『スカイハイツ・オーケストラ』

 

 

 終業の時間を過ぎてデスク周りを片付けていると、普段使っている書類入れに葉書が入っていることに気づいた。どうやら誤って入れてしまっていたらしい。
 書かれた名前を見てみると大学生の時に付き合っていた彼女からの葉書だった。
 付き合ったままでお互いに離れてしまい、連絡が取れなくなって二年。
 簡素な葉書には『結婚しました』と、短く書かれていた。
 彼女の輪郭はおぼろげになっているのに、僕と彼女の好きだった歌の名前は覚えている。
 歌の名前は覚えているのに、そのメロディを思い出すことができなかった。
 無機質な僕の心は何も感じず動かないまま、スーツのポケットに葉書を押し込んだ。
 終業後、与えられた仕事をこなし灰色の空と同じ色の街へ溶け込けむ。
 似合わないスーツの上にコートを纏い、すれ違う顔のない人ごみを歩きだす。
 大勢の中で一つになっているわけなんかないのに、この大きな流れの中に個々なんて存在しない。
 そんな僕たちの靴音がアスファルトに刻むリズムは、不規則で何かが欠けた音に似ていた。
 人が奏でる音はこんな音ばかりじゃないはずなのに、僕達はこの音だけしか演奏できない。まるで壊れてしまった楽器のように、ただ靴音を鳴らして歩き続ける。足音にも、風の中にも。あの頃のメロディはもう聞こえない。
 子供の頃はもっと、様々なメロディを奏でることができたはずなのに。
 いつも頭の中でリフレインしてるメロディがあって、僕を突き動かしてくれる音楽がいつも聞こえていたのに。彼女が囁いていてくれたはずなのに。
 泳がされるように歩いていた人波は交差点の前で一斉に止まる。
 淡々とリピート演奏される毎日を決められた動作でこなす、誰かにスイッチを入れられて動く自動演奏オルガンのように。
涙も流さず、痛みも感じず。ただ電池が切れるまで動き続けるだろう。
 社会に出て二年目、僕は人の流れに沿って行けば道を踏み外すこともないことを学んだ。
 腹話術の人形のように与えられた台詞を喋り、その場しのぎでクリップで留められたような表情を作り出す、そんな毎日に慣れきって大事な物を落としすぎて彼女と僕の接点も見失ってしまった。
 交差点に流れ出した通りゃんせのメロディと共に、機械人形達が再び動き出す。
 僕はその流れを抜けて灰色のマンションに入っていく。
 部屋の中に入るとまずはスーツを脱ぎ冷蔵庫を漁る。
 疲れを癒すためのビールと大人のフリをする為に覚えた煙草。そんな物がいつの間にか、自分の中で大事な物になってしまった。僕を動かす燃料になってしまった。そもそも大事な物はなんだったのだろう。降り出した雨に気づき窓を閉めようとしたが、そのままベランダに出て煙草を指で弾いた。
 ぼんやりとした視線の先を、彼女の好きだった煙草の吸殻が弧をえがき飛んでいく。
 目の前の灰色の世界の街はどこまでも続くのに。なんでこんなにも遠く何も無いんだろう。
 僕がこの手に今までつかんできたものは一体どこに行ってしまったのだろう。
 あの頃聞こえていた歌はなんだったろう。そんなことも、もう僕は思い出すことが出来なかった。
 彼女の顔も、歌も、思い出せなかった。
 それななのに、僕は。
 その場しのぎで笑っても、壊れてしまっても、もう歌えなくても、人間という仕事を、僕は僕を辞めることが出来なくて、また明日を機械的に生きていくしかない。
 そんな当たり前のことにどうにもならない無力感を感じながら、ポケットの中で蹲ってた彼女の葉書を破り捨てる。
 思い出も何もかも、全て否定しても僕の心は動かないはずなのに。
 降り出した雨の中に消えていく君の残滓を眺めながら僕は震えてた。
 ふいに枯れたはずの目に涙が流れて、忘れてたはずの歌が響く。
 乾いた心に染み込む涙を止めることはできなくて、僕はかすれた声を漏らす。
 涙が流れる理由すらもう分からなくなってしまったけど、そんな僕の代わりに雨が歌ってくれてる。
 あの頃聞こえたメロディ。
 それは明日へ導いてくれる僕だけのメロディ。
 過ぎ去った時間は取り戻せない物ばかりで、僕も変わってしまったけど。


 僕はやっぱり君や、君の歌が好きで、だから、僕は――やっと君にさよならを言える。


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