『スカイロケット』


 その日は夕暮れになっても、暑さが全く収まらなかった。
 まるで夏が永遠に続くかのような、そんな日だった。
 夏の深い赤の中を雲がゆっくりと泳いでいる。
 梅雨が開けた七月の空は、幼稚園児が塗り潰したような橙に覆われているが、もう少しすれば花火
が今夜の空を染めるだろう。
 鳥居の前に立った小柄な少年は、遠くから聞こえてくる御祭り太鼓に耳を傾けながら、浴衣姿の人
々が流れていくのを眺めていた。ジーンズとシャツというスタイルだが、遠くからも人が来る祭りではさほど珍しくもない。それよりも、こんな小さな町にこれだけの人が集まるのが不思議だった
 少年の名は御仏たする。特徴と言えば身長が低いことぐらいの平々凡々な中学生だ。
 元々は祭りは花火をアパートから眺めるぐらいだったが、急に誘われて訪れることになった。
 クラスメイトの誘いぐらいだったら家でテレビでも見てただろうが、誘ったのは――。
「たする君!」
 たするはその声に気づき辺りを伺う。すると、遠くから浴衣姿の少女がこちらに駆けて来る。
 朝顔柄の浴衣とサンダル履きの為、少しぎこちないがたするに向かって大きく手を振っていた。
 その動きはどこか子供っぽいのに、髪を後ろに束ねてるせいか――表情はいつもよりグッと大人び
ていた。
 たするが恥ずかしそうに手を振り返すと、神矢イヅルミの薄く紅を塗ったような唇が微笑む。
「やはー、待った? たする君」
 イヅルミは息を切らしながら手をシュタッとあげた。
「いや、全然だよ」
「やは、たする君、早いよ〜」
 イヅルミの手がたするの頭をなでる。それはまるで子供をあやすような手つきだった。
 いつものことだが、それがたするのコンプレックスを微妙に刺激する。
「いい子、いい子」
「あ、ちょっ、なでないでよ」
 なにげにイヅルミより身長が低いのは、たするの悩みだった。
 子供の頃から一緒だが、一度だって追い抜いたことがない。
『これって男としてどうよ?』と身長測定の度に自問自答してしまう。
「たする君と二人でお祭り歩くのってどんぐらいぶりだろうね」
「そうだね、イヅルミが友達と行きだしてからじゃない?」
「やはー、そうだね」
 イヅルミがペチリと自分の頭を叩いてみせる。
 どんなに仲がいい幼馴染でも、同性の友達ができればそうなるのではないかとたするは思う。
 思春期とはそういう物だと、なんとなく理解していた。
「あ、早く行こうよ、たする君」
「う、うん」
 子供っぽい輝いた瞳がたするを見つめている。まるで待ちきれないと言わんばかりの表情。
 それはイヅルミの大人びた容姿とのギャップを感じさせる表情だった。
 お祭りには人を童心に戻す力があるかもしれないとたするは思った。
「お店回る前にさ、先に花火見ようよ」
「うん、オッケーです。なら神社で見よ、たする君」
「あ、そうだね。あそこなら見やすいもんね」
 そうこうして、二人は御祭り囃子の中を歩き出す。
 境内へと続く道には、立ち並ぶ夜店の灯かりが見える。
 その道を一歩進む度に、鈴虫の声と祭笛や祭太鼓の音と混ざり合う。
 ざわめきも何かも賑やかで、艶やかで、一種のファンタジーのようだった。
「おお、私が去年記録作った焼きそば屋さんだよ、たする君」
 イヅルミの指が屋台を指差した。指さされた屋台の男はギクリと身を強張らせた。
「ああ、大食い大会だったっけ?」
「うん」
「あれ、イヅルミ確か、他にも記録作ってなかったっけ?」
「お好み焼き屋のイベントも制覇したよ」
 たするはイヅルミの細い身体を眺める。この体のどこにそんな許容量があるのだろうか。
 子供の頃はそんなに食べなかったはずなのに。
「たする君だって射的の商品全部取ったんでしょ」
「ああ、ゴルゴとかノビタとかあだ名つけられたね」
 その後、フリーマーケットで商品を転売したのは内緒だ。
「そうそう。今年も参加……やは!?」
 イヅルミが驚きながらやきそば屋台を凝視する。
「『イヅルミお断り』とか書いてるよ、たする君。やは、お好み焼きもだ」
「あ、射的屋には『たするお断り』とか書いてるね」
 さすがに全部の射的屋を完全制覇したのは失敗だったようだ。
「あーあ、今年もやるつもりだったのになぁ」
「そうだね、僕も射的やりたかったのに」
 イヅルミは人差し指を唇に当て、残念そうにしていた。
 それでも、しっかりとその目はジャンボ綿飴を見つめている。一流のハンターは一度狩りに失敗し
ても次のチャンスを狙う。『恐るべし、イヅルミ』とたするは心の中で呟いた。
「人が増えて来たね、たする君」
「うん、夜が本番だからね」
「あ、今の発言なんかえっちーね」
「ば、ばか」
 たするが僅かに頬を染めて呟く。
「やは?どうしたの?」
「べ、別に」
 そういうことを意識してしまうと、どうにも呼吸が苦しくなる。
 イヅルミはどういう気持ちでたするを誘ったのだろう――。
 軽い気持ち――?
