第四回ノ一
『儀式の夜』



 五月の少しだけ暑い夜、震月は蒼く蒼く怪しく輝いていた。
「まるでこれからを祝福するような輝き。儀式上手くいくといいねぇ」
「ああ」
そんなことを話しながら少年達は国道沿いの道を歩く。後数分、もうすぐ霧沙希怜貴と佐東総司の儀式が行われる公園に到着するとこだった。
「ん?」
公園が目と鼻の先に見えてきた頃、背の高い方の少年がふいに立ち止まる。
「どったの?」
それに合わせて並んでいた少年が足を止め、同じ闇の向こうを見つめる。
「本町か」
長身の少年はセーラー服の少女がこちらに向かって走ってくるのを確認した。
「なんか変じゃない?」
背の低い童顔の少年が呟いた時、何が変なのかはっきりとした。
頭からすべる様に本町の体が二人の足元に転がってきたからだ。
二人の少年は咄嗟に身構える。
だが――。

 

 




その日は霧沙希怜貴と佐東総司の契約(リ・バースディ)が行われ、総司がスレイヴとなる――はずだった。
「おいおいおいおいおいおいおい、洒落にならねぇ、冗談にしてもほどがあるって奴だぜ、この俺が、この俺がだぜ?」
 闇の中で芋虫のように這い蹲った時に感じたのは、ただただ流れていく血の温度とアスファルト冷たさだった。
「ふさけるのも大概にしとけよ、なんだなんだよ、あいつらは。このデニム様にここまでしやがって――」
 鋭い痛みに襲われながら体を動かすと胸に激痛が走った。体中を駆け巡る血の流れと熱がそこに集中しているかのようだった。
 鎖骨から胸骨までが切り裂かれ、脇の下に集まっている小胸筋、大胸筋が切り裂かれてしまっている。物を抱えたりするような、肩を前に突き出したり押し出したりする運動をする時に使う筋肉であり、巨大な戦斧『渇望』を使うにはダメージが大きすぎた。
 それでもデニムは目の前の敵に対しての戦意を失っていない。
「畜生、山村――」
 デニムの僅かに動く首が倒れている少年を見つめた。山村は同じ新第七班に所属している仲間であり、デニムと同じようにスカウトされて藍空市で生活している仲間だ。
「山本――」
 同じように仰向けで倒れている山本も山村と同じく第七班にスカウトされた男だ。
 デニム同様に儀式の警備に配置されたはずだった。
「本町――」
 公園のジャングルジムにめり込んだまま動かない少女を見つめ、デニムは歯を噛み締める。山村、山本、本町は少なくともランクD、デニムと同等の強さを持っているはずだった。それがゴミくず同様にいともあっさりと――。
「怜貴、総司――」
 デニムはそこに向かって血まみれの体を動かす。心の何万回も叫んだ、畜生と。不甲斐ない自分と殺すべき相手に向けて。
「まだ動けるのか、お前」
 それに気づいたのは怜貴の胸倉をつかみ上げている男だった。
 暗くて顔はよく分からないが背の高いがっしりとした男だった。
 だが持っている雰囲気は鋭い。それもかなりの数の修羅場を潜り抜けたものが持つ独特の静かな殺意を纏っている。
『やばいな』――デニムは心の中で呟く。
 自分達はここで殺されるかもしれない、そんなことを覚悟した。
「儀式の最中だったか、邪魔して悪かったな」
「テメェ……」
 男が闇の中でスッとデニムに掌を向ける。
 デニムには何が起こるか分かっていた。どうなるか分かっていた。
 だが、一瞬、実を強張らせるだけで対処することなど出来なかった。
 衝撃が体を突き抜ける。空中をドライブするような感覚の後、痛みが襲ってくる。地面に激突する叩くきつけられる痛みと体中を切り裂かれる痛みだった。鎖骨へのダメージで狭くなっている肩甲骨の稼動範囲ではまともな受身すらままならない。
 叩きつけられ呼吸が止まりそうになって頭の中が真っ白になりそうだった。
 この攻撃だった。儀式の最中に乱入し山村達に瀕死の重傷を負わせたのは。
「苦しいか?だが俺が、このコドーが受けてきた痛みに比べればそんなものは痛みでも何でもないな」
 男の掌が気を失っている怜貴頭を掴んだ。
「恨むんだな。お前が佐東と関わってしまったことを」
 ニヤリと男の口元が笑ったのをデニムは見た。醜悪で邪悪、黒い怨念に塗りつぶされた心を持つもの、復讐者の顔だ。
「お前の眼球でなら美しい花が咲くかもしれないな。そうすれば久美子も――」
「いつも思うんですけどなんで悪役ってそんなに説明台詞が多いんでしょうね?」
 言葉を途中でさえぎられたコドーは声の方向に視線を動かす。
 公園の木の上、そこに月明かりを浴びた二つのシルエットがあった。
『おいおいおいおいおいおいおいおい』、心の中でデニムは呟く。
 最悪の夜だった。なんで今夜に限ってこんなことが起こるのだろうか、と。
 儀式をわけの分からない奴に邪魔をされ、さらに乱入者が現れるなど――。
 しかも、しかも、しかも、この状況において味方の助け等とは思えない物、場違いな風体をした異分子が乱入してくるなど最悪に近い。
 しかもそれが――メイド等とは誰が想像しただろう。
 ひらりとした長いエプロンドレス、リボン、色は片方それぞれ黒と白で統一され、二人がつけているマスクも白と黒に分かれていた。
「最……悪だ」
 デニムはあらん限りの声を振り絞り、木の上で構える二人に向かって呟く。そんな言葉が届くはずもなく。
「貴方の悪事は許さない、キュアメイド黒!」
「あの、その、キュアメイドホワイト……です」
「二人揃ってキュアキュアです!!」
「はい、キュアキュア……です」
 言葉はなかった。若干、黒の方がのっていて白はとても嫌そうだったが、そんなことはどうでもいいことだった。
 何の目的で現れたかも分からないがどうやらこの二人はコドーの敵らしく、コドーはポージングを決めた二人を冷静に観察していた。その視線は揺らぐことなくデニムがありったけの力を込め不意打つことすら難しい。
 そんな状況の中で死を覚悟したデニムの意識はゆっくりと混濁の中に飲み込まれていった。


 デニムが何故か助かり、士郎答の病院で目を覚ました時、当然、既にコド−もメイドの姿もなく――総司にその夜の記憶どころか、怜貴に関する記憶はなくなっていた。


 

