『ハイブリッド・ミーティア』
秋の匂いを漂わせ始めた夏の夜風。
それが道路脇を歩く、僕の頬を通り抜ける。
空が真っ黒なビロードで覆われる頃、僕は学生服のままいつもの塾に向かう。
星の輝きがはっきり見える夜だった。
そう言えば、今日はニュースかなんかで流星雨がどうこうの言ってた気がする。
進学塾の窓からでも流星雨は見えるだろうか。
塾なんて行く価値も意味もないけど。ここぐらいしか居場所はない――ナオと同じだ。
塾の途中にあるバスターミナル、ナオはいつもそこにいる。
ナオは僕より二つほど上の高校生であり、アパートの隣部屋に住んでいる。
学校にはまともに行ってないのだろう。いつも学校鞄を持っているが、中身は空っぽだ。
でも、真っ直ぐな黒髪は全く染めてないし、案外、真面目なのかもしれない。
僕がバスターミナルの前に着く。
やっぱり、ナオはその日も擦り切れたジーンズと男物のシャツを適当に羽織って、バスストップのベンチに座っていた。
脇にはいつもの学生鞄が置かれている。
ナオがなんで、いつも、ここに入るのか聞いたことはない。
ただ時々、ナオの父親の怒鳴り声を聞いたり、頬がはれていたり、身体に痣があるのを見ると、なんとなく想像はできる。
「よ、ナオ」
「おっす、スミヨシ」
ナオは僕に向かって微笑む。
頬は赤く晴れ、腕にも痣があった。
「またここにいるわけ?」
僕がそう言うとナオはコクリと頷く。
「ここしかないもん」
家にはいられない、そういうことだろう。
「スミヨシはまた塾なの?」
「ああ、適当に授業聞いてくるよ。ぶっちゃけ、あの家にいるよりはましだからね」
僕が溜息をつくと、ナオはおかしそうに笑う。
「あは。スミヨシも居場所ないんだぁね」
「分かってるだろ、ここぐらいなんだよ、落ち着くのってさ」
狂って壊れた親父と二人で狭いアパートの中にいると、自分まで狂いそうになる。
「私もここだけー」
ニシシと子供っぽくナオは笑った。
「ん、じゃあいいじゃん。細かいことは」
「だぁね」
「そうそう。どうでもいいんだよ、全部さ」
僕はそう言うとナオの隣に座った。
「ヨシヨシ」
すると、ナオが僕の髪をなでる。
「な、なんだよ」
「お姉さんが膝枕したろか?」
「ハズイからいいよ」
「だって、なんか無理してる感じだったからさ」
まぁ、本当は膝枕して欲しいんだけど。
でも、無理をしてると言ったらナオだって同じだろうと思う。
「シャイだぁね、スミヨシって」
そう言いながら繭見ナオ(まゆみなお)はクシシと笑う。
それはやっぱり子供っぽい可愛い笑顔だった。
僕はナオのこういう顔が好きだ。
君が笑う、だから僕、康平スミヨシ(やすひらすみよし)も笑う。
塾はもうどうでも良かった。ここでナオと二人でいる方がずっと価値があると思う。
笑い終わった時、ナオは夜空を見上げる。
「戻りたくないなぁ」
「俺も。親父さ、一日中、机の下這い回っててさ」
僕もナオと同じように星空を見上げる。
「そんで、あうあうしか言わねぇでやんの。アホかッつーの」
「そっか……」
ナオの声のトーンが僅かに沈んだ。
「ごめん、ナオが気にすることじゃないよ」
「ウチとどっこいどっこいだね。ウチの親父さんもパーペキに頭おかしいよ?」
「どっこいどっこいだね」
「だぁね」
ぼんやりと、ただ、ぼんやりと、ナオと僕は星空を見つめる。
「しないよね、普通」
「え?」
ナオはただ小さく呟く。
消えそうな震える声で。
「普通しないって実の娘に――」
「ナオ――」
知ってたことだけど、いざ直接聞くと心臓が熱くなった。
どうしようもない無力感と怒りだけが込み上げてくる。
涙がこぼれてた。空を見上げるナオの瞳から。
「なんか消えちゃいたいなぁ、無くなっちゃったいよ」
「一緒にさ、無くなっちゃおうぜ」
「優しいね、スミヨシ」
「優しくないよ、何もできないんだから」
何も出来ないけど、君が笑うなら、僕も笑う。君が泣くなら僕も泣く。君が無くなら、僕も無く。僕にはそれぐらいしかできない。
「あのさ、スミヨシ」
「ん?」
「あのだぁね、甘えても……いい?」
