『クロス/ハートレス』


 犬杉山町に里帰りすることになった僕と琴音が寄ったのは、高校一年の頃に住んでいた街にある喫茶だった。
 店内に流れていた曲が、黒人ジャズ歌手であるムーチェ・フラッグの『ベリー・ベリー・ウォークジョイ』に変わった。琴音が良く聞いている曲だから僕も知っていた。
曲に耳を傾けていると、少しして僕たちのテーブルに珈琲が置かれる。カフェ『クラムボン』の見慣れたティーカップは二年前と変わっていなかった。漂うその香りさえもどことなく懐かしく思える。
「琴音、珈琲にお砂糖入れるよ?」
「ん。ソウ」
 本を呼んでいた義姉の琴音がいつも通りの返事で頷くと、僕は装飾の施された銀色のスプーンでシュガーをすくう。
 スプーン何杯分かなんて聞く必要はない。
 琴音はいつもミルク多め、シュガーをスプーン三杯と知っている。
 スプーンの上に乗せられたその真っ白な砂塵は、アルビノである琴音の肌や髪と同じ色で綺麗な滑らかさを持っている。
 琴音の髪とは対照的な黒い本は『エソント』という科学者の論文らしく、琴音が普段からよく読んでいる科学者の本だ。英字版の本だが海外留学を決めている琴音には問題ないだろう。
 僕がスプーンにシュガーを乗せたまま、琴音を見つめていると、
「ん、ソウ?どうした?」
 琴音の赤い瞳が僕に向けられ我に返る。
「あ、ううん。何でもないよ」
 僕が琴音の珈琲にシュガーを入れながら笑う。する、琴音は読んでいた本を閉じる。
「調子、悪い?」
「ううん、大丈夫だよ」
 そう答えると琴音はコクリと頷く。
「ん。それならいい」
「うん、なんかさ、もうすぐ犬杉山町に帰ると思ったらぼんやりしちゃって」
 琴音に合わせて自分の珈琲にも砂糖を三杯、ミルクを多めに注ぐ。
 差し出した珈琲を受け取りながら琴音は頷いた。
 僕と琴音がその犬杉山町を離れて三年経ち――久しぶりに昔の仲間達と再会することが決まったのは夏休みに入ってすぐだった。いつも皆まとまりがないのに今回はやけにすんなりと決まった気がする。
 やはり、皆、感じているのだろうか。
 夏が過ぎるということは、大人になるということは――。
 皆、揃って会うこともほとんどなくなってしまうということに。
「皆が元気だと嬉しい」
 そんなことを言いながら琴音は乳白色がかったスプーンで珈琲を混ぜる。琴音がそういうことを口にするのは珍しいと思ったが、同じ気持ちを共有していることが僕は嬉しかった。
 もしかしたら、琴音もこれが最後かもしれないことを感じているのかもしれない。
 特に琴音は海外留学を控え、日本を発ってしまえば数年は戻って来ないという。
「そうだね。一や風彦に会うのは本当に久しぶりだもんね」
「ん。久しぶり」
 表情に出さなくてもどことなく嬉しそうな琴音が可愛くて、僕はついつい微笑んでしまう。
「私は嬉しい」
 ふいに珈琲のカップを置いて琴音はそう言った。
「うん。僕も皆と会えるのが――」
 言いかけた僕は琴音がフルフルと首を横にふったことに気づく。
「ソウと一緒に犬杉山町に帰ることができる」
 多分、それは琴音にとって当たり前のことかもしれないけど――。
 ごくごく普通に言ったことかもしれないけど――。
「それが一番嬉しい」
 そう言って琴音は僅かに微笑む。
 それは僕にとって全く予想外の不意打ちだった。
 ジンワリとその言葉が心の中に溶け込んでぬくもりに変わっていく。
 珈琲の中に溶けるシュガーのように。僕の心の中に混ざっていく。
 けれども、それはすぐに甘い痛みに変わっていく。
「ソウ?」
 琴音が僅かに首を傾げる。
「う、ううん。何でもない」
 一瞬、ジャズが別の歌手の曲に変わっていることに気づかなかった。
 僕は琴音のことは何でも分かっているつもりだった。
 珈琲に入れる砂糖の量、読んでいる本、表情の僅かな変化も――ずっと一緒で、いつの間にか全部分かっているつもりだった。
 ずっと、お互いの時間を重ね合ってきたつもりだったけど、自分を隠しているのは、気持ちを曝け出していないのは琴音の方じゃない。
 それでも僕は――。
 言葉に迷った僕は――。
「僕もさ、琴音と一緒に帰れて嬉しいよ」
 言葉を選んだ。
「ん」
 いつも通りに琴音は頷く。
 僕は本当は言いたい気持ちがあるのに――自分が傷つかないよう言葉を選んで気持ちを隠してた。
 伝えなければ拒絶されないのに。
 これ以上追わなければ届かないことに苦しまないのに。
 望まなければ何も失わないのに。
 幻と気付かないで夢を見ていられたのに。
 もどかしい気持ちに苦しむこともないのに。
 行き場のない指先に戸惑うこともないのに。
 僕達の関係が変わってしまうこともないのに。
 ずっと一緒に居たくて何も伝えないでいる――心地良い甘さの中にいる為に。
 僕はそれが間違ってると気づき始めてる――。
 それでも、僕は心の中の思いを口に出せぬままただ微笑む。
 側にいて欲しい――たった一言を珈琲と一緒に飲み干す。
「僕も琴音と帰れて嬉しいから」
「ん。ソウ」
 もう一度、僕が
今言える言葉を繰り返すと、いつも通りに琴音が頷く。
 それがいつもの僕達。そこから僕は踏み出すことができないでいる。
 迷いながら、自分の間違いに気付きながら僕は気持ちを伝えることができない。
 琴音と同じように砂糖を入れたはずなのに――珈琲は少しだけ苦かった。



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