『セツナさいくる×2』
『……優……希……優希……起きて』
私の名前を呼ぶメイド長さんの声。
……邪魔しないでください。
今、私は克己さんと幸せな時間を過ごしてるんだから。
克己さんの切れ長の瞳が私をじっと見つめる……。
それはシャープなエッジみたいで……ううん。私は好き。
皆は無表情で冷たいって言うけど、私は克己さんが本当はすごく優しいことを知ってる。
克己さんの繊細な指先が私の栗色の髪をなでてくれた。
穏やかで綺麗な瞳だと克己さんが呟く。
その言葉の一つ、一つが心に染込んでくる。
やんわりと優しく……。
好き。大好きです。克己さん。
で、でもまだ付き合ってから手もつないでないのに。
いきなり、そんな……嗚呼!!
克己さんの指先が私の体をそっと触れてくる。
そのタッチはとてもソフトで心地いい……。
天使のように繊細で優しく、メフィストのように大胆で妖艶に……。
指の触れる場所はどんどん……あ……。
お父様、お兄様ごめんなさい。
私、佐東優希は古くから政治機関に名を連ねる佐東家の血を継ぐ身でありながら……ありながらも禁忌を破ります。
『優希……』
私を呼ぶ声……メイド長さんじゃない。
褐色の肌に八重歯……殺姫初生(さつきはつおい)ちゃんだ。
大きな双眸は心配そうにこっちを見つめている。
心配してくれたんだね。
最近、克己さんのことで相談してたもんね。でも大丈夫だよ。
……想いは一つだもん。
『優希』
初生ちゃんはもう一度、私を呼ぶけど、もう誰にも私を、私たちを止めることなどできなかった。
手、足、ふともも、みみたぶ、それと私の控えめな胸も……克己さんの薄絹をなぞるような軽やかな指の動き。ゆっくりと私の体を弄ぶ。
体の底から熱い何かがせり上がってくる。
……克己さん、あ、あの、や、優しくしてください。
私が呟くと克己さんがフッと笑ってくれた。
それはいつもの口元だけの微笑み……大好きです、克己さん。
克己さんの指先の愛撫が全身に行き渡ったころ、体は火照って熱気に包まれていた。
大丈夫かと克己さんが尋ねてくる。私がコクリと頷くと克己さんの唇が……。
互いの距離が……。
……。
…。
「優希起きなっての!!」
ビクリと私の体が跳ね起きる。
「初生ちゃん……」
初生ちゃんは肩をすくめて見せる。
頭の中の桃色の靄……それがゆっくりと薄れていく。
ぼんやりと周囲を見ると授業は終っていた。
教室もざわついて皆、席それぞれを離れている。
やっぱり夢だった……。
克己さんは天地が崩れようともあんなことしないのは分かってるのに。
夢……少し胸の奥が痛い。
「おはよ、寝ぼすけさん」
スッと初生ちゃんが差し出してくれたパック牛乳を受け取る。
「う、うん」
きっと私の顔は真っ赤だと思う。
恥ずかしい……あんなえっちな夢見るなんて。
克己さんにバレたら嫌われてしまう……。
で、でも、でも、頭の中には残滓がまだ残っているのが少し嬉しい……。
私の体はいまだに熱を持ったままだった。
◇
「で、どうなの? 克己君とは」
初生ちゃんはスメラギとロゴの入った牛乳を飲みながら私に尋ねた。
「う、うん……」
給食を食べた後、窓際の席で初生ちゃんと日向ぼっこ。
こういう女の子っぽい話は、犬杉山中学校に転校してくるまでしたことなかったから少し恥ずかしい。
実家から追い出されて、ここに来たばかりの頃……。
給食という物を食べたことがなく、カルチャーショックを受けたことはまだ覚えてる。
「うん、その……」
私がしどろもどろで恥ずかしがると初生ちゃんが笑った。
「で、どれぐらいまで進んでるの?」
初生ちゃんが身を乗り出す。
ど、どれぐらい……付き合ってかなり経つし……。
「ち、中ぐらいかな」
がたっと、初生ちゃんの座る椅子が傾いた。
驚いたように大きな瞳を見開いてみせる。
「チュ−!?」
「うん、中ぐらい」