 幼馴染だから――?
 それとも――?
「あ、たする君、林檎飴食べたいな」
「あ、うん」
 ぎこちなく、たするは答える。
「やは、どうしたの?」
「な、何でもないよ。あ、林檎飴ぐらい僕が奢るよ」
「やは、じゃあ私も後でなんかおごるね」
 たするは手早く林檎飴を買うと、イヅルミに手渡す。
 イヅルミは嬉しそうに林檎飴を舐める。
 柔らかそうな唇は林檎飴と同じ色をしていた。そのことにドキリとしつつも、どこか子供じみたそ
の表情が可愛くて、たするは思わず微笑んでしまう。
「あ、たする君も食べる?」
「い、いいよ」
 ――間接キス。
 そのことをすぐに思い浮かべてしまう。イヅルミはそういうことを考えたりしないのだろうか。確
かに普段からあまり女の子らしい話はしていないが、そういうことに興味がない年頃ではないだろう。では、たすると間接キスしても良かったのか――と言うとそれとはまた違う気がした。
 分からない、まったくもってイヅルミの思考が読めない。
「どうしたの、たする君?」
「い、いや何でもないよ」
 何回繰り返すんだ、このやりとりを――たするは心の中で呟く。
 いい加減、イヅルミも変に思わないだろうか、一緒にいて楽しくないとか思われたら最悪だ。
 そもそも、こういう時にどういう会話をするのがいいのだろう。
 RPG的に言えば――レベルと経験値が明らかに足りないままラスボスに挑んだ気分だった。
 普段通り、もっとすらすらと話すことができるはずだった――それなのに、こうして言葉に戸惑っ
てドキドキしている姿は最高に格好悪い。
 いや、イヅルミが何となく、たするの気持ちに気づいていれば問題はなかった。
 だが、たするにはイヅルミのナチュラルハイな思考を読み取る術がない。
 さりげなく手だって握れてしまうつもりだった。
 つもりだったのだ、イヅルミと今日、会うまでは。
 今にも手が届きそうなほど近いのに。
 イヅルミの温度が伝わって来そうな距離なのに。
 どうしても後、数センチを越えることができない。
 本当は人ごみを離れないように手をつなごうと言いたかった。
 後、少し伸ばせばいいのに――。
 たするはそれが出来なくて何度も指先が彷徨う。
 淡い想いを胸に抱えたまま、たするは隣で微笑むイヅルミを見つめていた。
 二人は人ごみを離れないように通り抜けて、神社の石段を登る。
 子供の頃から行きなれた神社もこうして来ると何かが違う。
 遠くで聞こえる音もにぎやかな笑い声もまるで別の世界のようだ。
「やはー。なんか懐かしいね」
「小学生の時以来だもんなぁ」
「だね。あの頃もこうやってさ、林檎飴食べてたよね」
 境内の中、並ぶように石段に座る。
 イヅルミの言うように、子供の頃もこうしていた。
 でも――その頃とはやはり、何かが違う。
 あの時、当たり前だったことが今は昔と違うのが寂しい。
 それが成長なのかもしれないと、たするは少し悟ったことを考える。
「そのままでいられたらいいのに――」
 ポツリとたするは呟く。
「やは?」
「いや、子供の頃みたいな感じでさ、いられたらいいのになぁ、なんて思って」
「うん、そうだね。でも今の関係も嫌いじゃないよ」
「今の関係か……」
 今の関係――少しずつ変わり始めたこの関係。
 友達と言うには近すぎる、恋人と言うには少し遠い、幼馴染では我慢できない、二人の今の距離。
 交わす言葉が見つからず、二人は黙ったまま夜空を見上げる。
