『ディアラバ』

 

手の中の白いマニキュア。
それが幼馴染の鈴原冬架に似合っていると思った。
ちっぽけな壜に閉じ込められた、とろりとしたエナメルの光。
頼まれて買ったばかりの白いマニキュアとミントキャンディーを手に冬のアパートに向かう。
マニュキュアの壜と同じ輝きをもった、僕、高瀬卓士の人差し指爪先。
購入時、女性店員に試し塗りされてしまった。
『お嬢さんには、そうね。この色がお似合いじゃないかしら。ほら、どう?』
……男だという主張はしなかった。
体つきも声も男らしくない為、よく女性と間違われる。
最近ではすっかり慣れてしまった。
僕はゆっくりとアパートの軋む階段を上る。
「冬、入るよ」
ドアノブを回すと声が返ってくる。
「あ、たっちゃん♪」
少しだけ空いたドアから聞こえるステレオミュージック。
玄関から入ってすぐのキッチン、そこに立つ鈴原冬架。
揺れる金色の髪……今日はツインテールにしていないようだ。
冬の輪郭……小さくて、華奢で、強い存在感を持っている。
柔らかな微笑み……。
その自然体の表情は冬が持って生まれたものだと思う。
「冬、どうしたの」
思わず、僕は尋ねた。
冬がキッチンへ立つことなど皆無に等しい。
「えへ、たっちゃんにミートソーススパを食べて貰おうかと思ったけど……無理でした」
よく見ればステンレスの流し台は無残な光景に……。
飛び散ったミートソース。割れたお皿の欠片……。
皿の上でカチカチに固まった何かから香ばしい匂いがしている。
「冬、これは?」
「うん。あのね、冷凍キャビアを解凍しようとして電子レンジで……」
チョウザメの卵がチョウザメのゆで卵に……。
「ご、ごめんなさい〜!!」
「いいよ。休んでて。僕が作るから」
「うん……。ごめんね」
「あ、冬、指……ミートソース」
僕はそっと冬の手を握り、その細い指先についたミートソースをなめる。
「あ……たっちゃん。あ、あ、あのいきなりそういうことは恋人同士でも」
冬は顔を真っ赤にして僕を見つめる。
恋人じゃないと言ったら怒るだろうから言わない。
「冬?」
「分かってないのに……。自覚なしでまたそういうことを……」
「自覚?」
僕の唇から指先が離れる。
冬は両手の人差し指を胸の前で遊ばせた。
「あうう、もう。たっちゃんのバカ……」
「よく分からないけど、あ、これ……頼まれてた物」
僕は後ろポケットに入っていたマニュキュアを冬に手渡す。
「ありがとう〜」
冬は両手で壜を受け取った。
「買うときに恥ずかしくなかった?」
「大丈夫だよ」
「あれれ、たっちゃん、指先に塗られてるね?」
冬架の蒼い大きな瞳が僕の指を見つめる。
「女性に間違えられた」
「やっぱし。四月に比べて大分、髪が伸びたもんね。可愛いい女の子っぽいもん」
冬が可笑しそうに笑う。
女性と間違えられると分かって行かせるとは……。
「あ、そうだ。たっちゃん、御飯の前に髪結って欲しいのです〜」
「いいよ」
僕たちはキッチンの隣のリビングへ移動する。
柔らかな日差しが差し込むベランダの側に僕たちは座った。
「いつものツインテールでいい?」
「うん。たっちゃんに結ってもらうために今日はおろしたんだよ」
「また、そういうことを」
柔らかな金色の海原……。
サラリと手の平をすべる滑らかな感触。
そっと冬の髪を白い紐でツインテールにする。
冬の髪は光を吸い込み輝いていた。
「はい」
「ん♪幸せです。ついでにマニュキュアもお願いします」
「指出して」
僕がそう言うと冬が細く白い手を差し出す。
ハケを近づけてすべらせると、薄く色付く。
「こうかな……」
「なんだか、恥ずかしい……」
冬は自分が僕に抱きつくのは恥ずかしがらないくせに、僕に何かされるのは恥ずかしがる。