「いいよ。つーか、いちいちさ、遠慮しなくていいよ。そういう関係じゃないだろ」
僕が笑うとナオも無理して笑顔を作る。
「だぁね」
トンと、ナオは僕の肩に額を置いた。小さな手が白いYシャツをギュッとつかんだ。
胸が痛い。
ナオの小さな身体が震えてる、それがこんなにもこんなにも苦しいなんて。
ただ、僕はナオを抱き寄せる。柔らかくて今にも折れてしまいそうな体。
僕はナオの助けになっているだろうか。
どうしようもない僕達に、互い以外の居場所なんてないのかもしれない。
バスのライトが闇の中に浮んだ。
「ナオ……行こう」
僕はバスを見つめたまま呟く。
それはずっと思っていたことだ。
いつか、ナオを連れてこの町から逃げ出そうと。
「スミヨシ……?」
僕が離れるとナオは少しだけ戸惑った。
「この町から出よう」
今しかない気がする。
僕は立ち上がり、ナオに手を伸ばす。
「行けるところまで行こう」
その時、バスが僕の目の前で停止した。
軋んだ音をたてドアが開く。
「……うん!!」
手を握ってくれたナオと一緒にバスに乗り込む。
空っぽの学生鞄に、辛いことや震える胸のやるせなさをしまい込もう。
そして、逃げ出そう、この町から二人で――。
ここ以外のどこかに向かって、僕らを乗せたバスは走り出す。
僕達は誰もいないがらんどうのバスの中、一番後ろの席に座る。
窓の向こうで街明かりが流線型になって流れていく。
それは闇の中に消えていく流れ星のように見えた。
願い事もしないで見とれていた僕に、君は少し微笑んで口笛を吹く。
「あ、なんか聞いたことあるな、それ」
「うん。どっかのアイドルが夢とか希望とか叫んでる歌」
聞いたことがあるポップスなのにどこか儚くて消えそうなメロディ。
君が微笑んだから、僕も微笑む。君が歌うから、僕も歌う。
メロディのリフレインだけがバスの中に響く。
向かう先も分からない、それでも僕達は笑い合う。
僕たちの重ねるメロディは、二人でもやっぱりどこか儚くて切なかった。
そんなメロディラインに乗ってバスは町から遠ざかる。
僕らはきっと気づいていたと思う。
終着駅という終わりも決まっていて、そこはきっと、どこにも続くことはないことを。
逃げ出しても、僕達はどこにも行けやしないことを。
それでも――。
二人なら大丈夫――そんな気がしてた。
だから、つないだこの手は離さない。
このぬくもりがあれば、どこにでも行ける気がしてた。
◇
バスに乗ってどれぐらい時間が過ぎただろう。
予定通りに終わりの場所でバスは止まる。
そこは本当に何もないただの終わりで――目の前には道だけが続いてた。
辿り着いた見知らぬ駅が、本当に僕らの来たかった場所なのかは分からない。
あそこから逃げたかっただけだから、ここでもいいのかもしれない。
ナオがいればどこでもいい。
僕の側にナオがいてくれるのがとにかく嬉しかった。
「どこ行こうか?」
そんなことをナオは尋ねる。
「どこでもいいよ」
そんなことを僕は答える。
ふと、目の前を小さな光が通り過ぎる。
「あ、蛍だね」
「うわ、蛍ってこんな綺麗なんだな」
ナオが触れようとした輝きはスッと、闇の中に消えていく。
『おお』と小さく声を上げながら光の残滓を見つめる。
「ナオ、追ってみようか?」
「うん」
僕達は、その小さな輝きを追いかけて歩き出す。
今にも消えてしまいそうな輝きは、どこか僕らと似てる気がした。
「なんか、楽しいね。こういうの」
「ああ。こういうのってさ、けっこう小さい幸せだけど、なんかうれしいよな」
「うん」
クシシとナオが笑う。それが嬉しくてやっぱり僕も笑う。
道の脇にある石段を蛍は登っていく。
蛍を追って登った石段の先は、何もない原っぱだった。
「うわぁ」
ナオが目の前を見つめたまま声をあげる。
僕もただただその光景に見とれてしまう。
きっと、これは夏の夜にだけ許された魔法なんだと思う。
蒼い月明かりに照らされた原っぱ。
その舞台で、無数の光が漂うように踊っている。
幻想的でまるで、夢物語のような世界。
これは夏の夜にだけ許された魔法だ。
とてもじゃないが綺麗という言葉だけでは足りなかった。
