『ゴールデン』


 ハロルドの家の裏には廃棄自動車置き場がある。
 高く積まれた自動車の残骸や幾重にも重ねられたタイヤの山は、近所の子供達の格好の遊び場だった。
 ハロルドはガソリンの臭いも雨ざらしになったタイヤの臭いも嫌いではなかった。むしろ、その独特の空気と臭いが好ましくも思えた。秘密基地的な要素を孕んだその場所は多感な時期の少年達の胸を高揚させる。スクラップの山を走り回る子供達は一種の連帯感と共有感さえ抱いていた。
 その連帯感や高揚感は大人になってしまえば段々と忘れて行ってしまう感情であり、少年を最も少年らしく輝かせる感情だった。
 それは大人には懐かしく思えてしまうほど眩しい輝きだ。
 子供達は本能的に理解している――その輝きと眩い季節を奪うのは大人であり、最も気をつけねばならないのは大人たちにばれてしまうことだと。
 一度だけ、ハロルド達は廃工場で遊んでいる姿を近所の大人に見つけられ怒鳴られたことがある。すぐさま、一緒に遊んでいた仲間達の親にも連絡が行き、一人残らず叱られた。
 大人達は、『危ないから』とか『人の土地だから』とそういう理由で廃棄自動車置き場に近づくなと言う。しかし、少年であることの輝きが持った危うさは『痛みを伴わなければ危険が分からない純粋さ』であり、ハロルド達は廃棄工場で遊ぶのをやめなかった。
秘密の場所を見つけるのは悪ガキの持った才能だ。ハロルド達は悪ガキを名乗るにたる少年達だった。そんな悪ガキが大人のいいつけを素直に守るかどうかなど分かりきったことだ。子供達を遠ざける大人たちも、そこで遊んで大人になった悪ガキ達であったはずなのだから。
 ハロルド達が本能に長けた悪ガキであっても気づかないことがあった。
 それは子供達を叱りつける表情に恐れに似たものがあることだ。大人たちは叱りつけながらも、キッチンのステンレス台にこびりつく汚れのような、泥濘の中のような粘着質の何かが表情に翳りを宿らせていた。ハロルド達がそれを理解するには――大人たちの考えを悟るにはあまりにも少年すぎた。いつだって少年というのは無知だ。無知であるが故に己を無知だと理解できない、知らないことが多すぎることを知らない、表面だけを見て全てだと思い込んでしまう。
 大人たちは秘密の場所がいつも輝かしい黄金に満ちた場所ではないと知っているが、少年であるが故にハロルド達はそのことに気づかない。悪ガキの嗅覚が禁忌を見つけてしまうことを知らなかった。
 少年であるが故に――。
 その日は小雨が降り少し肌寒かった。
 いつもの悪ガキ仲間はスクールの廊下に正座させられ、難を逃れたハロルドは廃棄自動車置き場で仲間たちを待っていた。皆今頃、担任のオッペンマイマンマー先生に今頃こってりとしぼられていることだろう。
 ハロルドは家から持ち出した蝙蝠傘を差し、積み重ねられたタイヤの上でブラブラと足を振る。その幼い唇が奏でる口笛が廃自動車工場に響き、タイヤからしたたる水滴の音や、スクラップに打ちつけられるリズムにメロディが溶け込んでいく。それに混ざり込むように、ふと――何かをこする音が響いた。
「ん?」
 ハロルドの口笛が止まる。
 一瞬、心がざわつくような感情を覚えた。ぬるりと何かが背筋に触れるような感覚だ。ハロルドのシンプルな思考はそれを雨のせいだと決めつけた。
 だが、決めつけたのにも関わらず――この場所の静けさに対し違和感のようなものを感じていた。ゆっくりとハロルドの胃の中を熱が込み上げてくる。それが焦燥感に似た感覚だとハロルドは気づかなかった。
 ハロルドの足が動きを止めた瞬間、もう一度何かを擦る音が響く。ビクリとハロルドの身体が反応した。心臓の鼓動が徐々に大きくなっていく。
『いいか、ハロルド。あそこには近づくな。犬と同じなんだ、自分からあそこに近づかなければいい、それだけなんだ。いいか、あそこには――』
 ふいに、父親の言葉を思い出した瞬間、そこから離れなければならないという明確な意思が湧き上がり始める。
 ハロルドはすっかり忘れていたが、オッペンマイマンマー先生もここのことを口にしていた。
『先生が子供の頃のこと、そう、随分と昔の話ね。先生が子供の頃からあのスクラップ置き場はあって……あそこは皆の遊び場だったわ。あんなことが起こるまでは――』
 大人の話はいつも子供を従順にさせるための鎖のようなものだと思っていた。
 だが、違う。大人が後悔を持って過去を話す時、耳を傾けるべきだったのだ。
 背筋を伝うぬめりとした感覚は寒気に変わっていく。
 この時、ハロルドは初めてこの場所を怖いと思った。