「けっこう進んでるね。そっか、チューぐらい。うん、中々やりますな〜。いやぁ、お姉さん安心したよ」
そう笑いながら私の肩を叩く。
中ぐらいって良い方なのだろうか……。
「で、でもね、最近、克己さん忙しいみたいだし、一緒にいる時間もあまりないし……。私の家にばれるとまずいのも分かるけど……」
「そっか。優希の家にばれると執事さんとかうるさそうだもんね。次の日、学校来たら克己君が網走とか沖縄に転校させられてたりとか」
「う、うん。それぐらいはするかも……」
そう、それが最近の私の悩みだった。
出来れば一緒に学校行って、学校から帰りながらデートしたりとかして。
もっとお互いのことを知りたいと強く思う。
でも、なんというか、お互い不器用でうまく喋れなくて……。
「最近、克己君と帰ってないもんね」
「う、うん……。それに克己さん、他の女の子と仲良いし」
自分でそこまで言ってやや怒気がこもっていることに気づく。
「忙しいって言う割には他の子と一緒にいるし……」
嫌な私……ただ嫉妬のだって分かってるのに。
「克己君、最近は涼と一緒にいること多いよね」
「うん。皇さんと一緒……」
皇涼さん……。
スタイルがスラリとしてて、澄んで凛とした切れ長の目がとても似合う女の子。
しっとりとした黒髪ポニーが綺麗でモデルさんみたいだと思う。
美少女、そして……複合企業スメラギ財団のお嬢様でもある。
先祖代々、政治機関『羅針戒』に属す私……。
その境遇は私とよく似ているけど、皇さんはもっとしっかりしてて、私なんかより強い。
「克己さんと皇さん、幼馴染だよね……」
私はそれがとても羨ましかった。
きっと子供の頃から克己さんのことを知ってて、私の知らない克己さんを知ってる。
克己さんにとって特別な存在……私はそれにカウントされてるのだろうか。
「全く、克己君は。涼と何してるんだろね、自分の彼女ほっぽって……私が克己君に言おうか?」
私も克己さんに……もっと一緒にいて欲しいって言いたい。
もっと知って欲しいし、克己さんのことを知りたい。
「ううん、初生ちゃん。私、自分で皇さんから克己さんのこと聞いてみる」
私はグッと胸の前で手を握ってみせた。
自分で動かなきゃ。
告白した時だって頑張って勇気出したんだから。
「優希……そっか」
初生ちゃんは少し驚いた顔の後、微笑んで私の頭をなでてくれた。
「大丈夫だよね。優希はやる時やるタイプだもん」
「うん! 頑張る!」
初生ちゃん、ありがとう。頑張ります。
◇
「克己と最近何してるか?」
皇さんがゆったりとした動作でお茶を飲む。
古ぼけた湯飲みに書かれた文字は『覇道』だった。
「は、はい」
ファイルや書物がキッチリと整理整頓された生徒会室内。
鼻先に皇さんの出してくれたお茶のいい香りが漂う。
多分、それもスメラギの作っているお茶だ。
「……克己のことか」
皇さんが考えるように呟く。
私は皇さんと向き合って座り、差し出されたお茶を飲んだ。
どうしてだろう。皇さんの前だと萎縮して敬語を使ってしまう。
それは皇さんの一つ一つの動作に妙な迫力があるからかもしれない。
「佐東は克己と付き合っているのだったな」
「は、はい! 彼女です!」
「うむ。そう興奮するでない」
「は、はい」
皇さんがまた流麗な仕草でお茶を飲む。
「しかし、不思議なものだな、経済のスメラギと政治の羅針戒が一つの場所に居るとは」
「ええ……」
政治機関……この国の政治に深く関わるシステム。
知ってるのはそれだけだった。
羅針戒なんて言っても学校で分かる人はほとんどいない思う。
私は御父様から何も知らされてないため、政治機関として何をしているのか把握できていなかった。
漠然としていて、イメージもスメラギほどはっきりなんてしていない。
「宿命か、因果か……」
ジッと私を見つめる皇さんの眼差し……。
穏やかで人を落ち着かせる雰囲気。
格好いい女の人、そんな言葉が良く似合う。
