『鉄槌』

 

チャイムの音が校内に鳴り響くと、教室中が一気に騒がしくなる。
学校と言う閉鎖空間での一日が終わり、生徒を拘束する鎖が断ち切られたのだ。
そんな中、阪木弘平はぼんやりとしたまま窓際で外を見つめた。
どことなくおっとりとした子供っぽい優しい顔立ちの少年であり、穏やかな雰囲気は淡い儚ささえ感じてしまう。上品かつ優雅……それは弘平が生まれ持った特質だった。
弘平はこの少年少女に取ってもっとも大事な時間が嫌いだ。
できればこのまま拘束されていた方がまだいい。
学校は逃げるための手段であり、弘平を縛りつける鎖は別の所にあるのだから。
「おい!弘平!一緒に帰ろうぜ」
そう言いながらぼんやりとしていた弘平の肩を叩いたのは幼馴染の敦だった。焼けた肌と短く刈り上げた髪の毛がいかにも少年らしい。
「あ、あっちゃん。いいよ」
弘平はにっこり微笑む。
その笑顔は驚くほど自然だった。
まるで教会に描かれた天使の壁画のような……柔らかで清らかな笑顔。
クラスメイト達に向けるつくり笑顔などではない。
敦はこの笑顔が敦の為だけのものだということ知らないだろう。
「今日お前ンち行っていい?こないだの本返すよ」
「今日?あっちゃんちの方がいいよ。それに本ならどこでも返せるし」
弘平が苦笑いを浮かべながらそう言う。
内心は家に来させるのが嫌だった。敦のことが嫌いだからではない。むしろ敦だけが弘平の安息と救いである。笑顔の仮面をつけず接することができる唯一の人間なのだ。
「本、どうだったかな?おもしろかった?」
「今度は全部読めたぜ」
「あっちゃん、難しいの苦手だもんね」
「侮るなよ〜。神話ってのはなんかロマンがあって好きなんだよ、お前も男なら……」
「どの話しが良かったの?」
弘平がにっこりと微笑む。
「トールの話かな。鉄槌ミョルニルなんてかっこいいじゃん」
「あ、その話なんだ…」
敦がそう言いかけた時、割り込むように言葉が放たれた。
「弘平」
その声で弘平の安息は崩される。
水の中に黒い墨汁を流すように心は染められていく。
「弘平……」
廊下から一人の少女が弘平を呼んだ。
腰まであろう長い黒髪と、
弘平とどことなく顔たちの似たをしたおだやかな少女だ。
儚さと上品を携えた瞳をしている。
「あ……姉さん」
弘平が微笑む。
造られた笑顔で。
その変化に鈍感な敦が気づくことはない。
「弘平、一緒に帰ろ?」
少女はにっこりと弘平を見つめる。
弘平は何かを言おうとしてうつむいた。
「あ……その、あっちゃんごめん」
言葉を放つのが苦しかった。敦に嫌われることを考えると胸が苦しくてたまらない。
「ん?ああ、いいって。兄弟は大事にするもんだぞ」
「ごめん……」
「ウジウジすんなって」
敦は弘平の肩を軽く叩いた。
その何気ない動作がどれだけ弘平の心を救っていることだろう。
「うん」
弘平の姉である佳奈美はもう一度にっこり微笑んだ。
「おう、じゃ、また明日な」
「う、うん……」
敦は教室を出て行く。敦が遠ざかっていく。弘平は手を伸ばしかけて止まった。怖かったのだ、知られてしまうことが……。救いを求めるよりも知られてしまうことが。
佳奈美は弘平の耳元でそっと囁いた。
「よかったの?」
選択権などない。分かっているくせに姉の佳奈美はそう言うのだ。
「うん」
「弘平、お家に帰ったらお願いしていい?」
「う、うん……」
「じゃ、帰ろ?」
佳奈美はそっと弘平の手を握る。
その手はじっとりと汗で濡れて震えていたのだった。
……。
…。
弘平は走る赤い街を。
街が赤い。
赤いのは嫌いだった。
弘平の足がもつれて倒れそうになる。
心臓も握りつぶされそうで苦しい。
まだ間に合う。
肩で風を切り弘平は走っていた。
早く……。
乾いた舌が絡みつき吐きそうになる。
時間がない……。
かまわない。
早く……死んじゃうから。
弘平の頭の中を最悪の事態がよぎる。
早く……!!
『お願い』に答えないといけない。
自宅の玄関を力任せにこじ開け弘平は叫んだ。
「姉さん!!」
「ああ、お帰り。お願い聞いてくれたね」
佳奈美は長い黒髪をつまらなそうに弄びながら言った。
玄関に座って弘平を待っていただろう。
「牛乳買ってきたから!!十分以内に買ってきたから!!」
荒い息で弘平は叫んだ。その姿には上品さも儚さもない。
「ばかねぇ。弘平は本当にバカね」
佳奈美はさもおかしそうにクスクス笑う。
「本当に手首切ると思ったの?」
佳奈美は弘平に手首を見せる。
赤黒い生々しい縫傷……。