第四回ノ二
『儀式の夜ノ二』


ポツリポツリと家々の明かりが消えて寝静まる頃――。
「総司君、ボクたち、やっと一つになるんだね」
 少しだけ恥ずかしそうにキタロウカットの少女は笑った。
「ああ……」
 神妙な顔つきをした少年は静かに答える。
 夜の公園の真ん中で二人は互いを見詰め合う。
 その距離、二人の様子、それは見るものが見れば恋人同士にも見えたかもしれない。実際、霧沙希怜貴は佐東総司とそういう関係になることを望んでいてこうして一つになることは夢のまた夢だった。それゆえに霧沙希怜貴は内心、冷静さを欠くほどに浮かれていたのかもしれない。実際、授業などほとんど上の空だったし、生徒会業務の書類作成でもちょっとしたミスが多かった。浮かれるのも仕方のないことだと、同じクラスのダムドたちは笑った。
 ダムドという種族にとってスレイヴを持つことは結婚するのと同義なのだから――。
「総司君、君はまだこちらに踏み込んで日が浅いからもう一度確認しておくよ。スレイヴとは――」
「ああと、ダムドと契約し、使役されている者の総称。ダムドはダムドではない生物を己のスレイブにする(契約する)能力を共通してもっておりこれを使役することによって自己を守ってきた――だったか。スレイブにされた生物には共通して、以下のような特徴が現れる。1、身体の筋力、代謝機能、自然治癒力の上昇。2、特殊能力:ルーンの付加。3、体の一部に小さい幾何学模様の痣(紋章)があらわれる、だったか」
「うん。オーケーだよ、総司君。一番、重要な部分が抜けてはいるけどね」
 ほんの少しだけ怜貴はぼそりと付け足した。
「普通スレイブは一人だが、強力なダムドは複数のスレイブと契約することがある。このとき、先にスレイブになった者からファーストスレイブ、セカンドスレイブ、サード……と呼ぶことがあるって奴か?それとも、ええと、また、ダムドとスレイブの契約は本人たちが死ぬまで消えることはない。またダムドが死んだときのみスレイブはその数時間後には消失して(死んで)しまうってのだったか」
「うん、それも、大事なんだけどね。いいんだ。きっと口にするのは照れくさいだろうしね、うん」
 かつて自己防衛手段の一つでしかなかった契約によるダムドとスレイブの関係。しかし、ダムドと人間との対立が減少する中で、ある意味が付加されるようになってきた。
 一生を共にする者、つまりは恋人――。
 ダムドは人間よりも嫉妬深く、愛情深い。離婚率はほぼ皆無。それ故に一度愛すると決めたものの為に存在することを好み、それを相手にも強いることがあり奴隷であるスレイヴを一生の恋人と考える若年層が目立ってきた。
 主に若い者の間でこの考え方は一般的になってきていた。それは鈴原冬架と高瀬卓士のような関係であり、藍空市ダムドコミューンの中では冬架と卓士の関係に憧れている者も多数いたりする。
 デニムは公園の片隅で二人の話を聞きながら沈痛な面持ちを浮かべていた。
 怜貴は総司がちゃんとこの説明を受けていると思っていた。実際は教育係のデニムが見事に教え忘れているのだが――。もちろん、怜貴には説明し忘れていたデニムが頭を抱えていることなど理解できなかった。
「じゃあ、始めよう、総司君。『契約(リ・ヴァースディ)』を」
 ダムドは儀式を行うことによって他の生物をスレイブにすることが出来る。これを「契約」といい、ダムドが古来より使用してきた自己防衛の手段である。これは種族を問わず共通に備わっている能力であり、これから二人を一つにする行為だ。
「冬架君やみんなにも見て欲しかったな……」
「なんか恥ずかしいな、それも」
「フフ、そんなに恥ずかしがることはないのに」
 怜貴は苦笑いを浮かべる総司を見つめて微笑んだ。
 契約を冬架や仲間達も見届けたいと言っていたが、藍空市議長が見届人を限定し選出してしまったから仕方がない。この後の披露目会までお預けだ。
「契約」
 呟いて怜貴はゆっくりと瞳を閉じた。
 怜貴の細い指先が総司に向かって伸びた時――。
 二人の手の上にフッと浮かび上がる光が紋章を創って行く――凡字にも似たそれが二人の手の上でフワリと止まった。その強烈な存在感、輝きに総司は元々細い目を細める所か見開いた。
 二人の元に現れた紋章は、風と共に白く輝く。柔らかな、朝の木漏れ日に似た優しい光と風だった。
「総司君、誓って欲しい」
 総司を見つめたまま怜貴は言葉を紡ぐ。
「我は汝の剣。例えこの身が苦闘に折れようと、我はこの手で血路を開く、と。我は汝の盾。例えこの身が厄災に砕けようと、何度でもこの身を投げ出す、と。我は汝の影、例えこの身が光に焼かれようと、我は必ずその側に佇む、と。我は汝の風、例えこの身が汝と離れようと、季節の巡りのように、何度でも汝の姿を探す、と。汝の寵愛の元に。汝こそ我の全て、と」
 それは契約の言葉――。
 共に生きる者同士の誓い――。
「怜貴……」
 光と風が織り成すセレモニーは終わりを迎えようとしていた。
 力を増した風と光が紋章を包み込んだ。
「怜貴、俺は――」
 誓いの言葉が発せられようとした時だった。
 二人の視界が覆われたのは。
 見詰め合っていたはずの互いが隠れ、またお互いの視線が重なる。
 二人の間に飛び込んできたそれが地面に落ちた。
 自然と二人の視線がそれを見る――。
 その少年の面影を残した顔と細い肢体を見間違えるはずもなく――。
 藍空市新七班所属、山本工事、通称、山工。『ハーピーの山工』。
 何が起こったのか理解できなかった。
 それは二人を見守っていたデニムも同じだった。
 総司と怜貴が僅かに声を漏らした刹那、魔力の奔流は容赦なく暴走を始めた。
 それは力の奔流となり辺りに強い疾風を巻き起こす。
「怜貴!」
「総司君!」
 風の中、吹き飛ばされそうになりながらも、伸ばされた総司の指先を掴もうとした怜貴の身体は力の奔流に吹き飛ばされていた。
 儀式の失敗――二人はそのペナルティを受けることになる。


