『ペイン』 

 子供の頃から何かになりたいと思っていた。
 特別な何かに。
 有名人でもいいしスポーツ選手でもいい。
 認められて将来に何の不安もない何かになりたかった。
 それは子供っぽい憧れと映るかもしれないけど……僕は選ばれたかった。
 ……なれなかった。
 なれずに十代を終えてしまった。
 後は大学をでて就職するだけだ。
 ……就職できるのか?
 先は、未来はあるのか?
 焦りと憧れが胸の奥に強く残り離れない。
 カメラのフィルムのように心に焼き付いている。
 テレビや雑誌に同じぐらいの年齢の者が映るたびに胸が締め付けられた。
 その度に自分は何をしてるのだろうと思う。
 何故、此処にいるのかと問いかける。
 怖い……。
 特別になれない者に未来はあるのだろうか。
 選ばれなかった僕に明日はあるのだろうか。
 最も怖いのは……。
 本当に怖いのは自分は何からも認められないと薄々気づいてることだ。


 ぼんやりと芳澄はバイト先のレジに立っていた。
 色黒で眼鏡をかけたどこか冴えない青年。隆文芳澄。
 ここ夢書店は大型チェーンデパートの二階にあるテナントの一つだ。
 店内はデパートの隅に位置するためL字型の配置をされていて、本の種類は大型書店に比べれば少ない。ユニフォームは青。肩にはちょっとしたマスコットがプリントされている。
 決してデザイン的なセンスが感じられるものではない。
 書店店員らしい服装、つまりは形骸化した儀式的な物だ。
 ゆっくりと店内の事務所のドアが開く。
 事務所はちょうどL字の先端に位置し、レジはLの真ん中に位置する。
 客を避けてレジに近づいてくるのは店長の喜多野だ。
 そして開口一番。
「言ったでしょ?それやってってさぁ」
 手にはファックスの用紙……。
 まず頭ごなしに怒鳴る。
 いつものことだ。
 それ、あれ、これ……。
 それやこれ、指示が曖昧すぎて苦労するのは当然のごとく下の者だ。
「だからその用紙をどうするんだ」
 芳澄は思っても口にはしない。
 黙って謝ればそれで終わる。
「すいません」
 ただそう言った。
「もういいよ。俺がやっとくから」
 店長が事務所に戻り、入れ違いに返本作業を行っていた雄之助がターミナルを手に戻ってくる。
 雄之助は高校から一緒だが顔が良くて格好いい。
 テニスはできるし、女の子とも仲がいい。
 どこにでもいるのだ、最初から与えられている存在が。
 最近ではここの同じバイトである佐藤と付き合ってるらしい。
 芳澄が少しいいなーと思った眼鏡の女の子だ。
 彼女には全く気はないだろうが。
「よう。また怒られたんだ」
 いつも通り爽やかに笑う。
 それが少し芳澄の勘に触った。
 いつものことだがそれは勝者の目であり、
 林檎を手に入れるために誰かを踏み台にできる人間の目だ。
 レジ内にかがみこみターミナルをプリンターに接続する。
 返品伝票を出すためだ。
「うん……」
「かっこ悪いな。君は」
 カチンときた。
 拭い切れない劣等感はあるがプライドは高いのだ。
 でも言い返さない。
 そういう性格であり、それが処世術だと自分でも分かっているからだ。
 言い返せないのだ。
「僕がミスしたから悪いんだよ……」
「ふぅ〜ん。あ、伝票でたらきっといてよ」
「うん……」
 そう言うと雄之助は事務所に入っていく。
 その後姿を見つめため息を吐いた時、お客さんがレジに雑誌を置く。
 それは恰幅のいい中年だった。
「いらしゃっいませ」
「カードで」
 中年がクレジットカードを置いた。本は二百円の週間雑誌だ。
「あ、五割引ね」
「お客様……。当店では割引は行っておりませんが……」
「ああ?」
 中年の表情が険しくなる。
 いや、どこか横柄さは感じていたのだ。
 こういう客はうまくやり過ごすのが一番だったのだが……。
「嘘つくなよ!こないだやってもらったぞ!」
 中年の吐き出した唾がべっとりと芳澄に飛び散った。
「いえ、そのようなことは……」
「やってもらったって言ってんだろ!」
 当然のごとくレジ前にお客さんがたまり始める。
 焦燥感がチリチリと燃え上がっていく、同時に体中の血管が震え体温が上昇していく。
「おい!店長呼べ!」
「は、はい」
 震える指で躊躇いながらも、内線電話を事務所に繋げる。
 ……返答ががない。
 中で電話してるからだ。
 お客さんはどんどんたまっていく。
 どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どどどどどっどどどどどどどどど……。
 レジから出て店長を呼びに行こうとする。
「おい!どこ行くつもりだ!」
「店長を……!」
「客たまってんだろが!内線でよべや!」
「いえ、だから……」
 頭の中がグニャリと歪んだ。
 歪んで歪んで歪んで……嗚呼。
「ちょっと、アンタ」
 目の前の中年の奥さんらしき人が中年の男に耳打ちする。
「それ、他のお店のよ」
「あ、そうか」
 聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。聞こえてる。
「ふざけるなぁああああああああああああああああ!!!!」
 思うが口にしない。出来ない。ここをやめたらどうやって大学に通うんだ、その情けない気持ちのほうが強い。
 ゆっくりと事務所のドアが開いた。
 絶望感のような物が背筋を駆け抜けてる……。
 同時に理不尽さに対する爆発しそうな怒りも……。
 歩いてきた店長がレジに入る時、芳澄を睨み呟く。
「もういいよ。お前」
 芳澄は、
「すいません」
 ただ、それだけ言った。


 バイトの帰り道……風は強く吹いていた。
 
民家が林立する集落にさしかかった頃、大粒の雨が降り始める。
 白い溜息が、途切れて、影を染め、千切れ、解け、消えていく……。
 先ほどから降り出した雨が芳澄の身体を濡らす。
 月明かりもおぼろげで……。
 夜空がひどく遠かった……。
 今日もこの世界のどこかで誰かが振り落とされて、街にはまた雨が降る。
 おぼつかない足元がふらつき、
 つまづいた芳澄が泥水の中に頭から転がった。
 雨に打たれ、涙もアスファルトに消えていく。
 キュッと掌を握れば……。
 つかんだ手の中にあるのは、泥と砂利だけだった……。
「あああああああ……」
 その声も闇の中に……。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 叫んだっていい……。
「ううううあああああああああああああああ……」
 泣いたって……。
 つかめる物が泥だけだって……。
 それでも、ゆっくりと、芳澄は立ち上がる。
 痛む。ズキズキと。心が軋んで。
 街に存在の輪郭が霧散する感覚に似ている……。
 愚かでいい。
 無力でいい。
 壊れたっていい。
 それでも……それでもただ立って歩くことはできるから。
 歩き続けないといけないから……。


この痛みだけが明日へと続く道を教えてくれている。


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