『月』

受験勉強中、窓から見える月に気づく。
風の強い夜、ベランダに出て、蒼く丸い月を見つめた。
蒼く、輝く、夜の、煌く、ユラメキ。
不意に兄の絵が見たくなり、兄の部屋へ行く。
今は誰も使っていないので鍵もかかってない。
僕は兄の部屋に飾られた絵を見つめる。
芸術はよく分からない。
それでもこの兄の絵を見るとなんだか飲み込まれるような気分になる。
ただ月が星空に描かれた絵……。
兄の描いた絵の中で最も僕が好きな絵…。
僕はいつもその絵に引っかかるものを感じていた。兄は昔から優秀だった。
僕と兄は三つ年が離れている。
スポーツ、勉強、性格、容姿、全てにおいて完全な兄は、僕が物心つく頃にはすでに地域で神童などと呼ばれ特別視されていた。
スポーツでは常に新記録を出し、
勉強ではトップ以外は取らず、
学校では生徒会長をこなす。
非の打ち所がない。
特に兄は絵を描くのが得意だった。
毎年大会に作品を応募して賞を取ってくる。それが当たり前のことであり、壇上でキリッとした兄を見るのが何より心地よく、僕に自信と誇りを与えてくれたものだ。
僕の全ての劣等感を払拭してくれる。
「僕の弟なんだ。お前にもできる」
兄はよくそう言って微笑みかけてくれた。
僕は兄の弟……そう思うだけで胸が軽くなる。
すべて鎖から解き放たれ、自信で身が覆われるような、
まるで教祖の言葉で火の中へ身を投げる信者の気分だ。
兄は絶対にして唯一だった。
ずっと、ずっと、いつまでも、いつまでも。
兄は僕の傍にいてくれると思ってた。
離れる時は訪れても心は常に傍にある、そう思ってた。
……違った。
ある日……兄は失踪した。
理由は分からない。
ただ兄はいなくなった。
僕の前から。
何も言わず。
消えた。
一枚の、描きかけの、蒼い月の、絵を残して。


何だろう、この月に引っかかる違和感は。
兄は本当は何が好きだったんだろう。
なんでもできて……なんでも認められて……。
絵はそのできるものの中の一つではないだろうか。
兄に対してそんな印象も抱いているせいではないが、
兄が失踪した時の父と母の失意は相当のものだったことを思い出すと胸が痛い。
僕のために泣いたことのない父と母が泣いた。
僕がいなくなっても泣いてくれるのだろうか、そんなことを思う自分に嫌悪したものだ。
そう言えば、兄が泣いたことが一度だけあった……。小学生の時だ、その日、居間で兄は絵を描いていた。
鉛筆に、広告の裏、子供の落書きだった。
「ねぇ、兄さん、何の絵を描いてるの?」
僕が尋ねると兄は軽く笑った。
「秘密だよ」
「見せてよぉ」
「ダメダメ」
「いいでしょ?」
「しょうがないなぁ」
いつになくうれしそうに絵を描く兄が描いている絵……。
それはそれはすばらしい物だと思った。
だって、兄が、僕の、兄が、うれしそうに、兄が、楽しそうに、兄が、書いている絵だったから。兄が、何かしていて楽しそうなことなんてなかったから。
「できたら見せるよ」
「うん!」
その笑顔が思えば最後だった。
それ以降、兄が心から笑ったことはない、そう思う。
「ただいま」
居間のドアを開けて中に父が入ってくる。
兄はとっさに絵を裏返した。
父は厳格な人だった。
曲がったことを許さず、遊びでも全力を強いる。
「何を描いていた?見せてみろ」
兄は首を横に振った。
「見せてみろ、ほら」
「……」
兄はうつむき、おずおずと絵を差し出す。
「なんだ、これは?」
そういうと父は、父は、僕たちの父さんは、兄の、僕の兄の、絵を破り捨てた。
「くだらんものを描くな」
僕はぞっとした。
その言葉の後の兄は、空っぽで、何もなく、本当に全てを否定された顔をしていた。
空虚。全てが崩れるような、存在しないと気づくような、完全な空。
まるで、それは、まるで、それは、僕だ、父と母、周囲に見向きもされない僕だ。
「ごめんなさい」
兄がそう言うと父は居間を出て行く。
なんと言葉をかければいいか、分からなかった。
兄は絵をゴミ箱に入れると部屋を出て行く。
泣いていた。
兄が泣いていた。
ただ泣いていた。
泣いていた。
その後ろ姿は父とかぶった。
父はこうやって自分の好みの人間を作っていることに気づいた瞬間だった。
僕は僕でなく、できそこないであり、
完成品である兄は完成品ではなく父のオルタナティブであると。
兄がいなくなった後、ごみをあさった。
どうしても兄の絵が気になったのだ。
「!!」
それは初めて見た兄の絵だった。
だけど、僕はそれを忘れない。
絶対的に、鮮烈に、焼きついたその兄の絵を。
それは、その絵は、なんとも意外なことに、
僕のよく見ていたロボットアニメの絵だった。
自分はチラリとしか見たことなんてないくせに。
僕は、僕は、なぜだろう。
涙が止まらなかった。
それ以来、兄はベランダで月を見ることが増えた。
兄の方向性を捻じ曲げたのは父だ。
あの人が僕の、兄を変えた、兄の心を壊したのだ。
純真な子供心を自身のエゴというハンマーで砕いたのだ。


それが唯一僕に見せた兄の涙だ。
そう、それが兄が寂しそうに笑うようになったきっかけだった。
だから、その時の思いから、この目の前にある月の絵を残したのだろうか?
いや、違う。
違う。
兄は……。
「ん?」
月を見ていてあるものに気づく。
「……これは」
小さく描かれたロケットだ。
星の中で混ざって輝くロケット……。
うっすら記憶の膜が剥がれ思い出してきた。
僕は兄の部屋を飛び出し、自分の部屋に向かう。
机の中をむちゃくちゃにしてあれを探し回る。
そう、
そうだ、
あの月は、
あの構図は、
「あった!」
僕が手にしたのは一枚の色あせたポスターだった。
それを手に兄の部屋へ向かう。
昔、僕が好きだったロボットが空に向かい銃を撃っている構図だ。
兄の絵と照らし合わせる。
「そうだ、そうなんだ」
そのロボットの背景に描かれたの蒼い月だ……。
兄の絵と同じ月だ。
背景の星の位置も、ロケットの位置も全部重なる。
ただ、真ん中にいるはずのシルエットだけがない。
「まさか…」
僕は兄の机を漁る。
まさか……。
まさか……。
まさか!!
あった。
僕の持っているのと同じポスターが!!
ベランダに出てポスターをかざすと、月を背景にポスターが薄っすら輝く。
「なんだよ……兄さん……」
ポスターを持った手が力なく落ち、
僕の視界が歪む。
胸がどうしようもなく、
痛い。
「なんだよ…好きなら……最後まで描けよ……兄さん」
少しだけ兄に近づいたことがうれしくて、
戻れないときがどうしようもなく悲しくて、
涙のかけらがぽとりポスターの上に落ちたのだった。



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