『セツナさいくる+』

 

 痛みで身体が反転して目を覚ました時、私は深海のような闇の中で見えない空を見てた。
 そんな痛みなんてすぐに消えてしまったのに涙で頬が濡れてる。何の痛みかも覚えてないのにどうしようもなく私の中が空っぽのような気がした。一人でいるのが苦しくなって理由もないのに怖くなる。それはこれから起こること、起こっていることに取り残されたような気分に似てた。凍りついていく世界に残されたラストダイナソ−はきっとこんな気分だろうと思う。
 そんな感覚を感じたまま時計を見ると、時間はまだ五時でウトウトしたまま眠ってしまったことに気づいた。
 目が覚めてしまって、もう一度眠ることなんてできなかった。
 暗い中、明かりもつけずにデスクのパソコンを手探りで起動させ、パジャマのままストゥール型のチェアに腰掛ける。チェアのひんやりとした感覚も、足が少し冷たいのも気持ち良かった。家の中でこの冷たさなら、外は春先とはいえもっと寒いかもしれない。
 そんなことを考えていると、パソコンの明かりが私の鼻先でチカチカと点滅を繰り返す。
私、楠楓(くすのきかえで)の名前をもじってネーミングしたブログをチェック。
 私が寝た頃、クラスメイトの冬架と涼ちゃんがチャットに来てた。いつも通りとりとめのない会話だけど、進路調査のことが話題になってた。私の頭痛の種だ。チャットを一通りチェックしてみたけど克己ちゃんの足跡はなかった。冬架や初生ちゃんも克己ちゃんはチャットの常連で時間があると良く来てくれている。克己ちゃんもちょくちょく来てくれてたけど、来なくなって二週間も経つ。彼女さんのことや学校のことで忙しいのは分かってるけど、なんとなく溜息が漏れてしまう。
「だう〜」
 身体を丸め、デスクに頬をぺったりとくっつけると、やっぱりひんやりしてた。
「んだよー、彼女と朝までデートかよー」
 僻んだところでどうにもならないのも分かってる。幼馴染同士、毎朝顔を合わせているのにこんな気分になるのは不思議だった。
 待ってたらひょっこり克己ちゃんが来ないかなーなどとサイトをグルグル回ってみる。
 今みたいなどうしようもない気分の時にいてくれると一番嬉しいけど、それは望むべくもなくという奴だ。
 パソコンを切ると、引き出しにしまってあった煙草を取り出す。
 クラスメイトの子から貰ったスカイラークだ。
 それを一本取り出し口に咥え、いざ吸おうと窓を開ける。するとビュっと冷たい風が入り込んで来た。
 切り込んでくる様な張り詰めた冷たさは、夜中の風よりも澄んだ心地よさを持っていた。
「おお……」
 思わず眼前の光景を見つめたまま声が出た。闇の中にポツポツと町明かりが浮んでるのが普段とかけ離れた光景に見えたからだ。塗ったような黒い夜の空に斜めの月が浮んでいた。その月の周りが輪っかみたいに輝いている。真夜中の月がこんな風に見えるなんて知らなかった。欠けた月を見ていて、ふと、なんとなく朝に切り替わる前の町に出てみたいと思った。ここにいてはいけない、そんな気がしたからだ。
 私はスカイラークに火をつけるのをやめて、ジーンズとパーカーに着替える。持ち物はスカイラークとライターだけでいい。そっと誰も起こさないように冷たい廊下を素足で歩き、冷たいシューズを履いて外に出る。
 どこに行きたいわけでもない。闇の中に希望とか何かが変わりそうな予感とかを見出したわけじゃないけど、ただじっと朝を待つのが嫌だった。
 外は本当に真っ暗で外灯の明かりがなければ何も見えない。なんとなくどっかのテレビ番組で言ってた先の見えない時代という言葉を思い出した。それはいつからだろう。
 私達がまだ不安も感じなかったあの頃。
 理由も根拠も無いのに、大人に憧れてただ未来を信じてた。
 でも、いつか私達は気づいてしまう。
 ふざけて笑っていったって私達はずっと追いかけられてる。
 リアルな未来は私達を見逃しはしないし、退屈は安らぎのフリをして私達を騙す。
 誰かといたって、誰かと喋ってたって不安も寂しさも消えなくて。
 いつかの間にか寂しくて笑うようになってた。見えない涙を少しずつこぼしながら。