 再び、何かをこするような音が雨音に混ざりながら響く。
 ハロルドは喉を鳴らしながら、その音のする方を眺める。それは背後からの音だった。
 カリカリカリカリカリカリ――。
 振り返ると音の輪郭がしっかりとした形を持ち出している。
 ドクン、ドクン――心臓の音は体の外に飛び出しそうだった。
 ハロルドはジッと、音のするマンホールを見つめた。ゆっくりとタイヤから降り、その錆びた茶色い蓋に近づいていく。
『ハロルド、あそこのマンホール変えてしまうんだ――』
『先生達は子供だったのね。だから気づかなかったわ。あそこのマンホールは終らせる場所だったのよ――』
 頭の中でリフレインする言葉をなぞりながら、ハロルドは足元のマンホールを見つめる。
 足元からあのひっかき音が鳴り続けていた。
 それはまるでハロルドのことに気づき誘っているようでもある。
 ハロルドはグッと、唾を飲み込む。
 少年であること輝きが持った真の危うさは、『痛みを伴わなければ危険が分からない純粋さ』だ。危ないと分かっていても触れてしまう 過ちができるのは少年の時だけだ。本能に従い、ハロルドはマンホールのへこみに傘先を入れ、てこの要領でグッと力を入れる。
 重く軋んだ音と共に、僅かにマンホールの蓋が動いた。
 その刹那、ハロルドは水たまりの中に尻餅をつく。
 動くことは出来なかった。『あ、あ……』とかすれた声が漏れるだけで言葉になろうとしない。
 大きく見開いた蒼い目は眼前をただ見つめていた。
 立っていた――。
 少女が――。
 ハロルドよりほんの数歳年上だろうか――。
 ワンピースを着たブロンドの愛らしい少女だった。
 その少女が今まで会ったどんな少女よりも優しく微笑んでいる。
 柔らかそうな手がスッとハロルドに差し出された。
 ハロルドは少女とその手を数回見比べながら手を差し出す。
 すると、少女はハロルドが起き上がるのを助けてくれた。
 動揺しているハロルドを見つめながら、もう一度、天使のような笑顔で微笑む。
 そしてふいに、その柔らかな唇がハロルドの頬に触れた。
 それは雨に濡れたハロルドの頬と変わらない温度の唇だった。
 今まで感じたこともないほどに、心臓が高鳴る。その音のなんと清らかなことだろう。
 それは、まるでヴァチカンの聖堂が奏でる鐘の音のような音だった。それなのにどうすることもできないほどに胸が熱く苦しい。
 何かが体の中を突き抜ける、その体の中から湧き上がる熱い何かが脳髄を刺激し、血液中を巡り、そして放たれる。
「あ……」
 ハロルドが声を漏らし、右手で頬に触れる。
 その時には――少女の姿はなかった。
 マンホールの中で、外れかかったパイプが風に煽られてこすれる音だけが響いている。
 数分後、悪ガキ仲間達が学校から逃げ出してきた。
 雨に濡れたハロルドを見て不思議そうにしていたが、ハロルドは先ほどのことを口にしようとは思わなかった。自分でも何がなんだか分からないからだ。
 ハロルドはぼんやりとしたまま、ただマンホールを蓋を戻し――、
「あ……」
 もう一度そう呟く。
 下半身のぬるりとした感覚――ようやくハロルドは自分が射精していることに気づいた。
 それは生まれて始めてのことで、こないだ授業の中で習ったばかりのことだ。
 すぐさま遊び仲間たちと別れ、家に帰ってもハロルドは夢現だった。
 ぼんやりとしたまま、ただただあの少女のことを考えていた。僅かに疼く胸の痛みを感じながら。
 後にハロルドの知ったことだが、あの場所は昔から少年を男に、少女を女に帰る場所だと言う。オッペンマイマンマー先生や女の子達ははあそこで唐突に生理が始まり、ハロルドのように悪ガキだった父親たちも少女と出会い初めて射精したらしい。それが大人たちがあの場所に子供達を近づけたくなかった理由かもしれないし、もっと何かあるのかもしれない。ただ、はっきりしているのはその出来事がハロルドに、とても大きな何かを喪失したような感覚を与えていたことだ。それが何なのかはハロルドには分からなかったが、何かが変わってしまったような気がしたのだった。
 少年であることの輝きが持った危うさは『痛みを伴わなければ危険が分からない純粋さ』であり――それは胸の痛みと喪失感、僅かな後悔を伴って終わりを告げる。
 あれからハロルドは何度もマンホールの前に立ったが、二度と少女が現れることはなく胸の痛みが消えることはなかった。



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