なんとなく、皇さんなら悩まないで格好良く恋愛するんだろうな……と思ってしまった。
「いや。それよりも克己か……」
「はい……」
私が頷くと、フッと皇さんが微笑んだ。
「不安に思うかも知れぬが安心せよ。佐東は克己が選んだ女子だ」
私が克己さんに告白して、克己さんは私を受け入れてくれた。
家のことや、これから嫌な思いをするかもしれないことも話した。
それでも克己さんは私を受け入れてくれた。
それを選ばれたんだって思っても……不安になるときはある。
私といるのが嫌になって、他の子のこと好きなるんじゃないかって……。
「私も何かあれば協力する。佐東とは同じ境遇、それに克己は私から見ても鈍感すぎるからな」
同じ境遇……。
皇さんはそんなことで悩まないと思ったけど、悩んだことがあるのだろうか。
「ありがとうございます」
「礼など良い。それよりも……聞いていいか?」
皇さんの綺麗な顔が少し赤くなった。
意外な表情だけど、それが妙に可愛いらしい。
「こ、恋人同士ということは……」
「はい」
「その、き、『きす』したりとかもするのか?」
「あう……それは」
皇さんは口にするのが恥ずかしいのかゴニョゴニョと呟く。
その瞳には先ほどと違う迫力があった。
「とある書物で読んだが……檸檬の味なのか?」
「れ、檸檬ですか?」
まだキスどころか、手もつないだことのない私には答えられない。
皇さんは私の動揺に気づくと、フーとため息をついてお茶を飲む。
「いや、すまぬ。失言だった。許されよ」
「は、はい」
「べ、別にそのようなことに興味があるわけではない。最近読んだ書物に少し影響されただけだ」
「……コバルト文庫ですか?」
皇さんが突然むせ返った。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だ、だれがコバルト文庫など。そんな俗物を……」
皇さんもコバルト好き……すごくシンパシー感じる。
私はなんとなくだけど、皇さんともっと仲良くなれるかもしれないと思った。
皇さんが話を逸らすように咳き込む。
「そう言えば、克己は最近はドラといることが多いな」
意外な名前が出てきて私は少し驚く。
なんで私以外の女の子と……。
だって、昨日も忙しいから一緒に帰れないって言ったのに。
「え? ドラちゃんですか?」
ドラちゃん……海外留学生のドラグウェル・リンプビズキットちゃん。
素直で明るくて……男子、女子からも人気がある子だと思う。
確か、克己さんの家に下宿してるって聞いたけど……。
また、私は少し嫌なことを考えてしまった。
「うむ。また屋上にいるだろうから話を聞いてみるといい」
「はい」
私はスッと席から立った。
「あの、皇さん……」
「ぬ?」
「お茶、美味しかったです」
私が微笑むと皇さんの顔が真っ赤になる。
「そ、そう思うなら、今度から私のことは下の名前で呼ぶがいい。苗字で呼ばれると堅苦しい」
「はい!私も名前で呼んでください。今度、コバルト文庫貸しますね」
「……是非」
そう言うと皇さんは照れながら微笑んでくれた。
やっぱり私たちはもっと分かり合えると思う。
今度ゆっくりとお茶しましょう、涼さん。
◇
「おお、優希」
私が屋上に行くとドラちゃんはフェンスの上から下りた。
風がやんわりと頬に触れるように吹く。
それがドラちゃんのグレイッシュカラーの髪を靡かせる。
皇さんと違う美しさ……どこか神秘的な感じ。
大空を旋廻していた小鳥達がドラちゃんの周りに降り立った。
まるで戯れるように、歌うように。
「ここは良い風が吹く場所だな」
ドラちゃんはくすりと微笑むと手の甲に乗った小鳥を見つめる。
「あの、ドラちゃん」
「どうしたのだ」
ドラちゃんの双眸が私を見つめる。
それは引き込まれそうな深い金色の輝きだった。
「うん。克己さんのこと聞きたくて……」
「おお! エディフェルス……克己のことか」
……エディフエルス?