第四回ノ三
『儀式の夜・羅針盤』

 瞼が重い。身体もだ。酷い頭痛と吐き気がした。
 それよりも何よりもたった一人のことを考えていた。
 佐東総司のことだ。
 ゆっくりと瞼を開けると、その瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
「お目覚めか?」
 かすれた笑い声が眼前から聞こえる。
 それが目の前でかがみこんでいる男のものだと分かった。
 男は倒れたままの怜貴を見つめ、ジッと観察していた。その周囲には壊れた遊具や仲間達が横たわっている。デニム、山本、そして総司――。
「どうした?ひどく汗をかいているぞ」
 見透かされた――声を漏らしそうになるのを怜貴は必死に押さえ込み、睨み返す。
 その厳格で鋭い眼差しからは感情を感じない。高瀬卓士のように虚無的な感情のなさではなく、自身の感情を抑え坤こんでいるタイプだ。
「総司君――」
 ふいに怜貴が呟いた言葉に男の眉がピクリと反応した。
 そんなことに怜貴は気づくことなく、倒れている総司に近づこうとモソモソと身体を動かし始めた。
「みっともない姿だな、霧沙希怜貴」
 聞こえなかった。そんなことよりも総司のことしか考えていない。
 霧沙希怜貴は冷静ではなかった。
「あのゴミがそんなに大事か?」
 男は立ち上がると怜貴の背中を靴底で踏みつけた。
 痛みで声が漏れそうになったが怜貴は必死で堪える。それでも総司の下へ行かねばならない。そして、無事を確かめなければならない。
「まだ貴様は生かしてやる。お前は花を咲かせる肥料だからな」
 男が何を言っているのか理解できなかった。霧沙希怜貴がいつものように冷静であればそれが藍空市で起きている事件のことだと分かっただろう。
「だが、佐東はダメだ。苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて……」
 男はスッと一息ついた。そしてまた呪詛じみた言葉を繰り返す。
「苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて……このコドーが殺す」
「なんで……」
「ん?」
 自分の世界に浸っていたコドーの瞳が怜貴を見つめる。
「総司君はずっと表で生きてきた。彼が何かをするはずなんてない!!」
「誤解するな、佐東総司には何の罪もない。俺は恨んでいるわけでもない」
『そう、俺は』とコドーが小さく呟く。
「佐東のことを憎んでなどいない。はっきりと教えておこう。俺は既に貴様の血族がしたことは許している。そう、既にそれは問題などではないのだろう」
 佐東血族――まさかとある名前を思い浮かべつつも『ならばなぜ』と問おうとした瞬間、怜貴の胸倉を節くれだった手がつかみあげた。怜貴の目の前でコドーの冷たい瞳が輝く。コドーが怜貴の身体を持ち上げ、無理矢理自分と目線を合わせたからだ。
「貴様は許し受け入れると言うことを考えたことはあるか?その意味を、その行いの尊さを。それはこの世界で最も美しく優れたものだ」
「何を言って――」
「最後まで聞けよ。俺は許していると言っているだけだ。俺は佐東一族にされた全てを許している。何もかも。何もかもだ。だから俺には――」
 ゆっくりと――。
 ゆっくりと――。
 唇がつり上がり――。
 目は弧を描き――。
「権利がある。たった一つ、俺が許すことで手に入れた権利――それは俺が許した全てを俺が他者に強いることを許す権利だ」
 ――破顔した。
 火が灯るように無表情だった無骨な顔に笑みが浮かぶ。狂気の笑みだった。自分のロジックを信じ、それをこれから行使することにこの男は快楽を感じていると怜貴は悟った。
「子供の頃に習わなかったか?人の嫌がることはするな、と。俺は許した、だからそれは嫌なことではない。それならば俺がされたことと同じことをしても問題はない。そうだろう?」
 自分のロジックを嬉々として語りながら、その人差し指の先がスッと怜貴の眼球に触れる。ビクリと怜貴は身を震えさせたが反応することはできなかった。まるで遊んでいるかのように指先は瞼の上、眼輪筋の辺りをなぞっていく。
「例えば俺の眼球を抉る、俺が苦しむと分かっているのに眼球を抉るということは、相手は俺が苦しまないと思っているのか、あるいは俺が苦しんでも問題はないと思っているからだ。ならば俺がそれを許しさえすれば、互いに眼球をえぐることに何の問題もなくなるはずだろう?許しているのだから。違うか?」
 違う――怜貴はコドーの言葉を否定しようとした。
 受け入れるということは――。
 許すということは――。
 そんなことではない。
 佐東総司という存在が霧沙希怜貴という存在を受け入れてくれたように――。
 佐東総司という存在が霧沙希怜貴という存在を受け入れてくれたように――。
 許すということは受け入れるということはコドーの考えているようなことではない。
「そういうわけでだ。俺はお前をこいつの目の前でレイプする」
 ビクリと怜貴の全身が強張った。
「そう、レイプするんだ。その後は二十四時間犬に犯させる。穴と言う穴を犯させる。肉体的に貴様をどん底まで叩き込むと約束しよう。次はその画像を貴様の知人、学友、親族に見せよう。それはそれは恥ずかしいだろうな。体中バターまみれにされ犬に犯されて糞尿と精液で塗れた姿を、愛する隣人、家族達に見られるのだからな。これによりお前個人としての存在価値をどん底まで叩き込む。次にお前の学友達による輪姦だ。誰の子を孕むのやら」
 言葉を聞いているだけで異がムカつき、反吐が出て吐きそうになった。暗く深い暗黒の谷間が目の前で待ち構えているようだった。
「そうしてゴミくず同様になった貴様は花の肥料となる」
「……されたの?」
「ん?」
「そんな酷いことを君はされたのかい?佐東一族に。あの佐東一族に」
 一瞬だけ、コドーはその瞳を閉じた。
「お前がこいつの『本当の素性』に気づいているか、いないかは俺にとって問題ではないが『システム』の中核にとってそんなことは日常茶飯事だ。俺がさっき言ったことなど生ぬるい」
「システム……羅針盤か」
『羅針戒(ラシンカイ)』。怜貴が知っている言葉で語れば、世界規模で政治を牛耳る企業、団体の複合体(コンプレックス)、システムと呼ばれるもの。
 西邑(にしむら)、佐東(さとう)、南浄(なんじょう)、北都(ほくと)、央華(おうか)の五家と下部四家を核としている。様々な国の機関に干渉する力を持ち、国連規模で政治的発言権があり、羅針戒は組織内部に多くの異能者を抱える、あまりにも巨大で漠然とした存在。
「俺はシステムを許す、故に佐東総司を許す」
『なんで総司君が』と呟いた瞬間、怜貴の身体を悪寒が突き抜けた。それは見てはいけないものを見てしまった時の寒気に似ている。知ってはいけないことを知ってしまった時の冷たい汗が額からこぼれた。
「まさか……」
「薄っすらと気づいていたのだろう?」
 返す言葉はなかった。その代わりに心臓が不自然な鼓動を奏でている。
「佐東なんてどこにでもある名前だと思ったか?真名は東遠見(とうとおみ)、その性質と役目上、偽名を名乗る五家の一つ。佐東総司の兄、佐東零時の名は聞いたことがあるだろう」
「そんなはずはない、そんなはずは――」
 雨の中で出会った総司との今までの日々の中、総司のことは分かっているつもりだった。家に反発し、一人暮らしをしていることも兄と妹がいることも。だが、総司は間違いなく普通の世界の住人だった。怜貴が知らない総司があったとしても総司は怜貴と同じ世界の住人ではなかったはずだ。
「貴様は気づいていないフリをしていだけだ。こいつは――。いや、こいつ自身は気づいてもいないのだろう。なぜなら――」
「はっはぁ!うるせぇ野郎だ!!」
 コドーの言葉を遮り叫んだのは倒れていたはずのデニムだった。
 一つ目のイラストが描かれたバンダナで、両方の目が隠れるまで降ろし大斧を構える。それこそデニムの種族、『サイクロプス』本来の姿であり、ハーフダムドであるデニムは本気になった時だけこの姿になる。
「怜貴、伏せてろよ!!」
 背後を取ったままデニムは巨大な戦斧『渇望』を振りかざす。
「直撃を避けていたか。さすがは第九位戦斧『失墜』のコピーである『渇望』の持ち主でもある。破壊力だけなら第七位大剣『不浄』にも劣らないだろう」
「ハッハァ!知ってるなら話は早ェ!!この大刃はテメェのことを存分に切り刻んで細切れにしてくるだろうぜ!!」
「……使いこなせていなければ意味はないがな」
 コドーは振り下ろされる刃に動じることもなく、ほんの数ミリ、身体を動かした。その瞬間、渾身の力を込めた刃は空を切り地を砕いた。全く無駄のない動き、よどみも迷いもなくギリギリで一撃をかわされていた。それ故に隙が出来たデニムは懐に入られてしまう。
「デニム君!!逃げて!!」
 怜貴の言葉は遅すぎた。
「俺は羅針戒にいた頃――まだ人間だった頃に『失墜』の持ち主とやり合っている。貴様と違って完全に斧の力を使いこなしていたぞ」
「テメェ……!!」
「劣化版のコピーしか使いこなせないお前が俺に勝てるなどとは思っていないだろうな。俺はそういう思い上がりを許さない」
「テメェええええええええええええええええ!!」
「カタ・ヴェンート(風見鶏の赴くままに)。そして、俺はお前の存在を許すつもりはない。黙って寝ていろ」
 その言葉の後、鋭い衝撃が周囲を包んだ。
 それでも怜貴は手を伸ばす。総司に向かって。届かないと知りながらも。それを知りながらも手を伸ばし続けた時、ふいに総司が自分を受け入れてくれたことを思い出した。
 自分が異種族と知りながらも総司は受け入れてくれた。
 自分が傍にいることを許してくれた。
 だから総司の正体が何であろうと関係ない。
 殺させるわけにはいかない。許すわけにはいかない。どんなことがあろうと共に生きると決めたのだから――。
「総司君」
 ゆっくりと怜貴の意識が薄れていく中、総司の名を小さく呟き怜貴は意識を失った。