幼い頃から、一人だった冬は与えられることになれてないからだろう。
「こうやって甘々してるのって幸せ〜」
冬が恥ずかしがりながらも微笑む。
「冬、ジッとしてて」
指先に神経を集中させて、はみ出ないように一閃させるとさくら貝が色を変えて真白に光る。
「たっちゃん、上手だね」
「細かいこと得意だから」
「そうだね、お掃除、洗濯何でもできるもんね」
それは冬がそういうことしないから僕がそういうことを覚える必要があり……。
染め上げていく爪先が、十本揃って真っ白くなった。
冬が手を僕に見せた。
「どうかな、どうかな?」
「うん。綺麗だよ」
「えへ。よおし。じゃあ、たっちゃんも塗ってあげる。おそろいだよ〜」
ここで断っても諦めないことは分かっていた。
こういうどうでもいいことになると頑固になる。それは昔から変わらない。
大人しく小壜を渡してやると、不器用な手つきでキャップを開け、小さな刷毛に零れるほどの液体をつけた。
「動いちゃ駄目だよ」
僕の手をつかむ。
息をのむような光の反射。白いエナメル。
同じ色がぼくの指先にも、そっと落とされる。
くすぐったいけど、冬の手の暖かさは嫌いじゃなかった。
「ん、完成」
爪先からはみ出て指にまでついていたが、冬は満足そうだ。
クレージングは買ってあるが、今日一日はこのままにしておこうと思った。
冬が満面の笑みの後、僕の胸の中に飛び込んでくる。
僕はそれを受け止めた。
「ミートソーススパ作るから二人で食べようか?」
「うん……あ、さっきみたいな食べ方はダメだよ。で、でもたっちゃんなら……あうう」
「さっき?」
指先をなめた時だろうか?
「んん〜。でも、もう少しこうやってたいかな。二人でこうやって……ここって私の居場所だもんね」
「私だけの居場所?」
「ん。居場所だよ」
僕の腕をその細い手でぎゅっと抱き締め、肩にもたれかかる。
「たっちゃんのいるここが一等好き。だから、ここは私の居場所だよ」
金色の柔らかい髪がくすぐったくて……僕にはそれが心地良かった。
「冬……」
エナメルの光沢。白い爪先。
僕の体を抱きしめる冬の指先は暖かくて優しい。
抱きしめようとした右手はどうすればいいか分からず、ただ冬の髪に触れた。
「ねぇ、たっちゃん……」
「ん」
冬が体をひねり、僕を見つめる。
ますっぐな蒼い瞳は僕を離さなかった。
「たっちゃんが私のこと好きじゃなくてもいいよ。まだ恋人未満だって分かってる……」
「……」
「それでも……。それでも私はたっちゃんが大好きです。大好きだから……」
「冬、目を閉じて……」
冬の顔を見つめながら僕は呟く。
そっと右手で顎先に触れる。赤らんだ顔で冬は頷いた。
伝わる冬の鼓動……。
「たっちゃん。ん……」
そっと顎先に触れたまま……僕は冬の唇に。
互いの顔近づく……。
「冬……」
「たっちゃん……」
「はい。キャンディー」
そっと冬の唇にミントキャンディーを入れた。
キョトンとしていた冬は、ムッとした顔になると僕を睨む。
「むぅ……たっちゃんのバカ」
そう言った後だった。冬が僕の腕の中に身を任せてきたのは。
「冬……僕は」
「いいよ」
「……」
「私の気持ちは変わらないもん。大好きだよ、たっちゃん」
「ん……冬」
僕の呟いた言葉は弱々しくて……すぐに消えていく。
ただ、柔らかな冬が暖かくて……。
曖昧な僕と冬。
変わることを望む冬……。
答えられない僕……。
すれ違ってばかりの僕たちを結ぶマニュキュールの輝き。
今は、もう少し、このまま二人で……緩やかなぬくもり中をこうしていたかった。

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