ドラちゃんの国の言葉で克己さんのことだろうか。
「うむうむ。好きなだけ聞くのだ。克己のことなら色々知ってるゾ」
ドラちゃんのお尻につけている尻尾のようなアクセサリーが揺れる。
それはまるで喜んでいるみたいだった。
「ドラちゃん、克己さんと仲良いよね」
「うむ! 仲良いぞ。我は克己のことが好きだ」
「え……」
ドクンと私の心臓が鳴る。
「克己は鋭くしなやかな、エディフエルス……烈の風。一緒にいるととても心地いい……」
ゆっくりとドラちゃんが目を閉じ、開く。
女性的な大人びた横顔……。
その横顔と普段のギャップに私はドキリとした。
「風……?」
「優希も好きだ。優希はラキシュク……柔らかで穏やかな春風だ」
ニパッとドラちゃんが微笑んだ。
太陽のようなナチュラルなスマイル。
きっとそれは見につけるようなものじゃない。
こういう自然な表情ができるのが羨ましいと思った。
「うん、私もドラちゃんが好きだよ」
「おお! 我等は『せーしせーあい』なのだなっ!!」
「相思相愛ですっ!!」
ドラちゃんがにゃははと笑い、クルッとその場を回って見せる。
天真爛漫な自然体の仕草と時折みせる大人びた顔……。
克己さんも一緒に暮らしてて、ドラちゃんにドキリとすることがあるだろうか……。
私はまたそんな嫌なことを考えていた。嫉妬したってしょうがないのに。
「あの、ドラちゃんは最近、克己さんと一緒にいるよね?何してるのかなーって思って」
私がそう言った途端、ドラちゃんの表情が曇った。
「うむむ……すまぬ」
「え?」
思わず私はそう言った。
「克己からは優希に教えるなと口止めされてるから何も言えないのだ」
口止め?
何のために?
ドラちゃんの手の甲から小鳥達が飛び去っていく。
胸の中に重い何かが落ちる感覚がした。鋭い痛みを伴いながら。
「ど、どういうことかな?」
「う〜。言いたいのだが、あ、ワシュプルなら……」
「わしゅぷる?」
「ワシュプル……楓なら話すと思うのだ」
ビクリと私の体がその言葉に反応する。
「楓って……あの楠木楓さん?」
ドラちゃんがコクリと頷く。
「楠木さんか……」
あまり……気は進まない。
端的に言えば楠木さんが苦手だからだ。
それ以前になんで楠木さんが……。
「ん……。じゃあ、楠木さんのとこ行ってみるね」
「うむ!!」
「ちなみにわしゅぷるって……」
ドラちゃんが再びニパッと笑顔になる。
「台風!!」
「……」
◇
薄暗い空間の中で乾いた空気が蠢く。
その部屋はまるで肌を刺すような冷たさに満ちていた。
ゴチャゴチャとした配線やコードが狭い部屋の中を行き交い、漫画の雑誌が山積みされてる。
学校内でもっとも混沌とした空間……。
ここ、パソコン室教材倉庫は完全に楠木さんの私物と化していた。
「んでドラっちから聞いて、私ちゃんのとこに来たんだ」
楠木さんが眼前のパソコンを眺めた呟くと、高い声が室内でエコーする。
その女の子らしい高い声が室内とミスマッチだった。
小さな体とごちゃごちゃした配線とパソコンもひどく不釣合いだと思う。
もちろんパソコンも雑誌もスメラギ製の物だ。
「う、うん……」
私は楠木さんの背後で長い黒髪を見つめただ頷く。
楠木楓さん……。
この教材室やパソコン部を私物化したり、学校に来ては一日中機械をいじったり……。
行動に理由がなければ規則もない、暴風という言葉が確かに合ってる気がした。
「まぁ、克己ちゃんとは色々話したナリヨ。私ちゃん達はけっこうディープな関係だしネ」
口調は軽くまるでおどけているようだった。
楠木さんのモニターでは不規則に将棋の駒とチェスの駒が並んでいる。
その中には、よく見ればオセロの駒もあった。
全くの不規則、全くのデタラメ。まるで楠木さんそのもののような気さえする。
「でも、それをチミに話しても私ちゃんには何のメリットにはならないんだよね。むしろ、知ったことではないよん」
楠木さんがタンとキーボードを叩くと、画面上で将棋の王将が一歩前のマスへ進む。
「佐東ちゃんだっけ? 君って克己ちゃんのことどれだけ知ってるの?」
「え……」
「答えられないよね」