 ダメージを負ったデニムの前にメイドマスクが現れる数分前の出来事であった。



第四回ノ四
『儀式の夜・後悔』


 がちゃりという音と雨で目が覚めた。それが何の音なのか定まらない思考で考えてみたが分からず、辺りは暗く何も見えなかった。夜の闇に包まれているらしい。何がどうなっているか分からないが、子犬が眠る柔らかな毛布に包まれるような夜でないことは確かだ。薬品の匂いがジクジクと鼻腔に染み込んでくる。ふいに右の方で濁ったうめき声が聞こえた。男はそちらに視線を向けようとしたが、その瞬間、右足に何かを感じた。それが痛みであることはすぐに分かった。ズンと圧し掛かってくるような重ったるい痛みだ。得体の知れない素性不明の痛みの中で、今は筋肉が動きそうにないことを知った。ベッドに横たわっているのはさっきから分かってる。
 しかし、自分が何故こんなところにいるのだろうか。腹の中でそう呟いた時、パッと明かりが点いた。
 網膜にまず映ったのは汚れた漆喰壁だ。ぼんやりしていると扉が軋む音が聞こえた。首を動かさなくても戸口の方まで見えた。薄着の若い女が二人の若い女を連れて入ってきた。三人とも白衣を着ていて清潔感があった。『ああ、そうか』と思った。右脇で再びうめき声が聞こえ自分がどこにいるのかようやく知った。
 ここは病棟だ――。
 視線をあまり動かすことができずここに何人の患者がいるのか把握することはできない。それでも病棟の一室であることは間違いない。
 相変わらずガチャリガチャリという音が聞こえてくるが隣の病室で医療器具か何かを動かしている音なのだろう。
 白衣の女がこちらに近づいてきた。メガネをかけた知的で端正な顔立ちの女だった。
「起きたか?お前が寝て数時間近く経ってる」
 滑らかな英語だった。だが顔に似合わず言葉遣いは荒々しい。
 男はぼんやりとした頭で答えようとしたができなかった。
「暗いのは嫌いか?悪いな、電灯を切らしちまってな」
『ああ、そうなのか』と言おうとしたが男の唇はやはり動かなかった。
「包帯が息苦しかったら言え。自分じゃ分からないだろうがミイラ男みたいになってるからな。色男台無しだ」
 男は自分がそれほどの大怪我をしていたことを始めて知った。どうりで喋ることができないはずだ。
「覚えてないだろうが四時間おきに麻酔を打たせてもらった。痛みで起き上がらないぐらい強い奴だ。体力の回復には睡眠が一番だからな」
 そう笑いながら女医が言った。
「まぁ、それぐらいじゃないとお前には通じないだろう?」
 男はその言葉の意味することを知っている。そして、この女医がどういう存在であるかも推測することができた。
「なぁ、デニム」
 何故、自分の名を知っているのかは尋ねなかったし、尋ねる気にもならなかった。そもそも、唇が動こうともしない。
「ここに運び込まれた時は酷い状態だった。私もとてもじゃないが保つとは思わなかったほどだ。それにしてもお前さんほどの奴がなんであんな所にひっかかってたんだ?」
 男言葉を使う女医に、何のことですと尋ねようとしたが言葉にはならなかった。
「川の堤防に引っかかってたところを発見されてお前はここに運び込まれた。登録されてるダムドだからそれなりに扱われたんだ。感謝しろ。普通ならそのまま抛っておかれるところなんだからな」
 デニムはもう口を聞くのを諦めていた。頬の筋肉まで動かないことが分かったからだ。
「そういや、私はお前のことを聞いてるが初顔合わせだな。私は士郎答。お前は藍空市に来て日が浅いから知らないかもしれないが元七班のリーダーだ」
 その名は知っている。二つ名は龍姫(ザ・シーバレス)。藍空市内に四人いる最強クラスのダムドの一角であり、王クラスのダムドと互角に渡り合えるとすら言われている。
「単刀直入に言うがお前と一緒に私の仲間もやられてる」
 士郎の表情に明らかな怒りが浮かんだ。
 ダムドは脳の分泌物の濃度が違う為、人間よりも感情的であり愛情深く嫉妬深く、同族やコミューンを傷つける者は徹底的に排除する。まるでどこぞの馬小屋で生まれた男を神に仕立て上げた宗教のように。
「一体何があった?その体は誰からどうされたんだ?」
 記憶がこの時、戻ってきた。ぼんやりとしていた映像が輪郭を帯びてくるように全ての出来事が蘇ってくる。だから、唇が動いたとしてももう喋るつもりはなかった。ぼんやりとしていると室内に医師らしき者たちが入ってきて女医と何かを話した。それは普通に考えると異様な光景であり、ひどく現実とかけ離れた、非日常的なシーンに分類されるだろう。
 デニムが愛読しているエソントという作家は言った。
『常識とは、それまで経験してきた事象が作り出す範疇のことでしかない』と――。
 その医師達は世間一般で考えれば異様なものかもしれない。
 だが、デニム側の世界からたった一言で言ってしまえば、頭が靴。それだけだ。
 その頭部が人間の物ではなく靴だったからとデニムは驚きもしない。
 逆さにされたトレッキングシューズが首の上に乗っているからと騒ぎもしない。
 もちろん、それはカブリモノなどではなく、首筋の肉からしっかりと繋がっていることも知っている。浮き上がった血管の脈動や呼気の度に動く喉元や顎下の筋肉、それらはハリウッド映画の特殊メイクでもここまでリアルに作ることはできないと分かっている。
 人と異なる異形、デニム自身もそちら側の住人だ。特に問題もなく目の前のことを受け入れているし、シューズマン達にも見慣れている。そちら側の住人なのだから――。
 シューズマンの医師達に促され、一人の少年が室内に入ってくる。
 この時、デニムは見慣れたその姿に安堵を覚えた。
「デニムさん、大丈夫か?」
 すぐに返事をしてあげたかったが何も言うことができずにいると、少年――佐東総司がベッドまで駆け寄ってきてくれた。
「こんなになっちまって……」
 あまりにも心配そうな顔をするせいでデニムが申し訳ない気持ちになってしまう。仲間に心配をかけるのは好きではなかった。
「誰にやられたんだ、デニム」
 誰に――。
 気絶していて見ていなかったのだろうか。
「山村さんも山本さんも本町さんも、全員無事だったから安心してくれよ」
 全員――?
 なんで――デニムはそう喋ろうとした。
 最も出てこなければならない名前が出てきていない。
 士郎は唇を噛み締めその様子を見つめていた。
 まさかと思った。体中が落下するような感覚に襲われ冷や汗が流れる。
「先生、事件に巻き込まれちまった女の子がいるんすよね?その子は?」
「ああ――。大丈夫だ。もう家に帰した」
 会話を聞きながらデニムは身体を震わせていた。
 何かがおかしい。怜貴は助かったのか――?
「そっか。ハハ、良かった」
「ああ。総司、退院の手続きするから受付に言ってろ」
 シューズマンに促され、総司は室内を出て行く。
 その後、士郎答はジッとデニムを見つめる。
「安心しろ、怜貴は無事だ」
 その一言のあと、デニムの全身の筋肉から力が抜けていく。
「怜貴はな」
 怜貴はな――再び全身が痺れ嫌な汗が流れ出した。
「さっきの総司は失敗した儀式の反動だ」
 一瞬の間の後、士郎答はゆっくりと唇を動かす。
「あいつの中からすっぽりと消えちまった。何もかも。一切合財、全部――昨晩のことも今まであいつが過ごしてきた怜貴のこと、全部な」
 言葉はなかった。総司の顔を思い浮かべた後、怜貴とどういう顔をして会えばいいのだろうか、と考えた。
 そんなことを考えたのは一番辛いのが誰かあまりにもはっきりしすぎているせいだ。
 もうすぐピヨコがここに来ると告げた後、とりあえず状況説明が終わったのか女医士郎答は看護婦と靴男たちを促しベッドから離れる。
 証明が消された。あたりがまた真っ暗になった。デニムは記憶の中で旅をする。振り続けたままの雨の音を聞きながらあの雨の夜へ沈んでいく。
 三人でいるのが心地よかった。楽しかったあの日々はもう戻らない――。
 敗北と責任、総司と怜貴への思いを噛み締め涙をながしながら――。
いつも自分はそうだ、本当に大事なものを失ってからいつも気づく――。


