『ヒューマンラストタッチ』

 

 金属特有の澄んだ高い音が響いた一瞬、銀色の閃光が闇を切裂く。
 続いてヒュッという風を切裂く音の後、何とも言えない嫌な音がした。
 それは腹の底に残るようなであり、こびりつき耳に残る肉と骨の砕ける悲鳴でもある。
「阿呆が」
 丸サングラスの男は呟きながら、転がった頭を爪先で踏んだ。
「大石ンとこの若い衆か……」
 男は長脇差の刃についた血をスッと拭い白鞘におさめると、累々となった屍に背を向け歩き出す。
 去りゆく背は細身だが広い背中だった。
 古い歌がある、若い衆は踵で息をし、女は爪先で呼吸し、男は背で酒を呑み、ただ黙って去るもの、と。その男の背骨から聞こえてくる生き様は、なですりたくなるほどの寂寥があった。
 人の命を奪うことはその人生を背負うことだと男は教えられて来た。表情にも出ないその重みが現れる場所こそ、その背なのかもしれない。
ふいに立ち止まった男はジッと右手を見つめ先刻のことを思い出す――。



 ふわり――。
 静謐な闇の中に白い影が舞い散る。
 そこは二人が散歩の途中にいつも立ち寄る神社の境内だった。
 このいつもと変わらぬ景色を見るのも今日で最後であり、長い散歩に出なければならない。
「雪か――」
 男は境内に立ったままポツリと呟く。
 小さな粉雪は男の咥えた煙草の先に触れて消えていった。
 淡く儚く触れては消えていくのがまるで人のようだと、男はそんなことを考えながら四月の空を見上げる。
「四月に降る雪ですね……」
 男の隣で石段に座っていた少女が呟く。
 その粉雪のように儚げな輪郭は消えてしまいそうだった。
 凛とした瞳は男と同じように夜空を見上げている。
「人を切ったんですね……」
 小さく少女が呟いた。
 それに躊躇いながらも男は頷く。
「いいんです。私も分かってますから」
 その言葉は男にとって重いものだった。
 本当はこちらのことなど分かって欲しくなかったからだ。
 ただ、世の中にはどうにもならない時が必ずある。
 力でしか解決できないこともある。それは自分のような外道の仕事だ。
「屋敷の方々は皆うまく逃げ出せましたか?」
「へい、押さえられる前に」
屋敷から逃げ出すことが口惜しくはあるが、護るべき者の命には代えられない。
「ありがとう、虎彦さん」
「お嬢さん……私にはもったいないお言葉です」
 クスリと少女が笑う。
「お嬢さん、冷えると御身体に障りやす。それにそろそろ飛行機に乗る準備の方も……」
「もう少し、もう少しだけ、ね?虎彦さんも隣に腰掛けてくださいな」
「失礼させて頂やす」
 フッと笑うと男は少女の隣に腰掛けた。
「お嬢さん……大きくなりやしたね」
「虎彦さん?」
どこか懐かしむような顔をした男を見て少女は小首を傾げる。
「覚えてやすか、親父さんがまだ生きてた頃にこうやって四月に降る雪を見てたのを……」
「ええ、覚えています」
 少女が小さく頷くと、広げた掌に粉雪がちょこんと乗った。
 虎彦と呼ばれた男はジッとそれを見つめた後、左手を広げる。
 菖蒲花虎彦(しょうぶばなとらひこ)がこちら側の世界に足を踏み入れたのは十八になるかならないか――少年院のもう一段上である少年刑務所を出所した後、溝鼠のように生きてた頃だった。
 そこがきっと、人生の分岐点だったと虎彦は思う。
 荒んだ生活を送る虎彦の前に現れたのが五代目犬杉山刀鉄会組長、司山一(つかさやまいち)だった。
 五代目犬杉山刀鉄会は幕末から明治にかけて名を馳せた侠客、「犬杉山刀鉄」こと刀鉄耕吉の流れを汲む暴力団であり、五代と続いてきた刀鉄会の六代目の跡目こそ、虎彦の隣にいる北斗だった。
 北斗が十六になった時、山一が死んだ――。
 それから二年間も新しい組長を就任を許されていない。
 指定暴力団六代目大石組は国内最大級の暴力団であり、勢力拡大路線を警察にも警戒される大組織だ。テキ屋を稼ぎにしていて上がりの少ない刀鉄組みを潰したくて仕方がないのだろう。
 小さい者や弱い者が淘汰されるのはこの世界での常識であり、仕方のないことかもしれないと虎彦も思う。
 刀鉄会の一切合財を、護ってきた物も全て持っていこうとしているなら話は別だ。山一は娘をこちら側に引きずり込まないように生きてきた。常から娘にだけはまっとうな道を歩かせたいと口にし、それを必死で護って生きてきたのだ。
