『ラムネキッス・グッバイ』
正午過ぎ、四時限目の授業が始まる前。
俺がラムネ瓶を手に保健室に入ると常葉さんこと、保険医の常盤常葉先生は机につっぷして寝ていた。
「う…んん」
開けっ放しの窓からそよぐ秋風が気持ち良いのか、いつもの童顔に心地良さそうな表情を浮かべている常葉さん。子供みたいな身長のせいか、その眠っている姿が子猫を連想させた。普段は机の上なんて片付けられないほど散らかっているのに、今日は珍しく片付けられている。常葉さんの机の片付けはいつも俺の仕事だった。ふと見ると、机の上には男性と二人で写ったフォトスタンドが飾られている。いつもは寝かせて伏せてある物だ。
写真に写っているのは背の高い男性と、三編みに眼鏡で今とあまり変わらなくて――今より幸せそうな常葉さん。この男性が常葉さんの婚約者らしい。婚約者と言っても距離が離れている上に、連絡も全くなくふられたも当然なのだとか。
それでも写真を飾るのは――未練、と言う奴だろうか。俺は写真立てを寝かして伏せた。少し胸がもやっとするのは俺が嫉妬しているからかもしれない。
「常葉さん」
俺は人差し指でチョンチョンと肩を叩く。
「常葉さん、起きてください」
「んん……」
眠たそうに眼をこすり常葉さんが起き上がり、机の上に置いてあった眼鏡をかける。
「おはようございます」
俺はそう言うと、常葉さんが好きなラムネを差し出す。常葉さんは眠たいのか少しうにゃうにゃ言ってた。この人は本当に片付けと朝に弱い。
「眠気覚ましです。飲みます?」
「うむ……」
常葉さんは受け取ると、細い指で栓を開けラムネを飲みだす。
「半分飲むかね?」
「いや、俺、炭酸飲めないんで」
「お子チャマだな、君は」
常葉さんはラムネを一口飲んでデスクに置き、その後、俺の身体に抱きついた。
「ちょっ……常葉さん?」
ふいに高鳴る心臓の音は抑えられなかった。思わず声が裏返ってしまう。
「目覚めの充電なのだよ。ジッとしていたまえなさい」
まだ寝ぼけてるのか日本語がおかしい。
常葉さんは俺の胸に頬をすりよせて甘えた。
そっと抱きしめた常葉さんの体は柔らかくて、ふにっとしてて気持ち良い。
ずっとこの甘い香りと温もりの中に溺れていたかった。
「ふーむ」
常葉さんが俺を抱きしめたまま呟いた。
「君、どこか悪いところはないかね?」
「いや、特に」
そう言うと常葉さんはポンと手を叩いた。
「ああ、頭であったな。子供の癖に大人ぶる病、通称、思春期背伸び病だ」
「おい、こら」
この人が俺を子供扱いするのはいつものことで、それは悔しいが仕方のないことだったりする。
俺の顔を見ながらフフッと常葉さんが笑った。
「さて、次の授業は?」
何を言わんとしてるかは分かった。俺もその為にここに来たから。
「あるけどサボります」
「ではじっくり手当てしてあげよう」
常葉さんが俺の首筋にかぷりと噛み付き、柔らかな舌先が俺の首筋を愛撫する。思わずくぐもった声を漏らすと常葉さんが笑った。
「君は悪い生徒だね」
「貴方も悪い先生ですね」
「お、今日は随分生意気だな、坊や」
「ガキ扱いしないでください」
俺は多分、代わりなんだと思う。
随分前、実は常葉さんに告白してふられている。その理由は『似てるから』ということだった。
誰に似てるかは聞かなかったし、聞けなかった。
だから、恋人でもなくこういうことを続けるのは婚約者へのあてつけではないだろうかと思う。
それでもこうしてる間だけは俺と常葉さんは対等な存在だ。
多分、それは勝手な思い込みだろうけど。それでも俺は構わない。
俺たちはゆっくりと唇を重ねた。
その触れた唇が少しピリッする――キスはラムネの味だった。
……。
…。
繋がってる時間なんてあっという間だった。
窓から吹く秋風が少し肌寒くて、一枚のシーツに身を寄せ合ってベッドサイドでぼんやりと座ってた。
「……明日からはもうここに来なくていい」
常葉さんはラムネ瓶を眺めながらそう言う。
その手の中で小さく遊ばせるラムネ瓶からはカラカラというビー球の音が響いていた。
「え?」
「私は今日で、ここを辞めるから」
少しの間の後、
「そう、ですか」
それだけは言えた。聞いていないと言いたかったが、そう答えるので精一杯だった。
「ちょっと前に婚約者の実家から電話があってな。一緒に暮らさないかと……」
「ふられたんじゃなかったんですか?」
少し早口で俺が言う。自分を抑えることができなくて俺の声は僅かに震えてた。
すると少しの間の後、常葉さんはラムネの瓶を遊ばせる手を止める。ビー玉の音が消えた。
「……死んでた」
今にも泣きそうな顔で。雨に寝れた子猫のような瞳で。常葉さんはフフといつものように笑う。
常葉さんのかざすラムネの瓶は、その中に夕暮れのオレンジを取り込んでいた。空っぽの瓶を満たすように、その小さな瓶の中いっぱいに。
「元々身よりもないし、向こうの家族と暮らすのもいいと思ってな」
『俺じゃダメですか』――なんて言えなかった。
子供っぽい我侭で常葉さんをこれ以上苦しめたくない。ずっと待って、苦しんで、傷ついてきたはずだから。分かってる、分かってるんだ。そんなことは。
なのに目頭の辺りが熱くなる。どうにもこのままじゃいられない気持ちになる。でもきっと、それは言ってはいけないんだ、俺はそれを分かってる。
だから、俺は言いたかった言葉も、気持ちも、この胸の痛みも――全て飲み込んだ。
「常葉さん、俺、今……」
「ん?」
「少し、大人になりました」
常葉さんはシーツに顔をうずめた俺の頭をなでる。
痛みも、思いも、言葉も、飲み込んだのに――。
なんでだろう。なんでこんなに――。
思春期背伸び病のせいだろうか、ただラムネの味が残る唇が切なかった。
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