第四回ノ五
『儀式の夜・ライダーズ・オン・ザ・エッジT』




 突き抜けるような夜風が啼いた、外灯に照らされた二人のシルエット、白と黒のロングスカートにじゃれつきながら。大樹の枝をしならせてエプロンドレスの二人がひらりと夜空を舞う。コドーにはそれが娘と見たいつかの蝶々のように見えた――しなやかでかろやかな、今の自分にはピンで留めて殺したくなるような愛らしい蝶々に。
 二人のメイドはしなやかに着地し身構えてみせるが、冷静に観察を続けているコドーは身構えることをしなかった。
 メイド服と鉄仮面というマヌケな姿だが油断させる為だろうし、武器何か仕掛けを仕込んでいる可能性もある。
 さらに、その位置は自分の間合いではないしもう数歩ほど踏み込んでもらう必要がある。ほんの少し、三歩ほど。
「いいですか、ホワイト」
「は、はい……またやるんですか?」
「さっきのはいまいちでしたから今度こそですよ」
「わ、分かりました……」
 コドーの前で鉄仮面白と黒が中国武術のような動きの後――。
「いっせーので」
 ブラックの掛け声でポージングを決めた。
「悪を許さないブラックキュアメイドです」
「あの、悪とか交通ルール違反とか取り締まるホワイトキュアメイド……です」
「二人揃ってキュアキュアです!!」
「はい、キュアキュア……です」
 間合いに入る――。白メイドと黒メイドの奇妙なやり取りに注意しつつもコドーは間合いを詰めた。
 白い方のメイドが何者かは分からないが、黒い方のメイドはこの距離なら攻撃に移るまでコンマ数秒を要する。だが自分は一瞬で攻撃することができるだろう。ブラックの方の間合いは分かっていた。
 どんなにマヌケなフリをして隠そうと染み付いた死臭までは隠しきれない。
 覚えている、その丸くて柔らかくて神経を逆なでする声も、手の内も全て知っている――。仮面の下に隠した素顔も。
「久しいな、『地獄軍曹(ヘルズサージェント)』。『失墜』使いのガキは一緒じゃないようだな」
 ゆっくりとブラックは首を傾げた。さも『分かりません、この人は何を言っているんだろう』と言うように。
「ん〜。どちら様でしょうか。私の知り合いには少女に向かってレイプ、レイプ、チンコ、チンコ連呼する変態さんはいないつもりですが。網走の変態鑑別所に帰ったらどうですか?」
「チン……ブラック、ブラック、そこまで言ってはないです。網走にもそのような建設物は……」
 二人のやりとりを聞きながらコドーは喉を鳴らし笑う。
「相変わらず口だけは達者だな、混ざり物」
 混ざり物――コドーはそれがこのブラックにとって最も屈辱的な言葉と知っていた。自信のアイデンティティを失ってしまっているブラックには耐え難いはずだった。
「あらあら? それは私に負けて半泣きで逃げ帰った方の言う言葉じゃないですよ、下衆変態さん」
 二人のやり取りを見ていたホワイトが小声で囁く。
「ブラック、お知り合いなのですか?」
「さぁ。ド下衆変態さんなんて名前も覚えてませんから」
「ああ、そうだろうな。お前は虫けらのように俺を踏み潰したからな。金で雇われた薄汚い傭兵の分際で」
 ゆっくりとコドーが瞼を閉じ、開けば血に塗れた足元が映った。
 その脳裏に過ぎったのは苦い苦い敗北の経験、人間であり、まだスレイヴとなる前、羅針戒の末端だったあの頃の――忘れなければならない思い出の一つだった。
「あの時の俺じゃない」
 ――『今まで、ここまで、どれだけの血が流れ自分を汚しただろう』。
 そんな思いを胸に抱きながらコドーは自信と覚悟を持って意思を宿した瞳を開く。
 あの頃の薄弱で脆弱な末端の駒だった自分にはなかったもの、それは握りつぶしてきた命と無数のシミが作ってくれた。意思がコドーの爪先から指先まで波立たせる。眼前に立ちはだかる過去を許すなと告げる意思に従い視線をゆっくりと移す。
「俺はこの胸に復讐を誓い許せぬものを断罪する力を手に――」
 そこまで言いかけて言葉は途切れた。瞳に映ったのはホワイトだった。
『しまった』と思った瞬間には自分の胸を突き抜ける拳と鮮血を見つめていた。
「御容赦ください。ブラックはド下衆変態レイプ野郎さんには容赦しないキャラ設定なので」
「それは――良かった」
 胸部を貫かれ致命のコドーは口元を吊り上げる。
 刹那――コドーは風の啼く音を聞いた。ヒュンという、ツバメが目の前を飛び去るような音だった。
 何かがキラリと輝いたと見た瞬間、目の前を見ていたはずの視点が歪み、目まぐるしく周囲が回転する。壊れたはずの遊具、壊した者、殺すべき佐東、血だまり、ホワイト、ブラック、遊具、者、佐東、佐東、佐東、佐東、佐、遊、血、肉――。
 まるで高速で振り回されたような――人間の時に大事な娘とジェットコースターに乗ったのと似ていたが、それはそんな生やしい視界の移動ではなかった。
 何が起こったか分からないまま地面に叩きつけられ、自分ではどうすることもできなかった回転がゆるやかに止まる。
 そしてようやく理解した。
 笑ったまま、動く暇も、交わす暇もなく、コドーが自分の首を絶たれたことに。
 褒めたくなるぐらいに素早く的確な判断だった。
「失礼な奴だ、ホワイト。いきなり首を切り裂くとは」
 首だけになっても余裕たっぷりのコドーはなおも笑う。
「首を切り裂いた風きり音、一瞬だけ輝いた貴様の周囲、それは一つの答えを教えてくれている。高速の繰糸――弦操師か」
 ホワイトは答えない。
 代わりに立ち尽くしていたコドーの身体が細切れになって地面に崩れ落ちていく。
 高速の連撃は容赦など微塵もなく、たやすくバターを切り裂くように、滑らかにナイフを走らせるように四肢を切り裂いていた。そこまでする容赦のなさ、反撃を許さない鉄の意思は見事としか言いようがなかった。
 そして――。
「許そう――貴様のことを」
 自分が細切れにされた、つまりは細切れにされることを許容したということだ。ならば、慈悲など、必要、ない、逃げる、暇など、与えない、選択の余地も、必要ない、ただ、わけも分からずに、細切れにされて、悲鳴をあげるだけだ、この、一撃はそれほどに、全てをバラバラにする、許す力。バラ、バラに。
 首だけになったコドーの視線の先で――。
「許す……」
 地面がスッパリと切り裂かれた、初発、失敗。呟きよりも静かに、囁きのようにさりげなく、それは地を這い、切り裂く。
「許す許す……」
 ホワイトの片腕が宙を舞った、次弾。命中。
「許す許す許す……」
 血飛沫の花びらに染まったホワイトの姿は美しかった。
 よける暇さえなくさらにマスクごと頬がスッパリと切り裂かれ、美しい肌にはクレバスのような傷跡が刻まれた。そこから吹き出す血もまた美しい。
「許す許す許す許す許す許す許す許す許す……」
 次はスカートだった。蝶の羽のようなそれは容赦もなく切り裂かれ白い肌が露に。羞恥と苦痛による絹を裂くような悲鳴が心地よかった。
「許す許す許す許す許す許す許す許す許す……」
 バラバラになれ。バラバラに、バラバラにバラバラ、バラ、バラ、バラバラバラバラバラバラバラバラバラバラばばばばばばばばっばばばばばばばばっばばばばばばばばばばばばばばばば――集中砲火により霧状に飛び出す鮮血と吹き飛ばされる肉片、泥、巻き上がる砂埃の中に、ブラックが飛び込む。立ち尽くしたまま切り裂かれるホワイトを抱き締め盾となった、自分も切り裂かれるだけだというのに。よほど、仲間が切り裂かれるのは許せなかったのだろう。甘くなったのはどちらだろうか、それとも殺しきれないと判断したからか。どちらでもいい。どちらでも。それはコド−にとってどうでもいいことだ。どこから何をされているのか分かったとしても襲い、遅い。外灯の明かりに照らされ踊れ、踊れ――。
「許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す許す!! 俺は何もかもを許すぞ、許してやるんだ、何もかも!!俺は、俺は、なんて、なんて、嗚呼ぁ、もう、なんて、優しい奴なんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!? 神様なのかぁなぁ、俺はさぁ!?」
 衣服が切り裂かれブラックの張りがある乳房が露になった。大きさ、形といい男を興奮させるには十分だった。コドーの身体が健在ならば天をつく勢いで勃起していただろう。自分の身体は既にこの攻撃に使われているのだから仕方ない。
 柔らかく若々しい肉体が切り裂かれ血まみれになっていくのはとてつもなく心地良かった。
 濛々と立ち込めていた砂埃がゆっくりと晴れていく。
「どうだ。無数の水滴の刃は。この暗闇の中では何をされたかさえ分からないだろう?」
 ――期待していた通りだった。
 ブラックは立っていた。
 嗚呼――とコドーは一言だけ漏らす。
 なんて美しい姿だろう。きっと、きっと、きっと、自分の肉体を水滴の刃に変えていなければ限界を超えた自分の股間は射精していただろう。白くてぬるぬるとした生臭い精液をずぼん一杯に射精していたはずだ。
 そう確信させるほどに美しい。ブラックが混ざり物――両性具有となる前に見た姿と同じだ。何一つ変わっていない。何一つ。
 仮面もほとんど意味をなさないほどに砕かれ、頬、鼻先を、額を、女の命を蹂躙され、それでも凛とした気高さを秘めている。メイド服のスカートなどほとんど、腰巻程度にか残されていないというのに動揺すら見せない。それはその腕の中でぐったりしているホワイトのような小娘にはできないことだ。
 傷だらけで血まみれになった両方の大きな乳房をぶら下げ、恥ずかしげもなく乳首をさらけ出しながらも、真っ直ぐ前を見つめ続けるその姿は――なんて美しいのだろうか。
「怒れ、俺を憎め」
 ゆっくりとコドーはそう告げる。
 ヒラリと舞い散る衣服の欠片がコドーの鼻先の前を過ぎった。それをパクリと口で咥え、そのまま租借した。その行為に一瞬だけ、ブラックは反応した。怒った、あるいは軽蔑した、どちらでもいい、ただ許せばいい。
「そして、許せ。俺と同じになれ」
 ――心の底を見せろ。醜く浅ましい姿を見せろ。
 自分と同じように。復讐に酔い醜く変わってしまったコドー自身のように。
「俺の頭を潰せ」
「それぐらいじゃ死なないことは分かっていますよ」
 先ほどまでと変わらない丸い声で――怒りも憎しみも見せずにブラックは微笑む。
「スィーウーメス……幸村聡一(ゆきむらそういち)を名乗る――『泡沫(バブルリープス)』スィーウーメスのスレイヴである貴方には、ね」
 コドーは小さくため息をついた。
「知っていた、か」
「ダムドとスレイヴの相乗効果――相性が良いダムドとスレイヴは時折、貴方のように主と似た能力を持つことがある……スライムであるスィーウーメスと同様に身体を液体化させる能力を手に入れたみたいですね」
 ブラックはコドーの頭をボロボロの右手で掴み上げ、同じように千切れかけた左腕で拳を作る。
 嗚呼、あの美しい二の腕から繰り出される拳に俺は叩き潰されるのだなとコドーは悟った。その前に――。
「どこで俺のマスターのことを知った――?」
 ほんの少しの間の後――。
「『碧梧の王(グリーンディ)』からの伝言です。座して死を待つズラ、と――」
 コドーはその名を聞いて一瞬だけ瞳を閉じた。
 分かっていたことだ、それは。碧の派閥はコドーとマスターのことを許しはしないことなど。自分達に時間がないことも――。
「なぁ、ブラック――」
 語りかけるようにゆっくりとコドーは小さくブラックの本当の名を呼んだ。
「お前は今、俺を許してい――」
 コドーの唇にちぎれた指先が触れた。
「皆が皆、貴方と同じだと思わないでくださいね」
 短いその言葉が答えだった。
「それではごきげんよう」
「ああ、また今度」
 スレッジハンマーで殴られたのと同じように重い一撃だった。顔の真ん中を打ち抜かれ息が出来ないほど苦しくなり意識がゆっくりと消えていく。
 振り下ろされた拳に叩き潰された頭部はいつかの蝶々のように羽ばたくことなく、ただただ粉々に砕け闇の中に霧散していく。



