『メトロノーム・ブラームス』


吉川エイスケは若きヴァイオリン奏者であり、そのヴァイオリン教室は七階建て雑居ビルの六階にある。
誰もいなくなったヴァイオリン教室で、エイスケはブラームスのソナタ3番を演奏していた。この曲はブラームスが友人の死や病気に接した時にかかれたものらしく、人生というものに対する悲しみや諦め、当り所のない怒りや迷い、様々な感情の狭間を彷徨うブラームスの心情が表現されている。エイスケの好きな曲だった。
真っ暗な部屋の中、月明かりと差し込むネオンライトがエイスケを照らす。
「父さん……」
エイスケはネオンサインが点滅を繰り返すのを見つめて小さく呟く。
死んだ父を思い出すのは随分と久しぶりのことだった。
別に曲のせいではない。点滅する虚ろな光がメトロノームみたいだったからという理由であり、幼い頃のエイスケにとってメトロノームは父のイメージだったからだ。
「カチカチカチカチカチ……」
エイスケが曲に合わせ呟いた。
虚ろでおおよそ何の感情も宿していない瞳で――。
唇と歯を動かし囁く。
「カチカチカチカチカチ……」
エイスケの父は厳しかった。
父もまた一流のヴォイオリン奏者であり、エイスケが三つの頃から音楽家とするべく厳しく教育した。子供の頃はその虐待にも似た厳しさが嫌で嫌で仕方がなかった。
それがエイスケの歪みの一因だと本人も自覚している。
「カチカチカチカチカチ……」
どうにもならないサガとしか言いようがない歪み――。
その歪みを自らの一部としてエイスケは受け入れている。
受け入れはしてもそれが正しいかどうかは別だ。
「カチカチカチカチカチ……」
ブラームスのソナタ3番に感じる苦悩に共感するのはそれ故だった。
「吉川センセ?」
ふいに差し込んだ光と声にエイスケは演奏を止めた。
「あれ?蔵宇部(くらうべ)さん……」
「どうしたんです、先生?」
蔵宇部千賀子は呟きながら教室の明かりをつける。エイスケの教え子の一人であり、彼女もまたヴァイオリン奏者だ。まだ二十代前半で若いが将来はかなりの所までいけるだろう。なにより千賀子には華がある。資産家の一人娘として生まれたこともあるが、本物の品性と、しとやかさ、女性らしい美しさを持っている。
「うん、僕は練習を。君こそどうしたの?」
「いえ、忘れ物を取りに来まして」
照れ笑いを浮かべながら蔵宇部は微笑む。するとエイスケもフッと微笑んだ。
「歩きかい?送ってくけど」
「あ、はい。いいんですか?」
「別に構いはしないよ。可愛い生徒に暗い夜道を歩かせるわけにはいかないからね」
「あ、はい。ではお願い致します」
「うん」
千賀子はエイスケの車に乗って帰ることになった。
そうなることは声をかけた時から分かっていたことであり、千賀子がエイスケに好意を抱いているのは気づいていた。それはエイスケにとって都合がいい。
「僕はメトロノームが好きなんだ」
ハンドルを握ったままエイスケはそんなことを囁いた。
「メトロノームってあのメトロノームですか?」
「そう。メトロノームはね、一八一六年にドイツ人のJ=N=メルツェルが特許を得たのち普及したんだよ。ぜんまい式の振り子タイプと電子式とがあるけど、僕は振り子タイプが好きでね。プライベートで演奏する時はどんな楽器を演奏してても必ず使っているんだ」
「先生はピアノもお上手ですものね」
エイスケは千賀子の熱を帯びた視線をミラー越しに確認する。
「死んだ父さんのおかげだよ。演奏技術も、メトロノームが好きなのもね」
「素敵なお父様だったんですね」
「厳しい人だったけどね。メトロノーム見てるとね、思い出すんだ。父さんのこと」
エイスケの父、吉川ジンスケは音楽に取り付かれていたような人間だった。
「メトロノームは父さんの音なんだ」
ジンスケはエイスケが七つの時――。
耳を病んで二度と演奏できないと知った時――自ら死を選んだ。
エイスケはその時のことをまだ覚えている。
「それでお好きなんですね、メトロノーム」
クスリと千賀子が笑った。
「うん。でも古くなって壊れちゃってね。新しいのを手に入れるつもりなんだ」
「あら、でしたら今度、宜しければお店を一緒に回ってみませんか?」
「うん。そうだね」
そう答えながらエイスケは逸る気持ちをおさえる。
ジンスケが死んだあの日、エイスケは初めてメトロノームを手に入れた。
首を吊ったジンスケが開きっ放しの窓から吹く風に揺られる。縄が軋み、死体がリズムを奏でる。
コツ、コツ、コツ、コツ――。
それを見ながらエイスケはただ一心不乱にヴァイオリンを演奏していた。
今までに感じたことのない高揚感を感じながら。
何かが自分の殻を破り現れるのを感じた。
エイスケはそれを受け入れてしまった。
受け入れた瞬間、生じる衝動は心地良さだった。いや、ニルヴァーナと言った方がいいかもしれない。悦楽だ、圧倒的な悦楽衝動が指先まで震わせる。皺の隅々に水を流すような感覚だ。
演奏が終わった時、エイスケは初めて自分が勃起していることに気づく。
その性と結びついた衝動はエイスケにとっての根源となり――今のエイスケを作り出す。
成長と共に、父のイメージだったメトロノームは性のイメージに変わってしまっていた。
心の振幅数が上がった時、決まって新しいメトロノームが欲しくなってしまう。そして、それを抑えることができない。
卑しい行いであり、罪であるとことは分かっている――だからエイスケはブラームスが好きなのだ。
「これで七つ目なんだ……メトロノーム」
そんなことを呟きエイスケが微笑む。
千賀子は一体どんな高揚感をもたらしてくれるだろう。どんなに素晴らしい音を生み出させてくれるだろう。
想像した瞬間――エイスケはふと自分の股間が勃起していることに気づいた。
刹那、疼きにも似た衝動がエイスケの背筋を上り詰める。
「いいのが見つかるといいですね」
「そうだね」
エイスケは雨も降っていないのにワイパーを動かす。
「カチカチカチ……」
「え?」
千賀子がエイスケの呟きに気づいた。
「カチカチカチ……」
ワイパーを見つめたままエイスケが呟き続ける。
エイスケの淀んで濁った瞳は闇より深い暗黒を宿していた。
キャンバスを黒く塗りつぶすような悪意があふれ出している。
卑しい、卑しい、と己を呪いながらも、衝動を受け入れてしまったエイスケに戻る術はない。
「先生?」
「カチカチカチカチカチ……」
「先生?」
表情に僅かな戸惑いを宿し、もう一度千賀子が尋ねた。
無論、返事はない。
「カチカチカチカチカチカチカチカチ……!!」
エイスケの呟きは車と共に速度を増していく。
「先生……!!どうなさったんですか!?先生!?」
千賀子の戸惑いは不審と怯えに変わっていく。
だが、エイスケにはそんなことどうでも良かったし、見えているのはどこまでも広がる闇とワイパーの動きだけだった。
「カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ!カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ!」
千賀子は恐怖で塗りつぶされた顔で、歯と歯をかみ合わせる。
千賀子にも見えているはずだ。
目の前に広がる闇が。
カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ!カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ! カチ!
メトロノームの音が闇に響く――。


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