 泣けない私の変わりにスカイラークは泣いてくれる。
 吐き出した紫煙が涙に似た複雑な模様を描く。白い線はゆらいで、夜の終らない街の中に消えていった。それは見えない涙と同じできっと誰にも気づかれないだろう。
 スカイラークを咥え外灯の明かりにひかれながら街を彷徨っていると、いつも学校の途中で通るコンビニが見えてくる。この時間帯は店員以外誰もいなかった。
「なんだよ。どっちにしろ。私一人じゃん」
 分かってたことを呟いた、その時。
 背後から自転車が近づいてくる音に気づく。
 よーく、目を凝らしてみるとそれは私の良く知る幼馴染だった。
 いつも通りの睨みつけるような愛想のない顔で自転車を漕ぎ私に近づいてくる。
 私は慌ててスカイラークを隠す。自転車は私の隣まで来て止まった。
「どうした、こんな時間に」
 幼馴染の克己ちゃんは自転車を降りてそんなことを尋ねてくる。
「克己ちゃんこそ」
「何を驚いてる」
 驚いてる私に、いつも通りの無表情で克己ちゃんはそう言った。
「克己ちゃんはなんでここに?」
「別におかしいことではない」
 克己ちゃんはそこにいるのがさも当然のように答える。
「新聞配達だ」
「ああ、そうだったね」
 克己ちゃんの家庭の事情は子供の頃から知ってる。
 なんとなくでフラフラ生きてる私とは違って、自分の進学の為に自分でお金を稼がないといけない。
 そのことに関して克己ちゃんは一度も文句も愚痴も言ったことがなかった。私の知る芹沢克己はそういう人だ。
「なんとなく眠れなくて起きちゃったよ。なんかさ、夜って長いね」
「ああ、俺もそう思う」
 克己ちゃんはいつも通り短く答えて理由は聞かなかった。
 知ってる。この反応もいつも通りだ。決して突き放すわけでもなく、見守る立場を取ろうとする。私にはその間合いが心地いい。
「克己ちゃんはまだ配達あるの?」
「ああ。眠れなくて暇だったら手伝ってみるか?」
 それはあまりも唐突で予想外の提案だった。
「ふぇ? いいの?」
 コクリと克己ちゃんが頷く。
「新聞配達?」
「そうだ」
「どうしよっかな」
 少し迷うフリをしながらそんなことを言ってみる。ここで素直に喜んだら子供みたいで嫌だった。ただでさえ子供扱いされてるのに。
 でも、内心、そうやって誘ってくれるのが嬉しい。思えば克己ちゃんはいつもそうだ。私や初生ちゃんがつまらそうな顔をしてると手を差し伸べてくれる。克己ちゃんはそういう人だ。
「いいの?私が手伝って」
「ああ」
 私は少しもったいぶっておどけてみせる。
「しようがない。手伝ってあげようかな」
「ああ、頼む」
 そう言いながら克己ちゃんは口元だけの笑みを浮かべた。それは子供の頃から見慣れたいつも通りの表情なのになんだかホッとする。そういう力を持っている表情だった。
克己ちゃんはナチュラルだ。打算とか計算とかない。
 ただ真直ぐに向き合う。誰だって周囲や流れに自分を合わせるのに、克己ちゃんはいつも克己ちゃんであろうとする。上手くやろうともしないし、決して誰の真似もしない。それを極々自然に克己ちゃんは行う。私は克己ちゃんのそういうところが好きだ。
「後ろ、乗るか?」
「うん」
 私が克己ちゃんの後ろの二台に座ると、一瞬ぐらついてすぐに体制を立て直した。
「しっかりつかまっていろ」
 私を乗せた自転車は冷たい闇の中を勢い良く走り出す。
 いざ、仕事となると、克己ちゃんの動きは手早く的確だった。さすがに小学校の頃からやってるだけはある。無駄のない動きで配達をどんどんこなしていく。
 結局手伝いと言っても私なんかが出来ることはほとんどない。私は最後まで足を引っ張っただけで、配達を終えた頃、夜に終わりが近づいてた。
 闇が和らいでいくのを感じながら、自転車を引く克己ちゃんの隣で縁石の上を歩く。
 私は何気なくスカイラークを取り出してしまう。
 しまったと思った時、克己ちゃんがいつもより少し強い声で呟いた。
「楓、煙草は吸うな」
 スッと克己ちゃんが手を差し出すと、私は小さく舌を出す。
 少し間を置いて私は上目使いで尋ねる。
