『トランスペアレント』 

  蝉の声も、風の音も、全て白雲の彼方。
  水面の蒼を漂いながら、境界線の向こうで輝く蒼を見上げる。
「うん、やっぱいいなぁ……」
 塗れた褐色の肌に、熱気と微風を感じながら。
「蒼」
 少女は白い八重歯を輝かせ、少しまどろんだ表情を浮かべる。
 指先に、体中に、しっかりと水の流れと優しさを感じながら、
 殺姫初生(さつきはつおい)は水面をゆらゆらと漂う。
 真上に見える太陽の輝きは、水面を輝かせ、白と蒼のコンストラストを作り出す。
 揺れる蒼は、熱さも、騒がしさも、全てを包み込み、限りなくトランスペアレントに輝いていた。
 水の中から見る世界は――まるで終わりの無い世界、変わらない永遠がそこにあるような気がしてしまう。土曜日の部活の練習はいつも午前で終わり、その後、夏の熱気の中へ戻らなければならない。その手に残る水の感覚が恋しくなる。それが少し、寂しくて初生は部活の後も水と戯れていた。
「おお、気持ち良さそうだな」
 プールサイドを歩いてくる小柄な少年が、額の汗を拭った。
 輝く汗がツンツンとした髪から飛び散る。そして、弾ける様な笑顔を浮かべた。
 それが爽やかに見えてしまうのは少年のもって生まれた明るさと強気な瞳のせいかもしれない。
「一、部活は?」
「おう。もう終わったぜ」
 一と呼ばれた少年はプールサイドに座って足を投げ出す。
 細い割には筋肉のしっかりとついた足だった。伊達に陸上部でエースと言われてるだけある。
 本人としてはただ走ってられればそれでいいらしく、初生もその気持ちは良く分かる気がした。
 好きな物をずっとやっていられたら、それはそれは幸福なことだろう。
「気持ちいいな、プール」
 一は足をばたつかせながら無邪気に笑う。それはシンプルでかざりっけのないナチュラルな笑顔だ
った。子供の頃から知っているその笑顔は今も変わらない。
「あ、そっちも午前上がり?」
「後は個人練習。一人だとどうも張り合いがねぇから帰って筋トレだな」
「頑張ってるじゃん」
「もうすぐ最後の大会だしな」
「そっか。あ、じゃあ一緒に帰る?」
 二人は部活の終わる時間さえ合えばいつも一緒に帰る。
家が隣同士ということもあり、朝もほと
んど一緒だ。その関係はなんとなくという理由で今も続いている。多分、今後も続くだろうと初生は思う。
「おう、ガリガリ君買って帰ろうぜ」

 一が子犬のような笑顔でニッと笑った。

「りょ−かい!」
 そう言うと初生はその場でターンしてみせる。
 なんとなく、なんとなくだが顔が赤くなったのを悟られたくなかったのだ。
 蒼と白の水の飛沫が跳ね、その中に初生が沈んだ。
 水の中、両手で頬を叩き、緩んだ顔を引き締める。
 そして、いつもの不敵な、いたずらっ子のような表情を浮かべた。
 そろりと一に近づくと、初生の手が一の足を力いっぱい引っ張る。
「お……」
 言いかけて、学生服のままの一が水面の中に沈んだ。
水の中、口元を押さえる初生と一目が合う。
 少しもがいたあと、一は水面から顔を出した。
「お前な……!!」
 遅れて顔を出した初生に、犬歯をむき出しにした一だったが、
「ま、いっか」
 そう呟いて、おかしそうに笑うと、
水の中に身を委ねた。
 初生もなんとなく、その隣に並んで水面に浮んだ。どれぐらいぶりだろうか、いつも一緒にいたのにこうして二人で水面に浮ぶのは。
 水際を寄り添う二匹の蜻蛉が通り過ぎていく。
 水面の輝きに照らされた、その細長いシルエットを二人は見つめていた。
 両手を広げ、蒼の中を漂いながら。子供の時と同じように。
 風が濡れた髪を通り抜けるのは、朝靄の涼しさに良く似ている。
 緩やかに動く、水の呼吸に身を委ねていると、初生は魚のような気がした。
 なんとなく、この澄み切った時間が永遠かもしれない――なんて思いながら。
「お、鯨雲」
 一が入道雲を指さした。それは確かに魚のような形をした雲だ。初生にはそれが気持ちよく泳いでいるように見えた。まるで永遠の中を泳いでいるような――。
「すげー気持ちいいな」
「だね。ずっとこうしてられたら――」
 初生がそこまで言いかけて、ふいに一は呟く。
「俺たちって、あと何度こうやってられんだろうな」
「一……」
 あと、どれぐらい今までどおりでいられるだろう?
 初生の大きな瞳が一を見つめる。一も何かを感じたのか何も言わなかった。
 それは誰もが感じることであり、常に誰もの側に佇み、漠然とした中に存在する。
 この暑さが、夏が終れば、少しずつ別れに近づいてく。
 永遠なんかない、夏はゆっくりと終る、水が掌からこぼれていくようにゆるやかに。
 このうだるような暑さと風と共に。
「あがろっか、一」
「おう」
ニッと初生は笑った。
水の中で感じた永遠よりも、きっと――この限りある夏を過ごすことの方が大事だ。
この輝きと熱気の中、大切な人たちと駆け抜ける一瞬の方がずっと――。
「あ……」
プールサイドに上がった初生は小さく呟く。
「ん? どうした?」
「うんん、何でもない」
初生は見た。プールの底をゆっくりと泳ぐ――大きな魚を。
蒼の中を泳ぐ永遠の魚はゆっくりと空へ泳いでいったのだった。




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