クルリと椅子ごと回転し楠木さんがこちらに向き直る。
眼鏡の奥のあどけない瞳が私を見つめた。
「知る必要ってあるのかな?」
「だ、だって……」
「克己ちゃんは君の事情知って受け入れたらしいけどね。君は今まで克己ちゃんのことを分かったつもりだった……つもり、つもりのつもり恋愛だよネ。私ちゃんとしては『あなおかし』って感じ」
「……」
少し私は焦燥感にも似た感情を感じた。
楠木さんは口調はおどけているが、言葉の端々からこちらを攻める意志があった。
まるで自分が考えている不安を全て叩き付けられような感覚だ。
「クフフ。そのまま知ってるつもりでいるのはどうかにゃ?知らない振りってのは楽でいいよ」
モニター画面はいつのまにか、黒いキングと王の一騎打ちになっていた。
「楠木さん……」
「ん?」
「克己さんのことが心配ですか?」
何となく感じたことを口にしてみた。
楠木さんの一瞬の間。
「ほうほう、ただのお嬢さんだと思ったら。言ってくれるネ。うん。そうだよ。私ちゃんは克己ちゃんが心配さ。なんつっても幼馴染だからね」
いつの間にか画面には黒のキングだけが残っていた。
それも突然起こった爆発に吹き飛ばされる。
まったく無茶苦茶だった……。
「君の家庭事情は分かってるよ。分かってるからこそ、克己ちゃんが心配だったんだよね」
「家のことですか?」
「ん。家もそうだけど。大体がね、克己ちゃんは短期間でこんなに沢山の女の子のとこフラフラしてるんだよ? まだ信じるの? 私ちゃんとディープラヴかもよ?」
「し、信じてますから………!!」
少し語尾が強くなり、紡ぐ言葉に力がこもっていた。
信じてる……私は嘘をついた。
今だって不安で押しつぶされそうなのに……。
「まぁ、いいや。単純に君の家庭は恋愛の障害と考えようよ。そう考えるとさ、これって大きすぎるよ?どうするの?」
分かってる。
そんなこと、私は……。
お嬢様、お嬢様、お嬢様。
子供の頃からズッとそうやって見られることには慣れてる。
でも……慣れてるけど受け入れてるわけじゃない。
私の答えはいつだって決まってる。
「それでも、克己さんが好きなんです」
佐東家を受け入れてるわけじゃないから、私の選択は誰にも委ねない。
自分のことは私が決める。
私は克己さんを好きになった。
それが私の選択、これだけは絶対に曲げない。
何も知らない私が唯一胸を張れることだから。
何があろうと。どんなことが起ころうと。
「……くふ」
ブツリとモニターが切れると、楠木さんが体を丸めた。
その手はお仲の辺りを必死で押さえ、小刻みに体が震えている。
「く、楠木さん?」
「いやいやいや……くふふふ、君って子は」
私はやっと楠木さんが笑ってることに気づいた。
ゆっくりと楠木さんは顔をあげる。
その顔はさも可笑しそうに笑っていた。
「面白い。面白すぎるネ。とんだ頑固姫君だ。君なら涼ちゃんに対抗できるかもしれないね。私ちゃん、君に興味もっちゃったよ。まぁ、仲間みたいに思われても迷惑だけどネ」
「え? え?」
私が理解できずにいると楠木さんの笑いが消えた。
「どうして克己ちゃん好きになったの? きっかけは?」
「あ、はい……」
私は急にカッと体が熱くなった。
今でも覚えてる。克己さんと初めて会った時……。
「駅で、子供が泣いてて……それを克己さんが助けてあげてて……」
楠木さんが椅子からずり落ちた。
構わず私は言葉を紡ぐ。
「ほ、他にも!! 克己さんは神社の階段上れなかった御婆さん手伝ってあげたりとか……。どんな人にも不器用だけど……本当に優しいんです」
そう、そうやっていつも照れて口元だけで笑って……。
私はそんな克己さんの仕草が大好きで……。
「くだんねー! くだんなすぎるよ、それ」
楠さんは声をたてて笑った。
「く、くだらなくないです!!」
「くだらないネ。本当にくだらない。優希ちゃんって本当にお金持ちのお嬢様なわけ?」
「くだらなくないです!!」
楠木さんは声を出して笑った。
「面白すぎだよ、優希ちゃん。んだよ〜、分かってるじゃん、克己ちゃんのこと」
あ……。