「あは」
ナオが芝生の上に転がった。
当然、僕もその隣に寝転び、二人で見果てぬ果てを見上げる。
「ねぇ、今日って流星の降る夜なんだよね?」
「ああ。流星雨だろ。そろそろかな」
ナオが空に向かって片手を伸ばす。
「うん、ここで見る流星ってきっと綺麗だぁね」
「ああ、きっと、すげぇ綺麗なんだと思う」
「なんかさ、手が届かないのがもどかしいね」
「だな」
僕も真似して片方の手をかざす。
「あの星を盗み出せたら……何か変わるんかな」
「うん、願い事叶っちゃうかもね」
「願い事……」
ふと、その時、かざした手の平の中に光が飛び込んだ。
「え?」
蛍の輝きじゃない。
それよいももっと強い刹那の輝き。
再び、光のラインが闇の中で輝く。
「あ、ナオ、流星雨」
ゆっくりと、光の道が空に現れ、どこかに消えていく。
まるで光が降り注いでるみたいだ。
「わ、わ、わわ、すっごい綺麗だよ、スミヨシ」
「うん。すっげぇ綺麗だ」
ふと見ると、ナオはまた泣いてた。
「泣くなよ」
「だってさ……」
泣かないで欲しい。今だけは。
忘れて欲しい。ナオを苦しめる全てを。
「うん、泣かないで。笑ってようぜ」
「うん……」
そう言ったけど、僕も涙を堪えるので必死だった。
僕らの町に向かって光が降り注ぐ。
音もない流星雨、それは僕らの涙みたいだ。
「願っちゃおうかな」
「ん?」
ナオが涙を拭いながら微笑んだ。
「強くなれますように」
「ああ……!なろう、強く」
流れ星に僕は願う、君を守れる強さを持つこと。
「うん……強くなろうね」
「ああ」
君に僕は誓う、君を絶対に守ること。
流星雨が止むと、ナオがニシシと笑った。
「帰ろう、スミヨシ」
綺麗な笑顔だった。気高くて、どこかドキリとさせられてしまう笑顔。
僕も同じように心の底から笑う。
もう大丈夫。
僕達は大丈夫、負けない――そんな気がした。
僕達は一緒に強くなれると思う。
ゆっくりと、僕達は蛍のいる原っぱを後にする。
また、いつか強くなってここに来たいと思う。
――こうして、僕たちの逃避行は終わる。
◇
帰りのバスの中で、お互いのことを話した。知らなかったこと、知ってたこと。話しても話しても全然足りない。
それでも、まだ話したりないのに町が遠くに見えて来た。
どこにも続かない場所から、僕たちの町へ向かってバスは走り続ける。
僕達はもう、このバスターミナルには来ないかもしれない。
そんなことを僕は考えていた。
僕たちに逃げる為の場所はもう必要ないからだ。
逃げる為の場所じゃない、一緒に強くなるための場所がすぐ側にできたから。
深夜のバスターミナルに僕達はまた戻ってきた。
軋む音をたて、停車したバスのドアが再び開く。
バスを降りると僕達はバスを見送った。きっと、このバスはまた別の誰かをあそこへ連れていくのだろう。
バスが闇の向こうに消えていった後、僕はナオが手ぶらなことに気づく。
「あ、ナオ」
「あいー?」
「鞄は……」
「んん、色々入ってたから置いてきた」
色々――。
僕は少し考える。ナオはその間、意地悪そうに笑ってた。
「空っぽじゃなかったけ?」
「だぁね。でも色々さ、今までの気持ちがつまってた」
「気持ちか――」
気持ち――。
なんとなくその意味が分かった。
ナオには今度、僕が新しいのを買ってあげようと思う。
その鞄にはもっと、楽しい気持ちだったり、幸せだったり、そういう物を詰め込んで欲しい。
「スミヨシ、気づいてた?」
「ん?」
「私たち、ここまで手離さなかったこと」
「あ……」
僕は言われて初めてそのことに気づく。
ここで僕達は手つなぎ、そして戻ってくるまで離してない。
「ちょっとした奇跡だよね」
「そうかもな」
「うん、絶対そうだよ」
手をつないだまま、僕達はアパートに向かって歩き出す。
ナオがふいに口笛を吹く。
それは星空で眠るような優しいメロディだと思う。
僕も合わせて口笛を吹く。
重なる僕たちのメロディが星空に向かって響き合っていた。
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