『ブラム』

 煉瓦造りの街並みを霧が漂う。
 蒼い月明かりはただ煌煌と輝き、
眠るように静まりかえった街は霧の中に飲み込まれていた。
「月が綺麗な夜だな、殺人鬼」
 男の透き通った声がベーカー街の大通りで静かに響く。
 週末の大通りはどこか寂しい。
 人影もなくただただ虚ろで儚い光景が広がっている。
 街灯の明かりもどこか朧げで、月明かりもどこか妖しかった。
 まるで微睡(まどろみ)と泡沫(うたかた)の世界だ。
「こういう月の綺麗な夜は素敵な出会いがあるもんだな」
 スーツの男がそう言いながら静かに笑うと、ロングコートが夜風にはためく。
 まだ若い二十代後半ぐらいの男だった。
 愛用のステッキでタイルをつくと、シルクハットを脱ぎお辞儀の真似する。
 オールバックにした金髪と整った顔立ちが男を上品に見せていた。
「で、だ。殺人鬼、本題に入るぜ」
 男はかがみこみ、煉瓦造りの建物の間に蹲る少女を見つめる。
 闇の中に溶け込むように、少女は身を潜めていた。
 歳は十代後半ぐらいだろうか。
 短くカットされて黒髪やアジア人独特の愛嬌のある顔立ちをしている。
 鋭く尖った氷ような瞳は少女の顔立ちと酷く不釣合いだった。
「この街で十人近く殺した殺人鬼との対面――か。どうだい、今の気分は、殺人鬼よ。こうやってフレンドリーに語りかけられたことはないだろう?」
 少女は金色の瞳で男を睨み返す。
 それに合わせて男はわざとおどけてみせる。
「ん? 違うのか。お前だろ、金持ちを何人も殺して回ってる殺人鬼は。確かついた二つ名は『夜の鴉』だったかな? 随分とセンスのない名前だ」
「……」
 少女が答えないのを見て男は『ふむ』と呟く。
 それは確かに男の言うとおりだった。
 この少女こそ、このベイカー街で裕福な金持ちを殺してきた殺人犯『夜の鴉』である。
 動機は愉悦。それだけだ。それ以外には価値すら求めない。
 金持ちが苦痛に顔を歪め、命乞いするのが好きだった。
 スラム出身の少女には、それが何よりも楽しかった。
 なんでこの男がそれを知っているかは少女には分からない。
 ただ、肌がざわつくような妙な感覚だった。
 相手にしてはいけない、殺人鬼としての直感がそう告げているのだ。
「なんなんだ、お前は……殺されたいのか?」
 殺人鬼の自負、そんなくだらないプライドが少女の中にあった。
 と、強がって少女が答えると、
「そう荒い声で強がるなよ、楽しくなっちまうだろ?」
 男の黒い革靴が少女の手を踏みつけた。
『ゴリッ』という骨と靴のかかとがぶつかる音に男は身を震わせる。
「んん〜♪いい声だな」
 まるで歓喜の歌でも聞いているような――そんな顔だった。
 少女は歯を食い縛り、その氷の瞳で男を睨んだ。
「キサマ……この私に……」
そう、今まで何人も殺してきた殺人鬼がこんな男に――。
「このベーカー街の殺人鬼、『夜の鴉』相手に随分な真似をしてくれるじゃないか」
「俺だってそうさ」
 と、男は答えると足をどかした。
 男は薄っすらと笑みを浮かべたまま少女を見つめる。
「殺人鬼としての誇りはあるみたいだな、合格だ♪いいんだぜ、俺のことをナイフで刺しても首を絞めても――」
 少女の背にゾッと冷たい物が走った。

「なんなんだよ、お前は……」
「言っただろ、殺人鬼だって」
 ごくごく普通に男はその言葉を口にする。それが少女には腹立たしかった。
「ふざけるな!!」
「おいおい、がなるなよ。こういう晩は、ただ静かに、街風に習って囁くように喋るもんだ」

