、あそこで初音を殺さなかったのではないだろうか。
「あ……。兄さん、腕が……」
ふと気がつけばスーツの肩口が切裂かれ血が滲み出していた。
初音の右腕を受け止めた時に出来た傷だ。
さすがの十四でも無傷では済まなかったらしい。
「今すぐ手当てします!!」
「ああ、気にしないでください。三日もすれば再生すると思いますから」
「で、でも、幾ら死村の治癒力が高いと言っても……」
「フフ。三六さん、可愛い妹を護る為に怪我できて喜ばない兄はいませんよ」
そう言った十四はとても誇らしげな口調だった。
「兄と言うのはですね、三六さん。妹や弟の道を作る為に先に生まれてくるんですよ。その道の先に貴方達を傷つける者がいれば私が護り抜きます……お兄ちゃんですからね」
その言葉に一片の淀みもなければ迷いもない。
強くぬくもりに満ちた言葉。それが三六の胸に染込んでくる。
だからこそ――だからこそ、余計に、三六は弱々しく呟く。
「兄さんはいつもそうです……無茶ばっかりして」
そう、いつも兄弟を護って傷ついて……。
三六が止めた所できっとこれから先も十四は護り続けるだろう。
今までも、これからも十四が兄であることは変わらないのだから。
三六は言葉を紡ぐ代わりに十四の背におでこをうずめる。
大きくて暖かい背中や手の平――。
いつの間にか忘れてた。
子供の頃、十四はこうやって三六をおぶってくれたことがある。
夕焼けの中、背で揺られるのが不思議と心地よかったのを覚えていた。
ジャメ・ビュ――。
兄の温もりや優しさ、こうやっておぶられるのは初めてじゃないのに――。
どこにでもある兄弟の絆。
それはひどく当たり前で……普通のことだ。
「兄さん。ボク、死村で良かったです……」
三六はそっと、風の中で小さく、小さく、想いを紡ぐ。
照れくさい沈黙の時間がそっと二人を昔へ戻してくれる。
もっと素直にこうして寄り添っていたあの頃の二人へと……。
「待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
突然、二人に向かって怒声が響く。
さっきまで聞いていた、その声は――。
「まずいですね……三六さん、スピードを上げますよ。掴まっててくださいね」
どこか楽しむような十四の声。
こんな状況なのに三六も笑っていた。
「はい、お兄……」
三六は言いかけてやめた。
その代わりにギュッと十四の体を抱きしめる。
「はい。兄さん」
二人は月明かりに照らされ走り出したのだった。
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