『ハローワールド』
ハロー、ワールド。今日も俺の世界は変わらずに、いつも通りの朝が来た。
何一つだっていつもと変わらない俺、山梨カヲルの一日が始まる。
シャワーを浴びて、ドライヤー使って、短く切りすぎた髪をチェックして、コンタクトを付けて、お気に入りのコロンを使って、テレビをつけながら朝食のパンを食べて、低血圧のせいで曖昧な返事を返す君がいないことを思い出した。
いつも通り、本当に君がいなくても何一つ変わることはなく俺の世界は動き続ける。
一人きりのテーブルでぼんやりとしたままパンを口に運んだ。本当にいつも通りすぎて、もっと涙が溢れてきたりとか、そういうことがあってもいいと思うのに、感情が麻痺しているのかと思うぐらいに何も感じない。別れがあまりに唐突だったせいかもしれないし、ただ君が『カヲルとは一緒にいられない』とだけ言って出て行ったせいかもしれない。
『いけない恋だった』、そんなドラマみたいなこと言われても俺はどうすればいいのだろう。
「やっぱ俺が悪かったんかな……」
テーブルに置かれたマニュキアを手にするとそんな言葉が口から溢れた。
一人暮らしは寂しさからか独り言が多い。君と一緒になってそんなこともなくなったと思っていたのに。弱くて消え入りそうな自分の姿に再び気づかされた。
それでも、君が戻ってくるわけでもなく、いつも通りに大学へ向かう。それはもうプログラムされていたことのように、俺はいつもと変わらない日々をこなそうと動き出す。
何故かな、俺の世界は何一つ変わらない。
君と歩いた道を歩き、君と歩いた時間を一人で歩き、大学の教室へ向かう。ただ君が隣にいないというだけで何一つ変わらない。
それなのに教室へ行けばいつも通り、君がそこにいる。何故かな、君を見ていたら、ただ胸が苦しくて他の言葉なんて思い浮かばなかった。何も感じないと思っていたのにただ君がそこにいるだけで、心が乱れて真夜中に一人で震えているようなそんな気分になった。痛みがなかったわけじゃない、麻痺していただけだ。君を見た瞬間、痛みを消す魔法は解けてる。喪失感がないはずもない、もう胸には大きな穴が開いてるのだから。君を見つめるだけでこんなに苦しいのだから。
君はいる、いつも君が好んで座っていた窓際の席に。そこから差し込む光が好きだと君は笑っていた。俺にはそれが悩ましいほど綺麗に見えていた。つまらない日々さえも君は輝かせることができる。曇天模様の空の下だって、ブーゲンビリアの木の下だって君はどこだって何気ない顔をして輝かせることができる。
そんな君の隣にフッと何気なく座ればいつも通りの会話を俺達はすることができてしまうんじゃないだろうかさえ思う。喧嘩した友達といつの間にか会話が出来ていたりするように、俺達が男と男の関係であればそれを叶っただろう。でも君は君が思う以上に女の子という存在だ。いつも君が振舞う仕草の中に隠れたその女性としての部分が俺の胸をときめかせていただろう。君が女の子である、それ故に、別れを選んでしまった俺達はやり直しをすることができない。それは君が女性であり、俺のように男性的な割り切りや単純さを持ち合わせていないからだ。
君が女性的な思考の持ち主であり、一度否定した者を再度受け入れることができないからだ。君の心から俺を軽蔑し、矢のように月日が過ぎても俺という存在を疎み嫌い続けるだろう。きっとそれは変わらない。君の世界に俺は最早、干渉することはできない。君の世界の中では、きっと俺は何物にも劣るだろう。ピラミッドの最下層に位置する存在と同じだ。君の世界の中で俺の位置はもう変わらない。
鬱々とした気持ちのまま講義が終れば、君は何事もなかったかのように平素と変わらない振る舞いのまま教室を出ていく。俺がどれだけ話かけようかと迷っているかなどきっと君は気づきもしない。君がこの気持ちに気づくはずもないだろう。
誰もいなくなった教室で俺はうつむく。
自分の弱さと愚かさが苦しくて、心の奥の一番柔らかい部分がズキリ痛む。ただもううまくいかない自分が息をしていることに耐えられなくて、このまま罅割れた部分からガラス細工のように崩れてしまえばいいと思った。君は俺がいない日々を、俺がいない世界を、素晴らしい物に変えることができているだろうか。
俺は何も変わらないこの世界でどうすればいいかなんてちっとも分からない。何をどうすればいいか分からないから何一つ俺は変えることなんて出来はしない。こんなにもこんなにも心が震えても俺は何も変えられない。俺は俺自身を変えられない。だから世界なんて変わらない。
どんなに痛もうが卑怯で臆病な俺は変わらない。どうすれば素晴らしい明日が迎えられるのか、俺に教えて欲しい。俺の世界が新しい朝日を見る為に何をすればいいのだろう。君がいなくなった苦しみをどうすればいいのだろう。ただもう苦しいだけなのに、なんで、こんなにも、俺の世界は何一つ変わらないのだろう。
痛みを伴う改革が存在するならば、痛みにより自分の愚かさと弱さを知ると言うならば、この痛みが世界が変わる為に必要な物なら、あとどれだけ苦しまないといけないのだろう。変わらなければ前に進むことができないことなんて分かっているのに、なんで俺はこうなんだろう。
「何が悪かったんだろうな……」
どうしようもないほどに後悔して俺は自分のスカートの裾を握り締める。
男の心と思考を持って生まれた俺が悪いのか、そんな俺を好きになった君が悪いのか。男に生まれなかった俺が悪いのか――答えが出ないまま席を立ち、どうにもならない気持ちのまま教室を出ていく。廊下へ踏み出した時――。
『カヲル……』
ふいに呼びかけれて振り返る――なんてことがあればいいのに。
俺は『あ』と思わず呟いて――。
『外で待ってたんだけど、カヲル出てこなかったから』
そう君は言って、俺はあまりにも予想外のことで言葉が出てこなくて――
ただ君に話しかけられただけで、今まで流れなかった涙が溢れ出して――。
嫌で、君がいない世界が、そこにずっと取り残されることが嫌で、それを考えたら保っていたバランスが崩れてどうすることも出来ないことを再確認して――
『カ、カヲル?』
少しだけ君は戸惑って――。
『ううん、何でもない。たださ、俺はもっと話をしたいんだ。君ともっと。俺、変わるよ。君の為に俺の為に』
なんてことがあればいいのに。
早々割り切れない。世界を壊して作るなんて神の御業だ。
それでも、この素晴らしくも残酷な世界で俺はうまいことやっていこうとあがくしかない。変わろうと、もがき続けるしかない。変わるための苦しみに耐えてみせる。だから、俺には君が必要だ。必要なんだ。変わったところで君がいなければ意味なんてない。だから、俺には――。
「カヲル……」
ふいに名前を呼ばれて俺が振り返ると――。
ハロー、ワールド。今日も世界は美しい。
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