『シェア』

 溜息の数だけ何かを失うというばかばかしい話をされたことがあるけど、本当だと思う。
 溜息と嘆息で飾られた毎日に一時の休息が訪れても、僕を覆う灰色の雲が消え去ることはなかった。どうにも溜息ばかりが増えて、諦めに毎日が彩られていていく。
 アパートの中に一人でいるのもおっくうだけど、やり残しの仕事を自宅でわざわざ片付ける気にもなれないでいたところ、友人からの誘いがあった。
 僕が珠喜代と会うのは二週間ぶりのことで、学生時代に二人で行った喫茶『ハニービー』でいつも通りに待ち合わせていた。
 入ってすぐ右手にあるステンドグラスのはめ込まれた窓際の席は、広い店内から少し隔離されていて、そこが空いてる時は何となくそこに座ることにしている。
 何度もここには来ているが、いつも誘って来たのは珠喜代だった。と、言うよりもいつも誘ってくるのは珠喜代の方で、照れくさくて僕の方から誘ったことはなかった。
 珠喜代が来る前に何か頼もうかと迷った頃、いつもどおりに珠喜代はダメージジーンズと胸が見えそうなタンクトップ、ギターケース片手に店内を堂々と歩いてくる。本当にいつもこうだ。冬でも夏でも珠喜代羽那日(タマキヨハナビ)は必要以上に重ね着をしない。学生時代の冬、二人で富士急ランドに行った時もタンクトップにジャンパーとジーンズという格好でジェットコースターに乗っていた。『服を着ろよ』と僕が言うと『分かってないなぁ、ふうちゃん。ロッカーはね、着膨れしちゃダメなんだよ』と言いながらくしゃみしていた。
 明らかに周りの客が引いていても珠喜代は気にならない。珠喜代にとって大事なのは自分の流儀を曲げないことだからだろう。
 喫茶店はお気に入りじゃないとダメだし、アイドルのポップソングを演奏するぐらいならギターをへし折ると宣言し、自分の決めたことを遣り通す。
 今までにそういうことが何度かあり、珠喜代の服装についてはもう何も言わないことにしている。それは僕が、ダメな物はダメと諦めるのが速いタイプということもあるだろう。そういう執着心のなさを珠喜代は『ロックだねぇ』と笑う。珠喜代から見たらその潔さが格好いいらしい。僕としては知り合った頃からスタンスを曲げない珠喜代の方がずっと格好いいと思うけど。
 そんなことを考えていると、ジャラジャラとシルバーアクセサリーを鳴らしながら珠喜代が僕の前に座り、ギターケースを下ろす。
「やぁ、ふうちゃん。お待たせ」
「いや、待ってないよ。珠喜代が時間通りに来ることなんてないし」
「イェア。クールやねぇ、ふうちゃん」
 何がイェイなのかは理解しがたいが、珠喜代はいつも通りのロッカーらしからぬ、十代の女の子らしい子供っぽい笑顔で笑う。
『ふうちゃん』というのは僕、藤山麓雄武(ふじさんろくおうむ)の愛称で、出会った頃からそう呼ばれている。
「ふうちゃん、なんか頼んだ?」
「いや、まだだけど」
「先になんか食べてればいいのに」
「一人で食ってるのも変だろ」
 そう言いながら僕は分厚いメニューを開く。
 もう一冊メニュー表があるのに、珠喜代は『朝からガッツリ行きたいんだよね』等と言いつつ、僕のメニュー表を覗き込む。
「ふうちゃん、私がサンドウィッチ頼むからカレー頼んでよ」
「朝からカレーかよ」
『うん』とメニュー表を見たまま珠喜代が頷く。
「そんで半分頂戴よ。こっちも半分あげるよ」
「別に僕はいらないんだけど」
 そう言うと珠喜代はやれやれというジェスチャーをしてみせる。
「ふうちゃん、分かってないなぁ」
「何がだよ」
「こういうのはシェアするのが醍醐味なんだよ?」
 あまりピンと来なかった僕を見て、『そっか』と珠喜代は頷く。
「男の子ってけっこう黙々と食べるよね。ウチのバンドのボブもそうなんだよ。食べ終わると片言で喋りだだすんだけど。どこの国でもそういうのって一緒かもね」
 ボブというのは珠喜代のバンドでベースをやっているフィリピン人で、僕も一度遊園地で会ったことがある。日本語は下手だが妻子持ちの気持ちのいい人だった。
そもそも珠喜代のバンドには日本人は一人もおらず、全員がフィリピン人だけだったりする。他のバンドにいた頃『タマキヨ、オマエニヒイテモライタイ』と言われたのがきっかけらしい。最初の頃は互いに『イェア!』の一言だけでコミュニケーションを取っていたというのだからとんでもない話だと思う。
「じゃあ、半分食べるなら僕はカレーとカプチーノで」
 僕が頼む物を決めた後も、珠喜代はしばらくメニューとにらめっこを続けていた。
こういうことも普段ぐらいさばさばしてればいいのにと思ったが口にはしない。
 結局、珠喜代は海鮮パスタとウィンナーコーヒーを注文した。
「ふうちゃんさ、仕事楽しい?」
 マスターが注文を取って去っていくと珠喜代はそんなことを尋ねてきた。それは自分の中でいつも渦巻いている疑問の核心だったりする。きっとそれは珠喜代には分からない。互いの生き方は反対の方向を向いているからだ。
