『ペナルティーライター』

 我慢の限界だった。
「煙草、煙草、煙草、煙草、煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草煙草……」
 車のハンドルを握ったまま義男は呟き続ける。
 現在、禁煙三ヶ月目。
 それは婚約者である百合子との約束だった。
 呑四里屋百合子(どんよりやゆりこ)は外資系産業の呑四里屋グループの令嬢であり、女神のような美貌と知性の持ち主である。呑四里屋グループのモットーは質素倹約であり、会長の呑四里屋百合雄の考え方は金持ちというよりも庶民的なところがあった。
 そんな百合雄が男手一つで慎ましく育てた娘は、しっかりとした心の優しい人間に育つ。
 義男が百合子の心を射止めたのは奇跡に近い。百合雄にも気に入られ、今は百合子と一緒に三人で生活している。まさに順風満帆であり、美しい婚約者に約束された地位、このまま行けば、義男は呑四里屋グループの全てを手にすることとなるだろう。
 その為の条件の一つ――それが禁煙だった。
「煙草……」
 義男は呟きながらアクセルを踏む。
 ジャンキーのように細胞の一片一片がニコチンを求め騒いでいた。
 どうしようもないほどに喉が渇き、あの焦げついた香りを求めている。
 体の反発を押さえ込むのは精神的な苦しみを伴っていた。
 しかし、禁煙を口にしたのは他ならぬ、百合子と百合雄であり、人格者として有名な百合雄の唯一の欠点は極度に煙草を避けることだった。
『義男君、私は君を評価しているのだよ。だからこそ、百合子の夫なる君にはどうかそれだけは守って欲しいのだ。あれは毒物だ。全てを狂わす病毒と同じなのだよ』
 白髪まじりの初老の男は静かにそう言った。
『この家で煙草を吸わない方がいい。君が長くここにいたいのならな』
 煙草に対する百合雄の態度は嫌悪と言ってもいい。社内はもちろん禁煙であり、これだけは絶対に守らせた。百合雄は妻を亡くす、数年前までは夫婦でヘビースモーカーだったらしく、よく久しぶりに会った知人には驚かれると聞いたことがある。
 義男の知る噂話では百合子の婚約者がことごとく、寝煙草や不始末に関わる火事で入院しているのが原因らしい。さらに付け加えるなら百合雄自身が煙草のせいで大火傷を負ったことがありそれが原因という話だ。
「煙草、煙草、煙草……」
 呟いていると妙に喉が渇いた。
 義男はスピードを出すことで煙草に対する欲求を振り切る。
 ここで全てを失うわけにはいかなかった。
 ただ煙草を我慢するだけで全てを手に入れることができるのだから。
 それに義男は百合子を愛している。百合子も義男を愛してくれている。ただ少し我慢すればいい。それだけのことなのだ。
 落ち着けと自分に言い聞かせながら、ゆっくりとスピードを落としガレージに車を止めた。
 ふと、その時、門の方から声が響く。
「義男さん、お帰りなさい」
 百合子はいつもの優しい笑みを浮べ義男の元に歩いてくる。
 この笑顔だ。この笑顔が禁じることの苦しみを忘れさせてくれる気がした。
「百合子……ただいま」
 義男はそっと胸の内に飛び込んできた百合子を抱きしめる。
 柔らかで細く、なんて儚いのだろう。美とはかくも儚きものか。
 まるで幻想の女神のように抱きしめていると消えてしまいそうだ。
「百合子、今日は吉川先生の所でヴァイオリンの練習じゃなかったのかい?確か曲は……」
 百合子がクスリと微笑む。
「フフフ、ブラームスのソナタ3番よ」
 なんて愛くるしい微笑だろう。大人びた微笑の中に少女のようなあどけなさと純真さを合わせ持っている。
「義男さんに会いたくて早く終わらせてもらったの」
「僕も百合子にずっと会いたかったんだ」
 二人は寄り添うように白い家の中に入っていく。
「すぐお夕飯にするね。お父さんももう帰ってると思うから」
「ああ」
 キッチンとリビングで別れようとした時、百合子がクスリと微笑んだ。
「義男さん、禁煙の約束守ってくれるのね」
「分かる?」
「煙草の臭いしなかったもの」
