『我楽多博物館』




『バタフライエッジ』

 何もない砂漠に降る雨の音は限りなくナチュラルだ――。
 それは雨が人工物にぶつかることなく地面や草に落ちて吸収されるかららしい。
 荒涼とした砂礫の大地に雨が降る音は――アゲハチョウが目の前で堕ちて行く時の羽音に似ていると彼女は言っていた。
 交差点で信号を待ちながらヘッドフォンから聞こえる音に耳を傾ける。
『♪生まれてこの方飽きもせず♪僕らは季節のない街で暮らし続けてるのさ♪灯りにたむろしてるのさ♪』
 彼女のよく聞いてた歌だ。よく聞いてたのに一度も好きだなんて言わなかった。
 今はどうしているかも分からない彼女の話題が出て来たのは友人との電話だった。
 疎遠になっていた友人からの久しぶりの電話は、学生時代と変わらないとりとめのない話と愚痴が次々と溢れてきた。
 元クラスメイトが死んだことを聞いたのもその時だった。
 とても優秀でいい奴だったことを覚えてるのにそれ以外のことが全く思い出せず、それはどうやら他の友人達も一緒だった。そいつがなんでそんなことになってしまったのかも分からない。何とも後味の悪い話だった。
 その名前も思い出せないクラスメイトが死んで一ヶ月ぐらいした頃――。
 一人だけそいつの実家を尋ねて行った者がいたという。
 僕がその名前を聞いた時――手首のバタフライが僅かに痛んだのを感じ、そっと僕は彼女に憧れた印をスーツの上からなぞった。
 すると響き出した通りゃんせのメロディと共に信号が変わり、顔のない人ごみが一斉に動き出す。
 仕事帰りの人々が行き交う交差点で――彼女と擦れ違った時、靴音がアスファルトに刻むリズムが一瞬世界から消失する。

 

 

 まだ僕が青臭い学生で――。
 世界中で自分が独りぼっちのような錯覚をしていた頃――。
 彼女とよく会ったのは枯れた芝生の生い茂る川原の土手だった。
 彼女は人気の無いそこで棺に眠るように横たわる。いつもどおりに優艶な横顔に落日のオレンジが差し込むのをその隣で見つめ続けていた。棺の森を守る茨のように。
『また傷つけられたの?大変なのね、苛められっ子って』
 彼女の指先が僕の切れた唇に触れる。悪意も感じさせずただ彼女はそう言った。
『でも、もう大丈夫です。これを見たら誰も何もしなくなりましたから……』
 僕はいつも通り敬語で答える。そのことに理由はない。
『片羽のパピヨン……』
 ふいに彼女の細いメフィストフェレスの指先が僕の無様な傷口に触れる。そっと冷たい指先をくすぐるように這わせた。指の先で行き場の無くなった血液が加熱されたように温度を上げて、小さな泡を吐き出し始めていく。
『楽しい?自分を傷つけて』
 輝きを宿さない蟲惑的な瞳が僕の顔をジッと見つめる。
『分からないです……』
 とだけしか僕には答えることなどできなかった。それがおかしいのか彼女はクスクスと可笑しそうに微笑む。それは教室で彼女が見せている笑顔よりもずっと美しい笑顔だった。
『三島君は分からないのに自分を傷つけるの?』
 数度首を横に振り、僕は答える。
『僕のは弱さの証だけど本当は貴方みたいに自由と強さの証にしたかったんです』
『これ?』
 そう言いながら彼女は手首のそれを僕に見せる。
『はい。とても綺麗です……僕の無様な蝶々とは違う。貴方のそれはこの世界の鎖を解き放たれたバタフライです。それは貴方が何者にも支配されることなく自由に飛ぶことができる証です』
『そう、これが自由の証だと言うのね、貴方は……』
 一瞬、ゾッとした。
 彼女の浮かべた笑みが薄氷のように美しく鋭いせいもある。それ以上に、その笑みに触れてしまえばそのまま深淵に引きずりこまれるような純粋な恐怖を感じたからだ。そんな僕に気づいたのか、彼女はもう一度クスクスと笑いながら僅かに首を傾げてみせる。
『三島君はこれが欲しいの?欲しいのならどうぞ』
 彼女はゆっくりとした優しい仕草で僕に向かって手首のそれを差し出す。
 僕は身を乗り出して彼女の手首を噛んだ。
 唇の中で前歯を離して彼女の柔らかな皮膚を吸うと、舌の先が規則正しく皮膚に触れていた。傷口の感触はフーラドの薄絹を手にした時と似ている。硬すぎず柔らかすぎずただ滑らかだった。僕がそこに夢中で舌を這わせれば、彼女の持った甘い香りが、空気を吸うたびに細かく流れ込んでくる。
 眼を閉じるば自分の吐く息のリズムが聞こえ、クスクスと彼女が笑っていることは分かった。
『これが自由の証だと思えるなら……いつか三島君も飛べるようになるんじゃないかしら?』
 顔を離すと、紫色の小さな痣が僕の唾液を纏って、白い皮膚の上で身を縮めていた。痣は外側に向かうと暗紅色に変わっている。嗚呼、この皮膚を噛み切れば同じ色の血が流れて同じ色の血が流れてくるのだろうかと、僕は濡れた顎を手の甲で拭った。
『次に会った時……私に見せて。三島君のバタフライを』


