『トゥールビヨン』



○あまり本編に関係ない人物紹介

・門川アモル(かどがわあもる)……犬杉山町内の時計屋『時兎(スリープラビット)』の跡継ぎ。喫茶ハニービーには週一回通う。

・宮瀬蔵シニム(みやせぐらしにむ)……宮瀬蔵家の娘。アモルとは幼馴染であり恋人。未だにキスだけの今時珍しいカップル。ちなみに宮瀬蔵はどちらかと言えば『皇』側であり、『羅針戒』とは対立する立場を取っているが――。

・珠喜代羽那日……今回はモブ。ロッカー。最近の曲はグランジ気味。



 
 ほの暗い工房に、カチッ、カチッ、カチッという規則正しい音が響く。
 窓の外は既に薄暗く、狭い部屋の中が裸電球と蛍光灯によって、ぼんやりと浮き出されている。土間には様々な道具や工具が置いてあって、どこか肌寒い印象があった。
 薄汚れてひび割れた壁や、黒く染まった土間といった風情は、掃除が行き届いていなければ今も使われているとは誰も思わないだろう。
 そんな工房の片隅、裸電球で照らし出された机の上で、ドライバーを握る少年の姿があった。
 骨張った手を慎重そうにゆっくりと動かす。
 細く華奢で子供っぽい外見とは裏腹に、真剣にドライバーを握る眼差しは、職人のそれを思わせる。それが酷く不釣合いでもあり、普段の人懐っこい笑顔からは想像できない。
 普段、自室で勉強する時などはほとんどロックバンド『アポロフィンガー』のボーカル、珠喜代羽那日の歌声をバックミュージックにしているが、この工房は別だ。
 ここにいる間は全ての神経を指先に集中させ、些細な音の変化を感じ取らなければならない。その為、集中力が増し自然と表情も険しくなってくる。
 少年――門川アモル(かどがわあもる)は厳しい表情のまま片目をつぶって懐中時計をかかげた。
 次いで両方の目で下から上へ見やり、額の汗を袖で拭う。ようやくアモルの集中力が途切れた。
 ふと、アモルは入り口近くの蛍光灯の下に立った、スラリとした髪の長い少女の姿に気づく。
「あれ、宮瀬蔵」
 言うやいなや、アモルは嬉しそうに笑う。
 先ほどまでの違和感のある真剣な表情と違い、いつものアモルの表情だった。
 宮瀬蔵シニムがゆっくりと近づいてくる間に、アモルは先ほどまでいじっていた懐中時計を布で包む。
「ご苦労様」
 シニムがわずかに口の端を上げると、アモルはニカッと無邪気な笑顔を返した。