第四回ノ六
『儀式の夜・リッパーウィープス(雨夜に泣く刃)』


『霧沙希……誰ですか、それ?』
 少しの間の後、士郎答は答えた。
『いや、何でもない』
 と、自分に言い聞かせるように――。
 佐東総司の負傷がほとんど問題にはならないレベルだったのは怜貴が咄嗟に総司を庇ったからだろう。
 怜貴が初めて心を開いた人間であり、共に生きることを望んだ人間でもある佐東総司は――この世界から消えた。
 そして、『羅針戒』、この世界の秩序を維持する支柱たるその名を怜貴の口から聞くことになるとは思ってもいなかった。
 答は天井を見上げ禁煙パイプを咥える。
 タバコは随分と昔に呑まなくなった。思い出したくもないことばかり思い出してしまうからだ。
「なぁ、怜貴……」
 返事はなくても診察室の扉の向こうに怜貴いることは分かっていたし、総司との会話を聞いていたことも知っている。
「先生、総司君の記憶は元に戻らないの?」
 言うべきかどうか、答は一瞬だけ迷った。
「ああ」
 とだけ答えた。そして、何度目かになる言葉を繰り返した――。
「もう二度とあいつとは会うな。理由は分かるだろう」
「ボクと総司君が会った時に何が起こるか分からないから?」
「それもある。お前と総司は契約が失敗したとはいえ、まだ繋がった状態でもある。冬架の言葉で言うならネットワークの回線が繋がったままって奴だ。今のままだとダムドとスレイヴの相互作用がどう働くのか私にも分からない」
「でも、でも、でも!!」
「怜貴……」
「もしかたらボクのことを思い出してくれるかもしれない。それにボクはまた総司君と一緒に居たい……!!」
 答には一緒にいたいという声が泣いているように聞こえた。
 ダムドという種族は人間の数倍、愛情深く独占欲が強い。その言葉の意味は答えには十分すぎるほどに理解できていた。そして怜貴の心を救う言葉などないことも分かっていた。
 出入り口のドアが乱暴に開けられ、院内から怜貴飛び出して行くのが分かった。
「よろしいのですか、先生」
 フッと、部屋の中に柔らかな声が響いた。
「ああ」
 とだけ、答は短く返事をした。
 追うことはしない。今の怜貴を救えるものなど佐東総司以外にはいないからだ。
「お前達があいつらを助けてくれて助かった――ああっと、今はブラックメイドだったか?」
 独り言を呟くように答がそう言うと、静かな笑い声が部屋のどこかから帰ってくる。
「先生、それではまるで悪のメイドみたいじゃないですか。一応、妖しいエロスで蒼い少年達を弄ぶ正義のメイドなんですよ?」
「十分悪じゃねーか」
「時と場合によりけりですよ、先生」
 さすが時と場合によっては善悪すら超越した決断を下すだけはある。このブラックにとっては正しいか、正しくないかは関係ない。好きか嫌いか、楽しいか、楽しくないかだ。
「さっさと藍空市に戻って来いよ」
「んー、もう少し時間がかかりますね。まだこの後、高瀬さんがピンチになった時にご主人様がタキシ−ド仮面として登場する予定らしいので……」
「おい、あの変態はこの街にいれるな! 塩撒け!」
「も〜。そこまで嫌うことないじゃないですかぁ。スク水仮面がいいとか言い出すよりはマシだと思いますよ? というか言い出したんですけどね」
「言い出したのかよ!」
 頭の中でスク水を着て喜ぶ変態の顔が浮かんできてどうにも胸糞悪くなった時、ふと答はすすり泣く声に気づいた。
「おい、なんかさっきからホワイトの泣き声が聞こえるんだけどよ?」
「ええ、ホワイトは最後までこの演出に反対してまして。時々自己嫌悪で心の汗を流してしまうようです。青春ですねぇ」
 それは涙だ。ジャンクポット家の事件で街を離れた数週間、どんな目に遭わされていたか考えると哀れで仕方なかった。
「お前ら、戻ってくるならまともになって帰って来い」
「この性格と身体だけはどうにも直りそうにありません。まことに残念ですがご主人様も更正しなさそうです。何発もブン殴ってはいるんですが……それはそうと、先生、怜貴さんのことはどうするおつもりで?」
「あいつ自身がどうにかするしかねぇさ。今は無理でもあいつなら気づくさ、まだ何かもが無くなったわけじゃないってな」
「本当に救いになるのは、自分で自分に背負い込む苦しみではなく、外部から与えられる苦しみである……ですね」
「『重力と恩寵』シモーヌ・ヴァイユ、か」
 外から加えられる苦しみが不法な物であることすらが必要だとヴァイユは言った。
とかく外から加えられる痛みよりも、自分で引き受けた苦しみの方が逃れるのに手間がかかる。
 答は自分が怜貴と同じ立場として、昔の自分ならどうしただろうかと考えた。
「お前ならどうする、原田……」
 小さな声で友の名を呟き、寝かしたままにしてあったフォトスタンドを起こす。そして、少しの間、それを眺めまた写真を伏せた。




第四回ノ七
『そして、儀式の夜明け』


  朝がまたやってくる。
 歩道橋の上から昇りだした朝日を眺めていた男はゆっくりと階段を下りて、静かな街路樹沿いの国道を歩きだした。
 そして、数分ほど歩いた後、街角にある古びた雑居ビルの階段を上がって行く。
 鍵を開け室内に入ると、電気コンロを暖めている間にいつも通りに珈琲と朝食の準備を始めた。
 男の名は幸村聡一(ゆきむらそういち)、職業は建築家、藍空市に来る前は海外での仕事を主としていた。聡一の柔らかな物腰が反映されたデザインには定評があり、まるで静かな水の中に包まれているようだと評されている通り、『生活の中に潤いを』というのが聡一の作り出す建築物のコンセプトであり聡一自身もそれを大事にしていた。効率と機能を崇拝していた或不が聡一のデザインに心を惹かれたのは或不が乾いてしまっていたからかもしれないと聡一は思う。
「……水が欲しいな」
 聡一はそんなことを一人呟くと蛇口をひねった。
 勢いよく溢れ出る水道水を確認し蛇口にゆっくりと口元を近づけると、銀色の蛇口に歪んだ聡一の姿が映った。言葉はなかった。貪る様に蛇口を口の中に咥え喉を鳴らす。まるで餌にがっつく家畜のように。その姿には物腰の柔らかさなどなかった。ただ聡一は水を摂取し続ける。
 数分後、ゆっくりと蛇口から口を離し口元を拭うと、指先が震え、喉からかすれた声が漏れる。甘露を貪るように恍惚の笑みを浮かべ聡一は水を喉に流し込む。
「潤い、潤い、水、水、ウォーター、ウォーター、ウォーター、ウォーター、うおおおおおおおおおたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ……潤いがたりねェェェェェェェうおおおおおおおたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……潤うぉたぁぁぁぁ」