言われて私は気づいた。
私は克己さんのいいところをこんなに知ってたんだ……。
「克己ちゃんが最近、コソコソ何してるか知りたいんだよね?」
「は、はい!」
楠木さんが意地悪く微笑む。
「残念ながら、それは言えないんだな〜。克己ちゃんにはさ、優希ちゃんよりも、涼ちゃんとくっついてもらいたいもん」
「な、なんでそこで涼さんが出てくるんですか」
「ま。優希ちゃんじゃ、涼ちゃんにまだまだ勝てないと思うけどね〜」
「わ、私だってそれくらい分かってますよ」
私はやっぱり楠木さんが苦手だ。
でも、少しだけ、どういう人か分かった気がする。
「そ、そうなんですか……」
「ヒント。常葉さんに聞いてみなよ。あの人は私ちゃんがリスペクトする数少ないセンセだからね」
「常盤先生ですか?」
今度は常盤常葉(ときわときは)先生……。
三つ編みと眼鏡、ブカブカの白衣がトレードマークの保健室の主。
詳しい年齢は知らないけど、外見年齢は楠木さんや私とそんなに変わらない。
ぶっきらぼうで、口が悪くて、尊大で……とても優しい方。
それがなんとなく克己さんと似ていると思う。
「私ちゃんとしてはここまでかな。解答は次回の解決編にって感じ。優希ちゃんに次回があるかなんてしんないけどネ」
楠木さんがモニターに向き直る。
「……楠木さんありがとうございます」
「別に君の味方じゃないナリヨ……でも克己ちゃんのことはよろしく」
楠木さんが小さく呟くと、胸を張って私は答える。
「はい!!」
◇
「失礼します」
ゆっくりとドアを開け、保健室の中へ入る。
鼻孔に漂って来たのは黴臭い薬品の匂いではなく、オーデコロンの香りだった。
スッと通り抜けるような爽やかな匂いは常盤さんのフレグランスだろう。
常盤先生が一度保険医をやめて復職した時、一番喜んだのは男子生徒だ。
いつもなら絶えず男子生徒が来ているのだが、今日は先生以外いなかった。
「どうした? 風邪かね?」
本が山積みされたデスクから常盤さんがこちらを見つめる。
本でできた谷間のせいでより常盤先生が小さく感じた。
「あ、いえ、少し知りたいことがありまして……」
ニッと常葉さんが笑う。
「芹沢のことだろ?」
「なんで分かったんですか?」
「うん。まぁ、座ってゆっくりしていきたまえ」
「は、はい……」
私は常葉さんの正面に座った。
「芹沢から優希の話は聞いててね。確かに相談には乗ったな」
常盤さんの書類を書く手が止まった。
ゴチャゴチャとしたデスクから書類が数枚落ちる。
「私のことですか?」
「ああ」
「その話は教えてもらえませんよね?」
「ダメだ。芹沢に直接聞きたまえ」
「そう言われると思いました……」
私は小さくため息がもらす。
「若い内、特に子供の内は苦労する方がいいぞ」
「常盤先生。子供扱いしないでください」
フフッと常葉さんが笑った。
「それに若いって……先生だって私と見かけ変わらないじゃないですか」
「いやいや、こう見えても大人の女だぞ、私は」
「むぅ……」
私は再度、ため息の後、机に突っ伏す。
芹沢さんはなんで私にこそこそしてるんだろう……。
そう思うとキュッと胸の奥が締め付けられる。
私は信じようと思うけど、やっぱり苦しい。
「なんだか……悩んでばっかりで少し嫌です」
きっと、何も考えないで待ってるほうが……楽かもしれない。
楠木さんが言うように知らないふりしたほうがいいのではないだろうか。
「ばか者」
常盤先生の投げた紙飛行機が私のおでこに追突した。
「あう、先生……」
「悩まないで答えなんぞでるものかね」
「だって……」
「悩んで悩んで納得するまで苦しみたまえ。誰かに与えられた答えではなく自分の答えを出すためにね」
先生の瞳は何とも言えぬ憂いを帯びていた。
優しさの中に込められた深い哀愁……。
皇さんやドラちゃんと同じで、大人びた瞳だけど少し違う。
少女と大人の間ではなく、それは大人の女性そのものだ。
「私も悩むのに疲れて目を逸らしたことがある。誰かや時間が解決してくれるってな」
「先生が?」
「ああ。目を逸らしてたって何にもならなかった……時間は何も解決なんてしてくれなかったよ」