 川沿いの細道を懐中電灯の明かりがチラチラと動いて、二人並んだ人影がゆっくりと動いている。ところどころ舗装が剥げてデコボコになった道は、片道にしかない車止めも半分は草に埋もれかけている。外灯もポツリポツリと立っているだけで、視界のほとんどが暗闇の中にある。道を一歩それて踏み出せば小さな川か、もう一方の田んぼへ落ちてしまいそうである。車も滅多に通らず、夏の涼しげな夜風に乗ってカエルや虫の声が聞こえてくる。そんな静かな道をアモルとシニムは歩いていた。
「時計、ありがとね。御婆様喜ぶと思う」
 小箱に入れられた時計を見ながら、シニムは口の端を上げフッと微笑んだ。
「また何かあったら言ってよ。じっちゃんみたいに上手くいかないけどさ、無料で俺が直すから」
「ええ」
 シニムが頷くと、アモルはニカッと笑った。
「でも、宮瀬蔵の婆ちゃんってすげぇ時計持ってんのな」
「すごいのこれ?」
 シニムが小首を傾げるとアモルは強く頷く。
「すごいってもんじゃないぜ。前に話さなかったけ、『トゥールビヨン』のこと」
「ああ、あの何か、やたらすごいって言う時計ね」
 『トゥールビヨン』とは、重力が時計に及ぼす影響を排除して、高い精度を維持する特殊な機構を指す。また、その機構を備える時計もトゥールビヨンの名で呼ばれる。
 これ以上、シンプルかつ、コンパクトに説明することは難しいらしく、説明を受けたシニムにはイマイチ想像というのができなかったらしい。
 そもそも『トゥールビヨン』の特殊な機構を説明するには、ムーブメントという時計を動かす機構そのものについて知っているのが前提条件だ。それを『なんかすごい』ぐらいに覚えておけばいいと言ったのは、時計職人の孫であるアモルだった。
「時間が絶対に何年、何十年と経とうがずれないんだぜ、『トゥールビヨン』は」
「そんなにすごいの?」
「そ。だからそんなに壊れないか心配がることもないんだよ。じっちゃんなんか、宮瀬蔵の婆さんの時計はほっといても大丈夫とか言ってるし」
 そう言いながらアモルは一段高い車止めに乗った。
「大事なんだな、その時計のこと」
「御爺様の形見なのよ」
「そっか。どうりでな。ずっと大事にしてたんだな」
「ええ、きっとそうね。なんとなく分かるわ……御婆様の気持ち」
 アモルは少しだけ声のトーンが落ちたシニムの横顔を見つめる。その横顔によぎるなんとも言えない寂しさのようなものに気づき、思わずアモルは言葉に詰まる。
「アモル君、高校でたら海外行くんでしょ」
「ああ。じっちゃんのお弟子さんのとこで修行するつもりだけど」
「どれぐらい?」
「四年ぐらいかな」
 真直ぐなアモルの視線を受け、シニムは黙り込んだ。
「会えないじゃない」
 ポツリと小さく呟く。本当にポツリと闇の中に投げ込むようにポツリと。
「あ……」
 アモルが思わず呟くと、シニムは溜息をつく。
「考えてなかったの?」
 その声には少し怒気がこもっている。
「いや、少しは考えてたけどさ、宮瀬蔵がそこまで気にしてたなんて思わなかったから」
「気にするわよ。宮瀬蔵一族の女は一途なのよ」
 シニムは表情を変えず少しだけ恥ずかしそうに呟く。犬杉山市内では皇一族に次ぐ名門である宮瀬蔵家。その当主であるシニムの祖母は戦場から帰ってる夫を信じ再婚はしなかった。シニムの母もそうだ。未だにカンボジアで行方不明になった父の帰りを信じている。
「そう、一途な分だけ、寂しがり屋なんだから……」
 アモルはなんとなく分かる気がした。シニムの祖母も純粋で一途だからこそ、今は亡き夫との思い出である時計を過剰なまでに大事にするのだろう。
 そして、それはシニムも同じであり、アモルの考えが明らかに足りず、シニムの気持ちを察することができていなかった。
 奇妙な気まずい沈黙が二人の間に漂う。
 なんと言えばいいのか分からずうまい言葉が出てこない。
 少しの間、黙って歩き続け先に耐えられなくなったのはアモルだった。
 アモルは少し考えた後、ポケットから小さな包みを取り出す。
「これさ、誕生日に渡そうと思ってたんだけどさ」
「え?」
 シニムの顔を見ずに、不器用にそれを差し出す。シニムはアモルの手から受け取ると、
『開けていい?』と、尋ねた。アモルは照れたまま頷く。プレゼントを目の前にした子供のような瞳で、そっと包みを開ける。
「あ……」
 シニムは思わず呟き、袋の中身を見つめる。
 中から出てきたのはかざりっけのない懐中時計だった。
「これ、自分で作ったの?」
 コクリと照れながらアモルは頷く。
 本当にシンプルな作りであり、その素っ気無さが何ともアモルらしい。
「嬉しい……本当にいいの?」
「うん、あのさ」
 キュッと愛しそうに時計を抱きしめ、シニムは頷く。
 ふいにアモルは息を大きく吸って、ほころんでいるシニムの顔を見つめる。
「結婚しよう」
 シニムは思わず、つんのめり転びそうになった。バランスを取りつつ、紅潮した顔で口を数回開閉させる。
「本当は修行に行く前に言うつもりだったんだけどさ。少し早いけどそれが俺の気持ちだよ」
 驚くシニムに対し、アモルの方は真剣そのものだった。臆すことも怯むこともなくただシニムを真直ぐに見つめる。
「今すぐとは言わないけどさ。俺が帰るまで待っててくれる?」
 紅潮した顔でコクリとシニムは頷く。
「その時計が壊れる度にさ、俺のこと呼んでよ。すぐ直しに行くからさ」
 時計をキュッと抱きしめたまま、シニムはコクコクと何回も頷く。アモルからの言葉を胸の奥でかみしめるように何度も。
 またしても訪れた沈黙。二人はそのまま懐中電灯を頼りに歩き続ける。
 シニムはアモルがスッと差し出した手に気づき、抱きしめるように握った。
 アモルは『沈黙も会話の一部』と言った大昔の作家を思い出す。意外とその格言は本当かもしれない気がした。時計のリズムのように、シニムの鼓動が伝わってくるのがとても心地良かった。やがて暗闇の中にコンクリートの小さな橋が現れる。
 かろうじて車一台通れるぐらいの幅しかない。長さ五メートルほどの小さな橋を 渡った向こうにぽつぽつと家々の明かりが見えている。もう数メートルも歩けばシニムの屋敷が見えてくる。
 身体を寄せ合い歩いていた二人は、橋のたもとでどちらからともなく、向かい会うようにして立ち止まった。
 シニムがゆっくりと腰を屈めて、二人は慣れた風にキスをした。
 唇を離した後、二人は向き合ったまま黙り込んだ。奇妙なほど静かな時間だった。ただ互いの鼓動、リズムだけがはっきりと聞こえる。それがトゥールビヨンの時計のように狂うことなく重なり合っていた。
「アモル君……」
「ん……」
 シニムは少し恥ずかしそうにうつむき、時計を抱きしめた。
「私達の『トゥールビヨン』が動かなくなるまで一緒にいてくれますか?」
 それがアモルからシニムへの返事だった。
「うん。約束する」
 アモルは真直ぐな瞳で、ニカッと笑う。
「じゃあ、もっと残りの時間を一緒に過ごしてくれますか?」
「う〜ん。出来る限り」
 わずかに笑い返したシニムが一歩下がるように身体を横に向かせる。まだ顔は紅潮したままだった。
「じゃあ、アモル君。明日学校で」
「おう」
 もう一度だけ近づき、蒼い月の下、おやすみと共に口付けをかわす。
 それを合図にアモルは元気良く帰り道を走り出していた。







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