『ベッドスペース』
○今回の人物
霧ヶ峰レイジ……傲岸不遜な会社員。バドを引き取る。初出『バッドスピリット』。 東芝バド……たった一人の肉親を失くしレイジに引き取られる。初出『バッドスピリット』。
「くそったれが」 朝一番の悪態。それがけたたましく覚醒を促す鬱陶しい目覚ましと、世界中のクソども、ノータリンども、ついでに嫌でも顔を合わせるアホな上司へのモーニングコールだった。目覚ましの音に、レイジは線の細い端正な顔立ちを歪めた。 レイジのしなやかな右手が鳴り響く目覚まし止める。止めたはいいが霧ヶ峰レイジはそれで起きたことはない。起きるのはいつもバドの役目だ。 目覚ましを右手で止め、左手は広いベッドの端の方、隅っこで毛布にくるまって寝ている東芝バドの華奢な体を押した。女みたいに小さく柔らかい体が丸まっている。 バドはベッドの隅、壁際にうずくまるようにして頭まで毛布にくるまって眠る。犬っころみたいだと思ったがすぐにそんなことはどうでもいいことだとレイジは考え直した。 「起きろ。メシ作れ」 何度か強めに押されて、もぞもぞとバドは毛布から顔を出す。寝方と同じで子犬のような顔をしたこの少年には家族がいない。唯一の肉親である祖父が亡くなってから、その知り合いだったレイジに引き取られた。 「メシ」 「…ん、レイジさん」 目をこすって、欠伸をしながらバドはベッドの足の方から降りる。レイジがバドに買ってやったパジャマはブカブカだった。適当に選んで買ったのだからそれも仕方のないかもしれない。 「レイジさん、何食べる?」 わかりきっていることをバドが問えば。 「肉」 手足を投げ出した広いベッドを余すところ無く活用するような豪快極まりない寝姿で、目を開けることすらなくいつもと全く同じ答えを出した。 「レイジさん、朝はあっさりしたものの方が胃に優しいよ?」 「お前はみのもんた信者の年寄りか」 そう言いながらレイジは『フン』と鼻を鳴らした。 その傲慢さはいつものことで、特に気にする様子もなくバドは朝食の準備に取り掛かる。 バドがキッチンへ行った後、レイジは狭くなったベッドを買い換えるかどうかを考えていた。本当はバドがレイジに遠慮して身体を丸めていることを知っているし、それが少しイラつく。 「買い返る必要もねぇか」 ぼんやりとそんなことを呟く。 レイジは今まで、ずっと一人用の生き方だった。 このアパートにある家具は全て一人用であり、レイジの心の中にも一人用のスペースしかない。誰かを入れる余裕なんてない。だからレイジは自分のことしか考えない。亡くなった恩師の孫だろうが何だろうが知ったことではない。成り行きで引き取っただけだ。いつ追い出したって問題はない。 だと言うのに――。 棘がチクリと刺さるようないらつきがおさまることはなかった。
◇
バドがレイジの家で暮らすようになって驚いたのは、冷蔵庫の中があまりに閑散としていたことだったらしい。レイジは全く料理が出来ないから出来合いの物で済ましていた。バドが来たばかりの頃は学生であり、バイトで忙しかったこともあった。だが、祖父と二人暮しをしてきたバドは料理が出来る。そういうこともあってか炊事洗濯はほとんどバドが担当していた。特に難しいものは作らないし、そもそもそんな材料だって手には入らないが、簡単に切ったり焼いたりすることが出来る。朝食くらいなら全く問題がない。 レイジが席につく頃には既に準備は終わり、ぽんと跳ね上がるきつね色のトーストがお目見えしていた。 バドが選曲した朝のバックミュージックはアポロフィンガー。 アポロフィンガーはボーカルの珠喜代羽那日を中心としたバンドであり、ヴェルヴェットガーデンの影響を受けているクラッシクロックバンドだ。 通称、ヴェルヴェッツは60年代のNYアンダーグラウンドが生んだ伝説のバンドであり、1stアルバムでは同性愛、サド、マゾ、麻薬などそれまでタブーにされていたアメリカの現実を映し出していた。レイジはどちらかと言えばクラシックロックよりオルタナティブロックの方が好きだがヴェルヴェッツは別だった。 「いい歌だよね」 席についたバドがそんなことを呟く。ガキの癖に渋い選曲だとレイジは思う。 アポロフィンガーの音は鋭い。どこか病んだ乾いた音がするのに突き抜けたポップさがあり、それが心に棘を突き刺してくる。間違いなく曲にあるのは孤独だ。 「知ってるか、ボーカルの珠喜代は孤児だったって話だ。それが音楽性にも出てるんだろうぜ」 「そうなんだ。でも、この人の音楽って孤独じゃない気がする」 アポロフィンガーの曲は他者を受け入れるところがあり、レイジのように自分用のスペースしか持たない人間でさえ受け入れてくれる。 「どうだかな」 もしかしたらそれが孤独の根底にある最後の希望のようなものかもしれない等と思いつつレイジはソーセージをフォークで突き刺す。 「レイジさん、何塗るの?」 トーストを手にしたバドが尋ねる。 「ディップとマスタード……焼きすぎだ、これ」 ソーセージを噛みながらレイジは顔を顰める。レイジはどんなに上手く作っても文句をいう。バドはもうすっかり慣れてしまったいるのか怒らない。 「ちったぁ、マシなもん作れよ」 「ごめん。はい、トースト」 そう言いつつ口は止まらないレイジに、バドはレバーのディップとマスタードを塗った薄切りのトーストを渡した。 「肉はレア。常識だろ。そんなことも知らねぇのかよ」 いつもの口調はもう嫌味なのか本気なのか、レイジ自身にもバよく分からなかった。そんなことを言いながらレイジはスープからオニオンを取り除こうとする。 「レイジさん、スープの野菜避けるの良くないよ」 「俺は健康だからいいんだよ。人のこと言っている間に、バド、おまえが喰え。少しはそのガリガリの躰どうにかしろ」 何のことはない、レイジの世話を焼いているからバドの食は進まないと言うのに、そんなことを全く無視して殆ど手つかずの皿を押しやるとバドは微笑む。 「うん」 レイジの好きな薄切りのトースト。粗挽きのソーセージにベイクドポテト。ごぼうのサラダ。厚切りベーコンのスープ。さりげなくレイジを気遣い野菜を加えて好みに合わせてあった。 一つの皿の中に並んだメニューを見つめ、レイジはぼんやりとする。 「どうしたの、レイジさん?」 尋ねられてレイジは首を横に振る。 何のことはない。一つの皿の中に並べられた料理は一つ一つが別のものなのに同じ皿の中にある、それが妙に自分たちと重なっただけだ。 「別に。さっさと喰えよ」 「レイジさんも一緒に食べようよ」 無邪気に笑うバドを見てレイジは顔を右手で抑え『あー』等と独り言を呟いた。こいつのこういうところが妙にイラつくのだ。この全く信じきって一緒に生きて行けると思っているのが腹立たしい。 それがどういうことなのか分からないバドは首を傾げる。 「レイジさん?」 「何でもねぇよ」 そう言いながら、レイジの皿からソーセージを取る。 誰だって一人分のスペースしか持って生まれてこない。 それは鼓動を刻みだした時から決まっていること。つまりは人は一人だ。 だと言うのに――。 一人分のスペースしか持たないレイジの中で、バドの存在を意識してしまうのだろうか。 苛立ち紛れに、今夜、バドが身体を丸めて眠っていたらどうしてやろう等と考え出していた。
「おいしい?」 「焼きすぎだって言っただろ」
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