『セツナさいくる×3』

 


私、殺姫初生(さつきはつおい)は水の中から空を見上げてた。
水面の上を、通り過ぎる蜻蛉の影が揺らしている。
手を伸ばせば、そのゆらめく影もすぐに消えてしまう。
誰にだって居場所が在る。
私は鳥達のように飛ぶことができないと知った時、ここから見上げることにした。
アクアの蒼と白の中から、スカイの蒼を。
空の蒼と水の蒼は違う蒼だと知りながら――ただ見つめる。
私の褐色の肌も、短い髪も、水着に包まれた薄い胸も、水の中になんて溶け込めないのに。
ここは私の居場所じゃないのだから。
水面に落ちる葉のように、魚のように、ただ揺られてたゆたう。
きっと、それは魚に比べたらほんの刹那――。
ゆっくりと、水面に顔を上げて空気を吸い込む。
「初生」
凛とした涼しくて綺麗な声が私を呼んだ。
――幼馴染の皇涼(すめらぎりょう)の声。
涼はプールサイドに立ち、長く綺麗なポニーテールを風に躍らせていた。
「涼。ごめんね、待たせて」
私が手を合わせると涼が微笑む。
「いや構わぬよ、初生」
端正でキリッとした顔立ちの涼が微笑むと、とても大人びた感じがする。
子供の頃から大人びていると思っていたが、最近は特にそう思う。
それは中学生らしくない身長とスタイルのせいかもしれないし、持って生まれた品位のせいかもしれない。どちらにしろ、それが涼ととても似合ってる。
「すぐ部室で着替えて来るね」
「うむ」
「あ、材料の準備はオーケー?」
プールサイドに上がりながら尋ねる。
頷いた涼の手には膨らんだ買い物袋が握られていた。
「涼、お菓子作るの初めてだよね?」
「う、うむ」
やや涼が緊張した面持ちになる。
今日は部活が終わった後、二人でお菓子を作る約束をしていた。
最初にそれを言ってきたのは涼だった。
それは私にとってかなり意外なことであり、少し戸惑うことだ。
「……あいつに、一にあげるんだよね?」
赤面しながら涼がうなづく。
凛とした中に垣間見える、女の子らしい表情。こういうところがかわいいと私は思う。
どういう心境の変化があったのかは知らない。
涼が今までそういうことを言ったことはなかった。
ただ、幼馴染の一一(にのまえはじめ)のことが好きなことは――子供の頃から知ってる。
「……燕はいつか巣立ってく、か」
ポツリと風の輪郭に言葉を添える。
「初生?」
「ん。何でもないです」
プールから上がると風が冷たくて……少し寂しかった。



私たちが住んでいる犬杉山町は俗に言う地方都市だ。
とても小さな町で、学校の屋上に上ると商店街にある私の家が見えてしまう。
それが好きで小さい頃から、高い場所で街を見下ろしてた。
カカオクリームをこねながら、私は家庭科室の窓の向こう……グラウンドを走り回ってる一を見つめていた。涼は一が好きで、私はそんな涼が好きで、それは多分、この先もずっと一緒で――。
「初生?」
「ん? うん」
私の黒いエプロンと色違いの蒼を基調としたエプロンをかけた涼が首をかしげる。
気がつけばカカオクリームを作っている私の手は止まっていた。
「どうした?」
「ああ、何でもないよ」
涼はそう言いつつも手際良くスポンジにクリームを塗っていく。
満遍なく均等に……ゆっくりと。
初めてにしてはかなり上手だと思う。
意外と細かい作業が得意だからこういうことも向いているのかもしれない。
「フム。お菓子作りとは楽しいものだな……」
「そうかな? 私は家の手伝いでよくやらされてるから」
私の実家は副業で喫茶店を営んでいるため、お菓子作りには慣れている。
とは言ってもお菓子作りは双子の妹の方が才能があるのだが……。
今、二人で作っているウォルナッツチョコレートケーキもウチのメニューの一つだ。
一がウチのメニューの中で好きなのは、チーズケーキとウォルナッツチョコレート。
チーズケーキはダージリンのセカンドフラッシュに合うが、ウォルナッツチョコレートケーキならキーマンに合う。一はキーマンも好きだから一緒にあげると喜ぶと思う。
「涼さ……」
「うむ」
「あの空頭……一のことが好きなんだよね」
少し嫌なこと言ってるかもしれない。分かってることを確認してるんだから。
私が横目で涼を見ると、やはり赤面していた。
普段は勝気で切れ長の瞳も、今はほのかに輝いて潤んでいる。
私はその表情が綺麗でついつい見とれてしまう。
「好き……なんだね」
泡立て器が手の中で重みを持っていく……。
「うん。そっか。そうだね。初めて好きになった人だもんね。プレゼントすると喜ぶと思うよ。涼の初めての手作りお菓子なんだから」
「う、うむ……」
「自信持ちなよ。私がレクチャーしてるんだから絶対あのバカもおいしいって言うよ」
下手で不自然な早口だった。
戸惑いが悟られないように必死でカカオクリームを混ぜる。
涼は子供の頃からの友達で、かけがえのない大事な存在で――私は涼が好きだ。
だから涼が好きな人と付き合えれば嬉しい。
なのに――この気持ちはなんだろう。
この感覚――プールの中から空を見上げる時、感じる気持ちに似てる。
鳥達が飛んでて、あの綺麗な蒼に私は届かなくて……。
蒼を、あの空の蒼と同じ色をした綺麗な水を探す魚みたいに、ただ水の中で揺らてれるだけで……。
「初生……?」
涼が小さく呟く。
涼は既にスポンジに下地に使うクリームを塗り終わっていた。
「ん。ほぼ完成だね」
一はこれを食べてなんて言うだろう。
私が一だったら、きっと涼の気持ちに答えるはずだ。
そう、答えると思う。
ギュッとあの細い手をつかんで本当は好きだ、なんて言って――。
誰から見てもきっとお似合いで――。
私はウォルナッツチョコレートケーキを見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。



