教室の、僕にとっても、誰にとっても、どこにでもある風景――。
「初生(はつおい)、今度さ、バスケ部の助っ人してくれない?」
 彼女は頼んできた女子生徒に両手を合わせ謝る――。
「いや、申し訳ないっす。実は今度サッカー部の助っ人頼まれてまして」
「ええ、アンタがいないと勝てないよ」
 彼女は申し訳ないなそうな顔で褐色の頬を染め照れる――。
「マジで?こないだは野球部だっけ?」
 彼女が悪戯っ子のように舌を出して笑うと、他の生徒も彼女を囲むように集まりだす。
「その前は卓球部だろ」
 そう、問われて彼女は少し照れて髪をかく――。
「うんにゃ。実は剣道部」
 彼女の短い髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら皆は笑う――。
 僕は僕文庫を開いたままその会話に耳を傾けていた、いつものように。
 何故だろう。そんなことを闇の中で倒れたまま――。
 アスファルトの温度を感じながらそれを思い出した。


『アスファルトの温度』


 『ただいま』と僕は言う。『おかえり』と誰も言わない。いつものことだ。
 明るいリビングから聞こえる笑い声は、僕が学校から帰ったことに気づかなかった。
 いつも通りにうす暗いキッチンに置かれたカップ麺を手に取る。袋を適当に破り、お湯をいれようとポットを押したけどお湯はなかった。
 仕方なくやかんに水を注ぎコンロに火をつける。電灯が点滅する中、ガスの音に耳を傾け椅子に腰掛けた。
 学校でいつも繰り返し読んでるカフカの『変身』を手に沸騰するまで待つ。この文庫を今まで何十回、何百回と毎日読んでいる。
 横目で彼女が楽しそうに笑うのを見つめながら――。
 彼女の話に耳を傾けながら――。
 時々壊れそうなほど胸が苦しくなるのを堪えながら――。
 僕はそれが自分が弱いからだと分かってる。分かってるのに――。
 独りでいることが強さだと分かっているのに――。
 心を開かないことは折れないことだと分かっているのに――。
 独りがどうして苦しく思えるのだろう。
 独りの痛みと共に、ふいに沸騰したお湯を注ぐ僕の手が震える。
 『どうせ生きてるのは独りだ』、『独りぼっちで生きていけないのは弱さなんだ』、『心を通わせることは強さじゃない』と自分に言い聞かせるけど、震える指は止まらなかった。
 食べ終わって少しだけリビングの明かりを見つめた後、空っぽになった容器を片付けて制服のまま外に出ていく。
 財布も鳴らない携帯もいらない。ポケットのナイフとヘッドフォンだけでいい。
 僕にしか聞こえないポップスを聞きながら闇の中を歩き出す。
『♪何かになりたいけど何にもなれないんだと気付いてた♪』
 どこかに行くのに理由なんて特にはない。どこにいたって僕には同じだから。
『♪後ろから迫る何かに押され続けて焦る自分のことが嫌いになってく♪』
 どこまで歩いたって闇だけが続くと分かっているのに――。
 明け方になってもこの闇は終ることなんてないと分かっているのに――。
 闇の終わりにあるはずの出口に辿り着けないことは分かっているのに――。
 独りでいることを怖いと思わなければ、独りでいることに何も感じなくなれば、この夜はきっと終るはずなのに――。
『♪独りぼっちだと認めることが出来なくて大丈夫だと自分に言い聞かせた♪』
 歩き続けた先にコンビニの眩しいだけの明かりが見えた。
 そこに引き寄せられるように近づいていく。
 入り口前の地面に座り込んでいる二人組が目に入った。
 どこにでもいるような若者達は、闇の中で馬鹿みたいに笑いながら濁った目でコンビニの中を見つめていた。
 同じように僕もコンビニの中を見つめる。
 僕は知っていた。
 このコンビニのレジには彼女がいることを――。
 そこがバイト先だと他の生徒と話していたのを聞いていたから。もちろん、会話に混ざることなんて僕には出来なかったけど。
 彼女の姿を見つめながら、無性にストーカーじみた行動をしている自分に嫌悪感がした。
 僕の心の弱い部分が光に吸い寄せられる蛾のように彼女を求めているようで――。
 分かって欲しいと叫んでいるようで――。
 いつも本を読むふりしながら話しかけて貰えるのを待ってるみたいで――。
 自分が弱く思えてしかたなかった。
 独りじゃないといけないのに、誰かに分かってもらいたいと思う自分が存在することが酷く弱く思えてくる。きっと、分かって欲しいと思うのは僕の弱さだ。
 そして、それを言えないのも僕の弱さだ。
『どうすることもできないことだらけで♪僕は自分らしい空が欲しくて手を伸ばすけど♪いつも止まない雨と灰色の雲が僕の手をはばむんだ♪』
 どうしても中に入ることができなくて、誰かを待って立ち続けるフリをする自分が情けなかった。
 僕がしていることは意味も何もない、そんなことは分かっているのに。
 胸が苦しくて、心の中がかき乱されて自分の弱さに対する苛立ちを抑えることができない。強くなる為には心なんて失くさなきゃいけないのに――。
 ふと先ほどの二人組が未だに彼女の方を見つめてることに気付いた。
 下品な視線を送っているのが理由もなく腹立たしく思えてくる。
 どうにもならない苛立ちと虚しさのはけ口がそこにあるような気がした。グッとポケットのなかのナイフを握り締める。
 僕は理由もないのに拳を振りかざし――殴りかかった。
 僕の拳が頬に当たった瞬間、相手の目の色が変わった。
 殴り返されるのがひどくスローに見えて怒声が遠くに聞こえるのに、何故だろう、ヘッドフォンの音だけが耳の奥で響いて聞こえてた。
『♪この雲の向こうにある光に僕の指先をかすめることができればいいのに♪』
 閉じた闇の向こうに彼女の姿が浮ぶのは何故だろう。
 褐色の肌で子犬のような笑顔を振りまく彼女のことが――。
 覚えてるだろうか。僕に君が始めて話かけてくれたこと――。
 アスファルトに叩きつけられてもその姿は消えなかった。
『どうしたらいいのかなんて分からないことだらけで♪僕は闇の向こうに僕は辿り着きたいけど♪いつも病んだ眩しいだけの光が僕の目の前で輝いてるんだ♪』
 