「うぷ……」
それを見た瞬間だった。
弘平は込み上げる嗚咽を堪えきれずひざまづく。
それは二人の上下関係のようでもあった。
「吐いてもいいわよ?全部飲んであげるから。だって貴方は私のかわいい弟だもん」
「姉さん……」
「走って来たのね。ここから犬杉山商店街まで……そうね、二十分ぐらい?十分で買ってくるの苦しかったでしょう?」
佳奈美は弘平の頭をなぜる。まるで愛しむように。
「いいこね、弘平は。でもね……」
にっこりと佳奈美は微笑む。
「……私が欲しかったの珈琲牛乳なの」
「え?」
心臓にズシンと何かがのしかかる。
口が言葉を発せれずパクパクと動いた。
「買い直してくれる?十分以内で」
「姉さん……」
「さっきもできたから大丈夫でしょ?ほら、早く行かないとまた私……」
「言わないで!!お願いだから!!」
弘平は耳を塞いで立ち上がる。
嫌だ!嫌だ!
聞きたくない!!
「お風呂に撫子の花浮かべて……手首切っちゃうよ?」
弘平の脳裏にあの時の記憶が甦る。
赤。
一面の赤……。
浴槽で聖歌を歌う佳奈美……。
散りばめられた撫子の花……。
赤い夕日の中……。
弘平は失禁した後……生まれて初めて射精していた。
「あああ……」
弘平の股間から生臭い尿が流れ出した。
「あら、また漏らしちゃったの?」
「あうう……」
涙がこぼれた尿と混ざり合う。
それを差し込む夕日は赤く染め上げる。
「弘平は子供なんだから」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
あああああ謝らないと。姉さんに僕は謝らないと。
それだけが弘平の思考することだった。
「ごめんなさい?誰がそんな言葉教えたの?」
「許してください……何でもしますから……」
「いいのよ、弘平。お姉ちゃんがきれいにしてあげるから」
佳奈美は床にこぼれた分泌物の混ざり合った汚水を赤い舌先でなめた。
舌先がゆぅっくりと汚水の救い上げ、その飛沫がぽちょりと落ちる。
「ひっ!!」
弘平はかすれた声をあげる。
嫌悪感もあったかもしれない。
だがそれ以上に、いつも弄ばれ飼いならされている体は過剰なまで反応していたのだ。
そのことには本人は気づいていなかった。
「許してください……何でもしますから……許してください……!!」
「バカの一つ覚えね……あら?」
佳奈美はある一点をわざとらしく見つめ微笑む。
「あ?うああああ!!」
弘平が慌てて隠そうとした手を佳奈美はおさえた。
ズボンの中のその膨らみを。
「あらあら。興奮しちゃったのかしら?しょうがない子ね。弘平は」
「ち、ちちち違う!!!!」
「いいのよ、お姉ちゃんは貴方の味方だから」
佳奈美は弘平の股間を握る。
ズボンの上から鷲つかみにするように……。何の躊躇いもなくされるその行為は日常だからだ。
再び弘平はかすれた声を上げ、そこに尻餅をつく。
にぎった指先がその輪郭をなぞり弄び足腰に力が入らない。
その度、弘平にボーイソプラノのハミングを繰り返させた。
「あっちゃんのことでも考えた?今度三人でしようか?」
見下ろしながら佳奈美は言う。
弘平は一瞬で青ざめた。
ダメだ。絶対にダメだ。
それが弘平に平常心と諦めをもたらす。同時に姉への憐憫の情が沸き起こったのだ。
「冗談よ。分かりやすい子ね」
ゆっくりと、ゆっくりとつかんではしごく動作を繰り返す。普段の弘平なら泣きながら果てているはずだが。
「どうしたの?何で我慢するの?ん?」
「姉さん……」
「なぁに?」
「僕は姉さんが好きだから……」
佳奈美の手が止まった。
「……私は大嫌いよ、弘平のこと」
そっと佳奈美の指先が弘平の前髪をかきあげた。
「それでも僕は好きだから……」
「壊すからね……弘平のこと」
「それでも……僕は……」
その優しさが一番、佳奈美を傷つけることに弘平は気づかなかった。
「大嫌いだから……」
佳奈美の頬を一筋の涙が伝った。
それは淡く、儚く、弘平の頬の落ち弾けた。
弘平はゆっくり笑顔をつくる。
「うん……それでもいいよ」
「大嫌い……」
「うん……」
裁かれるのは誰だろう?
ミョルニルが振り下ろされるのは誰だろうか。
この世界に振り下ろされるのはいつだろう。
もう何もかもがただ狂っていて……。
ただ悲しくて、世界は病んでいて、赤い。
差し込んだ光は赤く、二人を染めていたのだった。

 

back

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送