 最初から重なるはずのない僕と珠喜代のライフ、それが重なったのということがほんの数ミリの奇跡のような気さえしてくる。僕がここで楽しくないと答えその奇跡を砕いてしまのが怖くて何と答えればいいのか迷ったが、『まぁね』と素っ気無く僕は答える。そんな僕に珠喜代は『そっか。良かった』と無邪気な顔で笑う。僕はそれを直視することが出来ず、話題をそらす。
「思うんだけどさ、カレーとパスタを混ぜればシェアする必要もないんじゃないか?」
 そう言うと『ええ!?』と珠喜代が少し大きい声を出す。
「うわ、何言ってるの!?ふうちゃん、何も分かってねぇ〜!!」
 やや大げさに珠喜代は驚きながら嘆く。
 もうこの世界の終わりだと言わんばかりの反応だった。
「いや、だって海鮮カレーパスタって上手そうじゃない?」
「うわ、新しいメニュー編み出してやがる」
 僕の意見に『ダメだ、ダメだ』と珠喜代は嘆いてみせる。
「いやさ、だってその方が効率いいだろう?」
「ダメなんだってそれは。意味がないわけよ、それね。もうダメダメだよ、ふうちゃん」
 ダメ男を目の前にした女性はこんな反応をするものだろうか。
 最早、珠喜代は少し呆れていた。
「シェアって言うのはさ、言うならば世界を分け合うってことですよ」
「飛躍しすぎだろ、世界とかさ」
 僕が笑うとむきになった珠喜代は口の端を尖らせる。
「んなことたぁないさ」
「そうか?」
 『うん』と珠喜代は力強く頷く。
「なんての、私の住む世界とふうちゃんの住む世界があるじゃん?」
「世界ね。まぁ、あるとは思うけど……」
 そう答えながら僕は髪をかく。
 そこら辺の話になると少し憂鬱になる。
 自分が楽しい世界を選んでいる珠喜代には僕の住んでいる世界のことは分からないだろうし、『嫌いでも楽しくなくても働かないと飯が食えない』と言っても珠喜代は楽しくないなら飢え死にする方を選ぶだろう。こんな溜息の数だけ自分をなくして行く世界なんて選ばないだろう。
 僕達はこういう決定的なところで擦れ違うしかない。
 珠喜代は煌びやかなステージ、僕は渋滞の街並み、見つめている先はまるで違う景色なのだから。
 僕にはそれがとてつもなく寂しいことのように思える。
「それがね、シェアすることで混ざり合うわけですよ。世界を共有するわけですよ。ふうちゃんには分からないかなぁ」
「うん、あんま分からないな」
 そう言うと珠喜代は大きい溜息をついて、そっぽを向いて唇を尖らせる。
「寂しいじゃん」
『え?』と僕は思わず聞き返した。
「寂しいって……」
「いや、だからさ、一緒にいるのにさ、寂しいじゃん?分かち合える関係じゃん、私達ってさ」
 極々自然に珠喜代はそんなことを口にした。
「時々さ、すっげぇ距離があるみたいでさ。なんか寂しくなるんだよね」
 その言葉を聞きながら思う。
 なんでこいつはこう思ったことを直に口に出来るのだろう、と。
 自分の弱さやそういう感情をさらけ出せるのだろう、と。
 同じ痛みを感じながら僕達はなんでこんなに違うのだろう、と。
 僕は思わずテーブルに額をつけそうになる。
「どったの?ふうちゃん?」
 いまだかつてないほど答えに困って顔を上げる。
 自分も本当は寂しいと感じていたことを口にしようか迷ったがやっぱりやめた。
「寂しいすか、珠喜代さん」
 コクリと珠喜代は頷く。
「そりゃ寂しいっすよ」
 素直に隠すことなく珠喜代はそう言う。
『そうすか。じゃあさ、来週、暇すか?』
 等と言えるはずもなく僕は窓の外を見る。
 いつも思う、ほんの少し手を伸ばせば何かが変わるのに。
 珠喜代と僕。未だに僕達は友達のまま。
 珠喜代は自分のペースを崩さず、僕は選ぶふりして流されたまま、二人の時間を重ねながらも一歩も僕らは進まない。
 自分の気持ちなんて言えなくて、いつか珠喜代が何か言ってくれるのをずっと期待したままずるずると時間だけが過ぎて、進まないまま僕たちの距離はいつの間にかどんどん開いていく。同じ気持ちを抱える僕達はどうしてここまで遠いのか不思議になってくる。もしかしたら溜息の数だけ何かを失くすのではなく、距離が離れていくのかもしれない等と思った。
 何となく気まずくて会話がなくなった僕たちの所に『お待たせしました』とエプロンをつけたマスターの娘さんがパスタを運んでくる。丁寧な動作でゆっくりと僕達の前に並べられていく。
 これを食べたら、僕達は適当に遊んで、次の約束もないまま別れてくだろう。明日の約束がないのはどこにいても変わらない。上手くいかないのもどこにいても変わらない。
「とりあえず、分けようか」
「いいの?」
「まぁ、たまにはそういうのも」
 珠喜代は少し驚いた顔の後、『うん』と嬉しそうな顔で頷く。
「と、言うよりも僕は海鮮カレーパスタのおいしさを実証する」
「ふうちゃん、絶対おいしくないってそれ」
「……食べるのは珠喜代だけどな」
「私かよ!?って混ぜないでよ!!」
 本当は僕だって溶け合えるなら溶け合わせてしまいたい。滑らかなバターのように、重なり合うハーモニーのように。世界も現実も未来も、気持ちさえも溜息さえも。
 海鮮パスタとカレーを混ぜながら、離れてしまうことなど出来ないように混ざり合ってしまえばいいと思った。


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