『我楽多博物館』
本編とあまり関係ない人物紹介
○安治不或(あじふある)……受験生? ○安治不名事(あじふなこと)……妹?
『エコー』
『くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……』 頭の中で奇妙な声が響く。不快、ひどく不快、体に叫びを上げさせる限りなくソリッドな痛み。 それを振り切るように、安治不或(あじふある)は窓際に置かれた机に向かい、ノートに方程式を記していく。文字の羅列、数式の呪文、何度も繰り返し赤い文字を脳裏に刻み付ける。 チリチリとした焦燥感が心の奥で焔をあげる度に、心が燐のように燃やされていく。それに誘われたのか、薄暗い部屋の電灯に蛾が一匹舞い込み、羽音と電灯への衝突音を繰り返し破滅への音楽を奏でる。それもいずれは朽ちて塵へと還るだろう。意味もなければ、価値もなく。開けっ放しにしている窓から流れる、熱風と腐った溝の匂いの中で朽ちて永遠になる。腐った風が室内を蹂躙する。 淀んだ腐臭が鼻先に染込み気分が悪くなり、ドロドロとしたものに感覚さえ冒されていく気がした。いや、もう既に体が溶け出しているのか、狂ったように汗が噴出し続けていることに気づく。 暑さに魘されながらも指先は動き、数式の魔方陣を脳内保管していく。 働き蟻とキリギリスのようにすべての運命はこの夏の努力で決まるのだから。 分かってはいるが。 「うう……」 頭の中で響く声、『くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……』。 狂ってしまいそう。狂ってしまえば楽なのか。狂ってしまっているのか。 「お兄ちゃん」 確かに聞こえる声。 時間の感覚も失せた頭にはっきりと聞こえる声。 「お兄ちゃん」 この歪んだ世界と外をつなぐ確かな言葉。 振り返ることはしないが、或のベッドでゴロゴロしていた妹の名事(なこと)が起き上がったようだ。小さく欠伸を一つ。小学校の水泳部で焼けた褐色の肌をほんのりと上気させ、潤んだ瞳でまぶたを擦っているのだろう。 『すぐつふくつでふ、てふてふいるみるんるるいえ』 頭の中であの声が、あの声が、あの声が呼びかける。 「お兄ちゃんってば」 呼ばれても振り返ることはしない。 「もう、お兄ちゃん」 名事(なこと)の呼び声を無視してノートに数学の方程式を書く。 名事は名事で或のベッドに座り直しつまらなそうに頬を膨らませているのだろう。 「お兄ちゃん……」 軋むベッドの音。 名事は足をプランプランさせているのだろうか。 蛾の羽音、或のペンの音、時計の音が混ざり合いリズムを刻む。 時間の感覚すらなくなった頃、 「お兄ちゃん」 今度は少し甘えるような声で或を呼んだ。 或はそれを再び無視する。無視する。無視する。それでも耳元に届く衣擦れの音。 ふわり。ゆっくりと、布が或の見つめるノートの上に落ちた。 「……お兄ちゃん、私、今、全裸だよ」 或は落ちてきた布を手にとって見る。 布に残る体温の感触……それは名事のさっきまで着ていた白地に青縞ストライプの下着だった。 ふいに或の心臓がリズムを刻みだす。ひどく乱れたフラストレーションミュージッ ク。 それが蛾の電灯にぶつかる音や時計のリズムに混ざりビートを早めていく。 呟いた或の乾いた唇に汗の雫が流れ落ちた。 「お兄ちゃん」 名事がゆっくりと、背後から或の首に腕を回し抱きつく。 柔らかな肌の感触。甘いミルクのような幼い香り。熱を持った肌。妹の褐色の幼い肢体。乳房。幼い未成熟な乳房。るるいえなぎなふんたるふうふうふ。 「お兄ちゃんが水泳教えてくれたんだよ。勉強だって……」 「……」 「つまんないよ。お兄ちゃん全然相手にしてくれないんだもん」 「名事」 その名を呼んでしまった。 ビート。心臓のビート。蛾の羽音。時計の機械音。腐った風の吹きつける音。混ざり合う不協和音。名事の声。ねやねやるいえるうるうるふれいうぇ。 「もっとね、色々教えてよ」 振り返った。映るもの、名事。 瞳、純粋で真っ直ぐな瞳。逆らえない。獣欲。 「名事……」 押し倒した。ベッドの上に。妹の幼い肢体を。食らいつく。青い果実に。赤くなる前に。汚した白いもの。 「お兄ちゃん……お兄ちゃん……あうぐすつふっりえうるいや」 嗚呼、全て目まぐるしく回転して、クルクルとクルクルとうういえあうあうふん。 「名事……名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名 事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名 事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名 事名事名事名事名事名事名事名事名事名事事名事名事名事……」 混ざり合って、熱も気だるさも色も世界も音も何もかも混ざり合ってるうあくるつるる。 溶け合って、 「お兄ちゃん、世界は終らないの」 回転して、 「お兄ちゃん……うるうるみるがなふん」 嗚呼。世界が。全てが。 ……。 …。 安治不或(あじふある)は窓際に置かれた机に向かい、ノートに方程式を記していく。文字の羅列、数式の呪文、何度も繰り返し赤い文字を脳裏に刻み付ける。 チリチリとした焦燥感が心の奥で焔をあげる度に、心が燐のように燃やされていく。それに誘われたのか、薄暗い部屋の電灯に蛾が一匹舞い込み、羽音と電灯への衝突音を繰り返し破滅への音楽を奏でる。それもいずれは朽ちて塵へと還るだろう。意味もなければ、価値もなく。 繰り返す終らない夜。永遠の夜。 『くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……』 そうノートに記す。嗚呼、これは、これは――。 「お兄ちゃん」 或の肩に頬をのせ微笑む名事。 これは方程式だ。この世界を支配するロリータの方程式。終らない夜の方程式。永遠に繰り返す為の方程式。 永遠のロリータ。 くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ――名事。
蛾は本能のままに破滅への過ちを何度でも繰り返す。
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