 足りない。潤いが足りていなかった。乾いて乾いてしかたない。
 震える口元と眼球が崩れそうになり人の姿を保てなくなりそうだった。
 聡一の本来の姿はスライムと呼ばれる種族であり、生活には多量の水分を必要とする。だが多量の水分を必要とする言っても、この渇きは異常であり、聡一自身も原因は分かっていた。
 彼女のせいだ――。
 聡一は水分を摂取したあと、出来上がった珈琲と暖めたトーストを持って仮眠室に向かう。
 そこに彼女はいた――聡一の渇きを満たしてくれる彼女が。
「おはよう、朝食の時間だよ」
 聡一は先ほどとうって変わって柔らかな笑顔と物腰で彼女に語りかける。
 彼女は聡一が来る前に既に起き上がり、窓の外を眺めていた。
「連勤明けの朝ね、昨日からのクタクタのシャツのままでキッチンに向かったんだ。僕の寝ぼけた頭をたたき起こすために珈琲を沸かそうとしていると、遠くでフッと懐かしい声が聞こえたような気がしたんだ。ぼやけているのにやけにはっきりとして明瞭で胸の奥が少しだけ熱くなるような気持ちになったけど、それが誰だったか思い返すことも出来ずに僕は珈琲メーカーのスイッチを指先で押したよ」
彼女のガラス球のような綺麗な瞳を見つめながら聡一は言葉を続ける。
「眠れない夜なんてなくなって、眠らないといけない夜が増えたおかげで睡眠不足なんてないはずなのに少しだけ体がだるくてね。自分で淹れた珈琲はただただ苦くて眠りを覚ますための実に機能的な味がしたよ。僕を見て捨て猫のように甘える君はもういないんだな――なんて、君の淹れてくれた珈琲の味を思い出しながらそんなことを考えるけど、甘えられるのや我侭やいつだって君を待っていたのは僕だったね」
 返事がないことは分かっていた。彼女の瞳は全てを映すのに、心には何も移さないことも。だが、彼女が存在するということが聡一を苦しめもしたし、救ってくれてもいた。
「失くしたものがあまりにも多くて、僕はそれら全てを把握することができていない。本当のものだけをずっと傍に置いておこうと思ってたいたはずなのに。僕の元に残ったのはなんだったろう、黒と白の混濁にそんなことを問いかけるけど答えは苦味だけだったよ。ぼんやりと立ち上り消えていく白い湯気を眺めていると、遠くで声が聞こえたような気がした。それは君の声かもしれないしそうでもないかもしれない。ただきっとそれは失くしたものかもしれないことは感じてる。珈琲のせいか、僕の胸が少し熱くなって苦かったな」
 そっと彼女の手を握ると人形のように冷たかった。
 或不の作った死体兵器『ごりあて』の完成したボディに触れたことがあるがその温度とよく似ている。
「今日は天気がいいね。昨日の雨が嘘のようだ」
 彼女と同じ景色を眺め聡一は笑う。早朝の街は雨上がりのせいか朝日を浴びてキラキラと輝いていた
「後で散歩でもしようか?藍空市は自然や綺麗なものが多いからね」
 二人で暮らしていたイタリアの田舎街とは違う穏やかさ、活気、潤いがこの街にはある。それが聡一には心地よかった。彼女の精神にもこの街はいいかもしれない等と考えながら、ゆっくりと彼女の口元に珈琲をひたして柔らかくなったトーストを運んだ。
「おいしい?人間はこういうものが好きって聞いたから作ってみたんだ」
 言葉が返ってこないことは分かっていた。普通の治療では彼女の心は決して戻ってこないことも。それでも可能性があることは全て試さなければならない。
「知っているかな、君と同じような症状の中年女性がね、夫と眺めた桜並木を再び見て意識を取り戻したって話を……」
 すがるしかない。そんな話でも。そっと彼女の身体を抱きしめるあまりの軽さに涙が溢れそうになると、覚悟と共に決意が胸の奥に湧き上がってくる。
「誓う。この窓から見えるところに彼女の為だけの花を咲かせることを――」
 ゆっくりと離れて聡一は物言わぬ彼女の食事を始める。
 聡一は口移しで噛み砕いたトーストを運ぶ作業に愛を感じていた。彼女への純粋で深い愛だ。食事を済ます頃にはダムド特有の愛情本能が昂ぶっていた。
 そっと彼女の耳元で囁き、許可を得てから恋人同士の営みを始めた。
「潤い、潤い、水、水」
 ゆっくりと衣服を剥ぎ――。
「ウォーター、ウォーター、ウォーター、ウォーター、うおおおおおおおおおたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ……」
 その身体に舌を這わせる――。
「潤いがたりねェェェェェェェうおおおおおおおたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……潤うぉたぁぁぁぁ!!」
 心がささくれ立って軋んでいく。
 彼女が満たしてくれれば満たしてくれるほど、心が乾いて壊れていく。
 それは自身が最も分かっていた。それでも聡一には彼女が必要だった――。
 営みが終わって彼女の身体を拭き終えた時、ドアをノックする音が響いた。
 入ってきたのはコドーだった。昨晩、身体を粉々にされてしまったようだが一晩で再生が間に合い、彼女に必要な食料などの買出しを行ってくれている。
「頼まれていた水と食料は用意しておいた。硬度も水質もお前の注文通りだ」
「ありがとう」
「昨日は随分と派手にやられたみたいだね、コドー」
 少しの間の後、コドーは頷いた。
「ああ、手ごわい二人組みだった」
「例の碧の派閥が送り込んできた追っ手かい?」
「能力から判断してロベルトを始末したのもその二人組みだろう」
 ロベルト・カルロス・コーン。
 聡一のスレイヴの一人であり、コドーと同じようにシステムに復讐を誓う仲間の一人だったが藍空市に来た直後に暗殺されている。聡一の元に集まった者の中で死を恐れているものなどいない。恐れるとするならば目的を遂げることができないことだ。だから、聡一はカルロスの死を嘆くことはしなかった。
 次々と抹殺されていく同胞の屍は既に越えている――。
「間違いなくな。これで手駒は俺を含めて残り四人になったな」
「そうだね。少し焦らないといけないようだ。僕たちには時間が残されてない」
 少しの沈黙の後、コドーがゆっくりと瞳を閉じた。
「ああ。俺は思う。許すと決めた堕ちる所まで堕ちるしか道は残されていないがお前にはまだ別の選択があったんじゃないか、と」
「コドー。僕は僕を許すということができない。彼女の為にならない自分も全てを認めるということも受け入れることもできない。それほどまでに彼女を愛している。例えそれが同じ温度の気持ちでなくても僕は彼女を愛している」
「分かった。お前と目的が重なりスレイヴと瞬間から最後までお前に従うとしよう。許す力をくれたお前に。それはあいつらも同じだろうよ」
聡一はコドーの言葉に耳を傾けながら、彼女と同じように窓の外に映る湯沢付属高校を見つめていた。





