『異音街・白夜草』


全ての価値ある物が死に絶えた、この救いのない街に咲く花。
それは瓦礫の上で、月明かりを浴びて凛と輝く。
道端に咲いた白い花の名を知らないことが罪だと教えてくれたのは誰だったろう。
そもそも花の名も何だったろうか。
男との行為の最中に、そんなことを考えた。
灰色の汚れた隙間に、私と男の声が蕩ける。
ここは異音の街、背徳と欲望だけが犇めき合う。
重なるのは身体だけ、誰も心など信じない。
綺麗な物なんて全部嘘。
本当につかめるのは乾いたポドゾルと薄汚い小銭だけ。
男の舌がなめくじのように私の身体を這い回り、ぬらりと道を作っては白い肌を犯してく。
名前も知らない男。この街にいる男がろくなもんじゃないことは分かってる。
私はただ、上を向いて月を見てた。
好きなようにすればいい。そして金を置いて消えればいい。
早く帰らないと――そこまで考えて、姉さんのあのクラリモントような微笑が浮んだ。
私から自然と自嘲的な笑みがこぼれる。
私はどこに帰ろうとしていたのか。
今まさに、たった一人の肉親を裏切っていると言うのに。
いつだって、優しく微笑んで――。
いつだって、この壊れた世界で唯一で――。
いつだって、私の為に――男に身体を売っていた姉さん。
私を先に裏切ったのは姉さんだ。
私はそんなことして欲しくなかった。
ただ、側にいてくれれば、それで良かった。
貧しくても、みすぼらしくても、それで良かったのに。
男が呼吸に合わせて身体を揺らす。
苦痛、快楽なんてどこにもない。まるでこの街みたいだ。
あるのは瓦礫の散らばったアスファルトの冷たさだけだ。
姉さんはこの苦しみに耐えていたのだろうか。
私の前で、いつも微笑んで。
それがどれだけ苦しかっただろう。
優しい姉さん。
この狂人の街で、誰よりも人間らしかった姉さん。
この終の棲家で、誰よりも強かった姉さん。
「なぁ」
男が何か語りかけてくる。
「お前、あの有名な売春婦の妹やろ?」
私の右手が瓦礫を握り締める。
何の躊躇いもなくそれを振り下ろす。
硬い物同士がぶつかる嫌な音と間延びした声。
私の手がそれを繰り返す度に、赤い血肉が飛び出し、身体をこの街の色に染めていく。
血がねっとりとして、暖かいのはきっと糖分のせいだ。
気持ち悪いほど落ち着いてた。
ただ、喪失感はある。
男が動かなくなった後、頬についた汚いものを拭う。
でも、私の手はもう既に、どうしょうもないほど汚れていたことを忘れてた。
これで戻る場所はなくなったのだ。
ここは異音街、放浪者の街。ここで果ててしまうのも――そう、思った時、その人が目の前に立っていた。
「……姉さん」
オードリーのような高い声で私は呟く。
「来ないで」
私の口から、かろうじてでたのはそれだけだった。
「もう戻れへんから」
それでも姉さんは、血に塗れた私を見つめ微笑んでいた。
いつもと変わらない優しい眼差しで。
月の光を浴びた美しいその姿は――白い花だった。
姉さんがスッと手を差し伸べる。
「うちに帰ろう」
「姉さん……」
私は泣いてた。姉さんの手を握りながら。


この雫も、この街ではすぐに消えてしまうだろう。
この声も、この街ではいずれ途切れてしまうだろう。
この手も、この街ではいつか離れてしまうだろう。


ならばせめて、貴方が教えてくれた、異音に咲くあの白い花のように強く在りたい。


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