『♪最低最悪の条件付きの見知らぬ大人の言葉など♪聞く耳など持つわけないさ♪若気の至りなのさ♪』
 音楽が、音が急に世界に帰ってくる。
 僕は思い出した――彼女との約束を。
 ずっともう会うことはないと思っていた彼女が僕の脇を通り過ぎていく。
 言葉をかわすこともなく、視線を向けることもなく、彼女は僕のことに気づかず人ごみの中をゆらりと歩いていく。
 声をかけようとして固まったまま、僕は人波の中で立ち尽くす。
 初めて彼女を見た瞬間と同じで、僕はその引力に吸い寄せられ動くことも出来ず、彼女の姿をただただ見つめていた。
 その姿に手首のバタフライが僅かに疼く。それはずっと彼女を見つめ続けてきた胸の痛みと良く似ていた。
 彼女の持った儚い存在感は今も変わっていないことが痛みと疼きを加速させる。
 儚い――。人は儚さと虚無から生まれてくる存在なのかもしれないと思ってしまうほどに、黒いブラウスを纏ったその輪郭は華奢で朧だった。
 その白い肌と同じように透けて消えてしまうのではないかとさえ思う。まるでもっと別の次元、自分が立ち入ることもできない世界の住人、夕闇からの使者ようにさえ思える。
 実を結ばぬ裂花のように散ってしまいそうな――限りなくフラジャイルな彼女の存在を――その証がこの世界に繋ぎとめていた。それは存在を繋ぎとめるものではなく自由への翼のはずだった。既に彼女の存在はその傷によってのみ存在することが確認できる領域に達しているかのようだった。
「嗚呼……」
 血管が浮かび上がりそうなほど白く細い手首に刻まれた存在の証明。
「僕は……」
 命の証を躊躇いもなく斬り捨てることで刻まれた赤と黒のライン――。
 その傷痕は夕闇よりも黄昏よりも暗く、それでいて眩しいだけの朝日のように鮮烈だった。それは今も変わらない。
「嗚呼、僕はずっと……」
 そんな言葉が僕の口から毀れてた。
 さっきまで聞こえていた周囲からの罵声やクラクションの音なんてどうでもいい。
 彼女の傷痕を見た瞬間からジーンズの中で痛々しいほどに僕自身が屹立していることも。彼女と僕を繋ぐ歌が頭の中で響く。
『ナイフをギラリと尖らせたら♪それだけで少しだけ強くなったような気がするのです♪』
 ただただ僕は彼女が闇の中にソッと消えていこうとするのを見つめていた。
 彼女に憧れて刻んだ僕の傷痕が、バタフライが、出来損ないの傷が痛んで疼く。
 彼女に焦がれその領域に至れなかった僕の自傷の証が歪んでいくようだった。
 僕はスッとポケットから出したカッターを取り出して握り締めた。
 昆虫の笑い声のような音がして、尖った刃先が滑り出てくる。
 バタフライのすぐ上の皮膚でエッジを止め、ゆっくりとそのシャープな刃先を沈めていく。
 筋張った血管の中に刃先は音もなく沈んでいった。
 力を込めて指先から空まで引くと、絵の具があふれ出すようにどろりとした血液が刃の動きを追いかけて飛んでいく。
 すぐに歪んだ黒い古傷が赤い膜で覆われた。膜の表面は空気に触れてもすぐには乾かず、氷菓子のように光っていた。それがとても綺麗だと思った時、周囲の叫び声で我に返った。
 すっぱりと手首から指先まで走らせた傷口から赤い粘液が流れていく。
 彼女に憧れて手首を切裂いてしまった時と同じだった。命の危険を感じながら恍惚感の指先が背筋を沿っていく。
 そう言えば電話で――。
『あいつが死んだのにさ、その女が絡んでるって話だぜ』と友人が言っていたのを思い出した。今となってはどうでもいいことで、このとても清々しい気分と彼女と僕を繋ぐ歌に酔っていたかった。
『♪このままでずっと空高くもっとはばたきたいのに♪まるで僕らは羽をもがれた飛べないバタフライ♪彷徨ってるんだ♪皆悩んでるんだ♪助けが必要だ♪傷つけあいをただくり返す不条理なエヴリィディ♪』
 指先を空に翳せば――。
 手首から指先、指先から大空へ。
 指先からこぼれ顔を濡らす血の向こうに、赤いバタフライが羽ばたいていく。
『誰だってもっと君だってもっと愛されたいのに♪僕らは皆痛みを抱えてる孤独なバタフライ♪分かってるんだ♪皆病んでるんだ♪薬が必要だ♪暗闇の中を走り続ける当てのないバッドドライヴ♪』

「僕は――」

 一瞬だけ、人ごみの中に消えていく彼女が振り返った――。
 その虚無感を宿らせた瞳と仄かに紅い唇は――。
 僕の掲げた手は意志とは関係なく地に落ちていく――。
 それが荒涼とした砂礫の大地に雨が降る音と――アゲハチョウが目の前で堕ちて行く時の羽音に似ていると感じたのは何故だろう。

 

『♪飛べよ♪バタフライ♪』



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