『シアーハート』

 

「なんか、この匂いって朽木の匂いと似てませんか?」
そう言いながら彼はスンスンと鼻をならして見せる。
「そう?カルキに近いと思うけど」
カルキと感じるのは、保健室に漂う匂いに消毒液の匂いも混ざっているからかもしれない。
私が白衣を着ながらそう言うと、彼はベッドに寝転んだまま小さくうなる。私はその様子についつい微笑みながら髪をくくった。
「とりあえず、服着たら?他の生徒とか先生に見つかるとまずいし。大事よ、夕暮れの保健室で生徒と教師が淫行してるのって」
「同棲してるのにですか?」
「それはそれ」
それもそうかと思ったが、そこで頷いたらきっと教師失格だろう。
私は鼻先に漂う匂いを感じながら、デスクに腰掛ける。
「やっぱりカルキとも少し違うかしら……」
「あ、そうですね。う〜ん、カルキ……カルキですか。どちらかと言えば芽吹いたばかりの新芽の匂いかな、五月頃の」
学生服を着る衣擦れの音を聞きながら、デスクに置かれた鉢植えを見つめていた。
赤茶色の土を指先でそっとすくってみる。
指先に宿る無温の感触は冷たくもないけど温もりもない。
乾いた土は、つかんだ指先からサラサラとこぼれていく。その度に芽吹いたばかりの二つの新芽は小さく震えている。
「そうそう、それだね。それぐらいの時期のポドゾル(腐葉土)の匂いに少し似てるよね」
子供の頃、ポドゾルは地面の中で眠ったまま腐っていくものだと思っていた。
枯れてしまえばもう一度、花を咲かせることはできない、当たり前だけど。でも、終わりを待つ枯れ草の匂いは命の匂いだと思う。
「セックスの後の匂いって、だから残るのかもね」
「僕は嫌いじゃないですけどね」
ふいに、彼の腕が私を背後から抱きしめた。私はそっと、彼の腕を抱きしめ返す。包帯の巻かれた骨と皮だけの腕を。それでも、その温もりが私を包んでくれる。
「匂いっていずれ消えてしまうんですよね」
「でも、覚えてることは出来るわ」
消えてしまうから忘れてしまうとは限らない。消えてしまうものの方が大事で、忘れられない時なんて幾らでもある。そして、大事だと自覚した時はもう手遅れの時が多いけど。
「僕でも何かを残せるかと思ったけど。覚えててもらえるならそれで満足かな」
彼の笑う頬に触れ、窓の外を見上げれば飛行機雲が。
それが蒼の中に段々と溶け込んでいく儚さは、彼に似ている気がした。
「ねぇ、もっと生きられないの?」
「少し難しいかもしれないですね。でも、あと二ヶ月は先生といられますから」
「そう――なんだ」
何の感情も込めないように、私は唇だけ動かす。残りのリミットを聞くたびに、どうにもならない感情が沸きあがって来る。
「先生がそういう態度でいてくれるから助かります」
「正直、辛いけどね」
どうしても我慢できなくてそんな言葉が出てしまった。子供じみた我儘だ。彼は何かを残せることを羨みながら、残してはいけないことを悟っている。だから、私はそれに答えなければならない。人の気持ちの全てなんてわかるはずもないし、それはひどく独りよがりな覚悟だけど。
それでも一緒にいたいのは――消える日まで重ねあっていたいのはお互いの我儘だ。
「すいません」
「いいよ」
私は彼の匂いを感じながら、そっと身を任せる。彼の体から漂うポドゾルの香りも命の匂だと思う。
でも窓から吹く風は、その匂いをどこかに運んでいく。
それがまるで彼の命を輝きを消していくようで、何とも言えない気持ちになっってしまう。
そんな私の心情を察したのか、彼は私の肩に包帯の巻かれた顎先を乗せる。
そっと、指先で彼の顔に触れると、包帯の隙間から乾いた皮膚がパラパラと崩れていく。
「変な病気ですよね。まるで砂になって消えてくみたいだ。なんだかロマンチックですよね」
「これで私も砂になったらもっとロマンチックだと思わない?」
とは言えなかった。
でも、それでもいいと思う。砂になって、風に吹かれポドゾルの中に溶け込んでも。そこで重なっていられるなら。
淡く儚い願いと共に穏やかな時間は過ぎていく。留まりそうな午後も、このままこうして抱きしめていたいだけという願いさえも、この手の中から消えていく。
そのことを思いながら、私は鉢植えを見つめたまま涙を堪える。
蜂の真中に芽吹いたばかりの二つの新芽は、まるで寄り添うように互いを支えあっていた。両手を広げ重ねたような姿は、いつか同じ鉢の上では花を咲かせられないと知る日が来るまで続くのだろうか。
ゆっくりと彼の身体が私から離れていく。
「先生、学校が終わったら借りてた映画の続き見ましょう」
「ええ」
離れてしまった時に湧き上がった寂しさが痛みに変わる。
分かち合う物なんて何もないけど、気持ちがだけが溢れて――涙で潤んだ世界が胸の痛みと溶け合った。
彼の背中に向かって私は、
「忘れるから。貴方が死んだら、貴方のことは全部、忘れるから」
ふいに――告げる。
「ありがとうございます、先生」
彼が微笑んだように見えた。
彼がそんな顔で微笑むなら――私も微笑んでいないといけないのに。
微笑んでいることなんて出来なかった。
私はギュッと白衣を握り締め、一度決めたはずの心が揺れるのを押さえ込む。
きっと、これでいいよね、例え間違いでも――。
だから、だから。いつか、訪れる別れが来るまで、もう少しこのままで。重ねあっていたい。今ある物を。失くす何かに怯えるよりも。君を失った私が私のままでいられないことに気づいたとしても。
零れ落ちた愛しさと切なさが、二つの新芽を濡らしたことに気づかないで欲しかった。

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