「百合子との約束だからね」
「すごく嬉しいわ。お料理、うんとおいしいの作るね」
「リビングで待ってるね」
 少し照れながら嬉しそうに百合子はキッチンへ向かう。
 幸せを噛み締めながらリビングのドアノブを握った瞬間、義男は顔をしかめた。
 わずかに懐かしい香りを感じたからだ。訝しがりながらも義男はドアを開け、リビングの中に入った。
「お義父さん――」
 そこまでだった。そこまでで全ての言葉は失われてしまう。
 そこにいた百合雄の姿を見つめたまま言葉は消えてしまった。
「義男君……」
 義男の姿に気づいた百合雄はバツが悪そうに呟く。
 まるで悪戯を見られてしまった子供のようだ。
「どういうことですか?」
「いや、これは、そのこんなに早く帰ってくるとは……」
 義男の目に映るのは灰皿と百合雄の手にした煙草だった。
「なんで吸ってるんですか?」
「こ、これは……」
 この男は煙草を吸った。
 あれだけ人に吸うなと言いながらだ。
 ああ、煙草から漂う香りが肺を何とも言えぬ感覚に満たしてくれる。指先を通り抜け、全身を震わせ体の細胞に染み渡っていく。
 しかし、それも一瞬のことだった。湧き上がってくるのは怒りだった。
「これはどういうことか説明してくれるんですよね!?貴方は僕に煙草を禁じたのにその貴方がどういうことなんですか?」
「ゆ、許してくれ、義男君、どうしても、どうしても我慢することができなんだ!!」
「答えになってない!!貴方は質問に質問で声たるつもりですか!?貴方、まさかずっと隠れて吸ってたんですか?この家で!?」
「堪忍だ。このことはどうか百合子には……」
 百合雄がそう言った瞬間だった。
 ひどく歪な音を立てドアが開いたのは。
 そこに百合子は立っていた。微笑みながら立っていた。
「お父さん、言ったよね」
 百合雄が僅かに後ずさる。何度も口を金魚のようにパクパクとさせ身体を強張らせていた。
「百合子、これは……」
「お父さん」
 百合子が一歩近づくと狼狽しきった百合雄の頭から何かが落ちた。
 その瞬間、思わず義男は『あっ!!』と叫びを上げてしまう。
 百合雄後ずさりながらカーペットに落ちたカツラを踏んだ。
 そして、震える手で髪の毛のない頭を抑える。いや、カツラだったとか、そういうことは問題ではなかった。
「義父さん……それは」
 百合雄は答えなかった。
 代わりにただ震えながら、その赤黒くなったズクズクの皮膚と傷痕を押さえていた。
「お父さん、煙草は嫌いって言ったよね?」
 ニッコリと――聖女の微笑を浮べ、百合子はテーブルのジッポライターを手にする。
 カチッカチッカチッカチッ――。
 フリントと横車のこすれる音だけが乾いた空間に響く。
「お父さん、悪い子にはお仕置きしないと――」
 カチッカチッカチッカチッ――。
 悪意の炎を穏やかな表情の裏で焦がしながら、百合子は女神のようなあの優しい微笑を見せた。
 『百合子の婚約者がことごとく、寝煙草や不始末に関わる火事で入院しているのが原因らしい。さらに付け加えるなら百合雄自身が煙草のせいで大火傷を負ったことがありそれが原因という話だ』
「百合子、百合子、おお、百合子、父さんを許してくれ、百合子……!!」
『さらに付け加えるなら百合雄自身が煙草のせいで大火傷を負ったことがありそれが原因という話だ』
 カチッカチッカチッカチッ――。
『百合雄は妻を亡くす、数年前までは夫婦でヘビースモーカーだった』
カチッカチッカチッカチッ――。
 聖女は答える代わりに、ライターを鳴らしながら満面の笑みを浮かべている。
 百合子が灯したのは聖火ではなく、恐怖と悪意の業火だった。
 これから始まる凄惨な地獄に気づきながら、義男は声を発することはできなかった。
 今にも発火しそうな乾いた空間にライターの音が妙に響く。
 カチッカチッカチッカチッ――。
 多分、義男は二度と煙草を吸わない。

 

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