『マスターベーション』
雨が朝霧の中、空からのラインになって降り注ぐ。
それがトタンの屋根に、グラウンドに、独特のメロディを奏でている。
静寂の中に雨の音と混ざり別の音が校舎裏に響く。
フォルティッシモ。そういう言葉が相応しい音。
それは肉と骨が軋んで歪んで砕ける音。
兎小屋の前に立った二人は、足元に転がったそれを眺めていた。
「あ、死んだわ」
雨の中に揺らめくような儚さを持った少女が呟く。
「……そうだね」
スラリとした眼鏡の少年がそう答える。
そしてまた、フォルティッシモ、少しクレッシェンド。
「まだ、やるの?」
シュウジは足元のそれを見て呟く。
「貴方もする……?」
カナの問いにシュウジは首を横に振った。
「そう」
その足元には子兎が一匹、死んでいた。
死んでいた、それだけで他の装飾語なんて意味はない。
死んだ、殺した。潰れた、それだけだ。
「次……くれない?」
「うん」
シュウジは無造作に、飼育小屋から兎を掴み取る。
「なんでこんなことするの?」
「ん?」
シュウジは普通の人間が考えそうな疑問を口にする。
二人はクラスメイトだった――逆に言えば、ただのクラスメイトでしかない。
恋人でも、友達でもない。ただのクラスメイト。
だから、してることは分かっても理解はしない。
「そうね」
手渡された兎をキャッチしながらカナは考える。
そして、フッと口元だけで笑う。
「心のマスターベーションじゃない?」
「自慰行為か」
兎を地面に叩きつけた。
シュウジはただぼんやりとそれを眺める。
「自分で言うのもあれだけど、救えないわ」
カナは足元の肉を踏み潰す。
その行為に対して、シュウジが特に何かを感じることはない。
放課後、いつものようにシュウジはカナと土手で会っていた。
夕日は赤く。空は遠く。風は冷たく。二人は近く。
雨に濡れてしなった芝生の上で寝転び空を眺める。
『兎を殺すから手伝って』
最初に、そう言って来たのはカナだった。
シュウジは特に断る理由も感じなかったので手伝うことにした。
兎を数匹殺した後、学校では騒ぎになっていたが、決してそれを楽しいとは思っているわけではない。
もちろん、カタルシスを感じる為にやっているわけでもない。
ただ痛みを確認したいだけだ。
シュウジはずっと前からカナの危うさを知っていた。
それはカナが兎を殺しだす前から。
何となく感じていた、自分と同じ壊れた存在だと。
ガラスの向こうの自分自身。それがシュウジとカナだった。
カナは群れの中心で良く笑う。シュウジはいつも群れに溶け込む。
クラス委員のカナは皆に頼られる。背景のシュウジはただそこにいる。
誰もがカナを必要とする。
誰もシュウジを必要としない。
曖昧に微笑み自分を作り続けるカナは痛みを失くしてしまった。
流されて渺茫と日々を過ごすだけのシュウジは痛みが分からなくなってしまった。
「……笑顔って疲れるわね」
「だろうね」
シュウジはカナの差し出した手首の印を舐めた。
赤く、黒く、残った傷痕。
痛みを感じるためだけに作った傷痕。
カナは、傷つけることでしか痛みを感じないと分かっているはずなのに。
「そんなとこ舐めて気持ちいいの?」
カナはシュウジを見ながら少し考え込む。
赤い舌先は丹念に傷痕のラインを愛撫する。
「やりたいならやらせてあげようか?」
カナはひどく歪な笑顔で笑う。
「いいよ、別に」
「そう」
カナは手首の印を見つめた。
「醜い人間の印ね」
「僕も同じだよ」
「そうね、私と同じいるのにいない人間」
「うん」
「でも、私は貴方みたいな人間が大嫌い」
「うん」
互いにかすれた声で笑う。
その意味が分かっていてカナは言っているのだろうか。
「できれば今すぐ死んで欲しい……ねぇ、死んでよ」
「うん」
「貴方みたいな人間、死ねばいいのに」
「うん……」
互いに良く似た、ひどく空虚な存在。
カナは笑顔を作る。
シュウジはくたびれた言葉を紡ぐ。
そこにいるのにいない互いの存在。
痛みを伴う関係。
無くした痛みを見詰め合う関係。
確かな物も未来も一つも持ってない。
シュウジは傷つけられ痛みを確認し、カナは傷つけ痛みを確認する。
「少し眠るね」
オレンジの芝生の上に寝転んでただ身を寄せ合う。
僅かにカナが震えてるのは、寒さのせいだけじゃない。
シュウジの膝元で眠るカナ。
カナの瞼にかかる栗毛をそっと掻き分ける。
カナの手首の印。
その華奢で壊れてしまいそうな存在の輪郭。
触れたくて。
伸ばした手を握り締める。
――キズつけてしまおうか。
きっとシュウジはその時、本当の痛みを感じる気がした。
本当は誰かを傷つける時が一番痛みを感じるから。
シュウジはカナの傷口にそっと触れた。
暖かい――。
関係も何もかもあやふやで。
世界も全部、嘘で。
同じものなんて共感できるはずないし、気持ちは言葉になんてならないけど。
確かな物はこのぬくもりだけだけだ。
「心のマスターベーションだね」
意味も価値もない言葉は風に消えていった。
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