 それを潰す権利が誰にある。
 今更、お嬢であれば対等の条件で引き立てるなどよくも言えた物だ。
 一片の仁義もない連中が、まっとうに生きて幸せになれるはずの人間を貪っていいわけがあるものか。
 北斗を逃がすことになれば残った者がどうなるかは分かりきったことだ。だが誰一人として死を恐れる者はいない。
 だが、虎彦がたった一人で向かい、全てを終らせようとしていることに気づいているのは北斗だけだった。
 スッと虎彦は広げた右手で粉雪をつかんだ。
 すると粉雪は掌からこぼれるように消えてしまう。
 まるで最初から何もなかったかのように――。
 ああ――やはりな、と虎彦は思った。
 外道につかめるものなど何もないと分かっていたのに――。
「お嬢さん……私は結局今の今までこの手に何もつかめませんでした。どうしょうもねぇバカな男です」
「虎彦さん……」
「それでも、それでもこんな私でも出来ることがあるんです……」
 そう言うと虎彦は上着を北斗に被せた。
「虎彦さん、覚悟なら私にだって……」
「お嬢さん。その先は言わないでくだせぇ」
「そっちの世界で生きていく覚悟が……」
「どうか、どうか、お嬢さん、その先はおっしゃらねぇでくだせぇ。貴方は逃げなくちゃならねぇ……そして幸せにならけりゃいけねぇ方だ」
 本当は何も知らない子でいて欲しかった。巻き込みたくなんてなかった。線を踏み越えて虎彦のいる世界になんて来て欲しくなかった。
 虎彦は北斗を子供の頃からずっと見守ってきた。北斗の幸せの為に生きてきた。
 だからこそ、だからこそ、護らなければならなかった。
 看板を捨てることは山一に対する裏切りかもしれない。
 先に待ってる山一がそれを許してくれるかは分からない。
 それでも護るのは看板じゃないはずだ。一度通すと決めたものは貫ければならない。護ると決めた者は絶対に護り、北斗を幸せにしなければならない。それが虎彦の決めた生き方だ。
「お嬢さん……どうか、お幸せになってくだせぇ」
 眦に覚悟を宿し虎彦は立ち上がる。
「幸せになれって……これで最後みたいに、二度と会えないみたいに言わないでください」
 いつになく強く北斗は言った。そして諦めの混ざった声で囁く。
「どうしても行くんですか?」
「はい……」
「私は……ずっと……虎彦さんが」
 その言葉を虎彦が遮る。
「そいつぁ、いけねぇ。お嬢さん、その先は言っちゃなんねぇんです……」
「だって、私一人のせいで……」
 虎彦は唇を噛み締め、泣き顔から目を逸らす。振り返って北斗の涙を拭ってあげたいのを耐える。
「どうか泣かねぇでくだせぇ……私にはそいつが一等辛いことなんです。私は親父さんに拾われた日から貴方の幸せだけを考えて今日の今日まで生きて来たんでさぁ……」
 ふいに北斗の暖かい手が虎彦の右手に触れた。
 それはほんの短い時間だった。だが虎彦にはそれが永遠のように思えた。
「虎彦さんの好きな……肉じゃが作って待ってますから……だから……だから……必ず」
消えてしまいそうな声を受け止めながら、それでも振り返ることはない。
「有難く頂かせて頂きやす」
 虎彦はゆっくりと神社の階段を歩き出す――右手に残った温もりを感じながら。



 右手を見つめていた虎彦は口元だけで笑い、キュッと右手を握り締める。
 それはその手につかんだ物を確かめるようでもあった。
 どれだけ時間を稼げるか分からないが、北斗を国外に逃がす時間は十分にあるはずだ。手はずも既に終えてある。惜しむらくは北斗の花嫁姿が見れないことかなどと考え自嘲的な笑みを浮かべる。
 だが、北斗ならきっと虎彦の望んだように幸せを手にしてくれるはずだ。
 ふと、虎彦は道の向こうに良く見知った顔ぶれが待っていることに気づいた。
「おいおい」
  そう呟いて思わず苦笑いを浮かべる。
 どうやら皆、考えることも覚悟も同じらしい。
「行ってきやすぜ、お嬢さん」
 右手に向かい虎彦は囁く。
 四月に降る雪のように淡く儚く消えていく定めだとしても――この手に残ったぬくもりは消えやしないだろう。
 若い衆は踵で息をし、女は爪先で呼吸し、男は背で酒を呑みただ黙って去るもの。その背に誇りを宿し、菖蒲花虎彦は歩き出したのだった。


back

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送