 星空に花火が散りばめられると、遅れて音が響いた。
 キラキラと輝く無数の流れ星はすぐに消え去ってしまう。
 この花火が終ってしまう頃――。
 二人はまたいつものように少し距離を置いてしまうのだろうか――。
 そう思った時、たするの中で何かが弾ける。
 心の中で燻っていた何かが、殻を破り動き出そうとしていた。
 今しかない――。
 そう思う瞬間がある。そう気づく瞬間がある。伝えなければいけない時がある。
 それが今だとたするは気づいた。
 そして、気づいた時、その気持ちを止めることはできない。
「あ、あのさ」
 思わず、たするの声が裏返る。
「あの――」
「やは、ど、どうしたの」
 さすがにイヅルミもそれには驚いたようだった。
「いや、なんだ、その、だよ、イヅルミ」
「う、うん……」
 少し赤らんだイヅルミの顔がたするを見つめる。
 それだけのことで、もう言葉が出ない。
 頭の中に組み立てられたはずのルービックキューブは修復不可能だった。
 完全に言おうとしたことが飛んでしまった。
 イヅルミの大きな瞳が真っ直ぐにたするを見つめる。
「俺……」
「う、うん」
 花火の音――だけじゃない。二つの鼓動が聞こえる。
「その、なんだ」
 イヅルミの手がキュッと、たするのシャツを握り締める。
 二人の距離がゆっくりと近づいていく。互いの吐息が届く距離、潤んだイヅルミの瞳がたするに近
づく。
「俺、イヅルミが――」
 瞳を閉じると、たするの唇がイヅルミに――。
「あ……」
 ――触れなかった。
 代わりに触れたのはイヅルミの林檎飴だった。
 たするが戸惑うと、イヅルミもそっと林檎飴にキスをする。
 林檎飴ごしに二人の視線が重なった。
 甘く酸っぱい味がたするの口の中に広がってくる。
 これはキス――なのか、いや、でもこの甘酸っぱさが俗に言う檸檬の味なのだろうか。
 イヅルミが林檎飴から手を離すと、たするはそれを受け取る。
「ここまでです」
 たするはぼんやりとしていたが正気に戻ると同時にぎこちなく口を開閉させる。
 だが、その声は言葉にはならなかった。
「そういうのはちゃんと付き合ってからにしてください」
 ちゃんと付き合ってからにしてください――それはつまり。
「ええと、イヅルミ、それは――」
 ごにょごにょと、たするが呟くと、ニッとイヅルミが笑う。
 やっぱり、どうしようもないほど、押さえきれず、たするはドキリとした。
 その瞬間を見計らってか、見計らわないでか、花火が一つ大きな音をたてる。
「よっと」
 イヅルミが石段から立ち上がる。それはおどけるような可愛らしい仕草だった。
 もしや、照れ隠し――等と考えてたするは否定する。イヅルミに限ってそれはないだろう。
「まだお祭りの途中だよ、たする君」
 スッと、イヅルミが伸ばした手。
 たするが握りたかったイヅルミの手だ。
「イヅルミ、あのさ」
「やは?」
「あ、うん、何でもない」
 さっき握れなかったイヅルミの手を握り返す。
「行こ、イヅルミ」
「やは」
 手をつないだ二人の姿が花火の下を歩き出す。
 一際大きく上がった花火はいつまでも、夜空にその輝きを残していた。

 

”一言だけ、一言だけ、一言だけ君に言えるなら――。手を繋ぎ、夜空を眺め、もう一度またここに来ると約束しよう”


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