夕日に染まったグラウンドで無邪気に走り回る一。
本当に部活――陸上が好きなんだと分かる。
涼がケーキを渡すとやはり驚くだろうか。
ああ、でもあいつは単細胞だから気づかないかもしれない。
時間とか、料理の味とか、どうでもいいことに細かいくせに、一はそういうことに一切気が回らない所がある。私はCDプレーヤーを機動させた後、屋上のフェンスの前に座った。
この場所は水の中の次に好きだ。
自然と私の目は一の姿を追っていた。
相変わらず身長は他の男の子比べて小さいけど、私と同じぐらいにはなった気がする。
少し体つきも男の子っぽくなって――昔は女みたいってからかってたけど。
皆、段々と変わってく。
涼も一もどんどん前に進んでくのに――私はただ、こうして見つめたまま昔から好きなCDを聞いてる。
それは、きっと変わらないんじゃなくて、変わり方を知らないから変われないだけで――。
『♪鳥達が行く 遠い周波数の彼方 消えていく僕らの陽炎 ただ見つめてた』
ずっと昔からあるメロディ。
いつからだろう、気づいていたのは――。
いずれ、私は一と涼から置いてかれるということに気づいたのは。
ずっと一緒にいられればいいと思ってる自分に気づいたのは。
なんで、なんでこんなに――。
私はキュッとスカートの裾を握り締めていた。
『♪約束の場所と君を探して 彷徨う蜻蛉は飛び立った場所にもう戻らないと決めた』
「初生……」
ふいにポンと肩を叩かれ振り返る。
「あ……」
思わず、私は小さく呟く。
そこに立っていたのは涼だった。
「あれ……涼」
「うむ」
私の背後に立っていた涼はスッと隣に座った。
その手にはケーキが入った可愛いボックスが握られている。
それは一に渡すはずだったものだ。
涼は私の隣に寄り添うようにスッと座った。
「昔、こうやって一緒に音楽を聞いたな、初生」
「ん。確かウチのお店の屋根上って……」
私は二人で今日みたいな赤い夕日を見つめてたのを思い出した。
そう、ただ、ずっと二人でオレンジの空を眺めて――。
スッと私がヘッドフォンの片方を涼に渡す。
『♪いつだって儚い僕らは 迷って傷ついて それでも戻れない場所を胸に抱いて 今飛び立つよ』
「あの、涼……。一にケーキは?」
「初生には最初に食べて欲しい」
「私……?」
涼が私を見つめながらコクリとうなづく。
「初めて作ったケーキだからな。大事な人に食べて貰いたい」
「私なんかより、一にあげた方が……」
今度はゆっくりと首を横に振った。
「初生じゃなければダメだ。初生、私は……」
「……」
「初生が一のことを好きなのは私でも知っている」
「違うよ。べ、別に、私はあいつのことなんて……」
私には答えることはできなかったし、自分の気持ちなんて分からなかった。
「私も一が……好きだ」
満面の笑みで涼が微笑む。
その笑顔は穏やかで……ミントのような爽やかさを持っている。
それは思わず私がドキリとするような笑顔だった。
「でも、私は初生のことも大好きだ。多分、それは……その気持ちはずっと変わらない」
「涼……」
涼はそっと私の肩に体を傾けた。私も涼と同じように体を傾ける。
ゆっくりとした空気の中、私たちを結ぶメロディが響く。
「懐かしい曲だな。ずいぶんと久しぶりに聞いた」
「ん……」
私は涙ぐんで声が震えてることを気づかれないように、小さく呟いた。
「ケーキ、食べてくれるか?」
「うん」
私は涼の差し出してくれたウォルナッツチョコレートケーキを口にする。
口の中に広がっていく甘さとアクセントの苦味……。
何よりその味が優しくて暖かくて……思わず私は微笑む。
「おいしいよ、涼」
「そうか? やはり先生の指導が良いからな」
「あ、やっぱし♪」
そう言った後、互いの顔を見つめ笑いあう。
あの頃と……子供の頃と同じように。
二匹の蜻蛉がフッと私たちの前を通り過ぎて、町を染めるオレンジの向こうに消えていく。
寄り添って、揺れて、羽ばたいていく蜻蛉はどんな想いを乗せてるのだろう。
誰にだって居場所が在る。
私は鳥達のように飛ぶことができないと知った時、水の中から空を見上げることにした。
でも、そこは私の居場所じゃない。
私が本当に居たい場所はずっと変わらず、私を受け入れてくる。
あの蜻蛉のようにいつか私も想いを抱いて飛び立つとしても……進んでも、離れても、きっとこの思いは変わらない。
その日まで……私の場所に居てもいいよね。
「涼……一と三人で食べよっか」
「うむ!!」


『♪あの飛行機雲の向こう この街の彼方を 僕達は追いかけるよ あの日のように 形のない街を目指して』


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