『我楽多博物館』
トリビュート企画〜マスターベーション〜
作/ノジカ
「カナリアの空」
http://homepage2.nifty.com/canary_sky

マスターベーション



 

【 生き苦しい 】

  生ぬるい温度と湿度の交じり合った朝霧が、陽の灯りを遮るようにして、その家に覆いかぶさっている。
 空からは、朝霧を突き刺して降る細い雨のライン。
 それらがガレージのトタン屋根を浅く打って弾ける、軽やかな音。
 水は屋根に走る幾本かの溝をつたい、収束し、重力に引かれて軒を離れ、砂利石の海へと放たれる。

 相原祐斗は、母屋の縁側に片膝を立てて座り、庭の砂利にガレージから細い滝のようになって落ちる雨の飛礫を眺めている。
 まだ幼さの面影を残した細い顔と、筋肉や骨格のできあがっていない細長い身体つき。歳は十四、十五の辺りだろうか。長い前髪のかかる目は微小な苦々しさを秘めて、しかめられている。
「佳那さん、だったよな。……あんたは、修治兄さんの彼女か何かなのか?」
「……いいえ。彼と私は、ただの同級生よ。……昔の、ね」
 祐斗の背後、開いた障子の奥の座敷に、黒衣のワンピースを着た一人の女性が、祐斗に横を向けるように座っている。透けるような青白い肌が、灯りのついていない薄暗い和室の中にぼう、と浮かび上がっている。
 揺らめくような儚さを霧のようにまとった女性だと、祐斗は家にあがる佳那を見て思った。その小さな声にまで、儚さは含まれているように思えた。知らない顔だったが、その黒衣で、兄の修治の知り合いであることはすぐに分かった。あいにく両親は用事で出ており、家を空ける訳にはいかないので祐斗が留守を任されていた。
「でも、あんたが最初で、たぶん最後だぜ? 修治兄さんの知り合いでうちに来てくれた人は。ここ一ヶ月、坊主と親戚以外は誰も来やしなかった。……あと警察もか」
「たしか、大学に行っていたんだったかしら……?」
「俺と違って出来が良かったからね。有名私立大学に行って、どっかの上場企業にいくつか内定もらって、後は卒論だけ書けば終わり、って感じだったらしい。単位も、三年の途中でほとんど埋まってたんだとさ。優秀な学生だったみたいだよ」
 そこまで言って、祐斗がため息を吐く。やるせなく、呆れ果てたようなため息だった。
「……でも、全部終わりだよ」
 そう言って振り向き、座敷に座る佳那を見る。
 佳那は崩した膝の上に両手を添えて、座敷のテーブルの年輪のような模様に視線を落としていた。
「俺だって親だって、警察に説明できるような理由は、何も思いつきやしない。そもそも、長期休暇の時だってほとんど家に帰ってこないような人だったし、義理の兄ったって、何も知らないも同然だったんだ。少なくとも、俺と母親はね」
「……そう」
 佳那はそれだけ呟き、沈黙する。
 祐斗はしばらく佳那の次の言葉を待っていたが、やがて耐え切れなくなったように乱暴に頭を掻き、先ほどよりも少し大きな声で佳那に問いかけた。
「なあ……あんたは、知っているんじゃないのか? 修治兄さんが、あんなことになった理由を。初対面で失礼かもしれないけど、あんたはどっか修治兄さんと似ている気がするんだ。その……本当になんとなくなんだけどさ」
 佳那は、しばらくの間雨音に耳を澄まし、それからゆっくりと、視線を祐斗に移した。
 その瞳には、感情の揺らぎはまるで見て取れず、波紋一つ無い水面のように、虚無的な光だけが在った。
「……彼は、痛みに耐え切れなかったのね」
 祐斗にではなく、自分の中で納得するように、佳那が呟く。
「痛み?」
「……私と同じ、いるのにいない人間として生き続けることに、彼は耐え切れなかった。そうしている限り、乱暴に心を揺らされたり、不用意に傷つけられたりすることはない。……だけど、その痛みの無さは、自分で自分を傷つけたり、誰かを傷つけながらじゃないと生きていけない、歪な生き方を私や彼に要求する。……ずっと無感覚なままで、人は生きられないもの」
 そう言って、佳那は半袖から伸びた青白い腕を上げ、手首の側を祐斗に向ける。祐斗は息を呑んだ。
 赤く、黒く、残った傷痕。痛みを感じるためだけに作った傷痕のラインが、血管が透けて見えるほど白い手首との対比で、痛々しく浮き上がっていた。
「私以外の人間は全部違う生き物だと思っていたのに、あの頃の私の前に現れた彼は、本当に私とよく似ていたわ。ガラスの向こうの自分自身だと、本気でそう思えたもの」
 そう言って降ろした手首を、もう一方の手で撫でる。
 そしてゆっくりと、視線を伏せる。
「……そして憎みもした」
 底冷えのするような平坦な声で、そう述べる。
 祐斗は息を潜め、沈黙の中から紡ぎ出される佳那の言葉を聞き漏らさないように、身を固くしている。
「私と同じカタチをした人間が、私とは違うやり方で生き延びようとしているのに、それでも、どちらも救われない。相手を見ていると、自分がどうあっても救われないという現実を、見せつけられるようだったわ。お互い、水面に口を出して息をしているだけの毎日だった。私は周りに笑いかけることで、彼は周りに溶け込むことで、世界をやり過ごしていた。……けど、そのどちらも、つきまとう影のような息苦しさから逃れることはできなかった。だから、私達は二人で、意味も無く歪んだことを随分とやった。互いが互いを、無目的に慰めるように。……もちろん、結果は言うまでもないわね」
 重苦しい沈黙の中を、雨が織り成す様々な種類の音が通り過ぎていく。
「……なあ」
「なに?」
「あんたも、修治兄さんみたいに、その……」
 言葉を探して言い淀む祐斗を遮って、佳那は小さな声で、だがはっきりと言い放つ。
「私は、死なないわ……彼に、先を越されてしまったし」
 佳那がそう言って、苦笑いするように一瞬、ふっと微笑む。
 その瞬間の微笑みが、あまりにも巨大な闇夜の広がりを思わせて、祐斗は背を震わせた。自分の範疇の遥か外の次元で彼女は活動しているのだと、この時になって、ようやく祐斗は実感した。

 佳那の帰り際、玄関まで見送りに来た祐斗は、沈黙に押しつぶされそうになりながら、ようやくこれだけを聞いた。
「あんたは、耐え切れなくならないのか? その、息苦しさってやつに」
「……私の場合は、コツがあるのよ。たった一つのことを、やめればいいの」
「それは……」
 ガラスの引き戸を開いた佳那が、薄く微笑む。
「笑わないことよ」
 ゆっくりと引き戸が閉まり、曇りガラスの向こうに彼女の黒衣のシルエットが茫洋と浮かぶ。
 やがて彼女はその前を離れ、影のような輪郭は景色に溶けて消える。

 雫は果てることなく、灰色の雲に閉ざされた空を堕ちて、屋根を打って弾け、一つの流れへと組み込まれ、地の底へと吸い込まれていく。そしてまた空に振り落とされる。
 まるで、完結した一繋ぎの輪廻のように、それは延々と繰り返された。

 







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