「……」
先生の瞳は様々な物を宿していた。
哀しいことやつらいこと……。
きっと、私と同じように悩んで、自分で答えをだしてきたのだろう。
積み重ねてきた一言の重みが、私の心にそっと語りかけてくるような気がした。
「先生、私……直接克己さんに聞いてみます」
直接聞くのが怖くて逃げてたけど……私は克己さんの恋人だ。
もっと克己さんを知りたいなら逃げてちゃだめだと思う。
「うん。優希の答えを待つのではなく自分から解決に向かう姿勢は合格だぞ」
常盤先生は背伸びの後、ゆっくりと立ち上がる。
「私なんかよりずっと立派だ」
そう言いながら備品の冷蔵庫から壜(ビン)を二本取り出した。
「なんですか、それ」
「なんだ、ラムネも知らないのか」
「ラムネですか、あ、中に球が入ってますね」
先生が私にラムネを手渡す。
「ご褒美だ。飲むかね?」
「ご褒美ですか?」
「ん。褒美にキスでもしてやろうかと思ったが、それは克己に取って置きたまえ」
「あう……」
カァーっと。私の顔に熱が集まってくる。
「待ってるだけでは何もならない。時間が解決してくれることなんて、せいぜい明日の天気ぐらいだろ?」
「先生……」
ひんやりとした壜の中でゆれる琥珀の輝き……。
それが熱くなった私にはちょうど良かった。
◇
「にゃは。克己〜!!一緒に帰るぞ〜!!」
放課後の教室で……。
「ちょい待ち。私ちゃんとゲーセンよる約束だよね、克己ちゃん」
いつも通り……。
「克己、生徒会の資料のことで目を通して欲しいのだが……」
ドラちゃん、楠木さん、皇ちゃん、初生ちゃんに囲まれる克己さん。
「克己君、帰る前に数学教えて欲しいんだけど」
「いや、俺は……」
克己さんが言いよどんだ時、
廊下から見ていた私は教室の中に飛び込む。
「克己さん!!」
いつもより三割り増しぐらい大きな声で、私は克己さんの名前を呼んだ。
「私と帰りましょう!!」
一瞬の間の後、克己さんは口元だけでフッと笑った。
「ああ……」
皆が顔を見合わせて微笑む中、私は克己さんの手を引き教室を飛び出した。
夕日は赤く落ちて……赤トンボが明日へ飛んでいく。
秋風はただ優しくて……頬に触れてどこかへ消えていく。
私たちは互いに言葉はなくて……黙々と学校帰りの土手を歩く。
「佐東……」
いつも通り、克己さんが苗字で私の名前を呼んだ。
「はい」
川原で野球をする子供たちの声が遠く聞こえる。
「初生から聞いた……すまない」
私はコクリと頷く。
許す気持ちが半分、怒ってる気持ちが半分。
両方合わせても好きという気持ちは変わらない。
「話さないといけないことがある」
「え?」
克己さんは小さく首を盾に振った。
「大事な話だ」
ふいに心臓が脈打った。
胸の奥で黒い不安がゆっくりと広がっていく。
克己さんがそういうことを話すことなんて今までなかった。
言葉がないまま私たちは歩き続ける。
いつもは言葉のない会話にもどかしさを感じるのに……。
大事な話しが何なのか。
克己さんに問うことなんてできない。
沈黙したまましばらく歩き、差し掛かったのは坂道の多い地区だった。
克己さんの大事な話……。
私は克己さんのやや後ろで、石畳の絨毯を見つめながら歩く。
自然と克己さんの伸びた影を私は追う。
オレンジに染まる詩情的な町並みなんて目に入らなかった。
なんでこんなに近くにいるのに心が遠いんだろう。
思えばいつも私たちはすれ違って……。
同じ道を歩いて、同じ思いを抱いてると思った。
でも、それは違ったのかもしれない。
坂道の頂上で克己さんの足が止まった。
私もそれに合わせて止まり、視線を上げていく。
ジッと私を見つめる克己さんの瞳は夕焼けを浴びて強く輝いていた。
「佐東」
「は、はい」
うつむいたまま、私は答える。心臓が乱れたリズムを刻む。
不安は私をゆっくりと飲み込んでいく。
怖かった。
多分、私はどんなことを言われて克己さんが好きだから……一緒にいたいから。
だから……。
「数日間、迷った」
「克己さん……」
スッと克己さんの手が動く。
私が言おうとした言葉は出てこなかった。