 倒れたまま感じる無機質なアスファルトの温度は、ナイフの銀刃を手首に押し当てた時の温度に似てた。ただ無機質で、無機質で、何も感じさせない。僕はそうなりたかった。僕は心の奥の大事な部分が砕けそうで、透明な闇の中で身体を抱きしめ蹲るけど、本当は何も感じたくなんてなかった。このアスファルトの温度のようになりたかった。
『♪この闇の向こうにある本当の光が僕を選んでくれることはないけど♪』
 生きる強さが欲しい。
 心なんていらない。
 優しさも何もかも僕には必要ない。
 強さだけ、鋭い力が欲しい。こんな気持ちや心なんていらない。
 心の底から笑うことや、誰かを思うことなんて必要ない。
 ポケットのナイフを突き出せる強さが欲しい。
 アスファルトの温度でいい。
 冷たさも何も感じない心が欲しい。
「ちょ、ちょっと!!え!?アンタ、なんで倒れてるのよ!!」
 誰かが倒れてる僕に声をかけるのに気づく。
 聞き覚えのある女の子の声だった。
「ちょっと、しっかりしなよ!!店長、救急車!!」
「うん。初生ちゃん、すぐ呼ぶからその子診てて」
 彼女だった。ぼんやりと歪んだ視界に彼女の顔が見える。
 大丈夫と言おうとしたけど、身体が思うように動かなくて瞼が重い。
 強くなりたいと思った。独りということに何も感じないように。何も感じないように。
 蛾のように彼女の光に引き寄せられることも魅せられることもないだろうか。
 君を僕の中から消して強くなれるだろうか。
 アスファルトの温度、アスファルトの温度。
 何も感じさせないアスファルトの温度のように僕はなりたいのに。
 それなのに、それなのに、頬を伝う涙が熱かった。


『♪涙が何もかも歪ませるけど♪顔を上げれば君という光が彼方で輝いて見えた♪まだ僕には答えなんて出せないけど♪ここからもう一度向かい風の中を歩き出せる気がしてる♪』
(キャンセル・D・D/アルバム『リトライ・リトライ』収録曲『蒼空』より)

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