『L'ecame des jours(うたかたの日々)』


それは異様な光景だった。
ひどく現実とかけ離れた、非日常的なシーン。
エソントという万能人は言った。
『常識とは、それまで経験してきた物が作り出す範疇のことでしかない』と――。
白衣の男達が、畳の引かれた和室で鎮座している。
背筋を伸ばし、しっかりと着込んだ白衣を乱さず、無駄な動作もなく。
そんなことなど、丸めて屑箱に捨てれるほどにどうでもいい。
それだけ、その男達は――異様だった。
たった一言で言えば、靴。
その頭部が人間の物はない。
逆さにされたトレッキングシューズが首の上に乗っているのだ。
もちろん、それはカブリモノなどではなく、首筋の肉からしっかりと繋がっていた。
浮き上がった血管の脈動や、呼気の度に動く喉元や顎下の筋肉。
それらはハリウッド映画の特殊メイクでも、ここまでリアルに作ることはできないだろう。
この靴男達はシューズマンと呼ばれる人間とは異なる種族だ。
性格は温和で理知的、同種族は医療などに関わる者が多い。
無論――それは表の世界ではない。
「包帯取ってくれ」
声に導かれるまま靴男の一人が包帯を手渡す。
その包帯を受け取ったのは、白衣の女性だった。
切れ長の双眸に強調された、凛とした知的な顔つき。
スレンダーながらメリハリのついたボディと、長い黒髪が女性らしさを強調している。
「肋骨は大丈夫だな」
靴男達は、女性の言葉を聞きながらカルテを取る。
包帯を巻かれる少女は、和製ホラーのような不気味さよりも、不思議の国のアリスのような奇妙な感覚を覚えた。
一番、異様で異質なのは――女医と少女がいたって普通にその光景を受け入れていることだ。
常識がそれまでの経験が作り出す物だとすれば、この二人にとってこの空間は極々ありきたりな光景。
日常的なワンカットであり、食卓に食器が並ぶぐらい当然なこと。
疑問さえも抱かないほど、ナチュラルに受け入れられる経験をしてきたということだ。
「随分、派手に暴れたな。骨が軋んで苦しかろうに」
患者である少女の背を、白衣の女性がポンと叩く。
少女の包帯の巻かれた華奢で細い肢体。
さらに薄い胸から首筋まで包帯で覆われている。
それがどれほどの怪我だったのか容易に想像がつく。
そんな痛々しい姿をしているのはまだ十代の少女だった。
名は死村三六といい、暗殺一家死村の血を引くものだ。
「今回の仕事は少しきつかったです。最初にうまく交渉できてればリスクも減ったんですけど……」
三六が大きな瞳を細めて微笑むと、女性は溜息をついた。
「きつかろうが、なんだろうが、もっとリスクを計算して仕事した方がいい。君もオレ達と同じプロのプレイヤーなんだからね」
オレ――。
その言葉は白衣の女性とひどく不釣合いなセリフだ。
だが、それが格好いいと三六は感じてしまう。
この女性の名は悪原転寝(あしはらうたたね)、暗殺などの裏事師専門の闇医者である。
本人自身も昔は裏事師だったと三六は聞いたことがあった。
転寝と死村家の付き合いは古く、三六が転寝に憧れて自分をボクと言っていたりする。
「しかし、『殺姫』とぶつかるとは運がなかったな。あそこの一族の連中の強さは折り紙つきだからね」
「能力でもなく、魔術でもなく技だけであそこまでできる人ってそうはいませんよね……なんだか、ボクが生きてるのが不思議です」
三六が言うとおり圧倒的に実力でも、経験の差でも劣っていた。
生き残れたのは運が良かったからに他ならない。
「殺姫の『黒犬<モーザ・ドゥーグ>』辺りの者なら話も分かるだろうに。若い世代なんかは特に好戦的な連中ばかりだからな。さすがに、猟犬の一族と呼ばれるだけあるよ」
『黒犬<モーザ・ドゥーグ>』の名は三六も聞いたことがある。
暗殺達成率が100%というとんでもない暗殺者だ。
目撃者を殺すため、数百人を殺したいう話さえある。
そして、その血族であるのが――殺姫初音だ。
あの少女は三六よりも年下だったろうか。
手足もでず、相打ちにさえできず、三六は敗北した。
そう考えると、やはり、あまりにも完全で圧倒的な敗北だ。
だが、まだ三六は生きている。
「ボクも頑張らないと」
溜息と共に三六は呟く。
弱々しさを吐き出し、強さを吸い込む。
短いフレーズの中に込められたのは強い意志だった。
「ん?どうした?この間まで普通の女の子になりたいとか言っていたのに」