ただ、克己さんを見つめる。
目の前をゆっくりと赤トンボが通り過ぎて……。
「……これを」
克己さんが差し出したのは厚めの日記帳だった。
「これ?」
私が尋ねると克己さんが頷く。
「プレゼントだ」
私は日記帳を受け取ったまま固まった。
「……プレゼント?」
問いただす声は弱々しく震えているのが自分でも分かった。
「ああ」
「……誕生日まだですよ」
「ちゃんと覚えてる」
あ、うれしい。
「じゃあ、なんで……」
「特に理由はない」
ゆっくりと足から力が抜けていく……。
私は思わず、ヘナヘナとその場にへたり込んだ。
「佐東?」
「もしかして、それで皆に相談してたんですか?」
「ああ……」
「ああじゃないですよ!!」
私の怒鳴り声に克己さんがビクリと震えた。
「克己さんのバカバカバカバカバカバカ!!!!」
「……気にいらなかったか?」
「バカ!!」
思わず涙があふれてくる。
色んな気持ちがあふれて……。
ずっと不安だった。苦しかった。
なんでもないことだと言われるかも知れない。
でも、胸が苦しくて……苦しくて。
なんでこんなに私たちはすれ違ってばかりなんだろう。
なんで……。
「泣くな」
克己さんの細い指が私の涙をぬぐう。
私はキュッと克己さんの袖を握っていた。
「俺は佐東に泣かれるのが一番辛い」
「でも、でも……ずっと不安だったんですよ……。嫌われたって思って……」
「それはない」
「他の子を好きになったのかなぁって……」
「それもない」
克己さんが頷く。
「安心していい。俺は佐東が……」
「佐東が?」
聞かせて欲しい。
その言葉の紡ぐ先を。
克己さんの思いを。
「佐東がす……」
「佐東がす?」
克己さんが照れて私から目線を逸らした。
「佐東が……スフィアセリアス」
「……なんで急にドラちゃんみたいな言葉を使うんですか?」
克己さんが片手で顔を覆う。
どことなくその仕草は恥ずかしそうだった。
「意味は?意味はなんですか?」
「スフィアセリアス……」
克己さんがもう一度ゆっくりと呟く。
そして、袖をつかんでいた私の手をそっと握る。
暖かくて大きな手……。
克己さんが私の手を握るのはこれが初めてだった。
先ほどとは違うドキドキ……。
それはとても心地よくて暖かい気持ちだ。
「佐東……」
「は、はい」
「俺は佐東が何を欲しがるか。考えても分からなかった。俺は多分、佐東が俺のことを分かってるほど、佐東を知っていない」
「私だってそうです……克己さんのこと……」
私は楠木さんが言うように克己さんのことを知ってるつもりだったんだと思う。
恋人同士になったつもりだった。
「佐東……」
克己さんが私を見つめる……。
「そのノートで俺と交換日記してくれないか?」
「克己さん……」
「俺は……佐東のことをもっと知りたい」
克己さんは私を見つめ微笑んだ。
「あ……」
思わず、私は呟いた。
それはいつもの口元だけの笑いじゃない。
まるでそっと吹く秋風のような顔全体をほころばせる優しい微笑みだった。
そう、まだ私の知らなかった克己さんだ。
「私ももっと……克己さんのこと知りたいです」
「ああ……」
「克己さん……大好きです」
そっと秋風に乗せて思いを届けた。
「ああ」
相変わらず、克己さんは短く答える。
いつもどおりの不器用な答え。
それでも……私はうれしかった。
同じ思いでなくてもいいと思う。
思いの形なんて本当はどうでもいいのかもしれないから。
克己さんの思いの形、私の思いの形……。
まだ、恋人同士らしくない関係だけど、いつかきっと……。
「あ、あの……克己さん」
「ん?」
「も、もう少しこのままでいいですか……」
この繋いだ手の温もりを忘れたくなかった。
「ああ。もうしばらくな」
私たちは少しだけ体を近づけ、坂の下でオレンジに染まる町を見つめていた。
互いの手を握り合ったまま……。
ガラスの箱に閉じ込めて、ずっと二人で眺めていたかった。
私たちはこの町で恋をして、少しずつ恋人同士になっていく……。
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