 男はそう言うと肩をすくめてみせる。
「ふざけるなと――」
「ふざけてはいないさ。表向きには探偵助手兼、医学博士だ。ベーカー街に探偵事務所も持ってる――ああ、そうだった。まだ名乗ってなかったな」
 男はクククと喉を鳴らした。
 この時、少女は自分の体が漂う夜霧ほども動いてないことに気づく。
 ベーカー街の怪人の一人に数えられる自分がだ――。
「俺の名前はブラム・ブラウン。何故、ベイカー街のホームズ氏やスコットランド・ヤードをお訪ねにならず、俺の所に依頼が来たか分かるかな?」
 少女は何も答えない。
 ただ眼前のブラムから目を背けず、歯を鳴らして必死で震える身体を押さえる。
 ブラムの顔から善意や穏やかさのマスクが剥がれ、その中身が顕になっていることに気づいたのだ。
――暗黒。
 少女の瞳が氷だとすれば、このブラムの蒼い瞳は闇より深い悪意だ。
 深い霧を纏うこの男は、元より住む世界が違うとしか思えなかった。
 暗黒の瞳が少女の瞳を覗き込む。
 ただ見つめられているだけなのに――まるで底なしの暗黒に飲みこまれる気分だった。
「俺の専門が犯人を見つけることじゃないからさ」
「え……」
「狂気だよ」
 ブラムは、少女がもう一度聞き返しそうになるほど短く答えた。
「俺が興味を引かれるのは人間の狂った部分。そして、それを好事家達にお売りするのが俺の本業だ」
 好事家達に売る――それがどういう意味か少女には理解できない。
 ただ聞き返す気にもならなかった。
 そんなことよりも目の前にいる怪物が――。
 薄手の手袋に包まれたブラムの手がゴキリゴキリと音を鳴らした。
「じっくり聞かせろ」
 少女の喉がわずかに鳴った。
「どうして殺したか」
 頭の中に今まで殺してきた金持ち達が浮んだ。
「どうやって殺したか」
 部屋の中に押し入り、ナイフで喉を――。
「どんな気分だったか――そして、俺はお前を殺す。嗚呼、そうだ。出来れば今の気分も聞かせてくれよ」
 やっと発することのできた少女の悲鳴が当たりに響く。
 それが今の気持ちだった。
 男の口元がまるで裂けるようにつりあがる。
 深い霧の中で眠り続ける街は――少女の悲鳴に気づかない。



「――君、起きたまえ」
 ブラムは名を呼ばれ、ソファーから上半身を起こす。
 ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは男装の女性だった。
 髭と肩までの長さの髪は、きっちりと整えられており清潔である。細い薬指には、古めかしい銀の指輪を、左手にはパイプを手にしている。女性は若々しいが、けしてあどけないわけではなく、熟しすぎた果実のような危うい魅力に満ちていた。
「ああ、なんだお前か」
「なんだとはなんだね。なんだとは」
 そう言いながらも女性はクスリと笑いながら、珈琲を差し出す。
「随分と長い昼寝だったね。昨日は遅かったのかい?」
「学会の方でな。面倒なもんだぜ」
「博士も大変なのだね」
「全くだ」
 そう言いながら、ブラムは面倒そうに髪をかいた。
 昨夜の仕事が長引き、探偵事務所で眠ってしまったのだ。
「そうか。実は今しがた依頼が来たところでね、どうだい一緒に現場を見に行かないか?」
「事件か……今度はどんな事件だ?」
「アジア人の若い女性が殺されて、教会に吊るされていたらしい」
「ふむ」
 ブラムはそう言いながら愛用のステッキを手にし、熱い珈琲を胃に流し込む。
「美味い珈琲だぜ」
「探偵の必須条件だよ」
女性が再び柔らかな笑みを浮かべると、ブラムはソファーからたち上がった。
「じゃあ、行くか、ホームズ」
「ああ。行こうか、ワトソン君」
 ワトソン――ホームズはブラムをそう呼んだ。
 まだ昼の輝きが残る街には、あの漂う霧は出ていない。
 だが夜になればこの街はまた霧に包まれるだろう。
 その時、ブラムの時間は再び訪れるのだ。
「なぁ、ホームズ。次に霧が濃くなるのはいつだろうな」


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