「前まではそうだったんです。学校の子達と自分を比べたりして、でもそれは少し違うんです」
そっと、包帯の巻かれた掌が胸元に触れる。
心臓の鼓動、血液の流動の音、死村の血の音だ。
「なんとなく、ボクにとって普通の意味が分かったんです。今こうしてるのだって、きっと普通だし、これからもボクは普通なんだと思います。だから死村としてもっと頑張ってみたいんです」
少しおどけるように転寝は笑う。
それは凛とした中に、どこか愛らしさを感じさせる物だった。
「そうか、普通か。まったく、この世界は不思議なものだな。普通という概念が幾つも存在する。シューズマン達みたいな種族が存在する世界も普通で、オレや三六が存在する世界も普通だ。もちろん、世間様から見ればオレたちは裏だろうがね」
この世界で生きているのは人間だけではない。
靴男達のような亜種――Dと呼ばれる物達や、死村のように人間でありながら人間とは大きくかけ離れた者達もいる。
それは珈琲の中に溶け込んだミルクのように、空気に溶け込む素粒子のように。
普通に生きている人間は気づかないだろうが、確かに溶け合い混ざり合って世界は成り立っていた。
もちろん、カテゴリーやらテリトリーもあるし、暗黙のルールや秩序も存在する。
世界の抱える嘘や裏表に、気づいているからおかしいというわけではない。
気づいていない者が普通というわけではない。
気づいていることが正しいわけでもない。
気づいているものが普通だと言うわけではない。
「決めるのは自分自身ですよね」
世間の基準で見れば異様で馬鹿げた、黒いキャンバスに描かれたような世界だろう。
それでも、死村にとってそれが極々当たり前で普通であるなら、その世界で三六も生きていく。
「そういうことだ。そもそも人には独自性を持ちたいという願望があるからね」
「独自性ですか。自分だけとかそういうのですよね?」
「そう。独自性だ。その反面、多くの場合、経験したことのない、出会ったことのない世界を想像することはできないため、独自性とはいっても過去の経験の域を出ない。新しい話や新しい経験が今までの 自分の人生観に合わなければ、見れども見えず、聞けども聞こえずだよ」
もしかしたら、普通であることを考えるのは誰もが通ってくる道なのかもしれない。
十四や一三、転寝もそうやって自分の世界について考えてきたのだろうかと三六は思った。
「数日間は仕事は休むんだな。痛むようだったらまた私に連絡してくれればいい」
「はい、ありがとうございます」
三六が上着を着だすと、転寝も聴診器などを鞄にしまい始める。
助手である靴男達もそれぞれ壁にかけてあったトレンチコートを纏い、シルクハットをかぶりだす。
「あ、転寝先生。玄関に一三兄さん達が取って来たクリマチウスがあるんでもらっていってください」
「クリマチウス……古生代デボン紀の魚か?」
「はい、近所の沼で取れたそうですよ」
「こないだのハルキゲニアよりはいいな。有難く頂戴しようか」
転寝は立ち上がると三六に背を向ける。
「一三にはよろしく言っておいてくれ。今度珈琲豆でも持ってくるよ」
「はい」
「ああ、三六」
「?」
転寝が頬をかきながら、天井を見る。
「あいつ、こないだオレが贈った珈琲カップはちゃんと使ってるかな?気に入ってないとかそういうことはないか?」
やや照れたような仕草が凛とした転寝にはミスマッチだった。
「はい。大事に使ってます」
「ん。そうか、それならいい。贈る人選を間違えると珈琲カップが可愛そうだからね。珈琲の神様にオレが怒られてしまう」
まるで、自分自身に言い聞かせるように、転寝は何度も頷いた後、部屋から出て行く。
三六はその後姿を見つめていた。
誰しも、自分のなかに「普通」を持っている。
本当の意味での「普通の人間」など、この世には絶対に存在しない。十人十色という言葉があるように、人はどう頑張っても同じにはなりえないのだから。
十四や転寝のように胸を張って生きる姿はやはり格好がいい。
死村として胸を張る――そういう当たり前や普通があってもいいはずだ。
「プロのプレイヤー……」
転寝に言われた言葉をなぞってみる。
三六はかざした掌を握ると、小さくヨシッと呟いたのだった。


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