第四回ノ七
『リッパーウィープス(雨夜に泣く刃)』




 行く場所もなかった。辿り着きたい場所もない。
 霧沙希怜貴は人ごみの中を千切れた心のまま雨の中を彷徨っていた。
 薄い青みがかった髪に雨の雫がこぼれ、特徴的なキタロウカットも雨の中ではそれほど目立たない。
 雨に打たれたままただただあてもなく彷徨い続ける。
 行き交う人々は怜貴に声をかけることもなく、その横を通り過ぎていく。
 怜貴もそんなことも求めてはいない。
 最早、なにもかもがどうでも良かった。
 総司と接触してしまったことが怜貴の淡い希望を打ち砕いていた。
「総司君……」
 彷徨いながら思い出していた。二人で過ごした日々を。
 彷徨い続けることに疲れた怜貴は人並みから外れた街灯の下に座り込んだ。
 霧沙希の血を引く少女、霧沙希怜貴が総司と出会ったのは雨がひどく降っていた夜だった。
 あの頃もボロボロの体でただ街を彷徨い、行く当てもなくてそのうちに街灯にもたれ座り込んだ。
 傷だらけでボロボロの浮浪者を気にする者もなく、疲れた怜貴は街灯の下で通り行くたくさんの人々を見てた。
 温もりを見たことがあるが触れたことがなく、温もりに憧れるが与えられたこともなかった。それが寂しさだと気づくことはない。
 今と同じようにこのまま、全部やめてしまおう、そう思っていた。
 そんな怜貴に傘を差し伸べてくれたのは総司だった。
 きっとそれは気まぐれ――いや、お人よしの総司には放っておけなかっただけだろう。
 それでも道具として生きてきた霧沙希怜貴にとって生まれて初めての安息を与えてくれたのが総司だった。
『風邪ひくぞ』
 あの時、二人が初めて交わした言葉は短かった。
『大丈夫……』
 怜貴は総司に向かいそう言ったが、泥だらけ、傷だらけで寂しさに震えて、大丈夫などと誰が言えただろう。
『ボクに構わないで……』
 巻き込むことになるから。
 だから誰かといることなんてできなかった。
『来なよ』
 それでも総司はスッと手を差し出す。
『構わないで……ボクは……』
 怜貴が言い淀んだ。
『そんな顔してるなよ、大丈夫だから……』
 総司ははその頭をぺちりと叩いた。
『あう……』
 あの時、たったそれだけのことなのに胸が熱くなった。
 痛くないのに涙が滲んでしまっていたのは何故だろう。
『引きずってでも連れてくからな。自己満足でもお節介焼きとでも何とでも言え。連れてくってたら連れてく』
『なんで……』
『怪我してるんだから当たり前だろ』
 総司はそう言って笑ってた。それは優しい笑顔だった。
 きっと総司にとって困っている人を助けることは当たり前のことでわけのないことなのだろう。
 生まれて初めて自分に向けられた笑顔に、怜貴は怯えながら手を差し出す。
 総司はそれをそっと握り返してくれた。
 それが、その優しさがどれだけ怜貴を救ってくれただろう、あの繋いだ手と心の温かさは今も覚えている。
「総司君……」
 かすれた声がもう一度その名を呟いた時、フッと雨が止んだ。
 誰かが俯いている自分の前に立っていることが分かった。
 それが女の子なのはスカートで判断できた。
 怜貴が寂寞とした瞳で見上げると、傘を差し出していたのは――。
「夕日君……」
 怜貴がその名を呟くと山野夕日はニッコリと微笑んでいた――。


 
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