「……怒ってる?」
「怒ってはない。心配はしてる」
 スカイラークの箱を差し出すと、克己ちゃんはそれをギュッと握りつぶす。
「煙草は良くない。元気な子を産めなくなる」
 その一言で火がついたように頬が熱くなる。
「うわ。真顔で言いますか、そういうの?」
 照れて少しおおげさにおどけると克己ちゃんは不思議そうな顔をした。
「何か変か?」
 思った通りの克己ちゃんらしい反応だ。
「んん。克己ちゃんらしいと思っただけ」
「そうか?」
「ん。そうだよ」
 本当に必要なことだけを言うと克己ちゃんはそれ以上は『煙草はやめろ』とか口にしなかった。多分、煙草はもう吸わない。きっと何回でも克己ちゃんは止めるだろうし、心配はかけたくないからだ。
ふいに克己ちゃんは煙草屋の自販機前に止まると、硬化を取り出す。煙草を買うわけじゃない、缶ジュースだ。
「何がいい?」
「おごってくれるの?」
 私が小首をかしげながら尋ねると、克己ちゃんはコクリと頷く。
「手伝ってくれたからな」
「あ、じゃあね、ええと、ホット珈琲」
 再び克己ちゃんがコクリと頷き、自販機のボタンを押す。克己ちゃんが買ったのも私と同じホット珈琲だった。
「ありがと、克己ちゃん」
 私がそう言うと克己ちゃんは缶珈琲を私に手渡した。暖かい珈琲の感覚が掌に伝わってくる。
 克己ちゃんが自販機前の縁石に座り、私もその隣に座った。
 缶珈琲のプルタブを開けると、独特の匂いが鼻先まで漂ってくる。
「あれ、克己ちゃんって苦いのダメじゃなかったけ?」
「メーカーによるな。スメラギ社製の珈琲は香りと甘みが強くていい。タイドー社製も甘みの強い缶珈琲が多い。だがスメラギには劣る」
「へぇ……」
 珍しい物を見た気分だった。克己ちゃんがここまでちゃんと喋るのもそうだけど、缶珈琲を語る顔は子供みたいな表情をしている。普段は本当に必要なことしか言わないのに。
「サンストリー社製はダメだ。本格的な味を追求してるらしいが玄人向けすぎる。千葉限定のジョージア、あれは最高だ。甘すぎて飲めないという意見も多いらしいが俺はあれが一番だと思う」
 私は克己ちゃんが得意げに語るを見て思わず吹き出してしまった。
「どうした?」
「なんか、克己ちゃんといるとあれこれ悩むのがばからしくなるよ」
「そうか?」
「うん。なんかね。不思議だよね」
 そう言いながら私は珈琲を口に含む。珈琲の甘みと苦味が口いっぱいに広がってくる。なんとなくこれが克己ちゃんの好きな味なんだと思うとおかしい。
 ふと、遠くの空で光が広がるのが見えた。見上げれば私達の目の前で長い夜が明けていく。
 放射状に広がる雲に光が反射して淡い色の空に模様が浮かび上がり始めた。
 最初は白く差し込むようだった光は少しずつ黄色みを帯び、朝焼けの赤い色に変わっていく。
 言葉はない。ただ二人でジッと空を眺めた。
 ゆっくりと色を変え空に広がっていく光が、閉ざされた闇の扉を開けていく。
 そこに新しい何かが待っているとしても、きっとそれは私に優しくはなくて――。
 やっぱりうまくいかないことだらけで、今日も紙切れ一枚で悩まされるだろうけど――。
 それでも、私は朝が来ることに涙が溢れそうになった。
「ねぇ、克己ちゃん」
「ん?」
 珈琲を飲みながら克己ちゃんが私を見た。
「また眠れなかったらさ、手伝っていい?」
 返事より先に動いたのは克己ちゃんの手だった。
「あ……」
 はにかみながら思わず呟く。克己ちゃんの大きくて暖かい手が私の頭をなでくれたからだ。
 昔と変わらず子ども扱いだけど悪い気はしない。
「その時は頼む」
 克己ちゃんは口元だけの笑みではなく顔全体を綻ばせて笑ってた。ふいに見せたその優しい笑顔が嬉しくてついつい私も笑顔になる。
「うん」
 いつも通りの短い言葉だったけどそれで十分だった。
 きっと胸に抱えた不安や痛みを何かに変えていける気がする。
 大切な友達と迎える今日が始まろうとしている。そのことにやっぱり涙がこぼれた。

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